播州赤穂は、赤穂藩三代目の浅野長短が起した江戸城松の廊下の刃傷により、
赤穂浪士が仇討をしたことで有名になった。
赤穂城は、熊見川(現在の千種川)河口の西岸に位置し、
南に瀬戸内海に面した海域で、変形輪郭式の平城である。
藩主が浅野長直の時代に、藩の軍師であり、甲州流軍学者だった近藤三郎左衛門正純が
縄張を行い、本丸と二の丸が輪郭式に配され、その北側に三の丸が梯郭式に置かれ、
十二の城門と十の隅櫓を築いた。
銃砲撃戦を意識した設計となっており、
十字砲火が可能なように稜堡に良く似た横矢掛かりが数多く用いられている。
赤穂城は、近世になって発達した軍学、兵法に従って縄張した城で、
本丸・二の丸・三の丸のすべての郭が残された貴重な近世城郭遺構であることから、
昭和四十六年(1971)に、国の史跡に指定された。
日本100名城の第60番に選定されている。
JR赤穂駅には、「 風さそふ 花よりもなお 我ハまた 春のなこりを いかにとかせん 」 という、
浅野内匠頭長短(ながのり)の辞世の句と、
赤脇源三重賢などの赤穂四十七士が壁に掲示されていた。
この壁画は、嘉永年間に、江戸の版元・丸居溝次郎が、出版した
「誠忠義士伝双六」 に描れた義士の討ち入り姿だが、
芝居と同様、姓名は実名とは変えているという。
駅前から赤穂城まで続く赤穂城通りには、赤穂四十七士一人一人の石碑が建っている。
赤埴源蔵重賢 の石碑には、
「、馬廻200石(譜代)、忠臣蔵では徳利の別れで有名。 亨年35歳 」 と、あった。
「加里屋」 の表示と、からくり時計のある交叉点には、
「↑赤穂城 花岳寺→」 の道標がある。
また、「百々呂屋裏大桝(旧赤穂上水道)」 の説明板が、歩道に埋め込まれている。
「 赤穂の城下は海が近かったので、地下水は使用できず、
元和二年(1616)に熊取川(現在の千種川)の七キロ上流から取水し、
城下まで引いて飲用水とした。
ここは城下町の北端で、
この場所には百々呂屋裏大桝と呼ばれる二間(約4m)四方の石組大桝があった。 」
花岳寺に立ち寄る。
赤穂城の西惣門だった山門がある。
説明板「花岳寺」
「 花岳寺は、初代赤穂藩主・浅野長直により、
正保二年(1645)、浅野家の菩提寺として、建立された。
元禄赤穂事件後は、歴代赤穂藩主 (永井家、森家) の菩提寺となった。
山門は、赤穂城の西惣門だったものを明治六年に当寺二十一世仙珪和尚が購入し、
移設したものである。
柱は、当時のものより約三寸短くなっていると思われ、建材は栂(つが)を主としている。
屋根は本瓦葺き、棟木と出桁が一支半継ぎたしされている。
高麗門の形式をとり、西惣門の遺構であるため、素朴無骨で武家門の風格を備え、
城郭附属建築として、史跡の価値のある貴重な門といえる。 」
門をくぐると右手にあるのが、鳴らずの鐘である。
「 梵鐘は、赤穂二代藩主長友が、父長直のために鋳造したものである。
三代長短の元禄十四年(1701)、浅野長矩は江戸城松之大廊下で吉良義央へ刃傷に及び、
これにより赤穂浅野家は三代で断絶した。
元禄十五年(1702)十二月十四日、家臣四十七人は吉良邸に討入り、
長短の無念をはらし、見事に自刃した。
この知らせが赤穂に届き、町民は四十六士の死を悲しみ、花岳寺に集まり、
この鐘を延々についた。
爾来、音韻を失すること五十年、「寛政九年改鋳」 と、梵鐘に銘記されている。
音韻を失している間、この鐘は誰がいうこともなく、鳴らずの鐘といっていた。
第二次大戦の時、義士との由緒深きことから供出を免れ、今日に至る。 」
花岳寺は、曹洞宗の寺院で、浅野家、永井家、森家の菩提寺であり、 本堂の裏には、その墓所と大石良雄の祖先が眠る大石家墓地がある。
「 赤穂浪士三十七回忌にあたる元文四年(1739)、
境内に有志により義士墓が建立された。
ここには遺髪が納められているとされる。
また、宝暦二年(1752)、赤穂浪士五十回忌にあたり、
大石良金(主税)と関わった藤江熊陽(ふじえゆうよう)の撰による碑文が刻まれた義士塚が建立された。 」
報恩堂の前に、野口雨情の詩碑がある。
「 野口雨情の詩碑は、昭和十四年に民謡行脚の道すがら、
四月十八日から三日間赤穂に滞在し、
詩作した十節よりなる赤穂民謡の冒頭の第一節、
「 春のあけぼの 花ならば桜 武士の鑑ぢや 赤穂義士 」
文字は雨情自筆のものを写刻したものである。 」
花岳寺を出て、南西に向う。
車道に出ると、「本町筋」 と書かれた道標があり、
「↑花岳寺300m、←赤穂城跡(塩屋門330m 180m赤穂城跡(大手門)→」 の表示があった。
道の向こうには水堀と石垣、そして、隅櫓の跡のようなものが見えた。
水堀の先は三の丸だったところである。
突き当たった堀を左折して、百八十メートル行くと、
駅前から来た赤穂城通りが交叉点で合流する。
その先には再建された隅櫓と大手門がある。、
「 大手門は、
三の丸に入る入口で、高麗門と楼門、枡形石垣で、構成されていた。
現在の大手門と三の丸隅櫓は、古写真を基に、昭和三十年(1955)に再建されたものである。
隅櫓の初重には唐破風付出窓が配されている。 」
道標 | 水堀 と 三の丸隅櫓跡 | 再建された大手門と隅櫓 |
大手門側にまわり、橋を渡ると、再建された高麗門がある。
「 大手門は、赤穂城の表虎口で、 石垣を方形に積み上げた枡形と高麗門・ 櫓門の二重の城門を構えた最も厳重な枡形だった。 」
再建された高麗門をくぐると、右折、左折、更に左折して進む。
「
枡形は 長辺十間(約20m)、 短辺六間(約12m)、 面積は234平行メートルである。
かっては、交際門の先に、幅四間半(約8.9m) 奥行二間(約4m)の楼門があったが、
今も両側に石垣が残っている。 」
その先にある案内所は番所跡である。
江戸時代には、門番として、足軽三名、下番二名が詰め、大手門の警護にあたっていた。
この一帯は三の丸跡である。
左側に、「近藤源八宅跡長屋門」 の説明板がある。
説明板「近藤源八宅跡長屋門」
「 近藤源八正憲(まさのり)は、甲州流軍学を修め、千石番頭の重職にあった。
源八の妻は、大石内蔵助良雄 (よしたか) の叔母にあたり、
大石家とは親戚関係にあったが、最初から義盟に加わらなかった。
彼の父は、甲州流軍学者で、赤穂城の縄張、設計をした近藤三郎左衛門正純である。
現存する建物は、長屋門の長屋部分である。
門部分は、 大石良雄宅跡長屋門の斜め向かいにあったと考えられ、
長屋部分を四戸分に分け、 それぞれ下級武士の住宅として使われていた。
現在は、その内の北端部の一戸と、その南隣の一戸の北端の一部が残されている。
この長屋門は、十八世紀以降に建てられたものと推察されるが、
当時は 総長二十一間半(約42m) の長大な長屋門だった。 」
右側にある大石邸長屋門は、 浅野家筆頭家老・ 大石内蔵助の一家三代が五十七年にわたり、 住んでいた、 大石屋敷の正面門長屋である。
「 門口約26.8m、奥行約4.8mの建物で、
屋根瓦には双ッ巴の大石家の定紋がついており、
元禄の昔に思いをはせ、 内蔵助の偉業をしのぶ唯一の建物になっている。
かっては、内蔵助と主税の父子が朝夕出入りし、
又、元禄十四年三月、主君の刃傷による江戸の悲報を伝える早打ちがたたいたのも、
この門である。
安政三年(1856)に大修理が行われ、 大正十二年に、国の史跡に指定された。 」
大石家住宅跡を右に右に曲がっていくと、 「片岡源五右ェ門宅址」 の石柱が建っている。
「 三の丸には、城を守りを兼ねて、家臣が住んでいた。
片岡源五右衛門高房は、浅野内匠頭長短と同年齢で、
児小姓頭から側用人となり三百五十石を与えられた。
元禄十四年(1701)三月十四日、内匠頭の登城に従い、
江戸城に赴いた源五右衛門は下乗で供待中、
主君の刃傷を知らされ、鉄砲洲上屋敷にとって返し、
藩邸留守居の諸士に、大事を伝え、事態の収拾にあたった。
田村邸において、切腹直前の内匠頭に拝顔、内匠頭も源五右衛門に気付いたが、
主従は共に声なく、今生の別れを惜しんだ。
討ち入りの時は表門隊に属し、宮森助右衛門、武林唯七と三人組合って、
真っ先かけて、屋敷内に踏み込み、朱柄の十文字槍をふるって戦った。
細川家にお預けののち、二宮新右衛門の介錯で、従容として切腹、行年三十七歳。 」
その先にあるのは、大石神社である。
「 明治三十年(1897)、大手門枡形の南側と北方多門が埋められ、
大正元年、討ち入りした四十七士を祀る神社として、創建されたのが大石神社である。
大石内蔵助良雄以下四十七義士命と、中折の烈士・萱野三平命を主神とし、
浅野長直・長友・長矩、赤穂浅野家三代の城主と、その後の藩主・森家の先祖で、
本能寺の変に散った森蘭丸ら七代の武将を合祀されている。 」
三の丸と二の丸の間に小川が流れている。
くずれかけた石垣の近くに、「二の丸門跡」 の説明板があり、
その奥に、かんかん石 といわれる、二つの大きな石がある。
説明板 「二の丸跡・かんかん石」
「 浅野長直に仕えて赤穂に滞在した軍学者・山鹿素行が、築城工事中の承応二年(1653)、
この門周辺(二之丸枡形虎口)の縄張を一部変更したとされる。
二の丸の面積は、一万七千二百五十九坪、二の丸門は櫓門で、
桁行四間半、梁行二間、口幅三間一歩、高さ二間、建坪九坪である。
長直の招きで、一千石の厚遇で江戸の藩士に兵学を教えていた山鹿素行が、
三十二歳の時、赤穂に七カ月滞在して縄張りについて助言。
これにより、二の丸周辺の手直しがされた。
それまでは一重の堀に囲まれた掻上城(かきあげじょう)という質素なものだった。
素行は、後日、幕府の御用学問であった朱子学を批判したことで流罪になり、
この赤穂城内に住んだ。
また、文久二年(1862)十二月九日、赤穂藩森家の国家老・森主税が、
藩士達に暗殺される文久事件の舞台になったのは、この付近である。
ここに置かれている半畳ほどの二つの大きな石は、
小石でたたくとかんかんという音をたてることから、 かんかん石 と呼ばれる。 」
その先左側の奥まったところには、「山鹿素行」 の銅像が建っている。
説明板 「山鹿素行」
「 山鹿素行は、江戸時代の兵学者、儒学者として名高い。
承応元年(1852)から万治三年(1660)の間、赤穂藩主、浅野長直に千石で召抱えられ、
承応二年には赤穂城築城に参画して、二の丸虎口の縄張を一部変更し、家中に兵法を指南した。
その後、寛文五年(1665)に、「聖教要録」が幕府の忌諱に触れ、
翌年から延宝三年(1675)まで赤穂に配流され、
二の丸内の家老大石頼母邸の一隅に謫居した。
この間に、素行の学問を代表する著書が完成したとされる。
この銅像は、大正十四年(1925)に謫居した跡地に建立されたが、
平成十年に現在地に移された。 」
道を直進し、左折すると、左側に 「大石頼母助(おおいしたのもすけ)屋敷門」 の説明板がある。
説明板 「大石頼母助屋敷門」
「 二の丸には、二之丸庭園をはじめ、馬場や米蔵などがあった。
大石頼母助良重は大石内蔵助良雄の大叔父にあたる人物で、家老職にあった。
藩主浅野長直(ながなお)に重用され、二の丸に屋敷を構え、その妻は長直の娘を迎えた。
山鹿素行が赤穂に配流された際、この屋敷の一角に八年余りを過ごしたという。
この門は、発掘調査で発見された土塀の基礎石列、建物礎石などに基づき、
平成二十一年に薬医門形式の屋敷門を復元したもので、
一間一戸潜戸付薬医門で、木造、切妻造、本瓦葺きである。 」
屋敷門をくぐると、視野が広く広がり、「二之丸庭園」 の看板があった。
「 二之丸庭園は、二の丸北西部にあった大規模な回遊式庭園で、
東は大石頼母助屋敷から始まり、西は西仕切りまで及ぶ、ひょうたん形の雄大なものだった。
山鹿素行も頼母助屋敷の一角に寄寓生活を送った時に、この池泉で遊興したとされる。
発掘調査の結果を受け、二之丸庭園は本丸庭園とともに、
国の景勝に指定され、現在復元工事が行われている。 」
二の丸と本丸の間に、本丸門があるが、本丸門から左右に水掘が続いている。
本丸を囲む石垣は、折れまがった形状を多用し、横矢掛りが出来る構造になっている。
これが、赤穂城の特色で、甲州流軍学を取り入れたものである。
本丸門は、平成八年に、古写真を基に復元されたものである。
「 赤穂城の本丸門は、高さ四・六メートルの左前枡形の石垣と、 脇戸付櫓門・入母屋造・本瓦葺の一の門と、 小戸付高麗門・切妻造・本瓦葺の二の門で、構成されていて、 明治十年代に取り壊されるまで、約二百三十年間建っていた。 」
「 櫓門の下に、日本100名城のスタンプが置かれている(9時〜16時30分)
なお、日本100名城のスタンプは
赤穂市立歴史博物館(赤穂市上仮屋916−1 0791―43―4600)にも置かれている。 」
目の前に広い空間が広がっているのが、本丸跡 である。
「 本丸の面積は約一万五千uで、
その三分の二は、屋敷・番所・倉庫などの建物と天守台・池泉などで、
残る三分の一は、くつろぎ とよばれる場所だった。
本丸御殿は、右手(西)から、 大部屋を主とする表御殿、 中奥 、
小部屋を主とする奥御殿に分れていた。 」
「表御殿跡」 の表示があるところには、コンクリート盤の上に、、 番所・納戸間・内玄関などの部屋の間仕切りが表示されている。
「 これは、永井家の赤穂御城絵図を基に
昭和五十八年(1983)から行われた発掘調査の結果を反映させた建物跡の表示である。
表御殿は、藩主が政務を行う場所で、
大書院と小書院、藩主が使う上之間があり、広間は使者との間と組み合わされて控室となり、
その他、勘定所や上台所が加わり、藩庁として使用されていた。
御殿内部の坪庭や右(西)側の縁側の外に、「くつろぎ」 と呼ばれた池泉庭園があった。
左半分は奥御殿で、中奥と大奥に分れ、中奥には藩主が住む居間や寝室があり、
中台所があった。
<奥御殿は、藩主の寝室と五部屋と台所からなり、
その内二部屋は風呂と便所が備えられていた。
藩主が住む本丸では庭の水の他、
生活用水はすべて約七キロ上流から取水された旧赤穂上水道によって賄われたという。 」
中奥の縁側の先には、池泉式庭園があったことが、説明板に表示されている。
説明板 「国名勝 赤穂城址本丸庭園 大池泉」
「 元禄期の絵図によれば、 本丸庭園は藩主御殿と隣接して、
築山を背景とした方形の池泉があり、
中島内にソテツや松が植えられて、 八つ橋が掛かる景観を見せていた。
池泉の東側にあった藩主の居間(十七畳半)には、縁側の先に白砂が敷かれ、
庭を眺めることができた。
江戸時代後期に改変された池泉周辺には塀が設置されていた。
赤穂城内水筋図には旧赤穂上水道を使った給水ルートが描かれており、
南側の本丸外堀へと排水された。
この池泉は、昭和五十九年(1984)の発掘調査によって全容が明らかになり、
見つかった遺構をそのまま活用して、浅野、森時代の庭園を復元整備したもので、
平成十四年(2002)には国名勝に指定された。 」
奥御殿の左側に、天守台がある。
五層天守の造営も計画されていたが、幕府への遠慮か財政難の為か造営されず、
天守台のみが今日に残っている。
天守台に上る石段は途中で終わり、その先は鉄製の階段になっていた。
天守台から下の本丸を眺めた。
「 赤穂藩は、浅野家三代目浅野長矩の刃傷により、改易後、
永井直敬が藩主になるが、信濃国飯山藩へ転封となり、備中国西江原藩より、
森長直が二万石で入部した。
森氏は廃藩置県までの十二代百六十五年間、赤穂藩主を続けた。
赤穂城は廃城令により、明治時代前期に城内の建物は破却され、
石垣と堀のみが残った。
昭和中期から平成にかけて、櫓・門・塀・庭園が徐々に再建され、
現在も二の丸庭園の再建が進められている。
浅野長矩の弟の長広は、元禄七年(1694)、播磨国赤穂郡の新田三千石を分与され、
旗本の寄合に列した。
元禄十四年(1701)、長矩の江戸城中での吉良義央に対する刃傷事件により、
浅野氏改易となると、連座した長矩の弟・長広は、
赤穂新田三千石の所領をいったん召し上げられだが、
宝永七年(1710)、長広は、安房国朝夷郡、平郡五百石に移され、
減封となったが旗本に復した。
長広のあとは嫡男の長純が家督を受け継ぎ、
長直系浅野氏の子孫は安房国で存続している。 」
以上で、赤穂城の見学は終了した。
赤穂城へはJR赤穂線播州赤穂駅から徒歩約15分
訪問日 平成三十年(2018)十月二十六日、