丸亀城は、丸亀平野の海抜六十六メートルの自然の岩山である亀山を利用し、 それを取囲むように堀(内堀)で囲み、三段の石垣を巡らせ、 山下部から三の丸、ニの丸、本丸と登っていく縄張りで、 内堀の周囲に侍屋敷を配置、 その周囲を外堀がほぼ正方形で取り囲む形になっていた。
「 丸亀城は生駒親正 ・ 一正親子が、
慶長二年(1597)から慶長七年(1602)にかけて、西讃岐の支配のため築城したが、
元和元年(1615)の一国一城令により、廃城になった。
その後、生駒氏の転封により、讃岐は東西に二分されると、
西讃岐の地を与えられた山崎家治が、その拠点として、
丸亀城跡に寛永二十年(1643)より新たな城の築城を開始した。
現在のほとんどの石垣は、山崎氏によって造られたと考えられる。
山崎氏断絶の後は、京極氏が入封し、明治維新を迎えた。 」
内掘に架かる石橋を渡ると、「史跡丸亀城跡」 の石柱があ建っている。
その先に、大手二の門である高麗門と楼門の大手一の門がある。
「 二の門をくぐると、正面は石垣で、右側に楼門の大手一の門があるという、枡形虎口になって、敵の侵入を防いでいる。
築城当時の城の正面は南側だったのだが、
寛文十年(1670) の 京極家の時代に、大手門を現在地(北側)に移して、
大手門枡形に整備されたのである。
大手一の門は、入母屋造本瓦葺の楼門で、主要部分にはけやき材が使われていて、
棟の両側に 鬼瓦としゃちほこ瓦がそびえている。
また、 藩士が太鼓を打ち、刻(とき)を知らせていたことから、
「太鼓門」 とも呼ばれていたといわれる。
大手一の門は、国の重要文化財に指定された。
中に入ると、、 一の門の櫓の内部は板敷きで、広い空間が広がっていた。
「 長持、駕籠、しゃちほこ瓦、昔使われていた 「時報太鼓」 が
展示されていた。 城を防御するための石落としの仕掛けなども見ることができた。
櫓の上から、二の門を見ると石段があり、敵兵が石橋を渡ってくると、
城兵が駈け上がって、弓や鉄砲が打てるようになっていた。
大手門をくぐり、左折すると、正面に高い石垣が行手を阻む。
「 江戸時代、外掘の内側には武家屋敷を置き、 大手口や搦手口には家老屋敷を配置して、守りを固めていた。 この辺りの平らなところには、藩主が住む居館や庭園などがあった。 」
右側に行くと、門跡と思える石垣があり、その先にあるのは御殿表門である。
御殿は明治二年(1869)に全焼して、今はない。
左に向う 「見返り坂」 という急な坂道がある。
右側の三の丸石垣は、
緩やかであるが、荒々しい野面積みと、端整な算木積みの土台から、
頂は垂直になるよう、独特の反りを持たせる 「扇の勾配」 になっている。
「 丸亀城は、山麓から山頂まで、四重に重ねられ、
合わせると、六十メートルの高さになり、
総高としては日本一高く、三の丸石垣だけで一番高い部分は二十二メートルある。
単体としての日本一高い石垣は大坂城で、僅差で上野城、
共に約三十メートルの高さである。 」
石垣前に、高浜虚子の 「 稲むしろあり 飯の山あり 昔今 」 という句碑がある。
「 昭和二十四年秋、ここから丸亀平野をへだてて、
讃岐富士(飯の山)を眺めて、詠んだ句という。
稲と飯をかけたのだろうが、当時はまだ都会は食糧難だったので、
このような句になったのだろうか?
讃岐平野の豊かさを表現したものだろうが、丸亀城は出てこないのは残念である。 」
左側に三の丸東石垣があり、説明板には 「 平成十三年から十四年にかけて、 丸亀城絵図や京極氏時代の木図に基づき、櫓台の石垣の幅や高さ、 西面の石垣を復元した。」 とあった。
見返り坂を上ると、広場になっているところに、「三の丸跡」 の標柱が立っている。
三の丸跡は、海抜五十メートル余の平地で、東方(左手) の眺めが素晴らしい。
「 讃岐富士と呼ばれる海抜四百二十一メートルの飯野山が見える。
その手前には土器川が右(南)から北に流れている。
その北に、青ノ山が横たわり、更にその北に遠望できるのは、
坂出市の番の州工業地帯と瀬戸大橋である。 」
江戸時代、三の丸の東南隅にあったのは、巽櫓(戌亥櫓)である。
礎石の脇に、「月見櫓跡」 の標柱が建っている。
「 土器川の東と城の南方は旧高松藩領で、それを見張る櫓である。
月見にはよい位置だったことから、 月見櫓 とも呼ばれた。
明治二年(1869)に火災により焼失した。 」
二の丸の石垣も端正な造りで美しい。
「 丸亀城の石垣には打込みハギ、野面積み、
切り込みハギなど様々な石積みが見られる。
石を割った矢穴の跡や、石の表面をきれいに加工したノミ切りの跡などもある。
また、石垣の中には△や田などの封印と呼ばれる記号が見られる。 」
月見櫓の手前でUターンするように上ると、空地に「二の丸跡」の標柱が建っている。
「 二の丸は丸亀城で二番目に高い位置にある曲輪で、
江戸時代には、石垣上に、長崎櫓や番頭櫓(ばんとうやぐら) などの四棟の櫓と
それを結ぶ多聞櫓があった。
明治十年(1877)に丸亀城の櫓や城壁などが取り壊された。
平成六年に現在の姿に整備された。 」
大手道の 櫓門(やぐらもん) があったところの石垣は残っている。
二の丸には桜と思える木が多く植えられているので、
シーズンには楽しめるのではないかな!!
三の丸同様に見晴らしはよい。
「 丸亀城は、高松藩の支城だったため、
元和元年(1615) の 一国一城令により、破却の危機にさらされたが、
時の藩主・生駒正俊は、要所要所を樹木で覆い隠し、立ち入りを厳しく制限して、
城の破却を守ったという。
寛永十七年(1640) の 生駒氏のお家騒動で、
生駒氏は、出羽国矢島(現秋田県由利本荘市) に転封になり、
寛永十八年(1641)、 山崎家治が肥後国富岡より五万石で入封し、 丸亀藩が立藩し、
寛永二十年(1643) から城の改修に着手した。
幕府が家治に、
瀬戸内の島々にいたキリシタンの蜂起に備えるための城をつくらせたのではないかと云われ、
幕府は丸亀藩に銀三百貫を与え、 参勤交代を免除し、 突貫工事をやらせている。 」
二の丸で今も残っているのは二の丸井戸だけである。
説明板「二の丸井戸」
「 この井戸は直径が一間(約1.8m)、深さは三十二間(約65m)で、日本一深い井戸といわれる。
丸亀城では一番高いところにあり、現在も水をたたえている。
石垣を築いた羽坂重三郎が敵に通じるのを恐れ、この井戸の底に入っている間に石を落されて殺されたという
言い伝えが残っている。 」
二の丸の奥に石垣で囲まれ一段高くなったところが本丸である。
「 万治元年(1658)、山崎氏が三代で無嗣断絶し改易となり、
代わって播磨国龍野より京極高和が六万石で入封し、丸亀藩主となり、
以後、明治時代まで丸亀城は京極氏の居城となった。
万治三年(1660)、城の裏口にある海側の搦め手門を大手門に変更し、
大手門から見上げる石垣の端に三層三階の御三階櫓と呼ばれる天守を建てた。 」
本丸跡には京極氏により建てられた三層三階の天守が残っている。
「
天守の高さは十五メートル、三層三階、入母屋造りの本瓦葺で、
壁面及び軒裏は白漆喰で総塗籠となっている。
現存する三重天守閣としては最も小さなものである。
昭和十八年に国宝に指定されたが、昭和二十五年の法改正により、
重要文化財に指定替えされた。
昭和二十二年から二十五年に行われた解体工事の際、
最上階の南東隅の壁面内部より、
長さ七十五・八センチ、幅十三・九センチ、厚さ六ミリの檜材の祈祷札が発見され、
これにより、万治三年(1660)に天守が完成したことが確認された。 」
天守の中に、入った。
「
天守の一層目は、高さ二メートルの石垣の上に、東西六間(九メートル)、
南北五間(七・二メートル)の広さで、
高さ二メートルまで、西面を除き腰板張、、上部は塗込めとし、
北面には石落しを設け、二の丸の搦手に備えている。
二層目は、東西四間半南北三間半、南北に唐破風を付け、
三層目は、東西三間、南北二間で、東西に千鳥破風、北面に素木格子窓を設けている。 」
天守内部は、各層床板敷き、各階に柱を建て、 一層は二十本、二層は十四本、三層は二本、 特に、隔柱は左右に漆柱を建て、柱頭に燧梁をかける堅固な構造になっている。
「 材木は栂を主に使用し、桧と松も使用し、壁面は長押の高さまで漆喰を厚く塗り、 防御を固めるとともに、足元には非常の際に打ち抜いて使用する大砲狭間が設けられている。 通し柱を使わず、各階に柱を建て、上階を急激に狭めて、逓減率を大きくしていること。 本来なら間口の広い東西方向に棟を設けるべきところを、 南北方向に三角形の入母屋屋根を見せることにより、 北側の城下から見上げたときに、天守が大きく見える工夫がなされている。 」
天守の最上階から下を見ると、本丸跡と、隅櫓の礎石が見えた。
説明板「本丸」
「
京極氏は延宝元年(1673)に城の大改修が完了したが、
丸亀藩が立藩して既に三十二年の歳月が過ぎていた。
現存する石垣の大半は、この改修の際に、完成したものである。
発掘調査後、本丸の石垣や隅櫓の礎石が確認され、地盤整備を行ったが、
遺跡保護のため、本来の地面より少し高くした。
北多聞や南多聞(渡櫓)の石垣と排水路は土中に埋め戻し、
その上に石垣を復元している。 」
本丸から下りると、延寿閣別館がある。
説明板「延寿閣別館」
「 延寿閣別館は、麻布にあった旧藩主京極家の江戸屋敷の一部を移築いたもので、
内部は、藩政時代の大名の生活がしのばれるように、昔のまま保存している。 」
ここを右に下るのが搦め手道である。
下って行くと、二の丸の石垣の前に、三の丸井戸がある。
「 三の丸には、月見櫓の他、 坤櫓(ひつじさるやぐら)、
戌亥櫓(いぬいやぐら) があった。
戌亥櫓は、 明治二年の藩邸(旧京極家屋敷) の火災により消失した。
火災で焼けた石垣は赤く焼け、柱のあった場所は黒くなっていて、
藩邸が全焼した大火災の状況を生々しく伝えている。
三の丸井戸は、山崎氏時代の絵図に描かれている井戸で、
深さ三十一間と記されており、抜け穴伝説のある井戸である。
明治初期の建物取り壊しの際に、本丸建物の壁土や瓦が井戸内に堆積し、
現在は空井戸となっている。 」
三の丸戌亥櫓跡のそばに、吉井勇の歌碑がある。
「 人麿の歌かしこしとおもひつつ 海のかなたの沙弥島を見る 」
搦め手道を降りきったところに、「搦め手口」 の標柱が建っていた。
「 三の丸南側の搦め手口は、山崎氏時代の大手である。
この場所は、石垣を巧に配し、城内でも一番堅固に造られた場所である。
また、この石垣には加工した大きな石を用いているところもある。 」
以上で、丸亀城の探訪を終了した。
丸亀城へはJR予讃線丸亀駅から徒歩10分で登城口、登城口から天守まで約10分
訪問日 平成三十年(2018)三月六日