竹田城は、但馬の要衝に築かれた天空の城で、
日本100名城の第56番に選定されている。
竹田城の石垣群は、穴太流石積み技法で、豊臣時代の山城に代表される遺構である。
廃城から約四百年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っていて、
現存する山城として日本屈指の規模であることから、国の史跡に指定された。
竹田城はJR竹田駅の西方の
標高約三百五十四メートルの古城山(虎臥山)の山頂部に築かれた城である。
縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城の名が付いた。
また、城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、
しばしば円山川の川霧により霞むことから、
天空の城とか 日本のマチュピチュとも呼ばれる。
城に行くには、駅の裏側に見えている、急な登城道を上っていくのが一番だが、
四十分以上かかる上、体力を必要とする。
体力と時間短縮から、タクシーで山頂近くの駐車場まで、運んでもらう選択をした。
なお、竹田駅の西にある法輪寺、勝賢寺などの寺町の段丘平地が城主の居館跡と推定されている。
タクシーは南登山道を経由し、竹田城中腹のバス、タクシー乗降場までである。
駐車場の右側に、 「遊歩道 大手門コース」 の道標があり、
「国史跡竹田城跡」 と書かれた門をくぐる。
そこから下に降りて、左折すると、ほぼ一貫して、上り坂が続き、 途中で左に大きくカーブし、 十五分程過ぎると右側に道標があり、その下には、表米神社からの登城道があった。
竹田城の歴史
「 嘉吉元年(1441)、嘉吉の乱勃発後、
但馬守護・山名氏と赤松氏の間に深刻な対立が生じていた。
竹田城は、この時、赤松氏に対する山名氏方の最前線基地と一つとして築城された。
以後、太田垣氏が七代にわたり城主となるが、
天正五年(1577)、羽柴秀吉の但馬攻めにより、羽柴秀長が城代になった。
これ以降、竹田城は、織豊方の拠点城郭として機能した。
秀吉は、秀長を有子山城主に、
秀長配下の武将・桑山重晴を竹田城主に命じた。
桑山重晴は和歌山城に転封となり、
替わって、秀吉に投降した龍野城主・赤松広秀(斎村政広)が、竹田城の城主となった。
赤松広秀は、数年の歳月をかけて、現在見られるような総石垣の壮大な城に修復した。
しかし、広秀は鳥取城攻め失敗の責により、徳川家康から切腹を命じられ、
城も廃城になった。
太田垣氏によって築かれた頃の竹田城は、土を造成して造られていた。
現在のような壮大な石積みの城郭になったのは、
慶長五年(1600)の廃城になるごく近い時期と、考えられている。 」
竹田城の縄張りの規模は、南北四百メートル、東西百メートルに及び、 完存する石垣遺構としては、全国屈指のものである。
「 現在の竹田城は、赤松広秀が総石垣に作り替えられた城郭である。
最高所(標高353.7m)に天守台 、その下に本丸をほぼ中央に配置し、
南方には南二の丸・南千畳が、
北方には二の丸・三の丸・北千畳を築いている。
更に、天守台の北西部には、花屋敷 と称する曲輪がある。
ここは、主郭の中でも、搦手の位置にあたるため、南北には石塁を築き、
防御性を高めている。 」
本丸の南に、南二の丸と南千畳曲輪がある。
城郭の大部分は赤松氏以降の築造であるが、
太田垣氏時代の遺構も一部残っていて、
南千畳曲輪の下には、大小十本の竪掘群がある。
「 竪掘とは敵が攻城した時に敵兵士が横移動出来ないようにする遺構で、
連続した竪掘によって表面が凸凹する形状から、
畑の畝に例えて、畝状竪掘と呼ばれているが、
これらの遺構群は戦国期の竹田城の一部であろうと見られている。 )
竹田城の見学は案内図の右下の料金所から入城し、本丸を経て、南千畳曲輪から、 下に降りるという、一方通行である。
駐車場から歩いてきた小生は、案内図の下に赤い線を引いた道を歩いた。
途中で、南千畳から下って来た道を左に見た。
そこからは坂は急になり、約十分で、料金所に着いた。
なお、駅からの登城道はここで合流する。
料金を支払うと、「国史跡竹田城跡」 の石柱があり、右側に直登のような石段がある。
上ると、見事な石垣が両脇に現れる。
ここは大手門跡で、門を守る石垣は、構築技法から見て、穴太積 を採用している。
「 穴太積は、近江国坂本を中心に発達した石垣構築法の呼称で、
積み方からいえば野面積みの一種である。
野面積みは、加工を施さない自然石をそのまま積んだもので、すき間が多く、
一見すると 粗雑に見えるが、水はけがよく、くずれを防ぐ。 」
右側にある空地は、北千畳曲輪である。
「 竹田城の特徴としてあげられるのは、北千畳曲輪・南千畳曲輪・
花屋敷曲輪 の三つの曲輪群の標高が、
三百三十一メートルと、ほぼ同じ高さに作られていることである。
本丸の標高は三百五十一メートルなので、標高差は二十メートルである。
このことにより、三つの曲輪群が平面構成だけではなく、
立面構成にも高度な計算がなされていてことが分かる。 」
北千畳曲輪から三の丸にかけて、枡形虎口が、敵の進入を防ぐ役割を果たしていた。
「 竹田城の下には、円山川があることから、
寒暖差の激しい秋を中心に早朝に川霧が発生し、
城部が霞むことことから、 天空の城 とか、日本のマチュピチュ とも、
呼ばれるようになった。
城の対岸の山に数か所展望台があり、途中までは車がいくが、その後は徒歩でのぼるが、
霧が出るのを待つため、暗いうちからカメラマンが上っていくという。 」
三の丸は変わった形をした曲輪である。
「 地形を活かし北側の入口に、枡形虎口を配し、
中央には東に向って、コの字に掘られており、
その下には、古い時代の遺構である堅堀が下に向って続いている。
また、西側は下に向って絶壁になっていて、地形を利用した要塞であることが分かる。 」
三の丸の先の左側に二の丸はあるが、ここからは細い道になって、 本丸の下まで続いている。
道を進むと、左側に坂があり、両脇が石垣になっている。
ここが二の丸の入口で、石垣から考えると、かっては門があっただろう、と思った。
二の丸は、三の丸より狭い面積で、羽子板のような形になっていて、
本丸下に続いていた。
奥の小高い石垣は本丸天守台である。
二の丸から見ると、本丸・天守台の左に一段下がって、南二の丸、 更に下がって、南千畳曲輪があることが分かった。
本丸石垣は、天守台南側の石垣で、高さは十・六メートルである。
本丸へは人工で造られた階段を上がると、本丸で、 奥に天守台がある。
「
本丸は、標高約三百五十四メートルの 古城山(虎臥山) の山頂部に築かれ、
その正面に天守台がある。
天守台への登り口には石段や穴蔵がないので、
天守脇の付櫓か、本丸にあった建物と連結して、その内部から階段等によって、
天守に登ったと思われる。
天守台は、 少しいびつな形の約十一メートル×約十三メートルで、
天守台には二層か三層の天守が建っていたようで、いくつかの礎石跡が確認でき、
柱間は六尺五寸の京間で建てられたとされる。
また、天守台下の 高見殿曲輪(本丸) には、本丸御殿があった、と推定されている。 」
本丸から南二の丸に向うと、立派な本丸石垣がある。
石垣の傾斜には、算木積みが使われている。
「 算木積みとは、石垣の出角部分において、
長方形の石の長辺と短辺を交互に積んでいく技法である。
これにより、石垣の強度が増し、崩れにくくなる。
竹田城では、天守、本丸、北千畳など多くの場所で、算木積みを確認できる。 」
降りたところは平殿で、その右手(南西側)には、花屋敷 と呼ばれた曲輪がある。
更に一段降りると、南二の丸である。
「 南二の丸は、平成二十五年(2013)から、 遺構や下草の保護を図るため、立ち入りを禁止していたが、 「 踏圧のダメージが軽減されたことで下草が生え、樹木の状況も改善した。 遺構の露出も起きない状況にまで環境が回復した。 」 ことから、 平成三十年(2018)八月から見学できるようになった。 」
その先にあるのが、南千畳曲輪と、南二の丸を仕切る虎口跡である。
そこを抜けると一面広々とした広場に出るが、ここは南千畳曲輪である。
かって一本の大きな唐松があったというが、見学者が根元を踏みつけたため、
枯れてなくなったという。 br
そのためか、見学者の道には杭とロープが張られていて、
それ以外のところには行けなくなっていた。
振り返ると本丸、南二の丸などの石垣群がで〜いんと鎮座していた。
南千畳曲輪の出口には、搦手口の門があったようであり、石垣が残っていた。
そこを下ると、先程歩いてきた道に出て、竹田城の探訪は終了した。
竹田城へはJR竹田駅から徒歩40分、 タクシーで山腹のバス、タクシー駐車場に行けば、約10分で、入口の入城料金所に着く
訪問日 平成三十年(2018)十月二十六日