明石駅に降りると、目の前に明石城跡がある。
駅を出ると水掘があり、堀に沿って左方向に行く。
信号交叉点の正面に、明石城に入る石垣で組まれた道がある。
道の左右は水掘で、右側の堀は明石小学校の手前で左折し、
その先にある箱堀の手前まで続いている。
「 明石城は、西国諸大名に対する監視と押さえとして、
二代将軍・徳川秀忠の命により、元和三年(1617)、船上城に入城した小笠原忠真が、
岳父の姫路藩主・本多忠政の指導のもと、元和五年(1619)から一年間で
築城した城である。
短期間で完成できたのは、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった、
三木城・高砂城・枝吉城・船上城の廃材が用いられたことも大きかったと思われる。
城は、明石海峡を望む丘陵(人丸山)の端に築城され、
自然地形を巧みに利用した三重三段構えの堀と曲輪の縄張の連郭梯郭混合式の平山城である。 」
堀を渡った先にある常夜燈の乗った石垣は、三の丸に入る大手門跡である。
昔は枡形虎口になっていて、石垣は江戸時代初期の造りの打込みハギである。
その先の広い空地が三の丸の跡である。
入って直ぐの右側に、明石公園サービスセンターがあり、
ここで100名城のスタンプをもらった。
その先の右側にはひぐらし池・乙女池や御茶屋があり、
明石城武蔵公園になっている。
「 剣豪・宮本武蔵が、小笠原氏の客人だった時、 現在の陸上競技場付近に、「樹木屋敷」 と呼ばれる庭園を造ったが、 資料に基づき再現したという。 」
「 明石城は、本丸を中心に、東側に二の丸、その東に東の丸が配され、
南側に三の丸、西側には稲荷郭が設けられた。
西側は、明石川を自然の外堀とし、 南側は運河を掘って、港を兼ねた外堀
(現在の明石港) とし、
北側は鴻の池(剛の池)と自然林、 谷筋で防備を固めた。 」
左側は西芝生広場であるが、当日は菊の展示場と出店で占拠され、 それを見ようとする家族連れで混乱していた。
客越しに見える石垣の上には、右側に、 巽櫓(たつみやぐら)、 左側に、坤櫓(ひつじさるやぐら) が建っている。
城壁の手前にある日時計は、中央部が兜形になっていた。
明石が、日本標準時子午線を通ることから、明石市が設置したものである。
「石垣の上にあるのは、右から東の丸、二の丸、本丸で、
明石城の主郭部を成す。
この部分の石垣・土塁・堀などの作事は、徳川幕府が担当し、
三の丸と町屋は、小笠原氏と徳川幕府の共同事業として進められたといわれ
徳川幕府が力を入れた城であることが分かる。 」
三の丸から本丸と二の丸へは石段を上る。
その周囲の石垣は美しく、高く積み上げられていて、勾配は美しく、隅部は算木積みである。
石段の巾は駕籠の巾に合わせたといわれ、普通より巾広いため、歩きずらかった。
石段の道は、S字になっている。
上の石段の両側は二の丸虎口で、
江戸時代には、 大の門 という楼門があったようである。
石段を上ると、二の丸跡で出た。
「 江戸時代には、二の丸、そして、右手にある東の丸に屋敷が建っていた。
今は樹木が茂る公園になっている。 」
二の丸から本丸に入るところに、本丸虎口があり、片側に石組の門跡を確認した。
虎口を入ると、本丸で、奥に巽櫓(たつみやぐら)が建っている。
巽櫓は、辰巳(南東)の方向にあることから、その名が付けられ、
桁行五間、梁間四間、高さ七間一寸、入母屋造で、妻部は東西に向いている。
「 本丸には、
巽櫓・坤櫓・乾櫓・艮櫓と、四基の三重櫓が築かれた。
坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられている。
また、築城と並行して、城下町の町割りも実施され、
当時小笠原忠真の客分だった宮本武蔵が指導したと、史書に記録されているという。
北東の艮櫓は、明治十四年(1881)、小学校の建築用材とするため、解体された。
北西の乾櫓も、明治三十四年(1901)に解体されたが、
その際、本丸南面を固めていた巽櫓と坤櫓は修理作業が行われた結果、
現存し、国の重要文化財に指定されている。 」
巽櫓の反対側に見えるのは、坤櫓(ひつじさるやぐら)で、その間に土塀が連なっている。
「 坤櫓は本丸の南西側に位置し、
初重に千鳥破風、二重目に唐破風が置かれた白漆喰総塗籠の端正な三重櫓である。
桁行は六間、梁間五間、高さ七間二尺九寸、入母屋根造、妻部は南北に向いている。
坤櫓と巽櫓の棟(破風)の方向が違っているのである。 」
平成七年(1995)の阪神淡路大震災で、 櫓の石垣が崩れるなどの大きな被害を受けた。
「
平成七年から八年、巽櫓と坤櫓の二棟の櫓を曳家で移動させ、
土台や石垣を修復して、平成九年、櫓を元の位置に戻し、
平成十一年まで軸組の補正や壁、屋根の修復作業を行った。
明治三十四年(1901)、傷んでいた本丸と二の丸そして本丸土塀が取り壊されたが、
上記工事に合わせ、巽櫓と坤櫓を繋ぐ本丸土塀を復元させた。
坤櫓は奇数月、巽櫓は偶数月の土日祝限定で、
一階部分だけだが一般公開されている。 」
天守台は、回りが樹木に覆われたところにあり、気がつかないで、通過しそうになった。
「 天守台は、坤櫓横の本丸南西部隅にあり、
熊本城天守台に匹敵する百五十二坪の大きさである。
天守は建設されなかった。 」
本丸跡には、乾櫓跡や艮櫓跡に案内板があったが、 本丸御殿だったところは、公園になっているだけである。
明石は、古来より山陽道が通り、北には丹波国・
但馬国への道が分かれ、また、対岸の淡路島を経由して、四国へのルートがあり、
交通の要衝であった。
徳川幕府が、西国大名の押さえとして、徳川四天王の一人・本多忠政の娘婿・
小笠原忠真を配置し、城を築かせたのは適任だったと思った。
彼が転封後、松平戸田氏・大久保氏・松平藤井氏・本多氏と、僅か五十年間に、
城主が目まぐるしく入れ替わった。
本多氏の転封の後、越前松平家の松平直明が六万石で入城し、
以後、十代、百八十九年間、松平氏の居城となり、
明治七年(1874)の廃城令により、廃城となっている。 」
本丸から西に下ると稲荷郭である。
本丸を出る両側に石垣があり、虎口の門があったことが分かる。
以上で、明石城の見学は終了。
「 明石城の遺跡としては、国の重要文化財に指定されている巽櫓と坤櫓、
そして、本丸・二の丸・東の丸を囲む石垣と、稲荷郭を囲む石垣だけである。
しかし、巽櫓と坤櫓とを結ぶ土塀を含めた風景は、
往時の明石城の美しい姿を彷彿させ、
また、徳川幕府の威信かけて築いた石垣が立派で、訪問する価値を高めていると思った。 」
明石城へはJR山陽本線明石駅・山陽電鉄山陽明石駅から徒歩約5分
明石公園は日本さくら名所100選に指定されているので、桜の時期は賑わうだろう。
訪問日 平成三十年(2018)十月二十七日、