若狭は、朝鮮語・ワカサ(往き来) が、 訛って宛字した地名である。
若狭地方は、太古の白鳳時代以前から開け、若狭国造や角鹿国造により管理されていた。
七世紀に、若狭国と角鹿国を統合し、若狭国になった。
大和王朝との関係は深く、奈良時代には、御食国(みけつくに)として、朝廷に海産物を納めており、
また、奈良の東大寺で実施されるお水取りは、東大寺が小浜に持っていた荘園に由来するといわれる。
京都の日本側の玄関である若狭と京を結ぶ道は、古くから、塩をはじめ、さまざまな魚介類を運ぶため、二十以上に及ぶ多くの道が拓かれていた。
古来、若狭路は「 京は遠くても十八里 」といわれて、約七十二キロの道のりである。
古い道では、小浜から名田庄村をへて、美山町や京北町にいたる周山街道も、その一つである。
最短ルートは、小浜から遠敷川をさかのぼり、針畑峠を越えて、朽木村、久多から鞍馬街道に続く、
針畑越の道である。
人の行き来が多かったのは、京都の出町柳から、朽木宿を通り、熊川宿を経て、小浜にいたる道で、
この道は、 若狭道 とか、 鯖の道 とも呼ばれていた。
日本海の玄関であった小浜から、奈良や京都にはいろいろな物資が運ばれたが、
その中に海産物があり、江戸時代には鯖を一塩にし、鯖を背負い、京都まで運んだ。
この道を 鯖の道 と呼んたが、「鯖街道」 の名は最近になってからである。
小浜市内のいずみ町商店街(小浜市広峰)には、「京は遠くても十八里」 と書かれた、
鯖街道起点のプレートが建てられている。
また鯖街道資料館(鯖街道ミュージアム)も近くにあり、庭に 鯖街道の道筋を表した、
砂利敷きのものがある。
県道14号で小浜駅前交叉点に出て、国道162号を東に向かって進み、
湯岡交差点から国道27号を東に向ってすすむと、東小浜駅前交叉点に至る。
東小浜駅近くに、福井県立若狭歴史民俗資料館がある。
更に進むと、平野交叉点があり、左折して県道219号を進むと、JR平野駅がある。
交叉点を直進し、国道27号を進むと、若狭町日笠地区に入り、左手に上船塚古墳、
その奥に下船塚古墳がある。
「 日笠古墳群の上船塚古墳は、六世紀前半に造られた全長七十七メートルの三段築成・前方後円墳である。
しかし、旧形態は欠けているように思えた。
下船塚古墳も、ほぼ同規模であるが、これよりも遅く、六世紀中期である。 」
JR小浜線の上中駅の近くに、若狭町上中庁舎があり、その隣に、
若狭町歴史文化館(上中公民館)がある。
若狭町歴史文化館では、古墳時代に築かれた上中古墳群の出土品の紹介をしている。
「
若狭町は平成の大合併で誕生した町で、以前はこの地は旧上中町であった。
隣の三方町と合併して、若狭町となった。
上中地域は、北川を下ると、朝鮮や九州の玄関であった若狭湾で、また、南下をすれば、近江を経て、大和へ至る最短ルートに位置する交通の要衝であった。
こうしたことが、この地域に重要な古墳が造られた大きな理由であろう。
若狭地方最初の前方後円墳は、五世紀初めに、脇袋に造られた、全長百メートルの上ノ塚古墳で、
若狭地方最大の古墳(国指定史跡)である。
その後、造られた脇袋の西塚、中塚の古墳も前方後円墳で、いずれも、平地に造られ、
表面には葺き石、埴輪を備えて、盾形の周濠をめぐられている。
五世紀中頃に造られた向山1号墳の石室は、本州で一番古い横穴式石室である。
六世紀初めに造られたのは、天徳寺古墳群に属する十善の森古墳である。
六世紀中期を過ぎると、前方後円墳に代わり、円墳に巨大な石材を使った横穴式石室の丸山塚古墳や、
大谷古墳が造られた。 」
若狭町歴史文化館でいただいた資料には、 「 これらの古墳は若狭をしきった王族のものだろうが、これだけの数と規模は大和政権との関わりの強さをうかがうことができる。 」 、とあった。
上中駅に行く手前に、瓜割の滝口交叉点がある。
交叉点を右折し、狭い道を登って行くと、若狭瓜割名水公園の駐車場がある。
駐車場から、 「馬頭観音道」 の石碑を見ながら、小さな石橋を渡ると、右手に天徳寺があった。
四百メートル行くと、若狭瓜割名水公園がある。
「 天徳寺は、真言宗の寺である。
養老七年(723)、泰澄大師の開基と伝えられ、平安時代には村上天皇の勅願寺となり、
その年の年号の天徳から、名付けられた、という寺である。
弘法大師が堂屋を建立したと伝えられ、
裏山には、弘法大師が佐渡の石工に刻ませたと伝わる八十八体の石仏が並んで建っている。
境内を覗くと、本堂の前の苔むした庭が美しかった。 」
天徳寺を過ぎて、小川に沿った歩道を歩くと、小さな滝があり、その先に鳥居と説明板が建っている。
鳥居の先の岩間から、清水が湧き出ていて、両脇に、しめ縄が祭られていた。
説明板「名水百選 瓜割の滝」
「 泰澄大師の昔から、神泉 と尊ばれた瓜割の清水は、
五穀成熟諸病退散の効あり、また、水中の石には、珍しい紅藻類が生育している。
山あいから湧き出る清泉で、一年を通して水温が変わらず、
夏でも水につけておいた瓜が、割れるほど冷たいことから、その名前がつけられた。 」
駐車場の一角に水汲み場があり、多くの人が水をペットボトルに入れていた。
小生も、水をくんで自宅に持ち帰ったが、評判に違わぬ良い水だった。
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◎ 熊川宿
「 元亀元年(1570)四月、越前の朝倉氏を攻めた織田信長は、
浅井長政の裏切りにより、撤退を余儀なくされた。
北国街道は、浅井氏の管理下にあったため、この道は利用できない。
そのため、豪族・朽木氏の管理下にあった、道を騎馬で駆け抜けて、京都へ帰り、
窮地を脱した。
このことから、この道が広く知られるようになった。
二十年後の天正十七年(1598)、小浜城主となった、浅野長政が、
若狭と近江の国境に位置した熊川宿を軍事、交通上の要地として、
諸役免除にして、町奉行を置き、宿場町としての発展の基礎を築く。
その後も、代々の城主がこの政策を受け継いたので、街道の整備が進み、
現在、鯖街道といえば、このルートを指すのである。 」
国道を、西に向かい、JR上中駅を過ぎると、三宅交叉点がある。
鯖街道はここで右折して、国道303号を北川に沿って進んで行く。
右側に、道の駅若狭熊川宿がある。
「 熊川宿は、上中駅の東南五キロ程のところにある。
上中駅から西日本JRバスが近江今津駅行きとして運行していて、道の駅若狭熊川宿バス停下車すれは、バスで行ける。 」
駐車場に車を置いて、道の駅の脇の狭い道を下って行く。
左側に、「重要伝統的建造物群保存地区 熊川宿 」 の案内板が建っていて、
上ノ町・中ノ町、・ノ町に分かれ、 川に沿って約1、4キロの町並みが残っている。
案内板の先には、「鯖街道 熊川宿」 の道標があり、「 小浜へ四里、京へ十五里、
今津四里半 」 と書かれていた。
復元された熊川番所があった。
「 熊川番所は、小浜藩の管理で、「入り鉄砲 出女」 の統制が特に厳しく行われ、 出入りの物資にも課税が行われたところである。 」
上ノ町の集落を歩いて行くと、右側に街道の往来に邪魔になったように思われる大きな岩があった。
道の反対側には、藁屋根だったと思われる大きな家が建っている。
「
熊川宿は、鯖街道沿いで最も繁栄した宿場町であるといわれるが、
もとは、戸数四十ほどの小さな寒村だった。
室町時代に、足利将軍直属の沼田氏が、戦略上の要地として、山城を構えた。
天正十七年(1598)、小浜城主となった、浅野長政が、
若狭と近江の国境に位置した熊川宿を軍事、交通上の要地として、
諸役免除にして、町奉行を置き、宿場町として、特別の発展を図った。
江戸時代初期から中期にかけて、熊川宿の戸数は二百戸になったが、明治時代に入り、
街道を通る人が減り、現在では百戸ほどに減った。 」
左側に、この地にあるのが不思議と思える、大きな病院がある。
河内川の橋を渡ると、中ノ町に入り、左側に逸見家の屋敷が続いている。
「 この屋敷は、 逸見勘兵衛家の屋敷跡である。
旧逸見家は、伊藤忠商事二代目社長になった伊藤竹之助氏の生家である。 」
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その先の左奥にあるのは、宿場館である。
「
昭和十五年に、熊川村役場として、建築された建物である。
トスカーナ風の柱頭をもつ円柱が建ち、
寄棟瓦葺の二階屋根の中央には、越屋根が付いている、 中々立派な建物である。
平成九年に、 熊川宿、若狭街道の歴史を物語る拠点として、 歴史資料館として、整備された。 」
その先には、漆喰壁の家が多く残っている。
右側の 「まる志ん」 という店には、 「 葛ぜんざい、鯖ずし、焼鯖ずし 」 の看板があったが、まだ開店していなかった。
「 室町時代から江戸時代にかけて、若狭の行商人たちは、
小浜に水揚げされた鯖を一塩にし、牛馬や荷馬車で、熊川宿まで運んだ。
熊川宿からは行商人たちが、鯖を背負い、京都まで歩いて運んだ。
夜明け前に、小浜を出発した鯖は、夕方には京都に到着した、という。
若狭〜京都間をリレー方式で、運搬した訳であるが、京都に着く頃に塩がほどよくなじむため、
京の人々から、若狭の一塩物として、珍重されたのである。
京都の鯖すしは、これを抜きに語ることはできないだろう。 」
道の左側にある用水は前川である。
その先のベンガラ色の屋敷は、勢馬家である。
説明板「旧問屋菱屋」
「 街道が繁栄した頃は、十数軒の問屋と脇問屋があり、
最盛期には、年間二十万駄の荷物の荷継場として、その問屋場に、馬借・背負人が群がった、といわれる。
勢馬家は、菱屋という屋号で、問屋を営むと同時に、宿場役人として、
藩の御用や宿場の自治に貢献した。 」
手前に、「看護老人ホーム 松寿苑」 の看板があり、「熊川陣屋跡」 と書かれていた。
「 熊川陣屋が設けられたのは、慶長六年(1601)に、小浜藩主となった京極高次の時代である。 」
入っていくと、松寿苑の手前の小川に、古い水車があった。
その先も古い家が続く。
左側に、 「白石神社」 の鳥居があり、「 熊川城址」 の看板があった。
左側の石段を登り、白石神社をお参りした。
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神社の参道を登って行くと、常夜燈の向うに小高い山がある。
百メートル先の山上に、関東沼田氏の一族・沼田勘解由の居城であった、熊川城があったという。
「 沼田氏は、足利時代からこの地に居住した土豪である。
若狭記によると、 「 永禄十二年、松宮玄蕃との争いで敗れ、近江に逃走。
松宮氏が、沼田氏が支配した、遠敷郡新道・河内・熊川を領有することになった。 」
と記されている。
それ以降は、松宮氏がこの城を使っていたようで、元亀元年(1570)、
織田信長が、越前朝倉攻めの途中に、一夜を過ごしている。
天正十二年(1584)、丹羽長秀により、破却され、廃城になった、と思われる。 」
白石神社の石段を降りると、隣に 庵谷山得法寺という寺があった。
「
得法寺は、 蓮如上人ゆかりの寺で、 文明七年(1475)、越前の吉崎御坊を退去して、
海路若狭小浜へ向かわれたが、 大嵐に遭遇し、船が転覆しそうになった時、
上人は、六字の名号「南無阿弥陀佛」 をお書きになり、 船首に掲げると、風波はおさまり、
無事、小浜に上陸された。
上人は、小浜に滞在中、 熊川にお越しになり、三日間この寺に逗留された。
その際、寺に六字の名号を授けたので、 この寺は、天台宗から浄土真宗に変わった。 」
また、蓮如上人の 「旧跡 八の房の梅」 の案内もあった。
街道に戻ると、漆喰壁の家の脇の路地に、「御蔵道」 と書かれた、小さな石柱が建っている。
説明文
「
藩の蔵屋敷まで米俵を運ぶ時、この道を使ったので、その名がついた。
藩の蔵屋敷は、現在の松木神社の境内にあったが、荷物は陸路の他、北川を川船を使い
、この路地を使って運びこんだ。
その際、舟一艘の積荷は十二駄(米俵三十六俵)で、船頭・棹さしに、舟を引く人五人で、
川を遡ってきた。 」
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道は右にカーブするが、左側に松木神社の入口がある。
「
松木神社は、昭和八年の創建で、江戸時代の義民・松木庄左衛門を祀っている。
関ヶ原の合戦後、若狭の領主になった京極氏は、小浜城築城のために年貢の取立てで、
領民を疲弊させ、次の領主の酒井忠勝も苛政を続けた。
寛永十七年(1640)、若狭三郡の庄屋らが、新道村の庄屋・松木庄左衛門を総代に選び
、領主に訴願することになった。
嘆願すること、十数回、九か年に及んだが、藩の同意は得られず、
慶安元年(1648)には、嘆願した庄屋たちが投獄された。
離反者の出る中、運動を続けた庄左衛門は、投獄五年目にして、目的を貫徹することができた。
しかし、庄左衛門は、強訴の見せしめと、藩の武威を傷つけたとして、
慶安五年(1652)、日笠川原で磔刑に処せられ、二十八年の短い生涯を閉じたのである。 」
松木神社の道の反対側に、「旧問屋倉見屋」 の説明板が建っている。
説明板「旧問屋倉見屋」
「 荻原家は、問屋のうちの一軒で、屋号をくらみやといい、 本屋・土蔵、それをつなぐ
付属屋、という、問屋家の形式を残す建物である。
文化六年の建築で、熊川で一番古い建物である。 」
更に、道を進むと、左に曲がり、下ノ町になるが、これといったものはないようなので、 ここまでとして、道を引き返し、道の駅まへ戻った。
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◎ 朽木宿
国道303号を南西に進むと、福井県から滋賀県に変わる。
寒風トンネルを抜けると、今津町保坂の三叉路交叉点で右折し、
国道367号に入る。
鯖街道は、この先、朽木宿を経由し、京都府に入り、大原・宝ヶ池を経て、出町柳まで続く。
道の両脇に、立派な檜並木があり、 檜峠を越える。
三石で麻生川に沿って南下し、山神橋交叉点を過ぎると、滋賀県高島市朽木市場(いちば)で、
東側には安曇川(あどがわ)が流れ、江戸時代には川船による交通の要衝で、
鯖街道の宿場・朽木宿に到着する。
道の右(東)に、くつき新本陣という道の駅がある。
バス利用では、JR湖西線安曇川駅より、江若バスで朽木学校行きで30分。
京都出町柳から京都バスで、約1時間30分(大原から約40分)
道の反対に、「鯖街道朽木宿」 の木柱が建っているので、狭い道に入っていく。
道を歩いて行くと、道が左に曲がっていくところに、 鍵曲 の説明板が建っている。
説明板「鍵曲(かいまがり)」
「 城下町に特有の構造で、折れ曲がる街路が、土蔵のかぎの形に似ていることから、
そう呼ばれた。 」
その先には、「市場」の説明板が建っている。
「 このあたりは、市場と呼ばれ、若狭の海産物や琵琶湖の湖魚・
京の日用品などが集まる物流拠点として繁栄したところである。
朽木宿(朽木庄)は、古来、朽木谷、あるいは、 朽木郷、朽木杣とも呼ばれてきた。
地元には、奈良時代、朽木谷から朽木の杣(材木)を、東大寺の建築用材として、
筏で搬出した記録が残っている、という。
平安時代には、荘園名に朽木荘があるなど、朽木には千年以上の歴史がある。
鎌倉時代に入ると、佐々木氏の庶流・朽木氏が、承久の乱後、朽木庄の地頭職に補佐された。
朽木氏は、室町時代末期の政治混乱期に入ると、歴史の表舞台に登場した。
逃れてきた室町幕府十二代将軍・義晴や、十三代将軍・義藤を匿い、政務を補佐した。
織田信長が、越前の朝倉義影を討つため、敦賀まで兵を進めたが、
浅井長政の裏切りにより、急遽、京へと引き返すとき、
朽木氏の助けを借りて、難を免れた。
関ヶ原の戦いでは、朽木元綱は家康に内応し、所領を安堵された。
その子の時代に、所領は三人に分割されたが、長男は、準大名格で当地を領有し、
明治維新を迎えている。
江戸時代には、朽木元綱の屋敷跡に、朽木陣屋が置かれたが、現存していない。 」
説明板の先に、木造のモダンな建物があり、「丸八百貨店」 とある。
国の重要建造物に、指定されていて、現在は、喫茶店として営業していた。
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その手前の左側に、煉瓦積みの立方体のものがあり、そこに説明板が建っている。
説明板「立樋(たつどい)」
「 煉瓦積みのものは、立樋(たつどい)である。
町の西方山腹の湧水から導水し、サイホンを利用したこの立樋から、数軒の水仲間に供給している。 」
司馬遼太郎氏は、 「街道をゆく」 の中で、
「 道路わきを堅固に石がこいされて 溝川が流れており、家並みのつづくかぎり 軒が低く … 」
と書いているが、比良山系からの天然水が豊富で、江戸時代にも道の脇に用水が設けられて、
生活用水と、防火施設として利用されたようである。
「 室町時代の後期には、米や魚などを扱う商家が十七軒あり、
街道の荷物を扱う問屋や馬借(ばしゃく)もあった。
江戸時代に入ると、店の数も増え、日常に使う、米・魚・豆腐や雑貨・饅頭・呉服に止まらず、
医者・風呂屋・宿屋・駕籠かきなど、市場という名にふさわしい充実ぶりだったようである。 」
左側の赤黒い建物の前に、「旧商家・熊瀬家住宅」 の説明板がある。
説明板「旧商家・熊瀬家住宅」
「 熊瀬両家(仁右衛門家、伊右衛門家)は、酒造りや醤油造りを本業とする一方、
藩の御用商人として、手広く商っていた。 」
その先の奥まったところに、小さな蛭子(えびす)神社がある。
創建は不明であるが、市場の守り神として崇敬されてきた。
その先の民家の一角に、「鯖の道」 の石柱が建っていた。
その先には、地酒を扱う店もあったが、早い時間のため、閉まっていた。
少し歩くと、古びた建物がある。
壁に、「 造り酒屋 松宮家(木屋)住宅跡 」の看板があった。
右側の茅葺屋根の家の先の旧郵便局はウオーレスの設計した建物である。
この三叉路を直進し、北川を渡ると、陣屋跡に至るが、ここを左折し進む。
その先には新しい郵便局があった。
道は鍵の手のように曲がっていくが、その先の両側は農家だろうと思われる家が多い。
右側に、「旧圓満堂遺跡」 の説明板がある。
「 織田信長が、浅井長政の離反により、朽木谷を通って京都へ逃れる際、
当時の領主・朽木元綱は、通行を認め、道案内役を務めた。
元綱より、接待を命じられた長谷川茂政は圓満堂で、茶菓でもてなした。
その際、信長が着けていた革袴と銀箸を茂政に与えた 」
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その先の左側に、「曹洞宗 圓満寺」 の石柱があったので、狭い道を登っていく。
お寺があったが、前述の圓満堂と関係があるのかは書かれていなかった。
高台にあるので、ここから市場町が一望できた。
坂道を下り、街道に戻り、さっききた道を引き返す。
先程見た熊瀬家住宅の反対側に用水が流れ、その向うの民家の前に、「造り酒屋 熊瀬本家(狛屋)住宅跡」 の木札が建っていた。
この後、道の駅に戻り、かって、朽木氏の檀那寺だったという、朽木の名刹・興聖寺(こうしょうじ)に向かった。
興聖寺は、国道367号を京側に行き、右側の狭い道を入っていくと、山側にある。
司馬遼太郎の 「街道をゆく」 の中に、
「 むかしは近江における曹洞宗の巨刹として、さかえたらしいが、
いまは本堂と庫裡それに鐘楼といったものがおもな建造物であるにすぎない。 」
と書かれている寺である。
この場所は、京都を追われた室町幕府の第十二代将軍・足利義晴と、第十三代将軍・義輝が、
朽木稙綱を頼って、数年間滞在した居館の跡である。
慶長十一年(1606)、朽木宣綱が、亡き妻のために、寺とし、秀隣寺と号した。
のちに朽木村野尻に移転し、その跡地に興聖寺が建てられた。 」
興聖寺の本堂は、文政十一年に焼失したので、現在の建物は安政四年(1857)に、 朽木大綱の寄進で再建されたものである。
境内に、国の名勝に指定されている、旧秀隣寺庭園がある。。
「 この庭園は、享禄元年(1528)、朽木稙綱が、将軍・足利義晴のために、館を建てた際、
近隣の大名の協力を得て築造された、と伝えられる。
眼下に安曇川(あどがわ)の清流を俯瞰し、背後に、比良山系を借景として、
西側の築山に、石を利用した滝をしつらえ、屈曲した汀線を持った池に仕上げている。
緑の苔の上に落ちた椿の赤が強く印象に残った。 」
以上で、小浜来た鯖街道の旅を終えた。
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旅をした日 平成二十年(2008)四月十二日