一乗谷城は、戦国大名朝倉氏の山城と、朝倉氏の館がある城下町で、構成されていた。
日本100名城の第37番に選定されている。
一乗谷城跡は公共交通が不便なので、福井駅からレンタカーで向かった。
「 一乗谷城は、福井市街の東南方向に、約十キロ離れた九頭竜川支流の足羽川の支流・
一乗谷川沿いの谷あいにある。
一乗谷は、東西約五百メートル、南北約三キロメートルと、狭小だが、
福井平野から山地に入ってすぐの場所に位置し、
数キロ手前に、北陸道、大野盆地に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中へ続く街道、
北陸道と連絡した朝倉街道、などが通る交通の要衝を押える位置にあった。
そこに目を付けた朝倉孝景が、越前守護・斯波氏を破った、文明三年(1471)に、
一乗谷川沿いのこの地に、一乗谷城<を築いた。 」
最初に訪れたのは、一乗谷駅の先、足羽川のほとりに建つ、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館である。
「 この施設は、朝倉氏遺跡を発掘調査した際出土した遺跡を保管、展示している。
また、発掘調査に基づいて製作された館の復元模型も展示されている。
入場料100円。 」
館員の話では、 「 一乗谷城は、朝倉氏の館を中心とした城下町と、
それを防御する山城から構成されていた。
一乗谷は、 東・西・南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害である。
南北に、城戸(きど)を設けた長さ約千七百メートルの城戸ノ内に、
朝倉氏の館・侍屋敷・寺院・職人や商人の町屋が、道路の両面に建ち、
日本有数の城下町を形成していた。
周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞だった。 」
という。
駐車場の先に見える、標高四百十六メートルの山に、山城の四つ曲輪が築かれていたという。
資料館の道の反対には、遺跡を発掘した後、埋め戻した場所がある。
城戸(門)から入ったところで、寺院が建ち並んでいた地域である。
一乗谷には約四十の寺院があったと考えられている。
寺院に付属する墓地跡があり、子供が土葬されているのが発見されたという。
当時火葬が普通なので、土葬は珍しいと、説明にあった。
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「 山城は全長1.5キロメートルで、北西の低い場所に小見放城という出城が築かれ、
馬出しなどが設けられていた。
標高四百十六メートルに、本丸(千畳敷)、 東南へ尾根伝いに一の丸(443メートル)、 二の丸(463メートル)、
三の丸(473メートル)と、 合計四つの曲輪があったという。
曲輪は、幅二百メートル、主郭部分は、 約六百メートル ×
二百メートルで、 各曲輪は堀切により区切られた、連郭式城郭である。 」
資料館で、登頂ルートの案内をもらうが、登頂に一時間かかり、
合計三時間で、山行きの服装が必要といわれた。
同行の娘は登る気があったが、それだけの用意と時間がないことから、あきらめた。
その先、右側に塀で囲まれた建物群が城下町の復原町並である。
「 城下町は南北を城戸に囲まれた約一・七キロの谷間に形成され、
百尺(約三十メートル)を基準に計画的に町割がされて、
京都のように、 町並みは整然としていた。
一乗谷は、 応仁の乱を逃れてきた京都の公家などの文化人たちなどにより、
最盛期には人口一万人を超え、越前の中心地として栄えた。
しかし、 天正元年(1573)八月十六日、 朝倉義景は、 刀禰坂の戦いに大敗し、
翌日、信長の軍勢により放たれた火により、一乗谷の集落は灰燼に帰した。
現在の町並は、 平成七年(1995)に、発掘結果や史料等を基に、
二百メートルにわたって、 当時の町並みとして、復元されたものである。 」
当時、この一帯は、周囲を土塁をめぐらし、大屋敷が立ち並ぶ地区だった。
それらのうちの一軒を史料等を参考にして、
三十坪の主殿を中心に、 門・庭園・蔵・納屋・井戸・厠まで、すべてを再現している。
「 この屋敷は、約三十メートル四方の広さをもち、
西の道路に向って建つ表門の周囲を土塀で囲んでいる。
中に入ると、左半分の奥に板蔵、
左側に使用人が居住していたと思われる納屋や、中央に井戸、
その右手に厠(便所)があった。
右半分の奥の方に、主人が住む主殿があり、
その広さは六間x四間で、台所・たたき・納戸・主室は三部屋、
それに接して、 東西隅に離座敷と庭が設けられていた。 」
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屋根は割板で葺かれ、室内には畳も敷きつめられ、
舞表戸・明障子等の引戸も多く用いられている。
木材の加工には、 かんな、やりかんな、ちょうな 等が使用された。
道の反対にある門を入ると、広大な空地が広がっていて、
「大規模武家屋敷群」 の説明板が建っている。
「 この地区は、一乗谷古絵図に、朝倉氏の有力家臣の名が多く見られる場所で、
発掘調査で、 計画的に作られた道路と、これに沿って整然と配置された、
多くの大規模武家屋敷跡が確認された。
道路は、戦国時代特有の鉤型に曲がる道で、
西の山裾側の屋敷の方が、東の川側の屋敷に比べて、数倍大きくなっていた。
各屋敷は、幅1.2m〜1.8mの石垣を持つ小土塁で区分されていて、
間口十尺(3m)の門が、道路に面するところに設けられていた。
山裾の大きな屋敷の門は、礎石四個を用いた四本柱の薬医門なのに対し、
川側の屋敷の門は、掘立柱二本の棟門と、 格式の差が見られる。 」
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城下町には、町民が住む小規模な建物が細く並んでいた。
「
城戸の近くも、びっしりと、町屋が並んでいて、人口密度が相当高かったとされる。
現在、復原町並内に、十軒の町屋が復元されている。
数軒が連なる長屋形式で、屋根は板葺き、その上に、枝で抑えたり、
石が置かれた構造である。
長屋内は、職人により、配置や道具などが違っているが、
復元町屋では、木工・ろくろ師・染物屋などがあった。
当時の一乗谷には、いろいろな職種の職人や商人が集まっていたことが分かった。
少しだけだが、当時の繁栄ぶりが分かった気がした。 」
道を隔てた反対側には一乗谷川が流れ、その先に、朝倉館がある。
「 朝倉館は、一乗谷の中心部に位置し、朝倉家当主が居住した館である。
東側後背に、前述の山城があり、
西・南・北の三方を、 高さ一・二メートルないし三メートル程の土塁で、
その外側を幅約八メートル、深さ約三メートルの堀で囲っていた。
三方の土塁には、それぞれ隅櫓や門があった。
朝倉館の西方に、西正門があったとされる。
現在は唐門が移築されて、建てられている。
「
唐門は、朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わる松雲院の山門である。
現在の門は、江戸時代中期頃に再建されたもので、
幅二メートル三十センチの唐破風造り屋根の門である。
門標には朝倉家の三ッ木瓜の紋が刻まれている。 」
唐門をくぐると、発掘した跡を整備した朝倉館跡で、建物の柱の位置などを平面表示している 。
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主殿跡の右手(東南隅)に五代義景公の墓所があった。
「 天正四年(1576)に村民が建てた小祠の場所に、 寛文三年(1663)、福井藩主、松平光通が墓塔を建立した。 」
昭和四十三年(1968)に常御殿の南側中庭で花壇の遺構が発見された。
説明板「花壇」
「 東西九・八メートル、南北二・八メートルの長方形をなし、
花粉分析等により、春にはシャクナゲやボタンなどが、
秋にはキクやハギなどが植えられていたことが判明した。
花壇としては現在のところ、日本最古の遺構である。 」
その先の丘陵の麓に造られたのが義景館跡庭園である。
「 完全に埋没していたが、
昭和四十三年(1968)の発掘調査で発見された。
護岸石を館の礎石に兼用し、庭園を囲むように接客用の館が建てられていたと考えられる。
庭池は数寄屋跡南の山すそにあり、滝口前方には水分石がある。
滝石組が中央に配されており、付近には橋挟石と石橋の残片が遺存している。
池には大きくて平らな川石が敷きつめられている。
東側の急斜面には導水路があり、庭池へつづら折れ
に流れ落ちるようになっている。 」
写真はこの部分であるが、庭という実感に乏しい。
数寄屋跡西には小砂利を化粧敷きにして庭石を数個配置した枯山水がある。
庭園の庭石の一部には海石である安島石や青石が使われている。
右手の坂を登ると中の御殿跡に行ける。
義景館跡の南隣にあり、空堀を隔てて湯殿跡庭園とほぼ同じ高さの場所にある。
「 足利義秋から従二位に叙せられた朝倉義景の母・光徳院が、
居住したと伝えられている御殿跡である。
昭和四十七年(1972)以降の発掘調査により、門や庭園跡、建物跡の一部が発見された。
庭園としては、 この他、南陽寺跡庭園・湯殿跡庭園・諏訪館跡庭園が発見されている。
なお、湯殿跡庭園以外は、石組の形式などが類似しているため、
朝倉義景時代の作庭と考えられている。 」
この坂を上り、峰沿いに回遊できるようだが、時間がないので、ここで終了とする。
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一乗谷城へはJR越美北線一乗谷駅から徒歩約30分
JR福井駅からは京福バス東郷線で約30分、武家屋敷下車、徒歩すぐ
旅をした日 平成二十九年(2017)九月二十日