篠山城は、徳川家康が、慶長十四年(1609)に、
豊臣氏の居城・大坂城の包囲と、豊臣氏ゆかりの西日本の大名を抑えるため、
山陰道の要衝地・篠山に、天下普請で築いた城である。
築城工事は、西日本十五ヶ国二十諸侯の大名に命じて行われ、
縄張奉行は、築城の名手・藤堂高虎、築城総奉行は池田輝政で、
約八万人が動員されて進められ、六ヶ月で城壁が、
一年足らずで建物が完成した。
最初の城主は、篠山藩五万石・初代藩主・松平康重である。
日本100名城の第57番に選定されている。
篠山城の最寄り駅は、JR福知山線篠山口駅である。
篠山口駅東口からバスに乗り、二階町バス停で降り、南に五分程歩くと、青山歴史村がある。
「 篠山城は、篠山盆地の独立丘陵・篠山に。築城された。
中心部に、本丸と二の丸、内堀の外に、三の丸が輪郭式に取り囲み、
その外を一辺約四百メートル四方のほぼ正方形の外掘で囲んだ。
外堀の三方には、出入口としての馬出(うまだし)を設けた。 」
目の前にあるのは外掘(北堀)である。
ここは、江戸時代には馬出(うまだし)があったところである。
「 、馬出は、城の虎口(出入口)の前面に、
防御と出撃の拠点となる施設をもつ曲輪を構えたものである。
半円形のものが丸馬出、方形のものを角馬出と呼ぶ。
篠山城の馬出は、外掘の外に、四角に飛び出した角馬出で、
篠山城には大手馬出の他、東馬出と南馬出と三つあった。
ここは壊されてしまっているが、他の二つは残っている。 」
堀を渡ると、三の丸広場で、左右に駐車場がある、かなり広い広場である。
「 江戸時代には、楼門の大手門があり、門をくぐると三の丸であった。
当日は近くの施設からNHKののど自慢が放送されるとあって、
駐車場にぞくぞく車が集まってきていた。 」
道を直進すると、正面に石垣、その先に大書院が見え、
手前に「史跡篠山城跡」 の大きな標柱と、篠山城の説計板が建っている。
ここは、江戸時代には北廊下門があったところである。
「 江戸時代は、北廊下門をくぐると、
内掘に屋根付きの廊下橋が架かっていて、対岸の二の丸石垣上の表門に繋がっていた。
現在は、廊下櫓の代わりに、土の上に敷石道が設けられている。 」
内掘には、藤堂高虎ならねばという、かなり広い巾の犬走りが設けられていた。
「 石垣は、近江(滋賀)の穴太衆による、自然石をあまり加工しないで積む、 野面積みと算木積み という工法で築かれている。 」
その先の二の丸石垣の一端に、二の丸へ入る 「表門跡」 の標柱がある。
「 江戸時代には
櫓門形式の表門があり、両側の石垣の上には多聞櫓があり、敵の襲撃に備えていた。
門に入った右側の石垣には階段が付いている。
そこから楼門の表門上に出入りしていたのだろう。
正面を見ると、石垣は右に直角に曲がっている。
これは枡形という構造で、優位に横矢を掛けるための工夫により生まれたとされる。
その先の門を思わせる石垣は、中門跡である。
これも楼門形式の門で、その先は左に直角に曲がる枡形構造になっていて、
石垣の上には多聞櫓が続いていた。
中門の先にあったのは鉄門(くろがねもん)で、今は木の門になっているが、 かっては楼門という形式で、 門扉には鉄板が張られた頑丈な門で敵の侵入を守っていた。
石垣には、天下普請で担当した藩の石工などが刻んだ刻印がある石を見付けることができた。
その先に見えるのは、平成十二年(2000)に、復元された大書院である。
「 大書院は、 慶長十四年(1609)の篠山城築城とほぼ同時に建てられ、
約二百六十年間に渡り、 篠山藩の政治の中心として、 藩の公式行事などに使用された。
大書院は、木造住宅建築としては非常に規模が大きく、
現存する同様の建物の中では京都二条城の二の丸御殿遠侍に匹敵する建物である。
二条城の御殿は、将軍が上洛した時の宿所となった第一級の建物ということから、
大書院は、一大名の書院としては破格の規模と古式の建築様式を備えたものといえる。
明治維新の廃城令後、城内のほどんどの建物がとり壊された中で、
篠山を象徴する建物としてただ一つ・大書院だけが残され、
小学校や女学校、公会堂などに使用されてきたが、
昭和十九年(1944)に、火災により、焼失した。 」
現在の建物は、古絵図・古写真・発掘調査などを基に、 平成十二年(2000)に、復元再建したものである。 」
「 復元された建物は平屋建てで、妻側(北側)を正面とし、
床面積739.33u、棟高12.88mで、屋根は入母屋造、こけら葺きである。
東北隅に中門、正面に車寄せ、その屋根は軒唐破風が付いている。
内部に襖絵に囲まれた八つの部屋があり、その周囲に広縁が、
その外側には落縁が一段低く設けられている。
100名城のスタンプはここの受付横に置かれていた。 」
大書院の右側に井戸がある。
この井戸は城北の玉水が流れ出た水を汲みとり、
夏の日でも枯れたことがないという。
大書院の裏に廻ると、広い空地が広がっていた。 二の丸跡である。
「 二の丸には、前述の大書院の他、小書院・中奥御殿・奥御殿・
台所などの建物と、築山をもつ庭園があった。
発掘調査の結果を基に、建物の敷地が表示され、二の丸庭園も表示されていた。 」
右手奥の庭園だったところには、井戸があった。
二の丸奥の中央に、江戸時代には埋門があり、この門を出ると南門、 そして南馬出に通じていた。
「
二の丸の四隅には隅櫓があり、
それをつなぐ多聞櫓で、二の丸全体は守られる仕組みになっていた。
二の丸奥(南)の中央に埋門があり、埋門の上には多聞櫓があった。
埋門は非常時には門を埋めて、敵の攻撃を遮断することができる門である。
門の下の石垣には普請総奉行・池田輝政の刻印が残る石がある。 」
篠山城の本丸は二の丸の左(東)側に、連郭式で築かれていた。
二の丸の左(東)側に、一段高く石垣が組まれているのは、本丸石垣である。
「 本丸の周囲は、天守台と南西隅・北西隅・北東隅の三ヵ所に、 二重の隅櫓を建て、間を多聞櫓でつないでいた。 」
石段を上った先に青山神社の社殿があるが、この一帯は篠山城の本丸跡である。
「 築城当初は、現在の二の丸が本丸、
現在の本丸は南東の隅に天守台が造られたことから、
殿守丸(でんしゅまる) と呼ばれていた。
二の丸には、二の丸御殿が置かれたが、本丸には建物は建てられなかった。
本丸内の北側中央にある一の井戸は岩盤を掘り抜いたもので、
深さ十六メートル、内水深さ八メートルで、掘るのに二年かかったと伝えられる。
青山神社は、藩主・青山家の旧恩を追慕する人々が、
明治十五年(1882)に本丸跡に創建した神社で、
祭神は青山家の遠祖・青山忠俊と名君の青山忠裕である。
(注) 篠山の歴代城主は、初代藩主・松平康重以後、
松井松平家一代、藤井松平家二代、形原松平家五代、
青山家六代と、いずれも徳川譜代の有力大名に引き継がれ、明治維新を迎えている。
」
青山神社の右手奥に天守台がある。
「 天守台石垣は、本丸内側の高さは約四メートルだが、 外側の南側と東側の犬走りからの高さは、十七メートルで、 篠山城で最も高い石垣である。 」
天守台の上に上る。
天守台の平面は、東西十八メートル、南北二十メートルである。
「 築城時、天守台は完成したが、徳川家康の判断で、
天守の建設は中止された。
天守は、
城郭が堅固すぎるとの理由で、中止されたが、
代わりに、天守台南東隅に、二間(4m)四方の一重の隅櫓を配置し、
東側と南側に土塀を巡らせていた。 」
天守台からの見晴らしは良かった。
「
東方には、丹波富士 と呼ばれる中世の山城である、高城山(八上城跡)が美しい姿を見せる。
下を見ると、木で覆われてよく見えないが、かなり急な高石垣であることが分かった。 」
これで城を見学は終了し、三の丸広場に戻る。
二階町には、「伊能忠敬笹山領測量の道」 の石碑がある。
「 六日曇、早朝より東岡屋村に向け出発。 十日午後笹山城下二階町に着、止宿は同前、夜晴れ、
天体観測。 十一日曇、早朝より五日に打止めの丸に二の印杭より始め、呉服町、立町、河原町、京の口門番所、
大芋川の京橋二十間を渡る 」
とあった。
篠山城には、天下普請で築かれた高石垣と水堀が遺跡として残るだけだったが。 バス停から城までの道沿いには、飲食店やお店があり、気楽な観光にはよいだろうと 思った。
篠山城へのJR福知山線篠山口駅からバスで二階町で下車、徒歩約5分
訪問日 平成三十年(2018)六月十七日