名所訪問

「 毛利氏歴代の居城 郡山城 」

かうんたぁ。


郡山城は標高390mの郡山山頂を中心に約1km四方にわたって、 尾根筋に曲輪が拡がる西国最大級の山城で、
毛利元就はここを拠点に中国地方の覇者になった城である。 
日本100名城の第72番に選定されている。 


郡山城へはJR芸備線吉田口駅から備北バスで吉田営業所行きで約20分、市役所前下車、徒歩約5分。  
ここには、100名城のスタンプと吉田城のパンフレットがある。 

「 郡山城は、 北流する可愛川とそれに注ぐ多治比川との合流点の北側にあり、 標高三百九十メートル、比高百九十メートルの郡山山頂を中心に、 約一キロ四方の尾根筋に二百七十もの曲輪が広がっていた。 
南北朝時代の建武三年(1336)、 毛利時親が、郡山南東の麓に、本城(旧城)を築城、その後、 天文二十年(1551)頃、尼子氏に攻め込まれた毛利元就はその経験をもとに、 郡山全体を城郭化し、さらに、輝元が改修を加えた大規模な山城で、 毛利氏二百六十余年間の居城であった。 」

安芸高田市歴史民俗博物館の脇の道を上って行き、三叉路を右折し、 その先の交叉点に旧安芸高田少年自然の家があり、 入口の先に「毛利元就像」が建っていて、 近くに 「毛利公居館御里屋敷跡」 の石柱が建っている。 

この建物の奥に、元就が三人の子に与えた訓として、 有名な 「三本の矢の訓跡」 の石碑が建っている。 

この手前にある 「史蹟郡山城址」 の大きな石碑と、案内板があるあたりの右側が、 内掘があったところのようである。 

歴史民俗博物館
     毛利元就像      三本の矢碑
歴史民俗博物館
毛利元就像
三本の矢訓跡碑


その先で左右に分れる道があるが、左側に、元就火葬場伝承地がある。 
右の道も左の道も同じ所(大通院谷遺跡駐車場)に出る。 
右の道は左に一八〇度カーブするが、カーブした先の右側に、 「郡山城(酉谷地点)石垣」 の説明板がある。 

「 この石垣は、平成十八年の豪雨災害により崩落した山斜面の治山工事を行う際の発掘調査で検出された。  石垣上の平地が郡山城の郭跡で、石垣はこの郭の斜面に築かれたものである。  石垣の南側は地山の岩盤を削り造成した切岸で、 石垣はこの面に続く斜面に築かれている。 
長さ約七メートル、高さ約一・二メートルの石垣は、 郡山城が十六世紀中頃、郡山全山に拡大された際、 山裾まで拡がったことを示すものである。 」 

その先右に大きくカーブすると、左側の谷間の下に、池があり、 橋が架かっているところに出た。 
「大通院谷遺跡」 の説明板があった。 

「 大通院谷川砂防工事に伴う発掘調査で発掘された。  旧石器時代から近世までの複合遺跡である。  特に古代高宮郡衙の関連施設とみられる遺構群と 戦国時代毛利氏の本拠地郡山城の城域の一部とみられる薬研堀、 屋敷跡などの貴重な遺跡が総数二十万点という多数の遺物と共に検出された。 」

酉谷地点石垣
     大通院谷遺跡      中世の建物跡と周辺の遺構
酉谷地点石垣
大通院谷遺跡
中世の建物跡と周辺の遺構


大通院谷遺跡には駐車場があり、ここに車を置いて郡山城を回ることができる。 

説明板「郡山城内堀(薬研堀)跡」
「 郡山大通院谷の東側の山裾(東北から南西)に沿って 約百メートルを検出した断面V字形の堀、薬研堀。  堀はさらに上下に続いているが、ここを起点に郡山山麓を回る内堀になっている。  十六世紀中期から十七世紀後半、毛利元就・輝元時代に造られたと見られる。  薬研堀の発掘調査例では国内で最も長い。 」 

「毛利元就公墓所参道」 の石柱がある鳥居をくぐり、道なりにすすむと、 右側の墓地下に 「 地名 用十郎 毛利家側用人が十人いたことから用十郎になりました 」  と書かれた石碑があった。 

郡山城内堀(薬研堀)跡
     毛利元就公墓所参道      用十郎石碑
郡山城内堀(薬研堀)跡
毛利元就公墓所参道入口
用十郎石碑


この道は郡山の裾を左に廻るように続いていて、 その先には 「毛利元就公墓所」 の石柱と 石段の先には鳥居が建っている。 
石段を上り、鳥居をくぐって進むと、「洞春寺跡」 の石柱があり、 その先に墓所に上る石段があり、その先に 「元就の百万一心」 の石碑が建っている。 

説明板「百万一心」
「 元就が郡山城を築城した際、人柱に代え大石を埋めた伝説に由来し、 昭和六年に建立された元就の百万一心(共同一致)の理念を示す碑である。 」 

毛利元就は元亀二年(1571)に七十一歳で郡山城で亡くなり、 翌年、菩提寺として洞春寺が建立され、 境内に墓が建てられた。 
墓所の下段には、先祖の合墓と、元就の兄興元、興元の長子、幸松丸、 隆元夫人の墓が並ぶ。 

毛利元就公墓所の石柱
     百万一心の碑      元就の墓所
毛利元就公墓所入口の石柱
百万一心の碑
元就の墓所


墓所の左に 「しろあとのぼり道」 の石柱と 「郡山城跡(本丸)登山口」 の大きな道標がある。 

石畳を上ると、「左郡山登山道 右嘯岳禅師墓」 の石標があるので、 右に進むと墓がある。 

説明板「嘯岳禅師墓」
「 嘯岳禅師は永保三年(1560)明から帰国し、 丹波高源寺、京都建仁寺などに歴任した。  元就は竹原の妙法寺からしばしば招いていたが、元就が逝去すると導師を勤め、 菩提寺の洞春寺の開山になった。  慶長四年(1599)に没。 
この墓は、天明八年(1788)に山口の洞春寺が旧洞春寺の境内に建立したものである。 」

道を戻ると、その先は赤土が露出した道で、 上って行くと、 「郡山第2古墳」、 その先に 「郡山第1古墳」 の道標があるが、直進する。 

しろあとのぼり道の石柱と道標
     嘯岳禅師の墓      郡山第1古墳の道標
しろあとのぼり道の石柱と道標
嘯岳禅師の墓
郡山第1号古墳の道標


少し急な坂になるが、右にカーブすると、 「本丸へ五百三十米」 の道標があり、 眼下には市街地が見えた。 この道標はこの後も現れる。 

その先は台風の影響か、道に木が横倒しになっていた。 
その先の木で階段が造られているところには「本丸へ三百五十米」の道標があった。 

その先の木で階段が造られているところを過ぎると、 樹木の根が道まではみだしているところがある。  
「←元就墓所 本丸、二の丸→」 の道標がある所を過ぎると、 「左釣井の壇 右本丸」 の石柱と、 「←釣井の壇 姫丸の壇 本丸100→」 の道標が建っていて、 右側には 「御蔵屋敷跡」 の石柱と説明板が立っている。 

説明板「御蔵屋敷跡」
「 御蔵屋敷は、東西約20m、南北約30m、面積600uの広い敷地を持つ。  北に釣井の壇、東に三の丸、西に勢溜の壇に通じている。  この屋敷の東側にある多くの散乱した石が高い石垣があったと想像させる。  さらに、その上の曲輪で通路沿いの一部に、石垣 (高さ12m、長さ35m)が残って、 当時をしのばせている。  さらにその一段上が二の丸となる。  郡山古城図(山口常栄寺蔵) に、御蔵 と書かれているが、それがこの地と思われる。 」 

御蔵屋敷あったのは、三の丸から連なる帯曲輪で、御蔵屋敷は兵糧庫だったようである。 

道標
     道標      御蔵屋敷跡
本丸へ五百三十米の道標
本丸へ三百五十米の道標
御蔵屋敷跡


道標に本丸まで百メートルとあるが、 この周囲には本丸と二の丸を守る曲輪が多くあるので、 それを確認するため、 御蔵屋敷跡から釣井の壇(つりいのだん)に向う。 
釣井の壇の説明板があり、 その近くに井戸があった。 

説明板「釣井の壇」
「 釣井の壇は御蔵屋敷の北方、本丸の西側にある一段の曲輪である。   北西に突き出した細長い曲輪で、長さ75m、幅15m、面積約1000uの長大な曲輪である。  北に姫丸の壇、南は御蔵屋敷に通じ、ここから東側二段上が本丸である。 
直径25mの石組井戸があり、 本丸に最も近い水源である。  この井戸は現在埋もれて深さ約4mになって水は湧いていないが、 埋もれた土を掘ればかってのように水をたたえると思える。 」 

釣井の壇の右側の細い道を北東に行くと、 木立の中で右にカーブするところに、「姫の丸跡」 の石柱と説明板が立っている。 
姫丸の壇は、本丸の北にある七段の曲輪群で、本丸北側の石垣の基部にあたる。 

説明板「姫丸の壇」
「 姫の丸は本丸の北に伸びる峰にあり、基部の段は通路で、 ここから北へ三段もほとんど比高差をもたず連なり、 その先の北にさらに三段あるが、主要には基部の三段が機能していたと思われる。  基部の両側には一部石垣が残っている。  この壇に基部を置いた本丸の石垣の中に元就築城のとき、 百万一心の礎石を埋めたとの伝説があり、 文化十三年(1816)夏長州藩士武田泰信がこの石を見て、 拓本をとり、持ち帰ったと伝えている。 」 

説明板の南部分は丘陵になっているが、 かっては本丸基部の石垣になっていた訳で、 一部石垣が残るとあったが、 確認はできなかった。 

御蔵屋敷周囲図
     釣井の壇      姫丸の壇
御蔵屋敷周囲図
釣井の壇
姫丸の壇

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道を進むと、急な階段が現れるので、上って行くと、「釜屋之壇跡」 の石柱があり、 左手には 「←姫丸の壇 厩の壇↓ 羽子の壇→」 の道標が建っている。 
釜屋(かまや)の壇は、 本丸から十五メートル低い北側に位置し、 東北に伸びる細長い六つの段で形成される曲輪群で、 炊事場があったことからその名が付いた。  

説明板「釜屋の壇」
「 釜屋の壇は20mX24mで、面積は約300uの台形をなし、 本丸から15m下にあり、北は姫丸の壇、南は厩の壇へとそれぞれ通路が続いている。  この厩の壇の郭群はこれからそれぞれ2mから4mの比高差をもって五段続いているが、 この段の面積は50uから150uと小さく、石垣も見られない。  」  

道標にある羽子の丸は、本丸の艮(うしとら、北東)の方角にあり、 釜屋の壇の先端の先にあり、 トの字のような形状した九段の曲輪で、 詰櫓の役割を与えられた独立的な曲輪である。 
羽子の丸と釜屋の壇とは、 幅七メートル、深さ三メートルの堀切で隔てられていた。 
道標に従い、 山を巻くように進むと 「厩之壇跡」 の石柱があり、 その左側の厩(うまや)の壇の説明板があった。 ここは三の丸の東に位置する。 

説明板「厩の檀」
「 厩の檀は本丸の東南方の長さ約400mにも達する長大な尾根の基部にあって、 17mX24mの(基部の)段から尾根に沿って七段とそれから (基部の段から)北に分れる四段の曲輪からなる。 
最大の曲輪は尾根上中央の基部(の段)から三番目の曲輪で、 約410uの広さがあり、それから下方へは帯曲輪状の小曲輪を並べている。  北側の四段は基部の曲輪の守りのためと考えられ、いずれも小さい。  なお、基部の曲輪から釜屋の檀へは通路がのび、 南側の段にも通路があり、幅3mから5mの付曲輪がある。 
この南側下の段が馬場と呼ばれていることから、 厩の檀には厩舎があったところと考えられる。 
馬場は厩の段の下で、東北方面の伸びる九段の曲輪群である。 」 

「←厩の檀 釜屋の檀 本丸 三の丸→」 の道標があるので、 三の丸の方向に歩くと、 「三の丸跡」 の石柱の奥に、説明板があった。 

説明板「三の丸跡」
「 三の丸は城内で最大の曲輪である。  曲輪内は土塁や削り出し東によりさらに四段に分れている。 
二の丸は約35m下にあって、東西40m、南北47mの広さがある。  西の段と南の段は石塁でへだて、北の段とも1mの比高差を持たせて、 石垣で画している。 
この西の段からは二の丸、御蔵屋敷につながる曲輪への通路がのびており、 しかも西の段下の石垣や階段がみられるところからみて、 登城には御蔵屋敷から南側の帯曲輪を経由し、 その階段を上がるとこの三の丸虎口(西の段)につながると考えられる。
西の段は周囲が石垣や石塁で囲まれていることもあり、 この部分が郡山城のなかでは最も新しい時期(輝元時代の改修による整備)の遺構であったと考えられる。 」 

釜屋の壇
     厩の檀      三の丸跡
釜屋の壇
厩の檀
三の丸跡


三の丸と二の丸とは約三十五メートルの高低差があるが、 三の丸の北西を上ると二の丸である。 
「二之丸跡」 の石柱の隣に、「二之丸跡」 の説明板がある。 

説明板「二之丸跡」
「 二の丸は本丸の南につながり、約2m低く、北西にある石列で画した通路でつながっている。  東西36m、南北20mの広さであるが、 周囲を高さ0.5m、 幅1mの石塁や石垣で27mと15mの方形に区画しており、 実用面積は約400uと本丸よりひとまわり小さい 。  また、この石塁の外側には幅0.5mから1mの平坦面が見られる。 
二の丸の南側には高さ3mの石垣が残るが、 この石垣は明治初年に行われた毛利元就墓所改修の際、 ここから石を運んだという記録があるので、 石垣は曲輪の東西両側にあった可能性が高い。  南にある三の丸へは幅15mの通路があり、礎石も残ることから、 小形の枡形をした門、あるいは塀があったと思われる。 」 

二の丸から本丸へは西側から北へ行くと、 「郡山城本丸跡」 の説明板が立っている。 

「 郡山城の本丸は郡山の山頂に位置し、 一辺約35mの方形の曲輪でなっている。  その北側は一段高くなった櫓台がある。  櫓台は長さ23m、幅10mの広さで、現状は破壊が著しい。  この地点が一番高く、標高389.7m、比高約200mになる。 
城の遺構は山頂 本丸曲輪群を中心に放射状に伸びる6本の尾根、 さらにそれからのびる6本の支尾根、 あわせて12本の尾根とそれらに挟まれた12本の谷を、 曲輪や道で有機的に結合させ、まとまりを持たせた複雑な構造をなしている。  曲輪も大小合わせて270段以上とみられる。 
大永三年(1523)毛利元就が郡山城の宗家を相続し、 郡山の南東にあった旧城を郡山全域に拡大していった。  元就はここを本拠城として 幾多の合戦を経て中国統一を成し遂げた。 」  

郡山山頂に位置する本丸は、一辺が約三十五メートルの曲輪で、 上下段に分れ、下段には元就の屋敷があったといわれる。 

三十五メートルの高低差
     二の丸跡      本丸跡
三十五メートルの高低差
二の丸跡
本丸跡


その奥の一段高くなったところ(上段)の北端に、 「本丸跡」 の石柱が建っているが、 かっては長さ二十三メートル幅十メートルの物見台があったとされる。 

「 毛利元就は七十一歳まで郡山城に住み、孫の輝元を養育した。  元就の孫、輝元は、中国地方を統治するには不便と感じ、 天正十七年(1589)、瀬戸内の交通の要所の太田川に築城を開始し、 天正十九年(1591)、本拠を広島に移した。  郡山城は慶長二十年(1615)の一国一城令により廃城となり、 寛永十四年(1637)の島原の乱後、 キリシタンの決起を恐れた幕府により、 石垣や堀なども破却・撤去されたため、史蹟と云えるものはほとんど残っていない。 」 

後世の絵図面などには天守閣が描かれているが、確証はないのである。 
本丸を出て三の丸の西側の虎口跡を通るが、 この虎口石垣の中に階段が組み込まれた内枡形になっていて、 近世城郭的な構造である。 
三の丸の下に、石垣が崩れて石が散乱しているところがあり、 「三の丸石垣」 の説明板があった。 

「 三の丸南東と御蔵屋敷下段に続く帯曲輪との間に築かれた石垣。 
城内の石垣は江戸時代にほとんど崩されたが、 この部分では当初の石積みをわずかに留めている。  帯曲輪から三の丸への通路は高さ4mの石垣を斜めに上がる階段状になっており、 虎口郭的な三の丸西の段への入口とみられる。 」 

ここは、三の丸へ入る大手道にあたり、石が散乱しているが、僅かに立石も残っている。 
この石垣は、竪積(たてづみ)の石を交ぜて築き上げた中世期独特のもので、 安芸地方に多く見られるものである。 
三の丸石垣を西に進むと、御蔵屋敷跡の南西にあるのが勢溜の檀である。 

説明板「勢溜(せだまり)の檀」
  「 勢溜の檀は、本丸の峰から南西に長くのびる尾根を御蔵屋敷の下段を堀切で区切って、 独立させ、十段の大型曲輪からなる檀で、 尾根沿いに比高差約1mで、面積500uから700uの広さの曲輪を四段連ね、 その先にこれらを取り巻く帯曲輪を三段、さらにその先端には付曲輪を加えている。  この曲輪群では特に東南方の大手、尾崎丸方向への防御は厳重で、 たとえこの方向を破っても、この三重の帯曲輪で防ぐことができ、 現在の登山道が当時のものとすれば、 さらにこの上の勢溜の檀の曲輪群から攻撃できる構造になっている。  ここには本丸守護の塀が滞在していたことがうかがえる。 」 

矢倉の壇は、勢溜の壇からさらに南西に進んだ尾根にある八段の曲輪群である。 
勢溜の壇のすぐ側を通る道が、本丸から城下に続く大手筋と考えられており、 本丸守備兵が滞在するなど、厳重な防御線を形成していたと思われる。 

本丸跡の石柱
     三の丸石垣      勢溜の檀
本丸跡の石柱
崩れた三の丸石垣
勢溜の檀


山裾の道(大手道)は、勢溜の檀の脇を下り、 S字のカーブを通ると、「左御本丸右満願寺」 の石柱と 「←本丸200m 満願寺→ 勢溜の檀↑」 の 道標が建っている。 

「 満願寺の壇は、 勢溜の檀の東方に横につながる満願寺を含む六段から成る曲輪群である。 
満願寺は、勢溜の壇の南東部にあった寺で、毛利氏の郡山入部前からあったとされる。  広島、萩に移転、現在は防府にある。  境内跡に二ヶ所ある石組の蓮池跡や寺の礎石などが残っている。 」 

道は突き当たって右折するが、正面に 「尾崎丸堀切」 の道標がある。 

「 尾崎丸は、旧本城と新城の間を繋ぐ位置にあり、 堀切で区画されている。  尾崎丸は独立的な性質を持つ十七段の曲輪群で、 毛利隆元が本城から移り住んだと伝わる。 」 

本丸跡の石柱
     三の丸石垣      勢溜の檀
「左御本丸右満願寺」の石柱
尾崎丸堀切の道標
尾崎丸堀切


郡山城跡案内図の看板のところから、尾崎丸に入らず、 右に進むと、右の山裾には石垣があった。 

さらに降りると、 「本丸へ500米」 の石柱が建っている。 
さらに行くと三叉路があり、「←本丸500m 本城→ 清神社↓ 」 の道標があり、  近くに 「本丸へ500m」 の石柱も建っていた。 

「 本城は旧城ともいわれ、尾崎丸の尾根から南東の麓に位置し、 標高二百九十三メートル、比高九十メートルで、 南北朝時代の建武三年(1336)に毛利時親が築いた城で、 元就が城郭域を拡張するまでの本城だった。 
本丸、二の丸、三の丸など十六の曲輪で構成され、曲輪の面積は約四千平方メートル、 尾崎丸との間には二つの堀切があり、 本城の本丸にあたる曲輪には西側の高台に物見台(櫓台)があり、 隆元が一時期居住していたとされる屋敷などがあった。 」 

時間の関係から寄らず、清神社へと道をとると、 木で階段を造った道で上りになった。  この道は、山麓を巡る周回道で、「本丸へ600m」 の石柱が建っていた。 

大手道に石垣
     道標      周回道
大手道に石垣
三叉路の道標
階段の道


吉田町展望図の看板がある展望台に出た。 
市街地が見えたが、低いので迫力はなかった。 

その先の三叉路は、左折すると清神社と興禅寺跡である。 

「 清神社(すがじんじゃ)は正中二年(1325)から残る棟札があり、 それ以前の創建が確認できる古社で、 戦国時代には郡山の鎮守社として毛利家の祈願所となった。 
興禅寺跡は現在郡山公園になっているが、 この一帯は興禅寺があったところで、 寺の南麓に内堀が掘られていたことは記録に残る。  境内では元就の招きにより、能狂言が行われたようである。 」 

今回はそちらに行かず、道を左に取り、山裾を西に廻るように進むと、 「常栄寺跡」 の説明板がある。

「 常栄寺は毛利隆元の菩提寺である。  永禄元年(1563)、隆元の没後、元就は隆元の導師、山口の国清寺の僧、竺雲恵心を招き、 開山とした。  寺は永禄七年(1564)扶桑十刹に列し、勅願道場とせられ、 正親町天皇の「常栄広利禅師」の勅額を受けた。  天正十九年(1591)の分限帳には千四百八十石五斗余を領している。 
寺跡は二段の曲輪からなり、上の段は60mX25m、 下の段は40mX10mでかなりの広さを持つが、建物の配置は明らかでない。  毛利氏の防長移封後、山口に移った。  現在の常栄寺は雪月庭としても有名である。 」 

その先カーブを回ると、下に降りる石段があるが、 その前に 「←郡山公園 駐車場↑ 毛利隆元→」 の道標があり、 右手に毛利隆元の墓所があった。 

説明板
「 隆元は、毛利元就の長男として、大永三年 (1523)多治比猿掛城内で生まれた。  吉川元春、小早川隆景の兄にあたる。  天文六年(1537) 人質として、山口の大内氏に送られ、 その年の元服には大内義隆の加冠で隆元と称した。  以後、天文十五年 (1541) 十九歳で帰還するまで、 大内氏に優遇を受けた。  天文十五年(1546) 二十四歳で家督を相続し、 三年後には内藤興盛の娘(義隆の養女)を夫人とし、 天文二十二年(1553)に、長男・幸鶴丸(輝元)の誕生を見た。  永禄期、九州の大友氏と交戦していたが、 講和が成立するや、 尼子氏攻略のため、 元就が いる出雲に応援のため、多治比に一時帰還した。  郡山城には入らず、出発、 途中、安芸高田市高宮町佐々部にて、 和智誠春の饗応を受けたが、まもなく発病。  翌朝未明に四十一歳で、永禄六年(1563)急逝した。  菩提寺は常栄寺である。 」 

さらに歩くと、大通院谷遺跡の駐車場に出た。 
これで、郡山城の探訪は終了である。 

市街地
     常栄寺跡      毛利隆元の墓所
展望台からの市街地
常栄寺跡
毛利隆元の墓所



郡山城へはJR芸備線吉田口駅から備北バスで吉田営業所行きで約20分、市役所前下車、徒歩約5分。 

旅をした日  令和元年(2019)九月六日




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