池田輝政が築いた姫路城は、
徳川家康が豊臣秀頼の住む大坂城を監視するため計画された天下普請の城で、
西国大名の進攻に備えた実戦的な縄張りの城である。
白い姿から白鷺城の名を持ち、
第二次大戦の姫路空襲にも耐え今日まで残った奇蹟的な城で、
平成五年に世界遺産に登録された。
また、日本100名城の第59番に選定されている。
姫路城へは、JR姫路駅からバスで行けるが、歩いても十五分程で、桜門橋に到着した。
説明板があり、橋の先に大手門がある。
説明板「姫路城の大手門と桜門橋」
「 姫路城の大手門は、本来三重の城門からなり、
城内では最も格調が高くかつ厳重な門だった。
現在、大手門と呼んでいる大型の高麗門は、昭和十三年(1938) 完成したもので、
位置や大きさは江戸時代のものとは全く異なっている。
また、大手門前の内掘には、桜門橋という木造橋が架けられていた。
今回復元した木造橋は、発掘調査で出土した遺構を活かしながら、
江戸時代の木橋をイメージして、
平成十九年(2007)に築いたものである。 」
大手門をくぐると三の丸広場で、正面に姫路城のその雄姿が展望できるスポットになっている。
三の丸から二の丸に入る門は、 菱の門 と呼ばれる櫓門である。
「 現在は、正面登閣口から入って最初に通る門で、
西側にある石垣と土塀で枡形虎口を形成し、
門の片側が石垣に乗る変則的な櫓門で、
西側部分に、番所詰所、東側部分に馬見所がある。
城内の現存の門では唯一、柱、舟肘木、長押を表面に出した、真壁造りで、
安土桃山時代の意匠を残している。
櫓二階部分の中央に、黒漆と金箔で装飾された格子窓と、両側に同じ装飾の火灯窓、
その右手に庇出格子窓がある。
門名は、冠木に木製の花菱模様が装飾されていることや、
築城以前に流れていた菱川に由来する。
菱の門の大きな門扉の左手(西側)に、潜戸をつけている。
普段は、この戸から出入するので、戸の左側に番所があって、門番が監視していた。
門は、城主が天守に登るような時にしか使用されず、
城主がこの門で駕籠などの乗物を降り、あとは徒歩となった。
そうした場合は、この門の出入りを厳重にして、姫山を警備する必要があった。 」
門をくぐった先にあったのが、三国堀である。
「 三国堀は、姫山と鷺山の間にあった谷を利用して作られた捨て堀で、 輝政の所領だった、播磨・淡路・備前の三国に由来する。 姫山と鷺山から流れた雨水を濾過する役割があったとも、 秀吉の時代は空堀であったともいわれている。 」
二の丸は、秀吉時代の縄張りを活かした雛壇状の作りになっており、
通路は迷路のように入り組んでいる。
内曲輪の通路は、迷路のように曲がりくねり、広くなったり狭くなったり、
さらには天守へまっすぐ進めないようになっている。
門のいくつかは一人ずつ通るのがやっとの狭さであったり、
また、分かりにくい場所、構造をしていたりと、
ともかく進みづらい構造をしている。
これは、防御のためのものであり、敵を迷わせ分散させ、
袋小路で挟み撃ちにするための工夫である。
三国堀を右に見て直進すると行手に見えてくる小さな門が、「いノ門」 である。
「 これは城内の門としては小さくて貧弱な門だが、
敵を直進させるためにわざと貧弱な門にしているのではないか、と疑う程の高麗門である。
なお、高麗門は高麗(朝鮮)から伝わったというわけではなく、我が国のオリジナルで、
秀吉の慶長文禄の役の前後に考え出された建築スタイルだったため、
高麗門と名付けられたようである。 」
いノ門をくぐって中に入ると、正面にまた同じような 「ろノ門」 が見えるが、 右手に進むと井戸がある。
「 姫路城には、往時、内曲輪 (桜門より内側) 内に、
三十三ヶ所の井戸が掘られ、
現在でも十三ヶ所が残っている。
ほとんどの井戸は水が枯れているのに、この井戸は今でも水をたたえ、
水深が二メートルもあるという。 」
そのまま塀沿いに進み、塀の狭間から覗くと、三国堀が見えるので、 三国堀に落ちた敵兵をここからだと余裕を持って狙えそうである。
視線を正面の高い石垣に転じると、四角く飛び出した石垣がある。
これは、江戸時代に石垣が前方に膨らんできたので、
崩壊を避けるために抑えとして後で積んだ石垣である。
ここでUターンして、「ろノ門」 に戻る。
「ろノ門」 も、いノ門と同じく、高麗門である。
ろノ門そのものの攻略はさほど難しくないが、
ろノ門の右側に伸びる白塀に鉄砲狭間や弓狭間があり、
門に辿りつくまでに、右斜め、上方からの矢と銃弾の雨にさらされることになる。
ろノ門をくぐると、その先に三叉路があり、道は二手に分かれる。
右は、クランク状に塀を回り込むと上り坂で、天守への道である。
ここまで敵が攻め寄せたら、
さきほどまでこの坂道の白塀の狭間から射撃していた兵と白兵戦に及ぶことになる。
左手の登り坂は、西の丸へのもうひとつの入口で、
防御側の兵を坂の上に駐留させておけば、
天守目指して右手の坂を駆け上がろうとする敵の背後から襲うことが可能である。
この坂は、松平健主演のテレビ映画 「暴れん坊将軍」 シリーズに、
江戸城内のシーンとして度々登場したことで、将軍坂という別名がある。
大手道を行くと、左側の分厚い白壁の塀は狭間がある美しいもので、 「はノ門南方土塀」 と書かれている。
両側から狙われている狭い道を進むと、その先にあるのは 「はノ門」 である。
この門は秀吉時代に建設されたものを輝政がそのまま使っているのではないか、
と言われ、控え柱には、当時の大工道具である 「ちょうな」
の削り跡がくっきりと残っている。
「 はノ門は、いノ門やろノ門とは違って、
防御力が格段にアップした門の形式の楼門で、
両側の石垣の上に櫓がある形式の門である。
階上の櫓は、両側の石垣の上に乗っているように見えるが、
両側の柱によって支えられ、自立していて、
敵が攻め込んだ時には、扉を閉めて両側の石を崩し、
石で門内のスペースを埋めてしまう構造になっている。
そのため、門内はすぐ登り階段になっていて、
扉の内側に石で埋めることのできる空間を確保している。
また、櫓の窓からも容赦ない攻撃が浴びせられ、門の天井の櫓の床下をはずして、
槍を突き下ろすこともでき、はノ門は鉄壁の守りを誇っているのである。 」
はノ門 の足元に、「石燈籠の基礎」 という説明板があり、 門の下から一部が姿を出していた。
説明板「石燈籠の基礎」
「 姫路城では姫山やその周囲にあった寺から墓石や石仏、
古墳の石棺などの石造品が石垣や建物の基礎に転用されている。
「はノ門」 では、礎石に六角形に加工された石材が転用されている。
これはもともと石燈籠の基礎として使用されていたものである。 」
はノ門を入ったところに広がる空間は、「乾曲輪」 と呼ばれている。
天守から見て、乾(西北)の方角にある曲輪だからで、
菱の門から始まった二の丸の一番奥まった部分が、この乾曲輪である。
石段(階段)を登る。
石段(階段)を登ると、高くそびえる石垣と建物がある。
この建物は、次の 「にノ門」 の上階の櫓(にの門櫓)なのだが、
その一階の屋根は、優美にカーブしている、唐破風(からはふ) である。
建物の下の空地に、「十字紋の鬼瓦」 の説明板があり、 鬼瓦には、十字のマークがある。
説明板「十字紋の鬼瓦」
「 にの門櫓(右の二階櫓) の唐破風屋根に乗っている鬼瓦には
十字紋が彫られている。 キリシタンの名残りとか魔除けともいわれるが、
日本の城では珍しい紋である。
なお、この櫓の南面と東面の鬼瓦は波しぶきが彫られている。
これは火除けを祈ったものと思われる。 」
「はノ門」 の石段を上がると、天守への道は右の方向だとはわかるが、 その先でさらに道が左右に分かれている。
「
左の道は正面を高い石垣に阻まれて、一見行き止まりのように見える。
そのため、攻め手は右側のゆるやかにカーブした壁沿いに道を進むと、
この道はその先で徐々に狭まって袋小路になっていき、
右手の塀も途中で途切れ、いきなり高い石垣の崖上に出る構造になっている。
現在は見学順路のロープが張られて右のほうには行けなくなっているので迷うことはないが、
姫路城の優れた縄張の妙が見られる場所である。 」
天守へは、一見行き止まりのように見える左の道をUターンして、細い坂道を登る。
天守が目の前だというのに、天守を背にして登るのは攻め手としては不安に駆られることだろう。
その先に、にノ門があるが、 細い登り坂になっていて、長い縦隊になって進むしかなく、 右手頭上の塀と正面のにノ門からはさらに激しい射撃が浴びせられ、 全滅の危険が増すという仕掛けになっている。
その先にあるのが穴蔵構造の「にノ門」である。
「 にノ門は、城内屈指の防御力、攻撃力を誇る櫓門で、 門は門柱、冠木、大戸からくぐり戸まで一面鉄板で覆われている。 頭上には三棟の櫓が複雑に折れ重なり合い、 門の内部は低い天井の穴蔵を右に曲がりながら階段を登るという構造である。 穴蔵で攻め手が一気に攻めるのを止めると共に、 階上の櫓の床板をはずせばそのまま門内を通過しようとする敵兵の頭上に、 槍を突き立てることができるようになっている。 寄せ手の軍勢を最終的にここで殲滅することを意図した縄張りと建築であるといえるだろう。 」
「にノ門」 を抜けて出た空間は、「二の丸腰曲輪」 と呼ばれている。
本丸はここから始まり、天守が目の前に迫ってくる。
順路に沿って進むと、埋門の 「ほノ門」 がある。
「 埋門(うずみもん)には、
石垣上の土塀の下の一部を切り取って門とする方法と
石垣そのものに穴を開けて通路としてそこを門とする方法がある。
ほノ門 は、前者の石垣上の土塀の下の一部を切り取って門とする方法を採用している。
門扉は、にノ門と同様、総鉄板張りになっていて、
敵が来ると門の内側から石などで通路をふさぎ、門自体をなくしてしまうことで、
敵からの攻撃を防ぐようにできている。 」
ほノ門をくぐると、右側(写真では左側上部)にある壁は、通称 「油壁」 と呼ばれる築地塀である。
「 油壁は、高さの違う塀と塀に挟まれる形で、
板張りの側面をこちらに向けている。
真白な漆喰塗籠めの壁が続く姫路城の中にあって、
この茶色い壁はひときわ異彩を放っている。
この土壁は、山土に豆砂利を加えて、もち米の研ぎ汁やおかゆなどを練り合わせ、
土を仮枠の中で叩き締めて築いたもので、かなりの強度がある。
この工法からみて、池田輝政時代より古く、
秀吉時代の時代のものが残されたといわれている。 」
石垣に金網があり、その中に石臼が半分見えるのは 「姥ヶ石」 である。
説明板「姥ヶ石」
「 石垣の上方に欠けた石臼が間詰めの石として積まれている。
これは姥ヶ石と呼んでいる。 羽柴秀吉が姫路城を築くときに石集めに苦労していた。
城下で餅を焼き売っていた貧しい御婆さんはそのことを聞き、
使っていた石臼を寄付した。 秀吉は喜んで石臼を使った。
この話はすぐに広がり、国内からたくさんの石が寄付され、
築城工事が急速に進み、立派に完成したという。
姥ヶ石が積まれた石垣は、池田輝政が築いたものなので、この話は伝説である。
その他には、御婆さん (姥)は妊娠いない(孕まない) ことにかけて、
石垣も孕まないようにとのお呪いで積まれたという説もある。 」
この後、天守入口に至るまで、「水」 の名前を持つ門が、六門まで続く。
「 ほノ門を入ると、左手(北側)の多門櫓(ろノ渡櫓)内に、 井戸がある。 天守に籠城となった時、この井戸から汲んだ水をこれらの門を通って天守に運ぶことから、 水の名が付き、水ノ一門から五門までの細長い区域を 「水曲輪」 と呼ばれた。 」
ほノ門を上り、天守台の石垣に沿って行くと道は二つに分かれる。
順路に従い右に大きくUターンすると、「水ノ一門」 に出る。
左に多門櫓を見ながら直進する方法もあるが、大天守へはこちらが近道である。
水ノ一門の右側には、油壁が袖塀として、門の屋根の高さより高くそそり立て、 左側には天守台の石垣がある。
「 水ノ一門は、
両側の鏡柱に冠木を渡して切妻屋根をかけただけの簡単な門(棟門という形式の門)である。
棟門を城に使うのは珍しいそうで、姫路城ではこの水ノ一門と次の水ノ二門、そして、
ちノ門の三つしかない。 また、城門としては珍しい片開き扉である。 」
水ノ一門をくぐり、左側の天守台の石垣の角に沿う形で左折すると、 目の前に水ノ二門が現れる。
「 水ノ二門も水ノ一門と同じ形式の棟門で、 桁行(横幅)は両方とも一間四尺(約3m)程の小さな門である。 水ノ一門が片開き扉だったのに対し、水ノ二門は両開き扉となっている。 」
水ノ二門をくぐると、門に付随するように西側に建てられている櫓(にノ櫓)が、 カギ型に折れているのが分かる。
「
二門のところで通路を狭くするように櫓を張り出して設計し、
門はできるだけ小さくして、寄せ手が多く侵入するのを遅らせるようになっている。
また、頭上の小天守と渡櫓からの狭間から鉄砲や弓矢が敵兵に降り注ぐ設計になっている。
現在、「にノ櫓」 と呼ばれている単層で、カギ型に折れている櫓は、
この他、姫路城のへノ櫓(太鼓櫓) の二例のみという珍しいものという。 」
その先は水ノ三門だが、道が下り坂になっていることに気付いた。
菱ノ門から上り坂を登ってきたが、水ノ一門をくぐったところから、
緩やかな下り坂になっている。
この下りは、水ノ三門の前まで、幅広の下り階段となってさらに続く。
天守閣に一番近いこの道を進む敵は下り坂であることから、道を間違えたと思いこみ、
混乱が生じることを計算した仕組みである。
「水ノ三門」 は、ほノ門と同じく、土塀の下の石垣を一部切り抜いた形の埋門である。
「 扉の横幅は一メートル五十センチしかない小さな門で、
高さも身をかがめないとくぐれないほどなので、
具足を身に着けた兵は一人ずつしか門を通れないだろう。
門に入ると九十度左折する形で上り階段になっているので、
敵が侵入する前に扉を閉め、廻りの石垣を崩して階段を石で詰めてしまえば、
敵の侵入を防ぐことができる構造になっている。 」
水ノ三門をくぐり、階段を登り切ると、視界がぱっと広がり、 城の中枢、天守が目前である。
「 池田輝政は、新しい天守を建てるため、 羽柴秀吉が天正八年(1580)に建てた三重の天守を解体して、 用材は乾小天守に転用されたと、伝えられる。 」
この空間は狭い。
ここは直進すると天守閣、右折すると、下(広場)に降りていく通路が設けられている。
「 この通路は後世に作られたもので、 往時は、広場(備前丸) に面した櫓が建っていて、ここはその壁で閉ざされた空間だった。 」
そのまままっすぐ突き当たり、右に九十度折れると 「水ノ四門」 がある。
「 水ノ四門も、土塀の下に設けられた埋門で、 門内はすぐに上り階段で、また、門内には石を詰める空間がある。 敵兵は水ノ四門に向かうと、西小天守を完全に背後に回すことになり、 背後から攻撃されることになる。 」
水ノ四門に入るとすぐに左折して、上り階段を登ると、さらに左折する。 すなわち、四門正面からは左にUターンする形で、 やっと、天守エリアの入口である 「水ノ五門」 に向くことになる。
ここの縄張りは、四門(外側) と 五門(内側) の門で、枡形を形成している。
「 水ノ五門は、天守の入口で楼門になっていて、
中に、水ノ六門があり、水ノ五門を外側、水ノ六門を内側の門として
枡形を形成している。
即ち、水ノ四門から水ノ六門まで二重枡形になっていて、
天守への完璧な防御体制を築いている。 」
本丸北側の水の五門をくぐると、内庭に出て、池田輝政により、 慶長十四年(1609)に建てられた天守閣に到着する。
「 天守閣は、五重六階・天守台地下一階、計七階の大天守と、
三重の小天守三基(東小天守・西小天守・乾小天守)と、
各天守の間を二重の渡櫓で結ぶm,連立式天守である。
その大きさと華麗なる姿に圧倒された。
大天守の外観は、最上部以外の壁面は大壁塗りで、
屋根の意匠は複数層にまたがる巨大な入母屋破風に加えて、
緩やかな曲線を描く唐破風(からはふ)、山なりの千鳥破風(ちどりはふ)に、
懸魚が施され、多様性に富んでいる。 」
天守の中に入る。
大天守の地下は。東西約十一間半、南北約八間半の大きさで、 穴蔵 と呼ばれ、
簀の子の流し台と台所を付属させ、厠が三ヶ所設置されていた。
大天守の心柱に 「西大柱」 のプレートが付けられていた。
「 大天守の心柱は、東西方向に二本並べ、地下から六階床下まで貫き、
太さは根元で直径九十五センチ、高さは二十四・六メートルの木材が使用された。
東の大柱の目通りは十尺、末口は五尺三寸の杉木材で、
西大柱も同様の木材だが三重目(三階床下付近)で、松に継いであり、
根元から二尺に継ぎ目に補修した 「貞享保四年丁卯の六月」 の墨書きがある。
その他の柱用材は、欅、松、犬桜など、堅い樹種を二寸角にして使用している。 」
大天守の一階は東西約十三間、南北約十間である。
西側に、 西小天守と接続するニの渡櫓があり、北側には、 東小天守と接続するイの渡櫓、 がある
大天守一階で、二の渡櫓へ入口になる鉄板鋲打ちの扉があるを確認できた。
説明板
「 大天守一階と二の渡櫓を結ぶ扉で、
火災と防備を兼ねた役割を担っていた。
大天守に入る扉は、四ヶ所すべて二重扉になっていたが、そのうちのひとつである。
内側の門は片側に潜り戸が設けられ、
両扉とも内側からカンヌキがかけれるようになっている。
また、潜り戸の大きさは刀を差したままでは通れないサイズになっている。
また、天井に渡された梁には肘木を添え、荷重を分担させている。
こうした肘木は大天守では一階のみで見られる。
六葉釘隠しは長押などに出ている釘の頭部を隠すための装飾で、
六枚の葉をデザインしていて、
葉と葉の間に猪目と呼ばれるハートの隙間ができている。 」
二階は、 一階とほぼ同様の構造で、地下から二階は身舎の周りに武者走りを廻し、 鉄砲や槍などが掛けられる武具掛が付けられている。
「 武者走りは、身舎の外側を囲う廊下で、戦闘時は武士が行き交い、 敵兵に射撃を浴びせることを目的に造られたもので、 大人が五人横になっても余裕で歩ける程の幅があるが、 当時は、鎧兜に刀を身に着けた侍が二人横並びで 走れる幅ということからこの幅になったという。 」
両側には、武具掛けが所狭しと並び、往時は鉄砲や長槍が掛けられていた。
火縄銃や長槍などの重量物を掛けたので、竹で作られたものではなく、
L字型の金属製になっている。
破風の間は、天守入口に架かる入母屋破風の屋根裏の空間で、 格子窓の一つは開閉できるようになっている。
最上階の六階は、東西七間、南北五間で、一段高い身舎周囲に入側を巡らしている。
部屋の中央には柱を立てず、書院造の要素を取り入れ、
長押や棹縁天井など書院風の意匠を用いている。
部屋の一角に、播磨国大社二十四社の一つ・長壁神社(おさかべじんじゃ)が祀られている。
光仁天皇の皇子・刑部親王を主祭神に、親王の王女・富姫を配祀する神社で、
江戸時代には、「とノ二門」 と 「とノ三門」 の間の小高い場所に、
鎮座していたといわれる。
「長壁神社の由来」
「 刑部親王は、藤原百川の讒言により、その地位を追われると、
親王の王女という富姫も、幼い頃より住んでいた姫山の地で薨去した。
国司の角野氏が、この二人を守護神として姫山に祀って以来、
代々の国司や守護職からの厚い保護と庶民からも厚い尊敬を受けた。
天正八年(1580)頃、羽柴秀吉が姫路城の改築を始めた際、
縄張り内に位置するため、城下に移され、
播磨国総社である射楯兵主神社の境内に、摂社として祀られた。
江戸時代になり、池田輝政が姫路城に入城した際、輝政が病に倒れると、
神社を移した祟りと噂され、城内へ戻されて、八天堂として再建された。
寛永十六年(1639)、藩主が松平氏に変わると、再度城下へ移され、
慶安二年(1649)、榊原氏に変わると、城内の社殿を再建し、
城内と総社境内の二社併存となった。
近代になって、天守内で祀られるようになった。 」
大天守の屋根の鯱は、貞享四年(1687)の鯱を基に昭和の大修理の時に製作、 据えられた鯱だが、 現在は、平成の修理の際に作成された鯱に代わっている。
大天守を降り、外に出る。
城壁には狭間(さま)という射撃用の窓が城全体で現在約千個残っているといわれる。
「 形は丸、三角、長方形の穴で、長方形のものが矢狭間、その他は鉄砲狭間である。 開口部の内側と外側に角度を付けることで敵を狙いやすく、 敵には狙われにくくしている。 また城壁を折り曲げて設置している箇所では死角がより少なくなる。 長方形の狭間はほかの城にもよく見られるが、 さまざまな形の狭間をアクセントとして配置してあるのは独特である。 」
更に、天守の壁に隠された隠狭間や門や壁の中に仕込まれた石落とし、など、 数多くの防御機構が、その優美な姿の中に、秘められている。
小天守は、東小天守・乾小天守・西小天守と、三基あった。
「 東小天守は、三重三階、地下一階で、天守丸の北東に位置し、
西小天守や乾小天守のような火灯窓や軒唐破風はない。
建設当初は丑寅櫓(うしとらやぐら)と呼ばれていた。
乾小天守は三重四階、地下一階で天守丸の北西に位置し、
建設当初は乾櫓(いぬいやぐら)と呼ばれていた。
秀吉が築城した三重天守という説があり、
昭和の大修理では秀吉時代の木材が転用されたことが確認された。
乾小天守の火灯窓には、「物事は満つれば後は欠けて行く」 という考え方に基づき、
未完成状態を保つため格子を入れていない、という。
西小天守は、三重三階、地下二階で天守丸の南西に位置し、水の六門が付属している。
建設当初は未申櫓(ひつじさるやぐら)と呼ばれていた。
火灯窓は、後期望楼型天守である彦根城天守や、松江城天守などにも見られるが、
釣鐘のような形の火灯窓を西小天守・乾小天守の最上階に多用している。
また、大天守と小天守をつないでいたのが渡櫓である。
小天守同士を繋ぐ渡櫓の各廊下には、頑丈な扉が設けられ、
大天守・小天守それぞれ独自に敵を防ぎ、籠城できるように造られていた。
「イ」 「ロ」 「ハ」 の渡櫓は、いずれも二重二階・地下一階、
「ニ」 の渡櫓は、水の五門が付属して、二重二階の櫓門になっている。
天守群と渡櫓群で囲まれた内側に台所櫓があり、大天守地階とロの渡櫓一階を繋いでいる。 」
これで天守部分の見学は終了し、北腰曲輪から搦手道に向う。
天守の北側には、多門櫓の北腰曲輪がある。
「 北腰曲輪は、本丸の北側一帯を防備する役割を担っている、
東西に長い変形の曲輪で、
天守の腰の部分に当たるためにそう呼ばれた。
腰曲輪には籠城のための井戸や米蔵、塩蔵が設けられた。
なお、平時に用いる蔵は姫山の周囲に設けられていた。 」
北腰曲輪の奥を右側(天守台の東側)に回り込むと、高麗門の 「へノ門」 がある。
搦手道の入口にあるのは、 「とノ一門」 である。
「 姫路城内に現存する数多くの門の中でも、ひときわ異彩を放っている、
とノ一門 は
他の門が白漆喰の塗り壁なのに、 素木(しらき)造り の櫓門(やぐらもん) である。
門扉も、一枚板ではなく、縦格子の半透かし扉である。
羽柴秀吉が、姫路城造営にあたり、
赤松氏が築いた置塩城からの移築物と伝えられるもので、
池田輝政が築城した慶長中期の建築様式ではなく、
関ヶ原以前、おそらく秀吉のころのものと考えられている。
門の形式としては櫓門であり、
城外側から見て、左側にさらに単層の櫓を付設して、守りを固めている。 」
とノ一門をくぐると、傾斜のある石段の搦手道である。
「 城への表道が大手道なのに対して、裏道は搦手道である。
搦手道は天守への近道なので、戦時に備えて、道幅を細くし、
急峻でつづら折れの上り坂にし、
多くの城門を構えるなどして、守りやすく攻めにくい構造になっている。
搦手道には、この先、細く急な階段を右に折れると、高麗門(枡形門) の 「とノ二門」 があり、下り傾斜もきついつづら折れを下ると、「とノ三門」(現存せず)、そして、
降りきったところに、高麗門の 「とノ四門」 が建てられていた。
搦手道は、
平時は非公式の出入口として、城中枢部への近道として利用され、
また、不浄のものを城内から外に運び出すときなどにも、使われた。
」
今回は搦手道を降りないで、「とノ一門」から、「ちノ門」 へ進む。
「 ちノ門は、大天守の東側天守台に隣接する小さな曲輪に面し、
二本の柱の上に冠木を置き、腕木によって軒桁をささえ、
切妻の屋根を置いた、棟門(むねもん) である。
ちノ門の珍しい特徴は、門をくぐると内側の左手に番所が隣接されていることである。
番人が常駐する小屋で、平時に門の出入りをチェックするためのもので、
一人か二人が詰めていたものと思われる。 」
「ち」の門 から備前門に通ずる天守の東側に、 搦手口を援護するように建てられたのが 井戸櫓 で、 一般的には 井郭櫓(いのくるわやぐら) と呼ばれている。
「
井戸櫓の建物は、土台の石垣の積み方や櫓自体の建築様式から、秀吉の築城時か、
次の木下家定の改修時の建物ではないか、と推測されている。
櫓には、東、西、北の三室があり、西室の中央部に井戸を備え、
井枠を囲んで流しの設備をつくり、
井戸の深さは八十尺(24m)、水深は六尺(1.8m)で、つるべを釣っている。
常時清水を蓄えていたといわれる。
天守の下は岩盤で井戸が掘れず、北腰曲輪と井戸櫓の狭いエリアに、二か所の、
井戸を備えた建物を造り、天守と腰曲輪の間の補給の便のため、
水曲輪を設け、「水一門」 から 「水五門」 までの門を設けていた。
籠城の時の水源であると同時に、
池田輝政時代には、近くの備前丸に、城主の居館があったので、
炊事のための水源としても使われていたのではないか、と思われる。 」
井戸櫓の先、すぐ斜め向かいに右手に入る櫓門が、備前門である。
「 池田家が城主だった時代には、備前丸に城主の居館があったことから、
門扉だけでなく、柱や梁もすべて鉄板で覆われて、厳重な防御体制が施されている。
江戸時代の城内を描いた絵図面には、備前丸の広い敷地の中で、
備前門に一番近い東の端に、「御台所」・「御料理之間」という建物が描かれていて、
平時には、この門が居館のお勝手口的な役割をしていたようである。
先程の井戸櫓からこの備前門を経由して、台所に水を運んだのだろうと思われる。
備前門は、明治十五年(1882)の火災で、
備前丸にあった他の建物とともに階上の渡櫓の部分が焼失してしまい、
長く門だけが棟門のような形で残されていたが、
昭和三十八年(1963)の解体修理の際に、元の姿に復元された。 」
備前門をくぐる前、右側の鏡柱のすぐ脇の石垣の大きな縦長の石は、 石棺 で、 ろノ門の石垣同様、転用石である。
備前門をくぐり、振り返ると、 備前門の左側に、直角に隣接して天守台の石垣との間に建つ二階建てのやや横長の櫓があるが、これは、 折廻櫓(おれまわりやぐら) と呼ばれる櫓である。
「
備前門の二階は、折廻櫓の二階とつながり、内部で行き来できるようになっている。
先程、へノ門、とノ一門、ちノ門、天守台に囲まれた小さなスペースを通ってきたが、
そこを囲むもう一つの建物が、この折廻櫓の北面で、備前丸に面する壁とは逆の側だった。
その北面の壁は他の櫓の壁と同じく、漆喰で全面を塗籠められた大壁造りだったが、
この備前丸に面した壁は、備前門の二階部分を含め、柱や窓が塗籠められておらず、
素木のままになっている。
真壁(しんかべ)造りという方法で、漆喰を塗らず、
素材をむき出しにしている古い様式である。
池田時代の居館の意匠の名残りをとどめているのだろう。 」
備前門をkくぐると、目の前に、聳えるばかりの堂々たる姫路城天守閣がある。
「 江戸時代のままの姿を残す現存十二天守の中で、
もっとも大きなものであり、世界遺産に登録されている。
高さは十四・八五メートルの石垣の上に、三十一・五メートルの大天守が建ち、
地表から四十六・三五メートル、海抜九十二メートルの高さになる。
五重六階地下一階、総重量五千七百トンの大天守の外観は最上部以外の壁面は大壁塗り、
屋根の意匠は複数層にまたがる巨大な入母屋破風に加えて、
緩やかな曲線を描く唐破風(からはふ)、山なりの千鳥破風(ちどりはふ)に懸魚が施され、
多様性に富んでいる。 」
天守の南側の広場は本丸跡だが、備前丸と呼ばれる。
「 池田輝政が姫路城を築城した際、
ここに、藩主と家族が住む居館を建て、執務をとっていたことによる。
三代目藩主光政が鳥取に転封となり、
後任の本多氏の時代から使われることはなくなり、
備前門に近いところにあった御台所と料理之間、そして、
西の端、水ノ三門に隣接する第二櫓と棟続きにあった「対面所」と「長局」が残された。
残った建物も明治十五年(1882)の火災で焼失してしまい、今は空地になっている。 」
備前門を出ると、右手にあるは 帯郭櫓である。
建物の下をくぐる下り階段があり、トンネルのようになってるが、埋門の一種である。
「 帯郭櫓は天守の南東にある帯曲輪で、
三の丸から見上げると一階建てに思えるが、実際は二階建てなのである。
城外側の一階部分は、腰のあたりまで城外側は石垣に覆われていて、
半地下のような構造になっていて、
約二十三メートルの石垣の上に二階建ての櫓がコの字型に建てられている。
敵が攻めてきた時、射撃などを行う場所として築かれた櫓で、
二重二階で各階ともに三部屋ある。
それで、一階には石垣の上の狭間から射撃をするために、石打棚 という棚をもうけている。
二階にも狭間が開けられていて、
城外から見ると狭間が、上下二段にずらりと並んで見える。 」
埋門を抜けると、小さな袋小路の曲輪に出る。
ここは 「腹切丸」 と呼ばれているが、
正式名称は井戸曲輪である。
曲輪の真ん中の井戸に由来している。
「 帯曲輪が俗に「腹切丸」と呼ばれる由来としては、 建物の形状やその薄暗い雰囲気などから、 切腹の場を連想させることにより呼ばれるようになったと見られているが、 通常では処刑場は城外にあり、 藩主の屋敷付近や井戸付近では実際に切腹が行われたことは考えにくいという。 」
太鼓櫓と帯の櫓の間に渡櫓がある。
池田輝政が築いた帯郭櫓などの石垣は、打ち込み接ぎと算木積み、 扇の勾配である。
太鼓櫓は、江戸時代nには 「への櫓」 と呼ばれた建物である。
「 太鼓櫓は、一重一階で、折れ曲がりながら、その中に
西・南・北の三部屋がある。
単層で鉤型に折れた櫓は、水ノ二門の横に建つ三ノ櫓とともに、
全国で二例しかない貴重な建物である。
りノ門内で門に接している部分の石垣の上端が弓なりに反っていて、
それに従い建物の下端もカーブしている。
歪みのある石垣上に建てられたため西部屋は傾斜があるという。
この櫓の標札に、「太鼓櫓」 と書かれているが、
明治時代に入ってから付けられた名前で、
江戸時代の太鼓櫓は、三の丸の入口である桜門のすぐ脇にあったという。
明治時代に、陸軍が姫路城を接収し、太鼓櫓をはじめとする三の丸の建物を壊した時に、
中にあった太鼓をこのヘノ櫓に運んで保存したため、この名がついたが、
太鼓は現存していないようである。 」
太鼓櫓の西側には、「りの門」 があり、帯曲輪と上山里曲輪を区切っている。
「 りの門は、小さな脇戸付高麗門だが、
帯曲輪と上山里丸の間のもっとも狭まった部分をおさえる門で、
太鼓櫓と共に、二の丸から備前丸へと進もうとする敵兵をここで食い止める役目をしている。
「慶長四ねん大工五人」 と書かれた墨書が発見され、
解体や移築の痕跡もないことから、木下家定の時代の建築と判明していて、
姫路城内で唯一、池田輝政時代以前に建てられたことが、
証拠によって裏付けられている建物である。 」
本丸跡より一段下がったところは、 上山里丸(かみのやまさとまる) である。
「 上山里丸は、備前丸の石垣と二つの出入口の門、
周囲をぐるりと多門櫓と隅櫓等の建物で囲まれていた。
りノ門を出てきたところが上山里丸で、
一番突出した部分に、「とノ櫓」 という隅櫓、
そこから右手に現存している 「ちノ櫓」 に向かって、多聞櫓が連なっていたが、
現在は、新たに造られた土塀が連なっていた。
上山里丸は、秀吉の建てた大坂城の上山里丸同様に、庭園だったところで、
御殿のような建物はなかったようである。
明治時代以降は荒れるにまかせていたが、戦後整備が行われて現在の姿になったという。 」
広場の一角に、お菊井戸 と呼ばれる、古い井戸がある。
「播州皿屋敷」 で、知られるお菊が、責め殺されて投げ込まれた、 と言われる井戸である。 もとは、釣瓶取(つるべとり)井戸と呼ばれていた。 」
また、この井戸は、備前丸の御殿や天守に近いことから抜け穴伝説もある。
大がかりな調査が行われたが、井戸の竪穴の途中に横穴はあるものの、
岩盤によって行く手はさえぎられていて、抜け穴は見つからなかったようである。
お菊井戸から先に進むと、正面に 「ぬノ門」 があり、 その左手に続く 「リの一渡櫓」、 「リの二渡櫓」、そして 「ちノ櫓」 に続いている。
その右手では、江戸時代、明治時代、昭和の三体の鯱瓦が展示されている。
「 鯱は頭が虎、体が魚の想像上の動物で、口から水をはいて火を消す、 というので古来より火除けのお守りとして広く建築の最上部に用いられてきた。 鯱には神社の狛犬と同様、口を開いている阿形がオス、 閉じている吽形がメスと言われている。 姫路城には、大天守だけで十一個の鯱瓦があるが、昭和の大修理で これら十一個の鯱がすべて新造され取り換えられることになり、 西側大入母屋屋根に上げられていた鯱が、もっとも古い貞享四年(1687)製が分かり、 それを復元して、全ての鯱は取り換えられた。 」
従って、姫路城の鯱はオス、メス一対の鯱ではなく、すべて一種類とのことである。
渡櫓の一番右手、次のぬノ門と接続する部分に、ほんの数段の上り階段がある。
石段の上から三段目と四段目にひとつずつ刻印が見える。
何かの符牒のようだが、
多くの場合、石の確保や石積みを担当する石工や家臣を表す記号だったようである。
江戸時代には、先程歩いてきた道を上道(うわみち)、
ぬノ門から上山里丸、帯曲輪を経由して本丸に至る道を下道(したみち)と。呼んでいた。
池田輝政の時代、備前丸の御殿に賓客をお迎えするときには上道が使われたが、
城主などが日常的に本丸に達するためには下道を使っていた、と言われている。
「ぬの門」 は、上山里曲輪の入口にある門で、 上道にあるにノ門と並び、姫路城随一の鉄壁の門といわれた、すごい門である。
「 ぬノ門の扉・柱・冠木などの木部はすべて鉄板で覆む黒鉄張りとし、
太鼓鋲で止めた頑丈な門である。
櫓門の渡櫓部分が二階建てになっていて、 リの一渡櫓・リの二渡櫓・チの櫓、などの建物と接続している。
門の上に二階建ての櫓が乗っている櫓門の現存例は、
ここだけというから貴重なものである。 」
「リの渡櫓」 の入口から、 「ぬの門」櫓門 の 渡櫓部 の二階に直接入れるようになっていて、 櫓門内のかくし石落としや監視窓から、頭上攻撃を行うことができた。
ぬの門をくぐると、枡形になっている。
門の右側の石垣には
大きな二つの目玉に太い鼻と巨大な顔がこちらをにらんでいる。
人面石 と呼ばれる鏡石である。
「 鏡石は、 築城者の威厳や経済力、技術力を見せつけるために、一番よく見える部分に積まれている。 一方で、呪術的な意味合いもあり、 城内に入り込もうとした邪気をこのような人智を超えた大きな石でブロックし、 跳ね返そうとしている。 」
その先には、高い石垣がそそり立っている。
その下に、「扇の勾配」 の説明板があるが 備前丸石垣 である。
説明板「扇の勾配」
「 高石垣の角のところを横から見ると、
上に行くほど反り上がる曲線を描いていて、
扇を広げたときの曲線に似ていることから、扇の勾配 と呼ばれている。
石垣が高くなるほど内部から積石に大きな圧力がかかり、石垣を崩す原因になる。
その力に耐えるように、据部は傾斜をゆるくしている。
上部は垂直に近い急傾斜なので、敵が石垣に登らせないようになっているといわれる。
また、石垣の角には長方形の石を長短の辺を交互になるように積まれている。
長方形の石が算木に似ていることから、算木積み という。
高石垣が築かれるようになった慶長期(16世紀後半から17世紀前半)に完成した積み方である。 」
稜線が実にきれいに弧を描いて積まれていて、
角部には算木積みがきれいに見られる。
扇の勾配、そして算木積み、石垣が内部からの圧力で前方にはらみ出すのをおさえて、
うまく力を分散させる積み方の工夫である。
この技術が開発されたことにより、石垣を高く積むことができるようになった。
秀吉時代に築かれた下山里丸は、低い石垣を二段重ねで積んでいるのに対し、
池田輝政の慶長年間には、石垣作りの技術がここまで進化していたことがわかる。
その先に進むと、「をノ門跡」 の説明板がある。
説明板「をノ門跡」
「 をの門は下道の最初の門になる。
門は高麗門形式で、その横にりノ櫓があった。
をノ門からぬノ門までの間は一つの枡形を形作っていて、
下道における防御の要となっている。
をノ門とりノ櫓は明治十五年(1882)二月に失火により焼失した。 」
その先は下山里丸である。
左手に広い空地が広がり、その先の石垣は、秀吉時代に築かれた石垣である。
奥の方の目立たないところに、小さな下り階段があり、 その先は穴蔵のようになっている。
説明板「るノ門跡」
「 るノ門は、石垣の中に開けられた穴を出入口とした門で、その構造から穴門と呼ばれる。
菱の門やぬの門から見ても、門の存在に気づきにくい位置にある。
伏兵を用いた戦術には機能するだろう。 もともとは両開きの扉があった。
今も礎石が残っている。
緊急時には門扉を閉じて閂を通し、
通路を土砂で埋めてしまえば厳重に防御することができる。 」
石段を下りていくと、右側の角に大きな四角い石がある。
これは、五輪塔の地輪 と呼ばれる、一番下の四角い石を転用石として使っているものである。
また、両開きの扉の礎石も確認できた。
るノ門を通りぬけると、三国堀がある。
見上げると天守群が一層輝きを増してそびえ立っている。
ここは天守がもっとも美しくとらえられるビュースポットのひとつである。
三国堀の名前の由来は、秀吉の姫路城を今日の姫路城の姿に大改修した池田輝政が、 播磨・淡路・備前の三国を治める大大名だったことによる。
堀の真正面の石垣の中央あたりに石積みが不自然なところがあるのに気付いた。
説明板「三国堀」
「 秀吉が姫路城を築いた頃の三国堀は、姫山と鷺山の谷にあたる部分が堀になっていて、
現在よりずーと先まで続く長い堀だった。
池田輝政は、上里丸などを築く時、堀の奥の方を埋め、
今の三国堀の部分(四角な堀)だけを残し、戦術的な仕掛けにした。
V字型の跡は石垣の空いているところを埋めた証拠である。 」
説明板の指摘の通り、かっての石垣の端がここだったと思える線が、 V字に向かい合っていた。
「姫山と鷺山と三国堀」という説明板があった。
説明板 「姫山と鷺山と三国堀」
「 江戸時代、菱の門から内側を城山といった。
城山には姫山と鷺山の峰があり、姫山には自然の地形を利用して、
山里丸や備前丸を設け、頂部には大天守が築かれた。
一方、鷺山には峰の上部を削って西の丸が造営された。
城山の中央にはほぼ正方形の三国堀がある。
この堀は用水池で、
二つの峰の間の谷をせき止めて築かれたダムのような構造である。
三国堀北側の石垣は谷筋にあった堀の痕跡を見ることができる。 」
「継ぎ目のある石垣」 の説明板もあった。
説明板 「継ぎ目のある石垣」
「 この石垣は、りの一渡櫓とりの二渡櫓を支える石垣である。
りの二渡櫓の下に石垣が線(継ぎ目)になって見える。
この線から南側(右手)が羽柴秀吉、北側(左手)は池田輝政の時築かれたものである。
姫路城の建物は西の丸を除き、多くが池田輝政によって築かれた。
しかしながら、縄張り(曲輪の配置など)や石垣は羽柴時代のものを引き継いでいるので、
この石垣のような池田時代になって増築された場所の新旧の石垣の継ぎ目が生じたのである。
石垣は築かれた時期によって積み方の違いのあることが分かる事例である。 」
菱の門の前に戻り、俯瞰図の看板と、中村大佐の顕彰碑の前を通り過ぎたところを左折すると、緩い上り階段になる。
これが西の丸への入口である。
上り階段を少し登ると、「武者溜り」 の説明板がある。
説明板「武者溜り」
「 土塀でほぼ正方形に囲まれていることから、武者溜りと呼ばれている。
こうした空間は集団で軍事行動をする兵士を一時的に駐屯させる場所といわれる。
菱の門の前方で石垣を張り出した場所にあるので、
菱の門や西の丸の東側に取りつこうとする敵を攻撃するための施設とみられる。
また、十八世紀の絵図には隣接する西の丸南門に接続する建物がこの空間の南側土塀に沿って描かれている。
西の丸に出入りするための南入口を警備する番人が詰める番所もあったとみられる。 」
短い石段の上に、土塀に囲まれた小さな空地が見え、足元に門柱の礎石が見える。
ここに建っていた西の丸南入口門は、いノ門ほどの小さな高麗門だったようである。
階段を上り切ると、「西の丸」 の説明板がある。
説明板 「西の丸」
「 この曲輪は姫路城主本多忠政が大坂夏の陣のあと、
将軍秀忠の長女千姫を娶った息子忠刻(ただとき)のために、
元和四年(1618)に、御殿を建てたところで、 中書丸 ともいわれた。
中書は忠刻の官職中務大輔の唐名である。
御殿を囲むように築かれた長屋は、通称 百間廊下 ともいい、
約三百メートルの長さがあった。
そのうち、ヨの渡櫓から北の部分が長局(ながつぼね)である。
小さな部屋が廊下に面して並んでいて、 西の丸の御殿で働く女中が住んでいたとみられる。
長局の北端に化粧櫓がある。
大きく解放された窓や床の間、畳敷きなど、
ほかの無骨な櫓に比べると人が居住できる構造になっている。
千姫が男山にある大神社を拝むため、西の丸に来た際、身づくろいをしたり、
休息した場所といわれる。 」
その先に見えるのが、百間廊下と化粧櫓である。
西の丸の中書丸と武蔵野御殿は、徳川四天王として勇猛でならした本多忠勝の嫡男の 忠刻と、二代将軍徳川秀忠の長女・千姫のための御殿である。
「 中書丸と武蔵野御殿の建物の多くは、
豊臣秀吉が築いた伏見桃山城を取りこわした用材を移して建てたもので、
桃山時代の立派な書院造りの建物であった。
しかし、忠刻が三十一歳で亡くなり、千姫は江戸に帰ったことで、
西の丸の中書丸御殿は、二十年程しか使用されなかったようである。
元禄年間の絵図には四棟のみが描かれており、その他の建物はなくなっている。 」
現在残るのは外周に沿って、本多忠政により整備された、渡櫓・隅櫓と土塀だけで、
これらは姫路城内の他の建造物と同様に、白漆喰総塗籠の外壁をもち、
防火に対する配慮がされている。
また、渡櫓・隅櫓の外壁は、特に厚く塗られ鉄砲に対する備えが見られる。
これら櫓は西の丸櫓群とよばれ、左手のワの櫓から、レ、タ、ヨ、カという四つの渡櫓、
右側に、「化粧櫓」 と呼ばれた櫓があった。
説明板「千姫ゆかりの西の丸櫓群」
「 ワの櫓から化粧櫓まで、約二百四十メートルのとても長い廊下が続いている。
この長屋群を 百間廊下 と呼ばれている。
二階建ての櫓と櫓との間は、 渡櫓と呼ばれる長屋で結ばれており、 別名 多門櫓とも呼ばれる。
天守のない城であっても、多門の無い城は無いといえるほど、
江戸時代の城郭に不可欠な建物である。
倉庫にも住居にし、さらに防御施設として機能する上、
構造が単純で解体して移動するのも容易だった。
百間廊下も場所によって構造の違いがある。
西の丸に本多忠刻の御殿があった時期、
局として使用されたのはヨの櫓から北隅の長屋と考えられる。 」
「ワ」 の隅櫓脇の入口から中に入る。
入口には戻ってこないので、履物は備え付けのビニール袋に入れて運ぶ。
すると、いきなり短い上り階段があり、上りきるとそこから長い廊下が始まる。
いきなり、短い上り階段があり、上りきるとそこから百間廊下の長い廊下が始まる。
「 百間廊下は、名前は百間だが、
実際の長さは百二十一間、約二百四十メートルもある。
「ワ」の櫓脇から入って半分ぐらいまでの「レ」の渡櫓までは倉庫として使われていた。
「タ」の渡櫓にはくぐり戸付きの扉があり、そこから北側は廊下がつく。
城外側に付けられた幅一間、一部は半間の廊下には、
石落しや狭間、鉄砲の煙出しの窓も付設され、
城の西北に対する防衛が固められていた。
ただこの蓋付きの石落しは、大きな石が落せるような幅になっていないので、
鉄砲で石垣に取りつく敵を狙い撃つ銃眼の機能だったのではといわれる。
これだけの長さがあれば石落しの真下だけでなく、
左右かなり広角に射撃することも可能である。
窓には太い縦格子が入っているが、この格子は八角形の断面を持っている。
これは窓から敵を射撃するためで、八角形では四角形より鉄砲を左右広角に狙える。
また、格子の内部は八角形の断面をもつ木柱を鉄板で、
四面または八面全部を巻いてから塗り籠めているものである。
窓に取りついた敵が、簡単に刃物で格子を切られないようにするためのものというからすごい。
雨水対策には、窓の下側の桟にあたる部分を注意して見ると、
小さな丸い穴が開いていて、内側にパイプが通っているのが見える。
これはこの桟に溜まる雨水を抜くためのパイプである。
現在は周囲が補修されてパイプも樹脂性のものが入っているが、
このしくみ自体は造営当時のものである。 」
建築物を雨による劣化からいかに守るか、というのは、 お城の維持管理にとって大きな問題だったのですね!!
「ヨ」 と 「カ」 の渡櫓は、各部屋に納戸が附属、天井が張られるなど、 人が住むことを想定した造作になっている。
「 本多忠政が嫡男忠刻と千姫のために建てた御殿・
中書丸は、西の丸の中央に建てられたが、
二人を世話する多くの奥女中は百間廊下に住んでいた。
「タ」の渡櫓から化粧櫓までの北半分が、奥女中たちが起居する部屋であり、
主室と付属室などに区分され、長局を構成していた。
昭和の大修理の際、草花模様で彩色した痕跡のある柱が発見された。 」
「カ」 の渡櫓に展示されている羽子板は、 千姫が山野井村の男山に天満宮を建立した際に寄進したものと伝えられる。
「 千姫は、天満天神を信仰していたが、
元和九年(1623)、これまで守護神としていた天神木像を西方の丘男山に遷し、
天満宮を建立し、 社殿は城の方に向けて建てられた。
千姫は、毎朝西の丸の長局の廊下から、本多家の安寧と子孫繁栄、
前夫豊臣秀頼の鎮魂を祈ったとされる。 このとき、化粧櫓を休息所として利用した。
忠刻と千姫の夫婦仲は睦じく、姫路に来てから、 勝姫(のち池田光政室)、
幸千代の二児をもうけ平和な日々を送ったが、
幸千代は三才で早逝、忠刻も寛永三年三十一才で世を去った。
千姫は、同年落飾して天樹院と号し、悲しみのうちに姫路を発って、徳川家に帰った。 」
化粧櫓は、千姫が忠政の嫡男忠刻に輿入れする際の化粧料十万石で、 元和四年(1618)に建てられたものである。
「 外観は二重二階、内部は畳が敷かれた座敷部屋が三室に区分され、
床の間がある奥御殿になっている。
戦前の修理までは、化粧櫓にはその名の通り当時の化粧品の跡が残っていたという。
この化粧櫓は、中書丸や武蔵御殿がない現在、千姫の面影を偲ぶただひとつの建物である。 」
畳敷きの部屋には千姫を模して造られたという乾漆坐像があった。
その先で櫓から降り、外に出たが、西の丸から天守への展望も見事である。
これで姫路城の探訪は終了した。
姫路城へはJR山陽新幹線・山陽本線姫路駅から徒歩約15分
訪問日 平成二十九年(2017)十月二十一日