>金沢城見学後、尾山神社を訪れる。
金沢城の周囲には、大手堀・いもり堀・百間堀(ひゃっけんぼり)・白鳥堀(はくちょうぼり)があった。
現存するのは大手堀のみで、他の三つの堀は、明治時代末から大正時代にかけて、埋め立てられて、
道路などになった。
いもり堀のこのあたりは、「堀跡」 であるが、
玉泉院丸口の反対側に、復元されたいもり堀がある。
その先に、(鼠多門(ねずみたもん) ・ 鼠多門橋」 の説明板があり、焼失する前の写真が表示されている。
説明板
「 鼠多門(玉泉院丸門)は金沢城玉泉院丸の北西に位置し、
門に取り付く木橋(鼠多門橋)は金谷出丸(現在の尾山神社)へと通じ、
両郭間の通行路として機能した。
鼠多門は江戸時代初期に創建され、宝暦の大火でも焼失しなかった。
明和二年(1765)に橋を架け替え、文化九年(1812)には鼠多門長屋の修理、
文政四年(1821)には門の付近の武具土蔵の新築が行われている。
明治十年(1877)に老朽化した橋が撤去され、
明治十七年(1884)には門が焼失した。 」
写真には鼠多門橋の先に鼠多門 があり、 その先に見えるのは二の丸御殿とあり、 この当時は二の丸も残っていたということである。
道で隔てた対面にある尾山神社を訪れる。
階段の先にある門は、東神門である。
「
これは金沢城の二の丸の門だったのが移築されている。
桃山風御殿様式の唐門で、宝暦の大火(1759)で、金沢城の大半が焼失するも、
彫刻された二頭の龍が水を呼び、類焼を免れたと、言い伝えられる。
彫刻は一本の釘も使用されず、名工の作とされるが、作者は不詳である。 」
その先に、尾山神社の拝殿と本殿があるので、御参りした。
「 尾山神社は、明治六年(1875)、
加賀藩初代藩主・前田利家と、正室・おまつの方を祭神する神社として、
歴代藩主の別邸であった、金谷御殿跡に建立された。
本殿と拝殿は、明治六年(1875)に建立された。
境内社として、歴代藩主を祀った金谷神社がある。 」
神門は、尾山神社の正門である。
「 棟梁・津田吉之助の設計により、明治八年(1875)に完成した。
ギヤマンが嵌めこまれたり、和・漢・洋折衷様式を見せる神門は、異国情緒漂う造りである。
一階は、木骨煉瓦造 石貼付 の三連アーチ、 二階・三階は、木造漆喰漆塗りで、
階を追うごとに小さくしている。
各階の肩が、垂直ではなく、竜宮城のようにカーブしていて、
中国南方の寺院の門の作りになっている。 」
神苑は、築山池泉回遊式庭園である。
「
尾山神社が、建設される前に、この地にあった金沢城金谷御殿の庭で、
江戸時代末期の作庭である。
辰巳用水を引き入れた池には、三つの島と、趣向を凝らした橋が配され、
書院庭園の面影を色濃く残している。 別名は楽器の庭。
琴をモチーフにした琴橋や、琵琶をイメージした琵琶島など、
おもに日本の雅楽で使われる楽器や、楽器を演奏するための衣装などを、モチーフにした橋や、
島から成り立つ。 」
境内にある前田利家の像は、母衣を被った騎上の武士として、表現されている。
尾山神社の境内には辰巳用水の石樋が残されていた。
尾山神社へはJR北陸新幹線・北陸本線金沢駅から北陸バスで約15分、兼六園下車、徒歩約5分
旅をした日 平成二十九年(2017)九月二十二日