丸岡城は、天正四年(1576)に、柴田勝家の甥・柴田勝豊により、築かれたとされる。
天守は現存する日本で最古のものといわれる。
別名、霞ヶ城は、合戦時に大蛇が現れて、霞を吹き、城を隠したという伝説による。
日本100名城の第36番に認定されている。
丸岡城は坂井市丸岡町にある。
公共交通のバスでも行けるが、当日はその後、東尋坊を訪れ、芦原温泉に泊まるので、
福井駅でレンタカーを借り、向かった。
一筆啓上茶屋前の駐車場に車を置き、歴史民俗資料館の脇の石段を登る。
広場があり、その一角に、丸岡城八幡神社が祀られている。
その先の入城券売り場で、入城料を四百五十円支払う。
これは丸岡城、歴史民俗資料館、一筆啓上館共通のの入場料である。
「 丸岡城は、坂井市丸岡町市街の北東の、福井平野の小高い独立した丘陵上に築かれでいる。
五角形の内掘に囲まれた中に、本丸や二の丸があった。
明治に廃城になり、周囲は開発されて、平章小学校と、民家に囲まれた小高い丘に、
本丸と天守だけが残るだけである。
冬の雪に覆われた時の城は気高く凛とした風情があるといわれる。 、」
広場の先が本丸である。
本丸には、「 丸岡城天守閣 重要文化財 別名霞ケ城 」 と、書かれた石碑が建っている。
石碑の文面
「 天正三年(1575)、織田信長が、北陸地方の一向一揆の平定を期し、豊原寺を攻略した。
信長は、柴田勝家の甥・伊賀守勝豊を豊原寺に派遣し、城を築かせた。
天正四年、勝豊は、豊原城を丸岡に移した。 これが現在の丸岡城になる。
(中略)
本城は二重三層、外観は上層望楼を形成し、
通し柱をもたず、初重は上重を支える支台を成す。
構築法・外容ともに、古調を伝え、屋根は石瓦で葺き、基礎の石垣は野面積み、
これは、わが国城郭建築上、 現存の天守閣の中で、最古様式のものである。 」
なお、天守内の展示に城の模型があった。
それに見る、と、
「 城の周囲に数重の堀が築かれ、
五角形をした内掘は幅は広く、その外の三の丸は武家屋敷、その外は城下町を形成していた。
内掘内には、本丸と二の丸のある平山城であった。
本丸跡の面積は小さい。
その先に、天守があり、石垣の高さは、六メートルである。
野面積みの石段の石は小振りだが、天守が小さいので、バランスがよいと思った。
天守へ続く長い石段は急で、四十度もある。
「
天守閣は昭和九年に国宝に指定されたが、
昭和二十三年(1948)の福井地震により倒壊するも、
昭和二十五年に国の重要文化財に指定され、翌二十六年、復元に着手。
用材の八割近くは古材を使用して修理し、昭和三十年(1955)に復元が完了した。 」
石段の途中に石垣が残るが、ここに附け櫓(?)があり、
天守の入口があったという説がある。
天守の高さは、七十二尺六寸(約十二メートル) なので、小さい天守である。
「 天守は、入母屋の上に、望楼を載せた。望楼型天守である。
一層目には入母屋破風、最上階は四方に窓が設けられて、四方が見張り台の機能を持ち、
北東の上杉軍を監視できるしくみになっていた。
天守内の床は板張りで、丸岡城は戦う城として造られている。
丸岡城の天守は、大入母屋の上に、望楼を乗せただけの天守であることから、
日本で現存する最古の天守と呼ばれ、
一重目の大きな入母屋破風や、柱や長押を白木のまま見せる三階などが、
天守の古風な格式を高めている。 」
中に入ると、一階は約四十一・四四坪 (百三十七平方米) の広さである。
「
外側の一間は武者走りで、壁面に、四角い箱型の狭間、格子の窓が交互にある。
格子窓の外の戸は、棒で突き上げる古風の造りである。
南北西の中央には、石垣より外に突き出た格子を持つ出窓の石落しがついている。
これは、明り取りだけでなく、戦いでは弓を射たり、
鉄砲を打つのに使う目的だったと考えられる。 」
武者走りの内側は、 身舎(母屋) といい、約二十坪 (約66u) の長方形で、 四部屋分の広さがある。
「 身舎(母屋)には、敷居も鴨居も引戸も入っていない。
身舎の中央に、 天守を支えるちょうなで削ったような、荒けずりの太い柱が六本立っていた。
一階から二階に行く階段は急で、補助用にロープ状のひもが付けられていた。 」
案内人によると、当時は階段ではなく、はしごだったので、 足指が前に出せるので、 今より登りやすかったという。
二階は、一階を土台として建てられ、 四隅の柱も、中央の二本の柱も、一階からの通し柱ではない。 大きさは、一階の三分の一の十二坪 (43u) で、武者走り(入側)はなかった。
「
二階の東西には、 一階屋根の破風を利用した狭い部屋があり、
南北には、古風な切妻屋根の出部屋が造られている。
出部屋とは、敵と戦う者が籠る場所である。
二階から三階への階段の角度は、想像できないような急な六十七度である。
背後は壁で、利便性は考えられていない。 敵兵の侵入は難しい。 」
三階も、 二階と同じ十二坪(43u)で、床は板張り、武者走り(入側)はない。
柱や長押を白木のまま見せる古風な造りになっている。
三階には四方に大きく開かれた窓がある。
「 福井地震後の復元工事の際、
最上階の窓が、 引き戸から突き上げ窓(蔀戸)に改変された。
廻り縁も新設、当時はそこに腰屋根が掛けられて、
雪除けと腐敗防止が図れていたという。 」
窓から小学校の校庭が見える。 そこは二の丸跡である。
「 天正十年(1582)の清洲会議により、
柴田勝豊は、近江国長浜城に移された。
丸岡城は、 安井左近家春・青山修理亮宗勝・青山忠元・今村盛次などが、一時、支配した。
その後、本多成重家四代の居城になったが、元禄八年五月、有馬清純の入封以来、
明治維新に至るまで、八代にわたって、有馬家が領有した。
五代目の有馬誉純は、文教政策に力を注ぎ、平章館(現在の平章小学校)を創始し、
文教の礎となる。
明治三年三月の版籍奉還後、同四年九月、官有となり、さらに民有に移り、
明治三十四年八月、町有になった。
その間、周濠は埋められ、城門・武家屋敷 等の建物は、 売却あるいは譲渡された。
天守閣とその付近の石垣の小部分が残存するだけである。 」
天守の約六千枚の屋根瓦は、 粘土瓦ではなく、石製である。
「 付近の笏谷石(しゃくだにいし)で造られたもので、
一枚の重さは、約二十キロから五十キロで、
天守に石瓦を使用した現存例はここだけである。
寒冷地であるという気候事情により葺かれているといわれる。 」
天守を下から見上げると、天守の一階は、塗籠と下見板張で、石落しと狭間が見える。
天守台に接するところには、 天守台を覆い被せるような腰屋根が掛けられている。
「 これは、一階の建物が天守台より小さく、雨水が跳ね返り、外壁に当る工夫で、 当初の天守最上階にも同様なものが付けられていたと考えられている。 」
天守に、多くの狭間が設けられている。
二階だけでも十六、合計三十七の狭間がある。
「
格子窓と狭間により、敵に対しどこからでも攻撃できる仕組みになっている。
使用できそうもない高い場所の狭間があったが、
これらは守りが堅固というイメージのため設けられた見せかけの狭間のようである。 」
本丸の巽(たつみ)に雲の井があり、その傍らに、 有馬勝利が雲井神社の小祠を祀った。
現在のは再建されたもの。
天守の石段近くに、 お静慰霊碑 があるが、築城の際の悲話が残されている。
「 丸岡城を築城する際、天守台の石垣が何度も崩れて工事が進行しなかったため、
人柱を立てることとなった。
城下に住む貧しい片目の未亡人・お静は、息子を士分に取り立てる事を条件に、
人柱となる事を申し出た。
その願いは受け入れられ、お静は人柱となって土中に埋められ、
天守の工事は無事完了した。
しかし、柴田勝豊はほどなく移封となり、息子を士分にする約束は果たされなかった。
それを怨んだお静の霊が大蛇となって暴れ回ったという。
毎年四月、堀の藻を刈る頃に、 丸岡城は大雨に見舞われ、
人々はそれをお静の涙雨と呼んだ。 」
訪問当日、神官と地元民が神事を行っていた。
年二回、丸岡城八幡神社、雲井神社、お静の慰霊を参拝するのだということだった。
丸岡歴史民俗資料館には、歴代藩主関係の歴史資料などが展示されている。
一筆啓上館は日本一短い手紙で町おこしをし、
送られてきた手紙を公開する施設になっている。
「 徳川家康譜代第一の功臣で、
鬼作左と呼ばれた本多作左衛門重次が、陣中から妻に宛てた
「 一筆啓上 火の用心 お仙 泣かすな、馬肥せ 」 と、
送った手紙は手紙の手本として有名である。
文中のお仙とは、 嫡子・仙千代で、
後の福井藩主・松平忠直に仕え、幾度の戦いで武勲を立てた、
初代丸岡藩主 ・ 本多成重のことである。 」
丸岡城へはJR北陸本線福井駅から京福バス「本丸岡行き」で約40分、丸岡城下車、すぐ。
旅をした日 平成二十九年(2017)九月十九日