織田家筆頭家老の柴田勝家は、
越前国の戦国大名、朝倉氏を滅亡させた功により、
織田信長から、越前国四十八万石を与えられ、
天正三年(1575)、北ノ庄に、九階の天守閣を持つ日本最大の城を築いたとされる。
柴田勝家によって築城された、巨大な近世城郭・北の庄城は、
ルイスフロイスの記録によると、
「 屋根は、丸岡城と同じく、石瓦葺(福井名産の笏谷石)で、
街の規模は、安土城の二倍はあった。 」という。
本能寺後の天正十年(1582)の清須城での清洲会議で、勝家は秀吉と対立する。
柴田勝家は、翌天正十一年(1583)、賤ヶ岳の戦いに敗れ、北の庄城まで、撤退するも、
秀吉軍に、城を包囲されてしまう。
追い詰められた勝家は、自ら城に火を放ち、妻のお市と共に、最後を遂げた。
江戸時代に入り、福井藩藩祖・松平秀康(家康の次男・結城秀康)が、
柴田勝家が建てた北の庄城を含む、二キロ四方の地に、城を築いたため、
勝家の建てた城の遺構はほどんど残っていない。
福井駅前には、数体の恐竜の動く置物があり、壁面には恐竜が描かれている。
福井県勝山からは、今まで発見されなかった新種の恐竜が見つかり、博物園もできた。
勝山は恐竜王国として、子供に人気があり、
そのためのPRとして、駅前を賑わせているのだろう。
福井を訪れた目的の一つに、ソースかつ丼がある。
小生がソースカツ丼に出逢ったのは南会津の田島である。
その後、栃木県の旧会津街道の沿線や桐生、足利で食べた。
これらは、ご飯の上にキャベツがのせられ、その上にソースをかけたカツがのっていた。
その後、愛知県東部と南信濃の駒ケ根で、ソースカツ丼に出逢った。
こちらは、キャベツのないものだった。
当時そのルーツを探すため、
ホームページの旅楽に「ソースカツ丼のルーツを探る」というコーナーで投書を受けると、
東京とする意見があったが、福井のヨーロッパ軒とする意見も寄せられた。
その後、テレビでソースカツ丼が取り上げられ、
駒ケ根の町おこしとして、ソースカツ丼と、発祥とされる福井のヨーロッパ軒が
放映された。
一度福井へ行かねばと思っていたが、千葉県船橋市に転居したので、
未訪問のままだった。
今回の城訪問のついでに訪れることができた。
ヨーロッパ軒のソースかつ丼は、 豚肉の薄いものをカツにしたもので、
軽いソースであっさり味付けものをご飯にのせたものである。
これまで食べたもので、一番シンプルだった。
そのため、追加できるソースが用意されていたが・・・
関東育ちの小生にはもの足りなかったが、関西圏の福井ではこの味なのだろう。
店内は訪れた有名人の色紙で一杯だった。
柴田勝家の北の庄城の跡と、推定されているのが、JR福井駅の西南にある、柴田公園である。
福井駅西口から、線路に沿って南へ、ハピリン、福井マンテンホテル駅前を過ぎたら、右折する。
目の前の信号交叉点を横断し、駅前商店街に入ると、百メートルの所の左側に、柴田神社の鳥居がある。
鳥居を通り抜けて、反対の大通りに出ると、
「北の庄城址、柴田公園」 の石碑が建っている。
「 織田家筆頭家老の柴田勝家は、
越前国の戦国大名、朝倉氏を滅亡させた功により、
織田信長から越前国四十八万石を与えられ、
天正三年(1575)、北ノ庄に九階の天守閣を持つ日本最大の城を築いたとされる。
北の庄城は、ルイスフロイスの記録によると、
「 屋根は丸岡城と同じく石瓦葺(福井名産の笏谷石)で、
街の規模は安土城の二倍はあった 」という。
右下の写真は、北の庄城の想像図であるが、立派な城郭であったことが分かる。 」
公園のプレートが敷きつめられた空地の先の一段高いところに、
「瓶割り柴田」 と、称された柴田勝家の銅像が建っている。
槍を持つ堂々たる姿の柴田勝家像はまさに「鬼柴田」である。
勝家像の左手には、柴田神社の社殿と、北ノ庄鎮守稲荷大明神の祠がある。
「
柴田神社周辺は、柴田勝家が築いた北の庄城(1575-1583)の天守閣跡 と、伝えられてきた。
江戸時代の慶長六年(1601)から慶長九年(1604)にかけて、結城(松平)秀康が、跡地の上に、
近代城郭(後に福井城と改名)を築城したため、
柴田氏北ノ庄城の遺構は殆ど残っていない。 」
「北の庄城址」碑の裏側に、門の礎石らしき跡がある。
その説明板には、
「 福井城 三の丸南曲輪にあった「日向門」の礎石が、ここから見つかったため、礎石の痕跡を標示している。 」
とあるので、これは、結城(松平)秀康が築いた福井城の三の丸が明治に壊された時、残されたものである。
勝家公銅像の向かい側に、大きな穴がある。 これは発掘調査後、残されたものである。
穴を覗くと、石がいくつか露出している。
説明板
「 これが、北の庄城の石垣と堀の遺構である。 発掘調査で、出土した北ノ庄城の堀跡である。
発掘調査により、この石垣は、本来は高く積まれていたが、江戸時代、結城秀康の福井城築城に際し、取り除かれ、
石垣の礎石のみ残ったと考えられる。
石垣はここより南でも発見され、石垣の前面は、掘が広がっていた。 」
柴田神社の拝殿下の石垣は、 発掘された状態で展示されている。
「 この石垣は、福井城の三の丸の南に位置する曲輪の南西にあたり、
当時は今の石垣よりさらに数段高く積まれていた。
堀はここより西の約百五十メートル続き、堀の幅は約十八メートルあった。 」
「柴田勝家 お市の方 三人娘」 の説明板がある。
「 北近江の戦国大名だった浅井長政(小谷城主)に嫁ぎ、 三人の娘を産んだお市の方は、浅井氏滅亡の際、小谷城から逃れ、 信長の元で暮らすも、清洲会議後に、柴田勝家と再婚し、 三人娘と共に、 ここ越前北ノ庄城で暮らした。 」
ここには、お市の方の銅像と、「北の庄城 お市の方 殉報将士慰霊碑」がある。
また、 三姉妹の像と、 三姉妹神社の祠があり、 若い人たちのお参りが多いようである。
九十九橋は、 北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋である。
ここにあるのは、それをイメージして、公園に設置されたもので、
欄干の部分は、往時から残された旧石材である。
説明板「九十九橋(つくもばし)」
「 朝倉時代からあったが、柴田勝家が、半石半木の橋を架けたと伝えられる。
江戸前期の 「越前国地理指南」 では 「 大橋長八拾八間、幅三間、板橋四拾七間、
石橋四拾一間 」 と記されている。
架け替えは、江戸時代に十回以上行われ、明治七年(1874)に、半石半木の橋として、
最後の架け替えが行われた。
明治四十二年(1909)に、木造トラストの橋に架け替えられた。
現在の九十九橋は、鉄筋コンクリート製である。
説明板に、明治初期の九十九橋の写真がある。
葛飾北斎の 「諸国名橋奇覧」 の 「ゑちぜんふくゐの橋」に、
江戸時代の半石半木の橋の様子が描かれている。 」
柴田神社の本殿の左手には、「北の庄城址資料館」があった。
以上で、北の庄城の見学は終了である。
旅をした日 平成二十九年(2017)九月二十日