金刀比羅宮は、
香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する神社で、
こんぴらさんと呼ばれて、親しまれている神社である。
江戸時代後半になると、伊勢参りに加えて、金毘羅詣で盛んになる。
丸亀藩は、金刀比羅宮の参道である丸亀街道、多度津街道の起点を領地とし、
参詣者を相手とした観光業は藩財政に大きく貢献した。
高松駅から琴電築港駅まで5分程歩き、琴電で1時間程乗り、琴電琴平駅で降りた。
琴電は商売熱心で、色々な宣伝のラッピング電車を走らしている。
琴電琴平駅の隣に、金刀比羅宮北神社があり、その境内に高燈籠が建っていた。
「 東讃岐の人たちが、安政元年(1854)の発願以来、
千秋講、万歳講を結成、
広く寄進を仰ぎ、六年の年月をかけ、万延元年(1860)に完成したものである。
高い石壇の上に、高さは約二十七メートルの木製の灯台が築かれた。
そこから発する光は、丸亀沖の船に届くよう、設計されたといわれる。
内部は三階建で、壁には江戸時代の人々の落書きが今も残っている。
木造燈籠としては日本一高く、庶民信仰の結晶である。
昭和五十四年(1979)に、国指定重要有形民俗文化財になった。 」
金刀比羅宮に向って、大宮橋を渡り、突き当たりの三叉路を左折し、県道207号に入り、
その先の交叉点を右折して、参道に入ると、多くの土産物屋が並ぶ。
右側に金陵酒造が運営する金陵の郷があり、
江戸時代の酒造りに用いられた道具などを見ることができる。
その先に「、こんぴら算額茶屋」 の看板をかけた店があり、さぬきうどんと食べた。
参道が狭くなった左に、海の博物館があり、 その方角に左折すると、その先の右側の高いところに、琴平グランドホテルがあり、 道の左側の低いところには、 宿坊のような建物が見える。
「 金刀比羅宮の由緒については、いくつかの説がある。
一つは、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、
中世以降に本地垂迹説により、仏教の金毘羅と習合して、金毘羅大権現と称したとするものである。
もう一つは、象頭山にあった真言宗の松尾寺に、金毘羅が鎮守神として祀られていて、
大宝年間に、修験道の役小角が象頭山に登った際、
天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅の神験に遭ったのが、
開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする説がある。
江戸時代には神仏習合により、真言宗の象頭山松尾寺金光院となり、
象頭山金毘羅大権現と呼ばれた。
明治元年(1868)の神仏分離令により、象頭山松尾寺金光院は、廃寺に追い込まれ、
金刀比羅宮(宗教法人金刀比羅本教の総本部)に強制的に改組されて、
主祭神の名は、大物主神と定められ、相殿に崇徳天皇を祀った。
現在の松尾寺は、旧松尾寺の塔頭だった普門院が、松尾寺の法灯を継承したものである。 」
その先の高いところに、芝居小屋がある。
「 現存する日本最古の芝居小屋で、金丸座とも呼ばれ、 天保七年(1836)に、参道近くに建てられた建物で、国の重要文化財に指定されている。 今も毎年春に、「四国こんぴら歌舞伎大芝居」 として、歌舞伎が公演される。 」
参道に戻ると、いよいよ石段で、長く続く参道の石段は、
奥社まで1368段ある。
土産物店の店頭には無料での杖の貸し出しがあるが、
雨用に買った傘を杖代わりに使った。
この付近から大門までの急な坂を 一の坂 と呼ばれ、急な石段になっている。
石段の始めの両側に陶器製の狛犬があり、石の土台に 「長栄講」 と刻まれている。
説明板「備前焼狛犬」
「 備前岡山の長栄講により、天保十五年(1844)に奉納された。
この備前焼の狛犬は、高さ五尺の大きなもので、備前焼で作られた狛犬の中でも、
一、二を争う大きさの良作である。
この狛犬は、備前伊部村の木村長十郎他六名の細工人によってつくられた。
いずれも木村一族の人々で、長十郎は当宮の他、
岡山の高松稲荷の狛犬にも、細工人として名前が残る。 」
灯明堂があった。
説明板 「灯明堂の釣灯明」 重要有形民俗文化財 昭和45年国指定
「 こんぴら信仰は庶民の、そして漁民や船乗りの間にこと篤く、
この灯明堂は安政五年(1858)に建てられたもので、
備後国因之島浦々の講中の寄進になり、芸予諸島の人々の名とともに、
堂内の扁額に棟梁、大工、鍛冶、木臼、石大工、左官、瓦師などの名が記されている。
切妻造、瓦ぶき、四間一面のこの堂には船の竜骨状の下梁を用い、
いかにも島の大工が建てたらしい珍しい構造である。」
右に、琴陵宥常の銅像、その先に、金刀比羅本教の総本部がある。
「 明治維新になると神仏分離で、
金毘羅大権現も存続の危機が訪れる。
琴陵宥常は、江戸時代までの 神仏混淆の寺 ・
金光院金毘羅大権現を、金刀比羅宮という神社に変え、
御本宮の再営や金平山大博覧会を開催し、 晩年にはた金刀比羅宮の宮司として
海上安全を祈願し、 「大日本帝国水難救済会大旨」 を作成するとともに、
総理大臣黒田清隆に直接訴え、
「大日本帝国水難救済会」 を創設させた。
現在は、宗教法人金刀比羅本教の総本部となり、 全国にある琴平神社を取り仕切るが、
琴陵宥常はこんぴらさんにとって、中興の祖ともいえる人物である。 」
石段を登り切る手前の左側に、鼓楼(ころう) がある。
造りが城に似ていることから、琴平城 とも呼ばれ、
中にある時太鼓は、今も朝夕に打ち鳴らされるという。
右側に、青銅製の大燈籠がある。
「 青銅製の大燈籠は、当宮奉納の青銅製燈籠の中でも、最も豪華である。
発願主は、山形南村山郡堀田村斯波兼松、 鋳造は山形 小野田才助とあり、
同型のものが山形県山寺に一基、 宮城県黄金山神社に一対奉納されている。
国の重要有形民俗文化財に指定されている。 」
その先石段を登りきった所にあるのは大門で、これより山内が金毘羅宮の境内である。
「 門に、有栖川宮熾仁親王筆の 「琴平山」 の額が掲げられている。
大門は、二層入母屋造瓦葺きで、
慶安二年(1650)に、初代高松藩主・松平頼重が寄進したものである。 」
大門の前後には、越中富山の常夜燈を始め、多くの常夜燈が奉納され、
並べられていた。
「ここまで365段」 の表示があった。
大門をくぐると、緑の多い風景に代わり、参道の中央部に、石敷の道が続く。
道の両側に、年配の女性が座り、「こんぴら名物の加美代飴 如何!!」 と
声をかけてきた。
「 この飴屋は 「五人百姓」 と呼ばれ、
鎌倉時代から特別に境内での営業を許された五軒の人たちで、
売っているのは 「加美代飴」 という飴である。
銀紙の袋に 「讃岐こんぴら名物、五人百姓 加美代飴 」 と
書かれていて、袋を開けると扇の形をした飴と小さなハンマーが出てきた。
ハンマーで小分けして食べると、
昔ながらの製法で作られた べっこう飴(砂糖を原料とした飴)だった。 」
「金毘羅宮」 の額のある石燈籠の道の両側には、
常夜燈がところ狭しと置かれている。
このあたりは、桜の馬場 と呼ばれるところで、平坦な道が続く。
右側に 「宝物館」 のおおきな看板があるが、その前に、琴陵光重の歌碑があり、
その奥に、小林一茶の句碑がある。
その先に桜馬場の三つの鳥居のうち、中央に位置する青銅製の二の鳥居がある。
急な石段の先にあるのは、桜馬場の三つ目の鳥居、西詰の銅鳥居である。
石段の始めに、「431段」 の表示があり、
右側に、さざれ石とこんぴら狗の銅像がある。
説明板
「 江戸時代、お伊勢参りをはじめ、讃岐の金比羅参りなど、
参拝の旅は長旅で出費も体力も大変だったことから、
他人に代理参拝を依頼する代参がひろく行なわれた。
代参を依頼されたのは人ばかりではなく、犬が飼い主に代わって、
こんぴらさんに代参することもあったといわれ、
このような代参犬は、 こんぴら狗 (いぬ) と呼ばれた。 」
左側は広場になっていて、厩があり、神馬が飼われていた。
説明板
「 大祭に奉仕する馬です。
神様がお乗りになる神馬を生馬で奉納できないときは、
鋳造した馬や木や土で馬型を造り献納、
更に額に馬の絵を描いて献納、これがのちに絵馬に変遷した。 」
急な石段を上ると、右側に切妻造平入、銅葺の大きな門がある。
この門は書院の勝手口なのだが、
社務所が書院に付属していた頃の名残で、社務所門 と呼ばれる。
ここには、社務所や神札所と表書院、奥書院、白書院がある。
「 表書院は、萬治年間(1658〜1660) の建築と伝えられる入母屋造、檜皮葺の建物で、 江戸時代の代表的な画家、 円山応挙の障壁画(重要文化財)で知られる。 同年代に建てられたとされる奥書院には、 伊藤若冲の「花丸図」 や岸岱障壁画が残されている。 表書院と奥書院は国の重要文化財に指定されている。 その他、明治十年建造の白書院もある。 」
「477段」 の表示があるこの一帯は、前庭 と呼ばれるところで、 石段を登りきった所に、説明板があった。
「 大国主命は農業を始め、水陸交通、医業技能等、 あらゆる産業や文化に顕著な神徳を発揮したので、 国土は大いに治まり、民政は安定した。 この浄域はその行宮のあとに、大美神霊が鎮座された所で古庭、 御相殿の神、崇神天皇を始め無数の人々が霊沢に浴した源頭で、 たましいのふるさとである。 」
その上方にある黄色い櫓は、着見櫓 と呼ばれ、
その昔、大名行列の到着を見張った、といわれる。
櫓の両側に続く黄色い壁には五本の白いストライプがあるが、
これは、金刀比羅宮が金毘羅大権現という寺院だった頃の名残で、
五本線は、最高位の寺格であることの印である。
参道はここで左折進むが、右側には奉納柱が林立して続いていた。
「 江戸時代中期に入ると、全国の庶民の間にこんぴら信仰が広がり、 全国で金毘羅講が組織され、 金毘羅参りが盛んに行われるようになり、 伊勢神宮へのお陰参りに次ぐ、庶民の憧れだったといわれる。 奉納も多く行われ、 奉納された石碑を収めるために本来直線だった参道を曲げたといわれるが、 この参道はそれを確認できる場所である。 」
その先の左側に、木馬舎がある。
「 木馬舎は慶安三年(1650)に高松城主・松平ョ重から献納された建物で、 木馬は、京師田中環中斎弘教宗圓の作である。 」
突き当たりには資生堂パーラーが経営する 「神 椿」 がある。
神椿1Fカフエで、 神椿パフェとコーヒーを頼み、 二十分程小休止した。
木馬舎の先に三つ続く急な石段が現れる。
石段の始めに、「512段」 の表示がある。
一番目の階段を十二段上ると、右側に黒門があり、
その奥に見えるのは、切妻造平入、瓦葺の四脚門で、書院の正門である。
説明板
「 黒門と四脚門は、社務所が書院に付属していた頃、
勅使が来社の際や皇族、幣帛供進使が参向する場合に用いられた。
現在、黒門、四脚門は、普段は閉まっていて通れない。 」
二番目の階段を上った右側に、 祓戸社(はらえどしゃ) があり、 その左奥には 火雷社がある。
「 祓戸社の祭神は、瀬織津姫(せおりつひめ) 他三神で、
ともに、 伊邪那岐神(いざなぎのかみ) の御子である。
神道の真髄罪けがれを祓め清める神で、 人々はここで祓えを行い、参詣する。
火雷社の祭神は、 火産霊神 (はむすびのかみ) 他五神。
火を司る神、かまどをつかさどる神、 即ち浄火又鎮火消防の神で、
御相殿に祀る ちまたの神は疫病を防御する神である。 」
古来、ここで禊を行って参拝したところである。
ここには 「595段」 の表示があった。
左側にはお手洗の表示があり、ここから先にトイレはないとあるので、
念のため済ませた。
三番目の石段を上ると右側に廻廊があり、 正面の木立の中に建物が見えるのが、 旭社である。
旭社は、 神仏分離前の松尾寺の金堂で、 国の重要文化財に指定されている。
「 祀られている祭神は、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、
高皇産霊神 (たかみむすびのかみ)、 神皇産霊神(かみむすびのかみ) の三神である。
天地開闢の神々を祀る社殿は、 天保八年(1837)に建立された欅(けやき)造り、
二重入母屋造、 銅瓦葺き、高さは十八・五メートル、 建坪は三三〇平方米の建物で、
天保建築の粋をあつめたと、 いわれる。 」
「旭社」 の二字の額は、綾小路有長の筆、 楼上の 「降神観」 は清朝の書家、王文治の筆である。
「
清人劉雲台は、海上安全寿福を祈り、長崎の船頭に託し奉献したもので、
日中の往来を物語るものである。
戦国時代には荒廃していたが、別当となった象頭山松尾寺の宥盛が、
信仰を広め境内を整備し、
海上交通の守り神として、全国に金毘羅講を結成させ、
幕末には 民謡 「金比羅船々」 が歌われ始めた。 」
旭社は、建物全体に多くの美しい彫刻がなされていたので、
そのあまりの豪華さに、江戸時代に参拝した 森の石松 は本堂と誤り、
ここへの参拝のみで帰ってしまった、と伝えられる。
当日多くの外国人を見たが、ここで引き返す人が多かった。
旭社の向かいにある廻廊は、長さは約三十二メートルで、 安政元年(1854)の建立、
明治三十四年(1901)に改築された。
廻廊に沿って進むと、左側に 「右御大社 左下向道」 の石柱があり、
金毘羅宮への参詣は、ここから一方通行になる。
なお、旭社への参詣は行きではなく、本社を御参りした帰りに行うのが作法。
その先にある鳥居は、 慶応三年(186)に、伊予松山松齢講より、献納された黄銅鳥居である。
「642段」 の表示がある石段を上ると、 賢木門(さかきもん) がある。
「 賢木門は、 唐破風と千鳥破風の棟が交錯する檜皮葺の屋根をもち、
他に類を見ない優麗温雅な様式を備える。
天正年間(1573〜1592)、 長宗我部元親は、四国を制圧するため、
兵を起こし諸州を侵略し、 多くの神社仏閣を焼き払っていた。
ある日、元親は、琴平山の隣の大麻山に陣取ったのですが、
その夜、琴平山の草木が全て敵兵に見え、狂乱してしまった。
老臣らは、この出来事を、霊境付近を犯したための神罰である、と考え、
戦い後、元親は罪を謹み、門を献納することにした。
急ぎ過ぎて、 門の柱を一本逆にしてしまったため、 逆木門と呼ばれるようになった。
逆の字は、縁起が悪いとして、
明治十二年(1879) の改築の際に、現在の賢木門に改名した。
このゆわれの元になる、元親に奉納された柱は、 宝物館で見ることができる。 」
門をくぐり、石段を上ると、右側に遙拝所があり、
「 伊勢神宮をはじめ、全国皇陵諸社をここより遙拝する浄城として、
明治初年に建立された。 流造銅板葺き。 」 という、説明板があった。
このあたりは、じめじめとして薄暗く、 闇峠 と呼ばれるところである。
道は左にカーブし、進んでいくと鳥居の先に手水舎が建っている。
ここで手を清め、山裾に沿って進むと、石橋がある。
突き当たりの少し高くなったところの石垣の上に、 真須賀神社があった。
説明板 「 祭神は、建速須佐之男尊 (たけはやすさのうのみこと) と
后 神奇稲田姫尊 (くしなだひめのみこと) 。
建速須佐之男尊は、
八俣大蛇退治の 天叢雲剣 (あめのむらくものつるぎ) の神話に出る神様で、
勇武絶倫といわれる。 入母屋造 」
参道は、その手前の左側にある石段を上っていく。
上りきったところが、785段である。
スタートの時1368段とあったが、これは奥社までの階段の数である。
上りきった右手に 高台(展望台)があり、 讃岐平野には丸亀市の市街、 その先には 讃岐富士 と思える山なみがあり、 瀬戸内海は確認できない。
「 海上交通の守り神として信仰される金毘羅宮だが、
海から遠く隔たっている。
海上交通の守り神とされるのは、
古代には象頭山の麓まで入江が入り込んでいたことに関係があるというの説もあるが、
大物主命が海の彼方から波間を照らして現れた神だったことに由来するという説が有力である。 」
本宮は、拝殿、幣殿、本殿で 構成されている。
「 拝殿は、正面と左右の三方が入母屋破風に軒唐破風を重ねた仕様で、 拝殿は幣殿により似た造りをした本殿と結ばれている。
八幡造に似た造りだが、 大社関棟造り という、唯一の社殿形式になっている。
本殿、幣殿、拝殿は、すべて清素を主とし、檜材が用いられ、
屋根は厚みのある檜皮葺きだが、
大棟や千木、堅魚木が銅製なことで、独特な重厚感が生まれている。
最初に社殿が造られたのは、大化の改新以前のいわれ、
天正年間(1573〜1592)の長宗我部元親の再営、
万治二年(1659) の 高松藩主・松平頼重の改築を経て、
明治十一年(1878)に現在の社殿ができた。
本宮には、大物主神 (おおものぬしのかみ) を祭る。
長寛元年(1163)に、 崇徳上皇が前身の象頭山松尾寺金光院に参籠したことから、
修験道の御霊信仰の影響で、永万元年(1165)には、
讃岐国に流されたまま崩御した崇徳天皇も合祀された。 」
本宮の向かって右にあるのは、入母屋造の檜皮葺神饌殿で、
本宮拝殿とは北渡殿でつながっている。
神饌殿は、祭典や毎朝夕に神前に献ずる神饌を調進する場所である。
神餞殿の前に 、
「 平成29年の台風18号の被害により、白峰社(奥社)に至る参拝道が崩壊し、
御参りが不可能になりました。 奥宮にはここから遙拝願います。
同社で授与される天狗のお守りは御本宮御札所で授与されます。 」 とあった。
奥宮に行けないので、ここで参拝した。
「 戦国時代、 荒廃していた金毘羅宮 (当時名前は象頭山松尾寺) を
別当となった宥盛が信仰を広め、長宗我部元親の協力をえて、境内を整備した。
宥盛は、死の直前には神体を守るために、天狗に身を変えたとの伝説もあり、
死後は本堂付近に祀られた。
明治元年(1868)の神仏分離令で、 神道の神社となり、 金刀比羅宮と改称し、
主祭神の名は、大物主神と定められ、 相殿(あいどの) に、 崇徳天皇を祀った。
象頭山松尾寺金光院は廃されて、 祀られていた宥盛は、 厳魂彦命 と名を変えて、
明治三十八年(1905)に、 奥社へ遷座された。 」
御本宮の前には、御神木と葵の御紋が付いた青銅製の燈籠と、
奥にも 藤原朝臣 と記された燈籠があった。
御神木は、幹の周りは約四・七メートル、 高さは約二十五メートルのクスノキである。
神木の東側には神楽殿がある。
入母屋造、檜皮葺の建物で、祭典の伶人楽や雅楽を奏する所である。
神楽殿の隣に、神札授与所があったので、御朱印をいただいた。
本宮から三穂津姫社まで、長い廊下が南北に繋がっているが、
この廊下を 南渡殿 という。
長さは約四十メートルで、屋根は檜皮葺、明治十一年(1878)に建てられた。
南渡殿の下をくぐると、右側に檜素木の桧皮葺きの本宮本殿南垣があり、
南垣越しに、本宮の南側壁板の蒔絵を見ることができる。
南垣に隣接してあるのが睦魂神社である。
社殿は、王子造、銅葺で、
祭神は大国魂神、大国主命、少彦名神で、禁厭、医薬の神様といわれている。
睦魂神社の隣にあるのは神庫と神輿庫で、神輿、神寳、祭具などが納められている。
南渡殿の南端に、三穂津姫社(みほつひめやしろ)がある。
本宮の御祭神である大物主神の后にあたる、
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の御女(むすめ)、三穂津姫神が祭られている。
三穂津姫社の建物は明治十一年(1878)に建築されたという。
「
三穂津姫社の拝殿は檜皮葺、大社関棟造で、
中殿は檜皮葺、本殿は檜皮葺、王子造である。
拝殿の右側に隣接するのは神饌殿で、三穂津姫社に奉る神饌を調進する所である。
拝殿の右側に隣接するのは 直所 で、三穂津姫社詰員の控所である。
三穂津姫社直所の西に隣接するのは 祓除殿 で、
神職や昇殿する参拝者が御祓を受ける所である。
三穂津姫社直所の前にある銅馬は、一文銭を集めて作られたといわれ、
文政七年(1824)に、周防國花岡驛上原惣左衛門延清より、献納されたものである。 」
三穂津姫社の向かい側に厳島神社がある。
「
社殿は、入母屋造平入、檜皮葺で、御神主は市寸嶋姫尊である。
宮島に祀る神様と同じ素盞嗚尊の御女で、
俗に、弁財天とか弁天といわれ、音楽を掌る福徳の神様として崇拝される。
元は境外にあったのだが、明治三十一年(1898)にここへ遷座された。 」
三穂津姫社の向かい側に、切妻造平入、瓦葺きの御炊舎がある。 明治七年(1874)に建てられたもので、朝夕神前に献する神饌を調理する場所である。
三穂津姫社の南側に、絵馬殿があり、 各地から祈願報賽のために奉納された無数の絵馬が掲げられている。
「 最初は生き馬の代わりに馬の絵が奉納されたが、 その後、武者絵や美人画の絵馬も現れるようになった。 金刀比羅宮は航海安全祈願の信仰を集めていることから、 船の絵馬が多くみられる。 」
帰路は御炊舎脇の石段を降りていく。
下向道を下る途中、左側に流造、銅板葺の小さな社の大山祇神社がある。
祭神は山を司り鎮護する神様の大山祇神である。
更に降りると、先ほど通った旭社のある広場にでる。
旭社の御祭神は、天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、
伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神である。
参拝の順番では、旭社が最後になるので、
ここを参拝すると、後はもと来た道を下っていくだけである。
「 丸亀藩は、金刀比羅宮の参道である丸亀街道、
多度津街道の起点を持ち、参詣者を相手とした観光業は藩財政を大きく潤した。
幕末に財政が逼迫すると、
江戸詰の藩士たちに、隣に屋敷を構えていた大村藩の藩士から、うちわの造り方を学ばせ、
国元に返し内職にうちわを作らせ、金毘羅参りの土産品として売るなどの策をとり、
財政を立て直した。 その後、うちわつくりは一般町民にも広がり、
丸亀の名物になった。 」
金刀比羅宮へはJR土讃線琴平駅から徒歩約20分
琴平電鉄琴電琴平駅から徒歩15分〜20分
訪問日 平成三十年(2018)三月七日