金沢城は、前田利家が加賀藩百万石に相応しい城として築いた、
多聞櫓が巡り、隅櫓が並べ建つ大城である。
織田信長家臣・佐久間盛政が、加賀一向一揆の拠点だった金沢御堂跡に建てたのが、城の始まりである。
金沢城は、明治四年(1871)の廃藩置県で、明治政府の所管となり、
明治六年(1873)の廃城令でも存城処分となり、陸軍省の財産となり、
第二次世界大戦が終結まで陸軍第九師団司令部になった。
明治十四年(1881)の火災で、石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫を残して、建物のほとんどが焼失した。
昭和二十四年(1949)から、金沢大学のキャンバスになり、その後大学の移転により、
平成八年(1996)から、石川県が金沢城公園として整備が行われている。
日本100名城の第35番に選定されている。
金沢城の大手門は北側にあり、そこをくぐると新丸で、 その先に河北門があった。
「 金沢城は典型的な平山城で、櫓を多用した構造になっていて、
本丸と二の丸、三の丸があった。
江戸時代の初期は、二の丸は狭く、
三の丸や新丸などに家臣の屋敷があったといわれる。
河北門は、金沢城の三の丸に通じる正門である。
石川門、橋爪門とともに御三門と呼ばれ、
いずれも四角い広場を、内と外の門で、厳重に固めた枡形門の城門で、
御殿に至る要所を固めていた。
中でも、河北門は大手筋の要所を防備する重要な門だった。 」
現在の門は、安永元年(1772)に再建され、 明治十五年(1882)頃まで存在していた河北門の姿を、 多数の資料の調査と検証に基づいて、平成二十二年に再建されたものである。
「
一の門は、平入り門の二本の本柱の後に、控柱を附属させ、
その上に屋根を付けた高麗門という形式の門である。
その先の空間は枡形で、その先にある二の門は櫓門である。 」
三の丸に入る門には石川門がある。
「 石川門は、金沢城の搦手門(裏門)として、重要な位置にあり、
河北門・橋爪門とともに、金沢城の三御門と呼ばれた。
石川門は一の門(高麗門)、二の門(櫓門)、
続櫓(長屋)と二層二階建ての石川櫓(二重櫓)から構成される重厚な枡形門である。
宝暦の大火(1759)の後、天明八年(1788)に再建された門で、
金沢城に残る僅かな遺産で、
昭和二十五年(1950)、国の重要文化財に指定された。 」
百間堀は、広坂交差点と、兼六園下交差点を結ぶ百間堀通り(百万石通りの一部)と、なっており、
明治四十四年に、幹線道路に転用された。
石川門から兼六園に架かる石川橋は、幹線道路の設置時に、
鉄筋コンクリート橋で、再架橋された。
藩政期には、百間堀と白鳥堀を分ける土橋であった。
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石川門は、兼六園の入口に近い門なので、正門と勘違いするが、裏門なのである。
「 一の門と二の門の間は、枡形虎口になっていて、
右に九十度曲がったところに、楼門の二の門がある。
枡形虎口を形成する壁面の石垣を見ると、左右の技法が異なっている。
右側は切り込みハギ、左側は打ち込みハギである。
同じ場所で違う積み方をした珍しい例で、
明和二年(1765)の改修時に起きたと考えられている。 」
三の丸には、河北門・石川門の他、時鐘・鉄砲所、
新丸には、作事所・越後屋敷・会所・割場などの施設があった。
鶴丸倉庫は、石川門・三十間長屋と同様、国の重要文化財に指定されている。
「 幕末の1848年に竣工した武具土蔵で、
建築されているのは東の丸付段である。
総二階の延床面積は約六百三十六平方メートルで、
城郭に残っている土蔵としては、国内最大級の遺構である。
明治以降は、陸軍により、被服庫として使われていた。 」
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三の丸と二の丸の間にあったのが、橋爪一の門・同門続櫓・五十間長屋・菱櫓で、 明治十四年(1881)の火災で焼失したが、平成十三年(2001)に復元された(下記写真)
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上記の説明
「 白漆喰の壁に、せん瓦を施した海鼠(なまこ)壁、 屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、
櫓一重目や塀に付けられた唐破風や入母屋破風の出窓は、 金沢城の建築の特徴で、
堅牢かつ美しい建物群である。
建物の瓦には、冬の積雪に耐えられるように、軽量であり、
また、有事には鉄砲弾にもなる鉛瓦が用いられた。
橋爪門続櫓は、二ノ丸の正門である橋爪一の門を見下ろす位置にあり、
三の丸広場から橋爪橋を渡り、
橋爪一の門を通って、二ノ丸へ向かう人々を監視するための重要な櫓で、
橋爪櫓とも、呼ばれていた。
続櫓の中央には、物資を二階へ荷揚げするための大きな吹抜けが設けられていた。
五十間長屋は、多聞櫓で、武器や什器等の倉庫になっていた。
多聞櫓は、 石垣や土塁の上に建てられる長屋造の櫓のことで、
その名の由来は永禄三年(1580)、大和国を平定した松永久秀が多聞山城を築き、
その櫓の内に、多聞天を祀ったことによると、いわれる。
菱櫓は、高さ十一・七メートルの石垣の上に築かれており、
三階建で、高さは約十七メートルである。
菱櫓は、名前の通り、建物の平面は菱形で、
四隅の内角は夫々八十度と百度になっていて、柱も菱形をしている。
部屋の中にある四本の通し柱は、長さ十四メートル、
太さは三十三センチcmの桧の柱であるが、
この柱を始め、使われている凡そ百本の柱も菱形で、
ここ菱櫓は、主に周辺を見張る役割を担っていた。 」
橋爪門は、寛永八年(1631)の大火後に整備された、二の丸の正門である。
「 橋爪門は、高麗門形式の一の門・石垣と、二重塀に囲まれた枡形、 櫓門形式の二の門で、構成される城内最大規模を誇る枡形門だった。 石川門、河北門ともに三御門と呼ばれ、 二の丸御殿から三の丸御殿に至る最後の門として、 通行の際しては、三御門でもっとも厳しい制限が設けられていた。 」
現在の建物(橋爪門)は、文化五年(1808)の二の丸火災で、焼失後、
文化六年(1809)に再建された姿で復元したものである。
橋爪門には、門番の部屋があったようで、これも再現されていた。
門の一角に、敷石の説明板が建っている。
説明板「敷石」
「 二の丸の正門に当る橋爪門は、二の門床に御殿の玄関周りと同じく、
四半敷き(正方形の石を、縁に対して四十五度になるよう斜めに敷いたもの)で、
戸室石が敷かれ、格式の高い門であったことを示す。 」
橋爪門をくぐった先の広い空地は、二の丸跡である。
寛永八年(1631)の大火後、二の丸御殿が作られ、本丸にあった御殿は二の丸に移り、
二の丸御殿が藩政の中心になった。
明治には第四高等高校、戦後は金沢大学の校舎になっていたが、
現在は二の丸広場となっている。
説明板「二の丸」
「 江戸時代には、橋爪門の二の門を抜けると、御番所と石垣台に仕切られた広場があり、
そこから、右手の雁木坂を上ると、石畳、そして、二の丸御殿の玄関に至った。
二の丸には、寛永八年(1631)の大火後、
二の丸は千畳敷と形容される栄華な御殿が建てられ、元禄年間の増築で拡張された。
儀式の場である表向、殿様が日常政務を行う御居間廻り、
妻子や奥女中の生活の場である奥向という、三つの空間に仕切られていた。 」
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鶴丸倉庫の南西の林の中に、「本丸跡」 の説明板がある。
現在は、 本丸園地 というところである。
「 古くは金沢御堂があった場所と伝え、
天正十一年(1583)の賤ヶ岳合戦後、前田利家が入城し、
天正十四年(1586)頃に天守閣を設けたといわれる。
天守閣は、慶長七年(1602)に焼失し、代わって三階櫓が建てられ、
寛永の大火(1631)までは本丸に御殿がおかれ、
金沢城の中心であったが、大火後は二の丸に移った。 」
本丸跡の東北には、丑寅櫓(うしとらやぐら)跡がある。
「 本丸の東北角、丑寅の方角に当ることから丑寅櫓と呼ばれていた。
櫓を支える野面積みの石垣は、文禄元年(1592)の基礎と推定され、金沢城最古の石垣である。
宝暦の大火(1759)後は、再建されなかった。 」
本丸の南東には、辰巳櫓(たつみやぐら)跡があり、説明板が建っている。
説明板「辰巳櫓」
「 本丸の東南角、辰巳の方角に当ることから辰巳櫓と呼ばれていた。
長屋を備えた立派な櫓が建っていたが、宝暦の大火(1759)後は、再建されなかった。
櫓を支えた石垣は、明治の石垣改修により、ほとんど残っていない。 」
ここからは、前田家の墓所がある野田山・大乗寺丘陵公園・倉ヶ岳が見える。
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本丸の北西に戌亥櫓(いぬいやぐら)跡がある。
説明板「戌亥櫓」
「 本丸の北西角、戌亥の方角に当ることから戌亥櫓と呼ばれていた。
西と北に出しという出窓がついている二層の櫓だった。
宝暦九年(1759)の大火後は再建されなかった。 」
鉄門(くろがねもん)の石垣が残っている。
説明板「鉄門の石垣」
「 創建時期は明らかではないが、寛永の大火(1631)以後、
二の丸から本丸に入る正門となった。
鉄板を貼った扉が付けられていたことから、この名前がついたといわれている。
渡櫓が乗った重厚な門で、本丸の防御にあたっていた。
鉄門の石垣は切石積みの技法で造られている。
切石積み技法は城の重要な部分に用いられる。
本丸の入口となるこの鉄門の石垣にも使われ、
石の表面を多角形に加工した優れたデザインで、丁寧な造りになっている。
宝暦の大火(1759)で大きな被害を受けたが、
続く明和、安永年間に復興に向けてさかんに石垣の改修が行われた。 」
三十間長屋は、昭和三十二年(1957)、国の重要文化財に指定された。
「 三十間長屋は、
長さ約五十メートルの二重二階の多聞櫓で、壮大、かつ、海鼠壁が非常に美しい。
宝暦の大火(1759)後、長らく再建されず、安政五年(1885)に再建された建物である。
大火以前は食器などを納めていたが、幕末の再建後は武器、弾薬を納めたといわれる。 」
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三十間長屋の一角に 「石垣」の説明板が建っている。
説明板「石垣」
「 寛永八年(1631)頃の創建、宝暦(1751〜64)頃等の改修、現在のものは、宝暦頃の改修時の姿を残す。
切石積みの技法で、築かれているが、表面の縁取りだけをきれいに揃え、
内側を粗いままにしておく 「金場取り残し積み」 という技法が使われている。
緻密な組立をしながらも、わざとあらあらしく見せるように、工夫されており、
当時の文書でも、 「いきおいのある積み方」 と表現されている。 」
三十間長屋の先の横に広くある石段(付け段というようだ)を下りると、
極楽橋がある。
本丸付け段と、二の丸の間の空掘に架けられた橋で、
この名は、江戸時代から使われており、金沢御堂 に由来すると、伝えられている。
これで再び二の丸広場に戻ってきた。
最近整備された玉泉院丸庭園に行く。
説明板「玉泉院丸庭園」
「 玉泉院丸庭園は、加賀藩三代藩主、
前田利常による寛永十一年(1634)の作庭を始まりとし、
その後、五代藩主、綱紀や十三代藩主、斉泰など、
歴代の藩主により手を加えられながら、
廃藩時まで金沢城玉泉院丸に存在していた庭園である。
饗応の場として活用された兼六園に比べ、
藩主の内庭としての性格が強い庭園だったと考えられている。
城内に引かれた辰巳用水を水源とする池泉回遊式の大名庭園で、
池底からの周囲の石垣最上段までの高低差が二十二メートルある立体的な造形で、
滝と一体となった色紙短冊積石垣などの意匠性の高い石垣群を庭の構成要素とする、
他に類を見ない独創的な庭園であったと考えられている。
玉泉院丸庭園は明治期に廃絶され、その面影は失われていたが、
平成二十年から五年間をかけて実施した発掘調査の成果や絵図、文献、
その他類似事例等に基づき設計を行い、
平成二十五年五月に整備工事に着手し、
平成二十七年三月、歴代藩主が愛でたであろう庭園の姿が再現された。
整備にあたっては、遺構保存のため全体的に盛土を行い、
その上に庭園を造成、
外周部の石垣修築や入口部の整備など玉泉院丸一帯の整備も合わせて行った。 」
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この一帯は、前田利家が入城した当時は、西の丸 と呼ばれ、重臣の屋敷が置かれた。
「 慶長十九年(1614)、二代目藩主利長の正室・玉泉院の屋敷造営されるが、
元和九年(1623)に、玉泉院が逝去し、屋敷を撤去されたが、
この後、玉泉院丸と呼称されるようになった。
寛永九年(1632)に、辰巳用水を開削し、城内に引水されると、
寛永十一年(1634)、三代藩主・利常が、京都の庭師剣左衛門を招き、作庭を開始、
元禄元年(1688)、五代藩主・綱紀が、千宗室に作庭を申し付ける。
厩を壊し、亭や露地、花壇を作る。
安政三年(1856)、十三代藩主斉泰の時、玉泉院丸に滝が造られる。
このような形で、玉泉院丸庭園が完成したが、
明治に入り、オランダ人医師・スロイスの邸宅が置かれた。
その後、庭石が撤去され、池も埋め立てられ、
昭和三十年(1955)には県スポーツセンター(県体育館の前身)が建てられた。 」
色紙短冊積石垣は、石垣の上部に、滝を組み込んだ特別な石垣である。
説明板「色紙短冊積石垣」
「 滝口には、黒色の坪野石で、V字形の石樋をしつらえ、
落水の背後には、色紙形(正方形)の石材に加えて、
短冊形(縦長方形)の戸室石を段違いに配している。
城郭石垣の技術と、庭園としての意匠とが、見事に融合した、金沢城ならではの傑作とされている。
段落ちの滝の発掘調査では、斜面を四段で流れ落ちる滝の遺構が確認された。
遺構保存のための盛土を行い、その上に発掘調査で確認された石組みを参考に、
新たに石組を整備し、滝を再現している。
庭園内は、古絵図を参考に、石川県内産の仕立てマツを主とした植栽にしている。
また、絵図の描写や発掘調査の検出状況に基づき、
各所に県内産の景石を配置している。
庭園の中心となる地形は、発掘調査や古絵図等をもとに、
紅葉橋から南側の半島や池、島などの地割りを再現した。 」
大小三つの中島は、見る場所により、遠近感や親水性が変化し、
見どころの一つとなっている。
池の水源は、城内のいもり堀(源は辰巳用水)から揚水している。
護岸の石材や橋(木橋、石橋、土橋)の材料は、石川県産の材料を使用している。
説明板「紅葉橋跡」
「 江戸時代には紅葉橋という名の木橋が架けられ、
池は更に北側まで堀状に続いていた。
ここから見る数寄屋門下の石垣群の眺めは、玉泉院丸庭園ならではの景色をなしている。 」
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庭園に面した石垣は、形状や色彩など外観の意匠に趣向をこらした、
「見せる石垣」 として造られており、
庭園の景色を特徴づける重要な要素となっている。
玉泉院丸口に出て、外に向うと、「いもり堀の石垣」 という説明板があった。
説明板「いもり堀の石垣」
「 いもり堀の北西部に位置するこの石垣は、
石の正面を部分的に均して刻印を施す石加工に特徴があり、
初期の粗い加工石を積んだ石垣の一つである。
この石垣はいもり堀の堀底から積み上げられているが、
この両側には土手の上部に石垣を巡らす鉢巻石垣が続いている。
元和〜寛政(1615〜1644)頃の創建とされ、当時の姿を残している。 」
玉泉院丸南西隅の石垣は、高さ約三メートル〜六メートル、延べ約四十メートル、 約六百七十個の戸室石で、築かれている。
説明板
「 石材加工の特徴等から、江戸前期 元和〜寛永年間 (1620〜30年代) に創建されたと推定される。
その後、江戸後期天明二年(1782)に、積み直しを行ったという、記録があるが、
詳細は分っていなかった。
平成十八年、解体工事を開始した際、調査が行われた。 」
以上で、金沢城の見学は終了である。
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旅をした日 平成二十九年(2017)九月二十二日