福井城は、柴田勝家が築いた北ノ庄城の跡地に、
福井藩六十八万石の藩祖・松平秀康(家康の次男・結城秀康)が、
慶長六年(1601)から慶長九年(1604)にかけて、家康の
天下普請の命令の元、名実共に松平家の居城にふさわしい城となるよう築かれた平城である。
最初は、北ノ庄城と呼ばれたが、
寛永元年(1624)、福井藩第三代藩主・松平忠昌は、
北ノ庄城の北の字が敗北にあたり、不吉であるとして、
福居に改名した。
後に今の福井に改名されたといわれる。
続日本100名城の第138番に選定されている。
福井城跡として残るのは、本丸の石垣と水堀でだけである。
JR福井駅の西口から北西に二百メートル行くと、城の水堀があり、信号交叉点を渡り、
土橋を渡り、本丸跡に入る。
本丸跡には、左側に、県警本部、中央に福井県庁、右側に県議会議事堂の建物が建っている。
「 福井城は、東は新堀川(現在の荒川)、 南は足羽川、
北は加賀口馬出までの二キロメートル四方に及んだ広大な敷地の城であった。
五重の水堀が囲む、本丸北西隅に、天守曲輪と天守台の二段の石垣を積んで、
望楼型四重五階の天守が建てられた。
寛文九年(1669)に焼失後は、同時に焼失した本丸南西隅の二重巽櫓を三重にして再建し、
これを天守の代わりにした。
明治の城廃城令により、福井城の建物は壊されたが、明治二十三年(1890)、松平家が土地を買い戻し、
農場にしていたが、売却を決断し、処分された。
そこ結果、福井城としての遺跡はほとんどなく、城の周囲はJRの駅を始め、完全に市街地になっている。 」
江戸時代には、内堀にかかる御本城橋を渡ると、桝型をした瓦御門が建っていた。
そして、その先に、広大な本丸御殿が建っていた。
門に入ったところにある、石垣は瓦御門の一部であろうか?
本丸御殿跡に建っている県庁前に、 「結城秀康」 の銅像が建っている。
「傍らの石碑の文面」
「 結城秀康は、 柴田勝家に始まる城下町の大改造に着手し、
都市としての福井の原形を作り、今日の福井市発展の礎となった。 」
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県警本部は、 本丸の 「表舞台跡」に建てられている。
県警本部の建物前を北に行くと、江戸時代には、左手に、山里口御門があった。
そして、その先の内掘には、 渡御廊下橋 が架かっていた。
説明板「山里口御門」
「 山里口御門は廊下橋御門(ろうかばしごもん)、
天守臺下門(てんしゅだいしたもん)とも呼ばれ、
福井城本丸の西側の入口を守る門である。
本丸の西に繋がる西二の丸には、江戸初期から松林があり、
城内にあって、のどかな山里の風趣を味わえる遊興の場であり、山里丸と呼ばれていた。
山里口御門は、この山里丸から、本丸への入口の門として、
城の創建当時(1606年)につくられた。
寛文の大火(1669)で、天守閣や櫓とともに焼失しましたが、その後、再建された。
現在の中央公園の場所に、御座所があった松平春嶽などの時代には、
藩主が御座所から御廊下橋を渡り、
山里口御門をくぐって、本丸へ向かったと考えられている。
枡形石垣が残り、また、石垣に、柱の跡や屋根の傾斜跡が残っていたので、
これを手がかりに、復原工事が進められた。 」
小生が訪問した時は廊下橋は完成していた。
平成二十六年から平成二十九年まで、山里口御門の復元工事が行ない、
櫓門・廊下橋などが復元、枡形が整備される予定で、
訪れた時は工事の最中だった。
(注) 現在は完成していて、福井市中央公園と、福井城山里口御門の間は、廊下橋で繋がっている。
右手の石段の先にあるのが、天守櫓台である。
本丸の北西角に位置する。
石段を上がると右手に井戸があり、「福の井」 とあった。
石垣の前に、「天守閣と福の井」 という説明板が建っている。
説明板「天守閣と福の井」
「 ここは福井城の天守閣跡である。
福井城は、もと、北ノ庄城と称され、慶長六年、
福井藩祖・徳川秀康が之を改築して、ここに天守閣を築いた。
爾来、明治維新まで約二百六十年、 当城は、福井藩主松平家の居城であった。
ここにある井戸は、 福の井 と称せられ、当城改築以前からここに存し、
名井戸として知られていた。
寛永元年(1624)、当地の名称、北ノ庄が福井に改称されたが、
その由来は、この福の井の名に因んだものと伝えられる。
この井戸には、城外へ通じる抜け道がある、との言い伝えがある。 」
左側の石垣の中に、天守が建っていた。
「 福井城の天守は、天守台も含めて、約三十七メートルの高さである。
外壁は、白漆喰総塗籠の仕上げで、
最上重には、外廻り縁高欄と、西面に向唐破風があり、
元和大坂城天守に見られるような配置に、破風が並べられていた。
残されている天守絵図によれば、外観は四層であるが、
最上層の階高を高くとって、二階分の床を張っており、内部は五階になっている。
絵図では、高さが約二十八メートル、天守台を含めると約三十七メートルにもなる。
寛文九年(1669)に焼失した後は、藩財政の悪化や幕府への配慮などから、再建されることなく、
その時、類焼した本丸南西隅の二重巽櫓を三重で、再建し、天守の代用とした。 」
左側の両側に石垣があるところが天守があったところである。
今に残る天守台と控天守台には大きな礎石が並んでおり、
天守台の北半分に天守閣が建っていたのだろう。
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天守閣跡の石段を上ると、と広い空地である。
「 明治維新後、福井城の建物は本丸御殿の一部が、
市内足羽5丁目の瑞源寺本堂及び書院に移築された。
その他の建物は、廃却され、外掘も埋められた。 」
眼下には復元された御廊下橋が見え、
堀の向うには福井神社があり、松平春嶽像がある。
本来なら御廊下橋の下に水があるのだが、工事で水は抜かれていた。
天守台の対面にあるのは、控天守台である。
説明板「控天守台」
「 この控天守台跡の石垣には、
福井震災(1948年6月)等による崩壊の跡が残っています。
悠遠の時の流れに思いをはせることができます。 」
天守の先の道を下ると、「石垣に残る塀の痕跡と刻印」という説明板がある。
説明板「石垣に残る塀の痕跡と刻印」
「 下から三段目の石にみられるハの字の形の溝は、
ここに取り付いていた塀の屋根の垂木、あるいは、屋根瓦が食い込んでいた跡です。
一段目の右に彫られた十字形の印は、 刻石 といいます。
石を切り出したり、納入した石工の目印、
あるいは、石段を築く時の目安などと、いわれています。 」
福井空襲や福井地震で、福井城は全てなくなったと思っていたので、 天守の石垣を見ることが出来ただけで満足した。
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福井城へはJR北陸本線福井駅から徒歩5分
旅をした日 平成二十九年(2017)九月二十日