出石(いずし)は、兵庫県の南西部にある旧出石町、現在は豊岡市出石町である。
但馬の小京都をいわれる町は、江戸時代出石城がある城下町であった。
殿様が御国入りした時、信州から蕎麦打ち文化をもってきたので、
関西では珍しい出石そばを堪能でき、それを求めてくる人も多い。
江戸時代から続く伝統の街並み、出石焼や皿そば、出石城跡など、歴史と文化の町である。
出石(いずし)は、鉄道が通っていないので、近くの駅からバスで行く。
来ている観光客は城崎温泉とセットになったバスツアー客が多く、
個人では阪神から車で来る人が大多数である。
城崎温泉で湯を楽しんだ翌日、JR豊岡駅前から全但バスの奥藤行きに乗り、
出石バス停で降りる。
ここはバスの営業所になっていて、座って休憩できる。
大通りを東に向かうと、左に勝林寺があり、その先に、
出石城(いずしじょう)の水堀がある。
水堀には橋が架かっていて、「谷山川」 「登城橋」 と、橋の欄干に書かれていた。
「 江戸時代には、ここに谷山川はなかったので、
橋はなく、門も埋門であった。
橋は史実に関係なく、平成六年(1994)に造られた。 」
登城門の両側にある石垣は江戸期のもので、ゴツゴツした荒い石垣である。
門をくぐると、横にかなり広い石段があり、緩やかに続いていた。
その先の左側の空地に、石碑が立っていたが、ここは、下の曲輪跡である。
石垣は二の丸石垣である。
登城門の石垣より、城らしいので、当初のものかそれに近いと感じた。
登城門の石垣より高く、堅固な石垣である。
出石城の概要
「 出石城は、有子山の麓に築城された梯郭式の平山城である。
城域は、東西約四百メートル、南北約三百五十メートルである。
東西の斜面に竪掘、 西側に蓮池、 城の周囲には水堀と土塁を巡らせていた。
最上段の稲荷曲輪から、下に、本丸・二の丸・下の曲輪と、階段状に曲輪を配置し、
脇に、西の曲輪と山里丸、平地部分に堀で囲まれた三の丸を配置していた。
更に、重要な三御門(大手門・東門・西門)は、枡形虎口で、防御を固めていた。
また、城下町も整備され、出石の町並みが形成された。
関ヶ原の戦いで、領地を安堵された小出氏は、慶長九年(1604)、
使用していた有子山城を廃止し、此隅山の麓に、本城(出石城)を築きたいと、
幕府に申し出、小出吉英により、上記の縄張の城の完成を見た。
出石城が出石藩の藩庁となり、小出氏は元禄九年(1696)無嗣改易となると、
松平(藤井)忠周が入る。
松平忠周(忠徳)が三の丸に対面所を建てて、
本丸と二の丸にあった藩主御殿と藩政機関を移した。
宝永三年(1706)、仙石政明が入城し、廃藩置県まで仙石氏の居城となった。
幕府の行った一国一城令で、但馬国に残った城は、山名家ゆかりの出石城だけである。
」
二の丸石垣の左側を上って行くと、右側には空地があるが、これは西の曲輪跡である。
「 西の曲輪は、文化十二年(1815)、
仙石久道が隠居所を自から建設したことから、西御殿と呼ばれたことによる。
久道は趣味で、コウノトリを飼っていた、という。 」
写真左の奥に道の先に建物が見えるところが本丸である。
奥に見えるは石段の手前左側の石垣が本丸石垣である。
石段を上ると、左と正面に向う階段がある。
左の階段を上り、入ると、二の丸跡で、「二の丸跡」 の石碑が建っていた。
「二の丸跡」 の石碑の先には、本丸隅櫓と本丸石垣が見える。
「 二の丸には政治を行う役所が建ち、本丸の城主御殿と渡り櫓で、
連結されていた。
中枢機能が三の丸の対面所に移ると、ほとんど使用されなくなったが、
正月行事などはここで行われた。 」
二之丸は桜の名所といわれ、当日、お花見をしているグループがあった。
階段下まで戻り、正面の石段を上る。
左側は本丸石垣で、その上に多聞櫓が連なっていた。
石段を上り、左手に入ると本丸跡である。
本丸には現在、感応殿、隅櫓が東西にある。
「 築城時には藩主御殿があった。 松平氏以降ほとんど使用されなくなったが、明治元年に取り壊されるまで、 建物は残っていた。 庭園は残っている。 」
本丸跡に建つ感応殿は、明治期に仙石家の旧家臣達が造営したもので、 中には、小諸時代から伝わるとされる、仙石秀久の木像が安置されている。
説明板「感応殿」
「 この社殿は、感応殿といい、出石藩主仙石氏の祖権兵衛秀久公を祀っています。
公は美濃の人で、豊臣秀吉に仕えて、功があり、洲本、高松の城主となり、
一時勘気を受け浪人しましたが、小田原城攻めで奮戦し、小諸城主に返り咲きました。
その豪勇のほどは大盗賊石川五右衛門を捕えた豪傑として伝説化されています。
仙石氏は、公のあと、子の忠政が信州上田に移り、
玄孫政明が宝永三年(1706)の出石に移封されて、五万八千石を領し以来、廃藩まで
七代百六十三年間続きました。
明治に入って旧家臣らによって、本丸跡に公を祀る感応殿が建立され、
今日に至っています。 以後、町の人々は本丸を権兵衛さんと愛称をもって呼び、
例祭は五月の祥月命日に行われています。
仙石科野大宮社御神木奉讃会 」
感応殿の前に「出石そば」 の石碑がある。
石碑「出石そば発祥の由来」
「 ここは旧出石城本丸跡で、祠は感応殿といい、
城主仙石氏の藩祖権兵衛秀久公(信州小諸城主)を祀り、
その為権兵衛さんと市民から親しまれている場所です。
四代政明公上田城主の時、
尊崇されていた古社・科野(信濃)大宮社御神木の大欅が枯死したのを大層憂い、
切株に覆い屋を施し大切に保存され、現在も、在りし日の面影を偲ばせて
遺されています。
政明公は大変そば好きで宝永三年(1706)出石の松平忠徳公(のちの忠周=老中)と
お国替えて出石に入部の際、信州一の蕎麦打ち名人を伴われ入国し、
そばを当地に広められました。
後永年に亘り改良と技術研鑽を重ね、出石焼の小皿に盛り付ける独特の「出石そば」を創出し、今日まで受け継いできました。
本念そば伝来三百年を迎え、科野大宮社三柱の御祭神の依代として、
大欅の一部を譲り請け「出石皿そば」の守護神とし、政明公への報恩の念を込め、
当祠に奉斎しました。
ここに関係者一同末代迄のお祀りを誓い合い、
「出石そば」の品質向上と発展を期し、碑文を刻み由来を記しました。
平成十八年十一月三日 仙石科野大宮社御神木奉賛会 」
本丸東隅にあるのは、東隅櫓である。
「 かっては、本丸東西と二の丸、
合計三つの櫓が建っていた。
本丸の東隅に、白漆喰総塗籠・二階の隅櫓が建っていた。
現在の建物は、昭和四十三年(1968)に、町民の寄付により建設されたもので、
時代考証をえていない模擬隅櫓である。 」
東隅櫓の右側には、本丸の庭園、その奥に、稲荷曲輪の高石垣、 そして、赤い鳥居が連なっている。
「 本丸の南にある石垣は稲荷曲輪の高石垣である。 高さ十三・五メートル、但馬地方で最大規模を誇り、 築城時の土木技術の高さがうかがえる。 」
鳥居をくぐり、稲荷参道を上って行くと、稲荷曲輪に出る。
ここには、有子山稲荷社が祀られていた。
「 稲荷曲輪は、出石城の最上部に位置する曲輪である。
ここに建つ有子山稲荷社は、小出吉秀が城内鎮護のために、
有子山城の稲荷社を移したものとも、旧領岸和田の稲荷社の分霊を勧請したものとも、
いわれる。
現在の社殿は江戸時代後期の建築。 毎年三月の初午大祭が有名である。 」
稲荷曲輪から稲荷参道を通って下山した。
「
稲荷参道は、かっては、 御城坂 と呼ばれ、石段ではなく、土の坂であった。
江戸時代、最上段の有子山稲荷社への参道であった。
明治期に、157段の石段と37基の鳥居が整備された。
春は若葉、夏は深緑、秋は紅葉、冬は雪化粧と、四季折々の表情をみせる。 」
稲荷参道を下ると、右側に石碑がいくつか建つ空地があるが、山里丸跡である。
山里丸には、城内で一番新しい年代の石垣が残り、算木積や矢穴が見受けられる。
平成二十八年(2016)に、改修工事を行い、美しい姿を取り戻した。
下に降りると、左手に諸杉神社がある。
「 諸杉神社の創立時期は不明であるが、延喜式内の古社で、
始めは、出石川側の出石町水上にあったが、当国守護・山名氏が、
居城を此隅山より有子山に移すに及び、現在地に移転させられた。
祭神は、但馬の開祖・天日槍(新羅国王子)の子、但馬諸助神。
城内北東の鬼門に祀られ、歴代藩主が篤く信仰した。
松平忠徳は社殿を改造、仙石政辰は社殿を改築したが、明治九年に焼失した。
現在の本殿、拝殿は明治十七年に建てられたものである。 」
諸杉神社境内の外は、明治以降に、川が流れるように造り変えされている。
その先に駐車場とレンガ色の建物(出石振興局)が見える。
このあたりが、 対面所 があった場所である。
行ってみたが、その跡地の表示はないのか、見わたらなかった。
「 元禄十五年(1702) 松平忠周が対面所を建設して、本丸より移った。
千八百二十五坪、 九十数部屋もある壮大な屋敷で、 藩主の居所であると共に藩邸で、
出石藩の政務を行った。 」
振興局の反対、道を挟んだ西側に、いずし観光センターがあり、
更に西に行くと、出石家老屋敷がある。
左側に門があり、白壁の塀の先に石垣がある。
石垣は西門跡で、かっては南北方向に西門があった。
「 西門は、枡形虎口形式で造られていた。
ここは、直角に曲がる虎口が築かれていたところで、
対となるもう一方の石垣は、通行の邪魔になるとして、破壊されてしまい、今はない。 」
白壁の塀は、家老屋敷の土塀で、長屋門がある。
中に入ると、しだれ桜が丁度満開で、この世の春のように、咲きほこっていた。
その先正面にある建物は、家老屋敷跡に、家老級の高級武士の屋敷を移築したもので、
仙石騒動の仙石左京の屋敷ではない。
正面から建物を見ると、平屋に見えるが、実際は二階建てになっている。
説明板「出石家老屋敷」
「 この建物は、江戸時代後期に、出石藩士の居宅として使われていたもので、
出石城の内掘に囲まれた三の丸にあり、藩主の居宅兼執務施設であった対面所
(現在の出石庁舎敷地)の近くに建っていることからも、
屋敷の主が、藩の上級武士(家老クラス)であったことがわかります。
明治維新時に、本丸、二の丸の櫓など、城に伴う建物の大半が取り壊され、
明治九年(1876)の大火で、周囲のほとんどの建物が焼失する中残った、
出石藩時代の面影を偲べる重要な建築資産と言えるでしょう。
その後、公共施設として使われたことから、用途に応じた改修がされ、
曳家により、若干場所が移るなどの変化はありますが、
基本的な建築材や部屋割はほぼ往時の姿をとどめています。
建物内では、そうした構造を見ることができるほか、
江戸時代後期の武士の暮らしの一端を感じることができます。
なぜ、二階建てを隠すような外観になっているか、
その答えが見つかるかもしれません。 」
100円を支払い、建物に入ると、狭く急な階段に、「隠し二階」 の説明板があった。
「 この隠し二階は、十二畳と七畳の二間あり、
敵から襲撃を防いだり、秘密の会議に利用したものです。
二階に上ってのち、階段を上に引き上げ、天井板で隠してしまい、
下から見るとまったく二階がないように見せかけ、身を守る仕組みになっています。 」
二階の部屋は、隠し部屋と思えないおしゃれな部屋で、明るく快適なものだった。
その奥に押し入れに、 説明板があった。
「 この押し入れの棚は強く出来ており、
足場として屋根づたいに出入りでき、外へ通じるようになっています。
”いざ”というときの逃げ道、隠密などの出入口になっていたものです。 」
家老屋敷を出て、振興局の手前の道に戻り、左折して少し進むと、 大きな時計台(辰鼓楼)があり、その先に橋が架かっている。
説明板「辰鼓楼(しんころう)」
「 廃城となった出石城三の丸大手門石垣を利用して、明治四年(1871)に建設された。
名称の「辰」は時間、「鼓楼」は太鼓を叩くやぐらを意味する。
高さ約十三メートル。 内部は四階建の構造。
かって城下町の人々は寺院の鐘で時刻を知ったが、明治時代に入り、
これに替わるものとして、竣工した。
当初は最上階から太鼓を鳴らして時刻を知らしていたが、
明治十四年(1881)にこの町で開業していた医師、池口忠恕が大時計を寄付してからは
時計台となった。
池口は大時計を寄贈するにあたり、青年二人を東京(一説では長崎)に派遣して、時計作りの研修・製作をさせたといわれる(現在の時計は電気式)。
同じ明治十四年に時計が設置された札幌時計台とともに、
日本最古の時計台として親しまれている。
豊岡市教育委員会 」
橋の北側は城下町になっていたようで、「大手通り」 の標示板がある。
奴姿の看板の下に、 「←酒蔵 (八木町) 役場 出石城跡→」 の道標があった。
その先は、出石そばやお土産や多くある商店街である。
出石そばは、町内のいたるところで食べることができる。
小生は城めぐりを終了してから、店に入っていただいた。
小さな出石焼の小皿に、手打ち蕎麦が盛られていて、五皿を一人前として、 追加すると更に、三皿が提供されるスタイルのようである。
出石焼の大きなとっくりから、汁を注ぎ、薬味はねぎ・大根おろし・わさび・海苔、
そして、生卵をお好みでチョイスし、いただく。
汁は濃くややからめで、 麺は、黒い実をそのまま挽く 「丸挽き」 のそば粉で、
つなぎが10対1の十割そばで、腰が強い。 おいしくいただいた。
関西はうどんばかりと思っていたが、信州からの伝来という歴史を知り、
また、当地に根ずいた文化に得心した。
以上で、出石での旅は終わった。
所在地:兵庫県豊岡市出石町内町ほか
JR山陰本線・福知山線豊岡駅・江原駅・八鹿駅から全但バス「出石行き」で約30分
旅をした日 令和四年(2012)四月八日