◎ 皆生温泉
「
皆生温泉は弓ヶ浜の皆生海岸に面する東西一キロ、南北四百メートルの狭い土地に
大型ホテルなどの宿泊施設が建っていて、
「米子の奥座」、「山陰の熱海」 とも呼ばれ、収容人員は約五千人で、
山陰最大級である。
明治十七年(1884)頃、
沖合百八十メートルの海面が泡だっているのが漁師により発見され、
明治三十三年(1900)、浅瀬に湧き出る熱湯を漁師が偶然発見した。
これが皆生温泉の始めである。
その後、米子の実業家・有本松太郎が、福生村から土地を買収し、
京都を模して街区整理を行い、米子電車軌道や皆生競馬場などを誘致し、
戦後は、団体客を受け入れてきたことから、ホテルは大型化し、
山陰随一の温泉歓楽街になった。
玉造温泉が鄙びた風情があるのに対し、
熱海や道後温泉のような雰囲気なのはそうしたことによる。
第三紀の安山岩層の割れ目から湧出している塩化物泉だが、
冬季の日本海からの強風で海岸の侵食が激しく、当初の源泉は水没してしまい、
十一軒の旅館のうち七軒が水没するに至り、護岸工事が行われ、
防砂堤や防潮堤を造り、砂州を造成して侵食を食い止めている状態である。
湧出量は多く、源泉の温度は鳥取県内で最も高温である。 」
社内旅行や接待旅行が減少した今日、健康的な温泉へイメージ変化を図り、 弓ヶ浜に海水浴場を整備、昭和五十六年(1981)には日本で最初のトライアスロン が開催され、その発祥の地として毎年大会を開催している。 」
皆生温泉には、観光するところがないので、米子城跡へ行き、 高台から風景を楽しんだ。
皆生温泉の北西にある米子空港は、 米子鬼太郎空港という名になっているが、 これは、「げげげの鬼太郎」 の作家・水木しげるの生誕地が、 空港がある境港市にあることによる。
境港市に足を伸ばした。
鬼太郎通りには妖怪達がいて、水木しげる記念館があった。
防潮堤を造り侵食を食い止めている | 水木しげる記念館 | 水木しげる通り |
◎ 玉造温泉
旧玉湯町は平成の合併で松江市に編入され、松江市玉湯町○○となった。
「
旧玉湯町は、明治の町村合併で玉造村と湯町村が合併して玉湯村になって、
その後、町に昇格した。
玉造という地名は、この地の花仙山で良質の青瑪瑙が採掘され、
玉造を生業とする人々がいたことに由来する。
発掘調査で出雲玉造史跡公園から当時生産していた工房跡が発見されている。 」
玉湯川の両脇に落ち付いた雰囲気の旅館が立ち並ぶ玉造温泉は、 奈良時代の開湯といわれる古い温泉地である。
「
少彦名命が発見したと伝えられ、神の湯として「出雲国風土記」にも記されている。
江戸時代には松江藩藩主の静養の地となり、
湯之介 と呼ばれる温泉を管理する役職も設けられた。 」
湯薬師広場がある交叉点の歩道脇に、「元湯跡」 のプレートがある。
「 玉造温泉は、明治時代まではこの元湯付近が中心で、 お茶屋(松江藩別荘)、共同浴場、社寺、人家が集落をなしていた。 湯之助が管理する元湯が、右斜め後ろの銅板の位置にあり、 お湯は松をくりぬいた管で各所に配られていた、という。 」
近くに、湯薬師のお堂があり、橋を渡った反対側には 湯閼伽の井 がある。
元湯跡の先には 「川辺の出湯跡」、
その先に宮橋があり、左手には 玉作湯神社 がある。
「
玉作湯神社は、奈良時代の出雲国風土記や平安時代の延喜式にも記載されている古社で、玉作りの神 ・ 櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)、国造りの神 ・ 大国主命、
温泉の神 ・ 少彦名命の三神が祀られている。
三種の神器の一つ、 八尺瓊勾玉 (やさかにのまがたま) は、
櫛明玉命 (くしあかるだまのみこと) により、この地で造られたと言われている。
玉作湯神社にはその櫛明玉命を祀っていて、
多数の勾玉や管玉が社宝として保管されている。
そういうことから最近パワースポットとして若い人に人気のようである。 」
「元湯跡」のプレート | 湯薬師 | 玉作湯神社の境内 |
玉作湯神社の社殿に向う石段の右手に小道があり、
そこに 「玉造要害山城跡50m」 の標識が建っていた。
玉造要害山城は玉作湯神社の背後の要害山に築かれた城である。
道の脇の竹のしげみに、合併前の玉湯町が建てた 「玉造要害山城」 の説明板があった。
説明板
「 中世の山城、湯ノ城とも言う。 標高108mの半独立丘陵で、
山頂及び山腹に削平地が数段に渡って残り、
土塁、空堀、井戸跡などが見られる。
小規模だが保存は良好である。
この城は天弘二年(1332)頃、湯守留守職諏訪部扶重が築いたといわれる。
同世紀の中頃、出雲国守護代佐々木伊予守秀貞がさらに改修増築したとされる。
その後は湯庄支配の本拠地として湯氏が代々居所したと思われるが、
詳細は不明である。
天文十一年(1542)には湯佐渡守家綱の名が記録に見え、その墓とされる祠が城域内に残っている。 」
「玉造要害山城跡50m」の標識 | 玉作湯神社社殿 | 要害山城跡 |
◎ 温泉津温泉(ゆのつおんせん)
温泉津は温泉津港の背後の岩を大きく切り出して、
家や寺院が建てられているところである。
温泉津は、石見銀山の搬出港として、
また、鉱員の治療・福祉の温泉場として繁栄を始める。
江戸時代には、山陰街道の宿場町と北前船の寄港地になった。
「 室町時代、石見銀山で発掘が本格化すると、
その搬出港である温泉津は繁栄を始める。
石見銀山を手にいれた毛利元就は、温泉津を直轄領にし、
毛利水軍御三家の一つ・内藤内蔵丞を奉行に任命し、
元亀元年(1590)、温泉津港口に鶴の丸城を築かせた。
今も、石見銀山の龍源寺間歩から温泉津、
沖泊(おきとまり)へ抜ける街道が残っている。
途中の降路坂は、ごろごろした峠道で、中国自然歩道に指定されている。 」
温泉津温泉は、JR山陰温泉温泉津駅の北方にある。
駅を出て、西に進むと小沢温泉バス停があり、その先で海に出るので、
それに沿って左にカーブすると、温泉津温泉入口バス停がある。
ここまで1kmの距離である。
この港が温泉津温泉の繁栄の元である。
「 中国明の古地図に、 有奴市(うぬつ) と記された、
温泉津(ゆのつ)港 は、沖泊と共に
石見銀の積み出しや石見銀山で必要な物資の供給基地として、
銀山で働く人々の暮らしを支え、多い時には三十軒もの廻船問屋が軒を連ねた。
日本海に面した沖泊は海の底が深く、
湾の入り口の櫛島が季節風を防ぐため大量の銀を積み出すには最適な港で、
今も船を係留するための鼻ぐり岩が数多く見られ、往時を偲ばせている。 」
温泉街は、この入口から東に1kmの距離に、
小さな規模の旅館が点在している。
小生が泊まった 旅館ますや は、こちんまりした旅館であったが、
近くで獲れた魚がうまく、もう一度利用したいと思える宿だった。
温泉街の東よりに、医王山温光寺薬師堂がある。
「 この辺りは、往古から温泉が地表に流れ出ていたといい、 伊藤家初代重佐が、民の病苦を救うため、温泉場を開発し薬師堂を建てた。 」
泉薬湯 温泉津温泉元湯 と 温泉津温泉薬師湯 の二つの共同浴場がある。
泊まった宿の湯槽が小さいので、ここを利用すると、気分が爽快になれる。
「 戦国時代、
石見銀山の採掘者らは酷使した身体を癒すために訪れるようになったので、
毛利元就は伊藤重佐を湯主に任じた。
石見銀山の採掘者らが温泉津の町を築く一方、温泉が採掘者達を癒していたのである。
江戸時代に入り、天領になると、代官が温泉を大事に保護し、
北前船の就航により、東北や九州の人々も入湯した。
広島に原爆が投下され、被爆者がこの温泉で湯治したと聞いた。 」
銀の積出港だった温泉津地区の町並みは、港町・温泉町として、
平成十六年(2004)に、重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
温泉津温泉入口バス停から200程の右側に、今も居住されている内藤家住宅がある。
「 内藤家は毛利氏の家臣であったが、
関ヶ原役後、毛利が石見から撤退した後も、そのまま温泉津に土着し、
代々、年寄りや庄屋を務め、その間、
廻船問屋、酒造業、郵便局等の経営にも携わってきたという。
内藤家住宅は、石見銀山にまつわる重要な建築物であり、
温泉津大火(1747) の後建てられた当地に残る最も古い住宅史跡である。 」
温泉津港 | 温泉津温泉元湯 | 内藤家住宅 |
訪問日 平成二十八年(2016)十月二十六日〜二十八日