妙立寺を見学してから、金沢の城下町を歩く。
妙立寺のあたりは野町1丁目で、周囲には寺院が多くあった。
カフェになっている寺院があったので、本堂に上がりフルーツパフェを食べた。
少し元気がでたので、城下町を歩いた。
近くに、西(にし)茶屋街がある。
「 十二代藩主・前田斉広は、文政三年(1820)、
金沢町奉行・山崎頼母の口添えにより、公許を与えて、鼓楼を区域を限定して集め、
茶屋街が出来た。
その時出来た茶屋街は三つで、にし茶屋街は高級を売り物にしたという。
茶屋街の入口には、大門と番所があったというが、今は残っていない。 」
出格子の美しい茶屋形式の二階建ての家並が、茶屋街の特徴で、
掛け行燈と格子、特に金沢の格子は桟が細くて、
間隔が狭いのが、京都の島原・江戸の吉原と、異なる点で、
以前は、紅がらの漆で、塗られていたという。
以前訪れたひがし茶屋街の方が大きいなと思った。
かっては、三味線の美しい音色が流れ、芸の町、
金沢の趣ある一角を作り出していたのだろう、と想像した。
犀川に架かる橋を渡り、百万石通りを直進すると片町商店街である。
香林坊に入っていく所に、「香林坊」 の石柱があり、
かって、金沢城の外掘があったような雰囲気があった。
その一角に祀られていた、地蔵尊の石碑に、 以下の話が刻まれていた。
「 越前朝倉氏に仕えた向田兵衛は、天正八年(1680)当地に移り、
町人となって薬種商を営む。
比叡山の僧だった縁者の香林坊を婿養子に迎え、店の名も香林坊にする。
ある夜、兵衛の夢枕に現れた地蔵尊のお告げにより、処方した目薬が、藩祖の前田利家の目の病を治し、
香林坊は大いに名を上げる。
夢で見た地蔵尊を造り、店の小屋根に安置し、商売が繁盛する。
寛永の大火のとき、この地辺りで不思議と火が止まったため、
香林坊の火除地蔵尊とも呼ばれるようになった。 」
香林坊の東急スクエアの左手に入った長町一帯は、武家屋敷が建っていた地区である。
前田土佐守家資料館や、野村家武家屋敷、足軽資料館がある。
「 長町地区は、加賀藩士が群居した屋敷跡の一つで、
広い敷地を囲う土塀が道にそって長く連なりを見せ、入口は家格に応じた門構えになっている。
これらの屋敷構えは武士階級だけに許された。
そのためか、長町界隈は江戸時代を通じて、
一度も大火の被害を受けることなく、その当時のたたずまいを今日に残している。 」
金沢はその他にも、城下町の雰囲気を残しているところが多く残っていて、 歩いていて楽しい。
旅をした日 平成二十九年(2017)九月二十二日