名所訪問

「  若 狭 探 訪  」  

 (若狭彦神社・若狭姫神社・国分寺・神宮寺・小浜城跡) 

かうんたぁ。


JR小浜線東小浜駅で下車し、南口から東小浜駅口交叉点で国道27号に出て、 東に向かうと、若狭国分バス停があり、「若狭国分寺跡」 の説明板が建っている。

「 国分寺は、天平十三年(741)、聖武天皇の勅願によって全国に建立されたもので、 若狭国分寺は遠敷川と松永川によって、東西に囲まれ、南に国道によって区切られた 三角形の地形に位置している。 
国分寺の寺域は二町(230メートル)四方と推定され、伽藍は、南大門・中門・金堂・講堂が、 南から北に向かって配置され、中門の東に、塔を置くという形をとっていた。 」

国道から左に入ると、国分寺跡に、「中門跡」の表示があるだけである。

「 中門は、金堂の南に建っていた。
金堂は、本尊を祀る建物で、現在はその跡に、国分寺の釈迦堂(本堂)が建っている。 」

中門の東方に、仏舎利を納めた塔が建っていた、という。
塔の南西に鬱蒼とした樹が生える小山がある。
この小山は、 「国分寺古墳」 と呼ばれる、直径五十メートルの円墳で、 国分寺の社域に古墳があるのは、珍しいと思った。
鳥居の先の石段を登って行くと、若狭姫神社の小さな社殿があった。 
その先に、国分寺がある。

「 若狭国分寺は、十世紀中頃までは存在していたようであるが、 火災に遭い焼失していまった。 
その後、国分寺の名で再建されたが、戦国時代に焼失してしまっている。 
現在の寺は、曹洞宗の寺で、釈迦堂と、薬師堂、そして、鐘楼が建っているだけである。 

「 釈迦堂(本堂)は、慶長十六年(1611)に、旧金堂跡に建立された。
その後倒壊し、宝永弐年(1705)に再建された。
釈迦堂には、像高約三メートルの木造釈迦如来坐像(大仏)が、祀られている。
薬師堂には、鎌倉時代の木造薬師如来坐像(重要文化財)が祀られている。
国分寺を散策するのは、無料であるが、仏様を拝むには400円が必要である。 

国分寺中門跡 x 若狭姫神社 x 国分寺釈迦堂
国分寺中門跡
若狭姫神社
国分寺釈迦堂

この後、東小浜駅口交叉点まで戻り、交叉点を左折し、二百メートル行くと、 右手に若狭姫神社がある。

「 若狭姫神社は、養老五年(721)、若狭彦神社より、若狭姫大神(豊玉姫命)を分祀し、 創建された神社である。
若狭国の二宮とされるが、現在は、若狭彦神社を上社、若狭姫神社を下社として、 二社で、若狭国一宮・若狭彦神社と称している。 
なお、延喜式神名帳では、若狭比古神社二座 として、名神大社に列している。 
当社は、海彦、山彦の神話に登場する山彦と結婚した豊玉姫命を祀り、若狭姫大神、あるいは、 郡の名前から、遠敷(おにゅう)大明神を名乗り、安産育児に霊験があらたかな神社として、 多くの参拝客を集めてきた。 」

鳥居をくぐると、随神門があり、その前には、文化六年(1825)に、 若狭小浜の廻船問屋(北前船)の古河屋が奉納した石燈籠が建っている。 
門をくぐると、大杉が見えるが、これが、社殿垣内にある千年杉で、歴史の古さを感じられた
この他にも、境内には、多くの巨木が茂っている。 
境内には、 「子種石」 とよばれる陰陽石、 「乳神様」 とよばれる大銀杏などがあった。 
また、 「 水の国、若狭総鎮守、遠敷大明神霊水(桂の井) 」 の説明柱がある井戸がある。

説明柱の文面
「 白石地区にある神宮寺は、神仏習合時代には若狭彦神社の別当寺だった。 
二月堂記に登場する、 当神社は、東大寺修二会のお水取りを約し、  それ故、堂の右裏手には、古来、遠敷社が奉社されている。 」 

若狭姫神社鳥居 x 若狭姫神社社殿 x 桂の井
若狭姫神社鳥居
若狭姫神社社殿
桂の井

 

若狭姫神社を出て、南に二キロ位行くと、右手に若狭彦神社がある。

「 若狭彦神社は、最初は遠敷郡下根来村白石の地に、和銅七年(714)に創建され、 元正天皇の霊亀元年(715)に、現在地へ遷座された神社である。 
祭神は、若狭彦大神で、山彦の彦火火出見尊を祀っている。 
若狭彦神社と若狭姫神社は、若狭一宮と、二宮として別れていたが、何時の時からか分からないが、一緒になり、現在は若狭彦神社上社になっている。 
若狭彦神社は、古来、上社が祭祀の中心だったが、室町時代頃から下社に移り、 現在では、祭事のほとんどが、下社である若狭姫神社で行われて いて、神職も下社にのみ常駐しているようである。 」

若狭姫神社と違い、森閑として、人の姿はない。
参道の常夜燈の先の二本の大杉は、神社の二の鳥居と考えられる、と案内にあった。 
その先の神門をくぐると、若狭彦神社の社殿があった。
若狭彦神社は、畳や敷物業の神とされ、インテリア関係者の信仰も集めるとさせるが、 この静寂な神社からは想像できなかった。 

続いて、若狭神宮寺に向かう。 若狭彦神社から、八百メートル位か?
この道は、上根来に通じ、針畑峠越えの鯖街道である。 

「 神宮寺は、和銅七年(714)、泰澄大師の弟子による創建と伝えられる。
寺伝によると、 「 若狭彦命(遠敷明神)の直孫が、 山上に長尾明神を祀り、  その下に神願寺を創建し、翌年勅願寺となったことに始まる。 
鎌倉時代、若狭鎮守の若狭彦神社と若狭姫神社の別当となり、神宮寺と改称した。 」 とされる。 」

本堂は、天文三年(1533)に、朝倉義景によって再建された、 単層入母屋造檜皮葺で、  室町末期の代表的建造物として、国の重要文化財に指定されている。
本堂には、左に薬師如来などの仏像、右側には白石鵜之瀬明神や、和加佐彦比古などの神が、 祀られていて、神仏混淆の時代の姿が残っている。 
寺の北にある仁王門も重要文化財である。

若狭彦神社参道 x 若狭彦神社 x 神宮寺境内 x 神宮寺本堂
若狭彦神社参道
若狭彦神社
神宮寺境内
神宮寺本堂

神宮寺は、三月二日のお水送りで知られる。 
これは、奈良の東大寺二月堂に香水を送る神事である。 

「 東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)は、 天平勝宝四年(752)、  東大寺開山の良弁僧正の高弟・実忠和尚により、始められたと伝えられる行事である。
以来、一度も途絶えることなく続けられ、平成二十年(2008)で、千二百回以上を数える。 」

本堂の先にある清楚な建物の中には、 閼伽(あか)井戸がある。 
しめ縄が張られた岩の下から、水がこんこんと湧き出て、周りに流れていたので、柄杓で一口飲んだ。
若狭には、これにまつわる話が残る。

「 天平の昔、若狭の神宮寺から東大寺に行かれたインド僧・実忠和尚が、  大仏開眼供養を指導の後、二月堂を創建し、修二会を始められた。 
二月初日(旧歴)に、全国の神を招待され、全ての神が参列されたのに、  若狭の遠敷明神だけが来ず、ようやく、二月十二日の夜中過ぎに参列された。 
若狭の神は、川漁に時を忘れて、遅参されたので、そのお詫びをかねて、  若狭より二月堂の本尊へ、お香水の閼伽水を送る約束をされた。 
奈良東大寺二月堂の 「若狭井」 と名付けられた井戸は、 その時、地中から白と黒の鵜が飛び出て、 その穴から泉が湧き出たものである。
その水を汲む行事がお水取りである。 」

神宮寺の神事は、若狭の泉から、お水取りに使う水を奈良に送る行事である。
境内には、行事で使う護摩壇があった。 

境内のスダジイ(椎の木)は、 樹齢五百年を超すもので、小浜市の天然記念物である。
根は、四方八方に生え、生命のたくましさを実感した。

閼伽井戸(あかいど) x 護摩壇 x スダシイの古木
閼伽井戸(あかいど)
護摩壇
スダシイの古木


 

(ご参考) 若狭神宮寺の由来(若狭神宮寺でいただいた資料) 

「  この地方を拓き、国造りをした祖先が、遠敷明神(若狭彦命)である。
その発祥の地が、根来の白石で、都へ近道の起点に、良地を選び、 遠敷明神の直孫・和朝臣赤磨公が、八世紀初め山岳信仰で、 紀元前銅鐸をもった先住のナガ族の王を金鈴に表し、 地主の長尾明神として、山上に祀った。
その下に、神願寺を創建され、翌年勅願寺となった。
その秋には、紀元一世紀頃、唐服を着て白馬に乗り影向し、 すでに根来白石に祀られていた遠敷明神を、神願寺に迎え、神仏両道の道場にされた。 
これが、若狭神宮寺の起源である。
鎌倉時代初期に、若狭彦神社の別当寺となり、神宮寺と改称した。 」 

 

JR小浜駅から、北に約千六百メートル、城内バス停で降りると、右手に福井家庭裁判所小浜があり、その先の雲浜保育所前交叉点を左折すると、正面に小浜神社がある。
ここは、小浜城の本丸跡である。

「 小浜城は、雲浜城とも呼ばれた。 
関ヶ原の戦いで、功績をあげた、大津城主・京極高次は、徳川家康より、若狭国を拝領、 慶長六年(1601)、南川と北川と小浜湾の三角洲に、城を築き始めた。その子・忠高に至る三十三年間に、城の大半を造ったが、完成を見ずに、 寛永十一年(1634)、出雲松江に転封になった。
代って、藩主になった、酒井忠勝は、若狭国一国、越前・近江・安房に加増され、小浜に移り、 十二万三千五百石を領し、将軍・家光から、忠勝一代は国持大名とされた。
城は、二条城の様式を取り入れるなど、大幅に城の縄張を変更し、 寛永十五年(1638)には三層の天守を築くなどして、寛永十九年(1642)に完成した、 
城は、海岸城の平城で、東西百五十六間(284m)、南北百四十五間(264m)、 外濠を除いた敷地面積は、一万八千九百三十七坪で、本丸・内掘を挟んで、 北側に北の丸・西側に西の丸・南側に二の丸・ 東側に三の丸を配し、それを南川と北川と小浜湾で防御する縄張であった。
酒井家は明治維新まで、十四代二百六十年の長きにわたり、城主を勤めた。 」

明治に入り、城に大坂鎮台の第一分営が置かれたが、明治四年の火災で、城の大半は焼失した。
天守も撤去されてしまった。
更に、北川の河川拡張のため、旧城地が削られた。
現在残る城の遺跡は本丸跡に残る石垣だけである。

城跡に、明治八年(1875)、小浜神社が建立された。

「 小浜藩の家臣達により、明治八年(1875)、 初代藩主・酒井忠勝と、城の境内に祀られていた、天御中主大神を祭神する、小浜神社が建立された。 」

天守跡に登ると、空地になり、木柵で区切られていた。
その先には、住宅が建ち並び、その先に小浜湾が見えた。

「 天守閣があったところに上ると、その先に海や二つの川が見えたが、 その前には沢山の家が隙間なく建っていた。 
明治以降、本丸跡以外は住宅地と河川に変わり、往昔の面影は残っていなかった。 」

小浜城址石垣 x 小浜神社 x 天守閣跡
唯一残る石垣
小浜神社
天守閣跡

旅をした日   平成二十年(2008)四月十二日




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