栗林公園は、JR高松駅の近くの琴電高松築港駅から琴電で、栗林公園駅まで行き、 西に500m行くと、到着した。
「 栗林公園は、紫雲山の東麓に位置し、
紫雲山を背景に、六つの池と十三の築山を配した、四百年近い歴史を有する大名庭園である。
北庭と南庭で構成されるが、
北庭は、檜御殿が建ち、鴨場だったところを、
大正時代初期に、宮内省の市川之雄の設計により、
近代庭園の様式を取り入れた庭園に改変されたのが、今日の姿である。 」
入場料を支払い、北庭に向うと、「鴨引き堀と小覗」 の説明板があった。
説明板「鴨引き堀と小覗」
「 江戸時代の北庭は、群鴨池を中心とし、
藩主が鴨猟をするための鴨塚として使われた。
明治末期からの北庭大改修の際、鴨場の施設はほとんどなくなったが、
平成五年(1993)に、鴨引き堀小覗(このぞき) 等が復元された。
復元された鴨場の小覗は、覗小屋とも呼ばれ、鴨の様子を窺うものである。
全国で鴨引き堀のある鴨場は、宮内庁埼玉鴨場、宮内庁新浜鴨場、浜離宮恩賜庭園、
宇和島市の天赦園と本園の五ヶ所で、本園の幅二・七メートル、
長さ約三十メートルの鴨引き堀は日本で最大規模である。 」
その先に、「北梅林」 の説明板がある。
説明板「北梅林」
「 本園には約百七十本の梅の木があるが、
特に見どころは北梅林と南梅林、一月の下旬から三月上旬にかけ、
紅白色とりどりに咲き誇る梅の花は、香りと共に、いち早く水温む春の到来を告げてくれる。 」
訪れた日は天気も良く、梅の花が満開で、美しく、多くの人が訪れていた。
江戸時代初期の大名庭園の姿を今日に伝えるているという南庭に向った。
日暮亭 の説明板が建っていて、その先に建物があった。
説明板「旧日暮亭(きゅうひぐらしてい)」
「 江戸時代、 日暮亭 という名の茶屋があったが、
明治三十一年(1898)に、石州流の茶室として再建された建物である。
旧日暮亭は、高松藩松平氏二代藩主頼常の頃、
吹上げの水流に隣接して建てられた 考槃亭(こうはんてい) が、
五代藩主頼恭の時代に、西湖の近くに移築され、
日暮亭 に改名された、入母屋茅葺き屋根の大名茶室である。
建物は、元藩主より無償で頂いた旧藩士が園外に移築したため、
現在の日暮亭が、明治三十一年(1898)、茅葺き草庵型の石州流の茶室として、建築された。
武者小路千家の官休庵の茶室の姿を保つ建物とされる。 」
栗林公園の前身の栗林荘は、高松藩松平家十一代の藩主が、国元の下屋敷として、
二百二十八年間使用された。
延享二年(1745)、第五代藩主頼恭が、「名所六十景」 を撰名し、作庭が完成したとされる。
講武しゃは、藩政時代に武を練った場所で、扇屋原ともいう。
(注)しゃの字は、木へんに射るという字で、ホームページ語にない字のため、しゃとした。
もと矢場御殿、馬場御殿などがあり、馬に乗って弓を射たと伝えられる場所である。
掬月亭(きげつてい)は、江戸初期の頃(1640年頃)に建てられた、 回遊式大名庭園の中心的建物で、 数寄屋造りの純和風建築で、茶室を備える。
「 もとは七棟の配置が北斗七星に似ていることから、
星斗館(せいとかん) と命名され、
歴代藩主が 大茶屋 と呼び、最も愛された建物である。
明治初年に北側の二棟が取り払われ、五棟になったが、
東南の南湖に突き出る棟の 「鞠月楼」 にあやかり、「鞠月亭」 に改名された。
鞠月亭は、四方正面の造りで、床を低くし、壁は少なく、
風通しの良い夏向きの建物である。
南庭の中心的な存在の亭内からの眺めは絶景で、開放感にあふれるとされ、
舟をモチーフにした部屋は、へさきの雰囲気を醸し出す。 」
掬月楼(きくげつろう)の名は、松平頼恭が延享二年(1745)、
中国の詩人・千良吏 の詩の一句 「 水を掬すれば月手にあり 」 からとって、
命名したとされる。
掬月亭の脇にそびえる根上り五葉松は、高さ約八メートル、
幹の周りの太さは約三メートル五十センチにもなる、松の巨木である。
「 天保四年(183)に、高松藩九代目藩主 ・ 頼恕(よりひろ)が、 徳川十一代将軍の家斉(いえなり)からいただいた鉢植えの盆栽を庭に植えたところ、 大きく成長したものと伝えられている。 松が多い栗林公園でも五葉松はこの一本だけである。 」
掬月亭の西にある涵翆池(かんすいち)は、翆(みどり)を涵(ひたす)という意で、 石組みの素晴らしい中島の瑶島(ようとう)の木々だけでなく、 背景となっている紫雲山の自然を含めた意図で命名したものである。
渚山(しょざん)は、十三大山坡(だいさんば)のひとつで、 渚山には美しい松が植えられていて、 汀線は優美な曲線を描いて伸びている。
ここから南湖を望むと、右には掬月亭、左は飛来峰と偃月橋のほか、
多彩な南庭のみどころを一望出来る景勝地となっている。
松平初代藩主、頼重が正保四年(1647)、
京都から御庭焼として招いた紀太理兵衛重利(きたりへいしげとし)が焼いた九重塔が建っていた。
南湖と北湖をつなぐ掘割に架かる迎春橋を渡ると、 藩政時代には、 留春閣 という建物が西にあり、 この橋の周りには桜の木が多く植えられていたという。
以上で、栗林公園の見学は終了。 栗林公園を回って感じたことは松が多く、
立派な松が多かったことである。
藩主が住む高松城の披雲閣庭園とはスケールの大きなや造園の素晴らしさで、
比べるべきもないと思った。
栗林公園へは高松駅からバスで20分、栗林公園下車、すぐ
琴平電鉄「栗林公園」駅から徒歩約10分、JR栗林公園北口駅から徒歩約10分
訪問日 平成三十年(2018)三月七日