広島城は毛利輝元が十年の歳月をかけ、
望楼型の五重五階の大天守に、小天守を二基連ねた、連結式天守や、
数多くの櫓群のある城を島普請により築き上げた。
今日の広島城の姿は、福島正則の時代にできたといえる。
別名は鯉城。 国指定史跡で、日本100名城の73番に選定されている。
広島城は、JR広島駅の西方約一・二キロ、 西に太田川、 東に京橋川に挟まれたところの基町に所在する。
「 毛利元就の孫・毛利輝元は、
天正十六年(1588年)、豊臣秀吉の招きに応じて上洛し、
大坂城や聚楽第を訪れ、近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意。
山間部の吉田郡山城から平野部への進出を図り、天正十七年(1589)、
太田川河口のデルタ地帯に、大規模な城郭を構えたのが、広島城の始まりである。
工事は、島普請 と言われる、川の中州の埋め立てと、堀の浚渫が初段の大工事で、
困難が予想されたが輝元自身が意欲的に奨め、天正十八年(1590)末、
堀と城塁が竣工したことから、翌年一月には輝元が入城。
文禄二年(1593)に石垣が完成、 慶長四年(1599)に全工事が完了した。
輝元が転出後、入封した福島正則が城の整備をさらに進め、
西国街道を町人町に引き込むなど、城下町の拡充を図った。
江戸時代の広島城は、福島正則が整備した輪郭式の平城で、
内掘・中掘・外掘のある、約一キロ四方の広さで、面積は九十平方米の規模だった。 」
南西から見た内掘の先には、天守閣が見える。
「 内掘は東西三百二十メートルで、堀の幅は約四十メートルで、 南北に長い長方形の本丸と、その下に、東西に長い小さな長方形の二の丸を囲んでいる。 」
三の丸から御門橋を渡ると、二の丸である。
「 二の丸は、小さな四辺形で、馬出し と呼ばれる構造になっていた。
慶長三年(1598)から慶長五年(1600)の間に造られたと思われる。
二の丸の南面(正面)には、表御門と平櫓が建っていた。 」
表御門は二の丸へ入る門で、木造脇戸付の櫓門である。
説明板「史跡 広島城跡 二の丸表御門(復元)
「 >表御門は、天正期末頃の建造と推定され、昭和20年の原爆被爆による焼失までの
薬350年間存続していました。
現在の表御門は、平成元年の広島所築城四百年を記念して復元に着手し、
平成三年に完成したものです。
この平成復元では、昭和9年に 当時の陸軍第五師団経理部が作成した実測図をもとに、
発掘調査の結果や明治期から昭和期にかけての写真を総合的に検討して、
焼失後も残存していた礎石(柱下の右石)の上に、昔通りの工法によって、
往時の姿をよみがえらせています。
規模 桁行 7.64m、梁間 4.85m 軒高 7.03m 棟高 10.61m
構造 木造脇戸付の櫓門、入母屋造り、本瓦葺き、軸部真壁、軒塗込、両側面一間庇付き
平成3年12月 広島市教育委員会 」
表御門の右側に、平櫓が水堀脇に建てられ、その先は多聞櫓と連結している。
「 平櫓は、木造一重隅櫓で、桁行 十二・四三メートル、 梁間八・六四メートル、棟高七・七六メートルの入母屋造、本瓦葺である。 」
多聞櫓は太鼓櫓まで続いている。
「 多聞櫓は、桁行六十七・八十六メートル、梁間四・九十三メートル、
棟高五・一三メートルの木造一重渡櫓で、切妻造、本瓦葺である。
太鼓櫓は桁行八・四九メートル、梁間七・七六メートル、
棟高十・六〇メートルの木造二重二階隅櫓で、入母屋造、本瓦葺である。
平櫓、多聞櫓及び太鼓櫓の創建時期は、天正期末頃と推定され、
このうち、太鼓櫓は十七世紀初期に改修されたものの、 三棟とも江戸時代を通して、
二の丸の馬出機能を確保する建物として存在していた。
平櫓及び多聞櫓西半分(平櫓側)は、明治初期に取り壊され、
残った太鼓櫓や多聞櫓東半分も、昭和二十年の原爆被爆によって倒壊炎上した。 」
現在の建物は、平成元年の広島城築城四百年を記念して復元に着手し、 平成六年八月に完成したものである。
二の丸から、北に向かうと、大型トラックが通れる位広い土橋がある。
両側が水堀で守られている土橋を進むと、両側に四角形の石垣があり、 右側には「中御門跡」 の石柱が建っている。
「 江戸時代には、土橋の先に、右枡形の虎口・中御門が建っていた。
今は、両側に 中御門があったことを示す石垣が残るだけである。
石垣に被爆時の火災で変色した石がある、と聞いたが、それがどれなのかは分からなかった。 」
江戸時代には中御門をくぐると本丸であった。
「 二の丸が「馬出し」という防御施設で、小さかったが、
本丸は、広い面積を誇っていた。
本丸は上段と下段に分れ、
下段の右側には米蔵があり、左側には馬場や弓場があった。 」
今は、米蔵だったところは、芝生の広場になっている。
左側の馬場や弓場があった場所には、広島護国神社の社殿が左向きに建てられている。
「 江戸時代には、本丸の上段は下段より一メートル程高くなっていて、
その境に冠木門が建っていた。
また、上段には本丸御殿が建っていた。 」
今は冠木門があったと思えるところに石段があり、 それを上ると、正面はクロガネモチなど植えられた公園 「大本営前庭築山」 になっている。
本丸御殿があった所には、「広島大本営跡」 の石柱と、説明板が立っている。
ここは、本丸御殿が壊された後に設営された
広島大本営のあった場所で、礎石が残っている。
説明板「広島大本営跡」
「 明治27年(1894)8月に、日清両国に戦禍が開かれたのち、
それまでに山陽鉄道が開通していたことや、宇品港を築するといった、
諸条件により、同年9月広島市に大本営が移されることになり、
広島城内にあった第五師団司令部の建物が、明治天皇の行在所とされ、
ここに大本営が設けられた。
明治天皇の広島滞在は、同年9月15日から翌年の4月27日7か月あまりに及んだ。
その後、建物は広島大本営跡として保存されたが、原爆により倒壊し、
今は基礎石のみ残されている。 」
(補述) 広島大本営が設営された時、非常時に備え、縮景園が大本営副営となった。
天皇の居所は清風館があてられ、大本営の左側には昭憲皇太后御座所が置かれた。
これらの建物は、原爆により消失した。
「 縮景園は、広島城の東方六百メートルに位置する。
広島城主 浅野家初代・長晟が築いた別邸で、
広島大本営の副営が置かれた。
庭は大規模な池泉回遊式庭園で、原爆により消滅したが、再建されている。 」
大本営の北に、大天守入口前広場がある。
ここに、天守が再建された際、移された旧天守閣の礎石群と説明板が建っている。
説明板「礎石について」
「 ここにすえ付けている石は、昭和三十三年、天守閣再建に際して、もと、
天守閣柱下の礎石を掘りおこして、原型のまま移したものである。
玉石排水溝の内側が、天守台の大きさである。
一段低くすえてある石は、今もなお、天守台の地下に埋もれている礎石の位置を示している。
昭和四十四年四月 広島市教育委員会 」
広島城の天守は、本丸の北西の隅部に建ち、大坂城より大きな天守だったといわれる。
「 広島城の天守は、五重の大天守から渡櫓で、
南と東の二つの三重小天守を連結する構造で、複合連結式天守といわれるものだった。
大天守は、高さ十七間六尺(約32.7m)の望楼型で、
黒漆塗りの下見板が張られた壁面は秀吉の大坂城天守を模したといわれ、
屋根には金箔押の軒瓦や鬼瓦(金箔瓦)が葺かれていた。
内部は天井が張られず、丸太の梁がむき出しのままで、
江戸の浅野氏の時代には物置として使用され、
明治以降は陸軍の書類庫として使用されたといわれる。
明治六年(1837)の廃城令により、二つの小天守は撤去されたが、
大天守と渡櫓は残された。
しかし、昭和二十年(1945)八月六日の原子爆弾投下により、
これらの建物は壊滅した。 」
現在の天守は、昭和三十三年(1958)、
外観を復元して建てられた鉄筋コンクリート構造によるもので、
内部は武家文化を中心に紹介する歴史博物館となっている。
広島城関連遺跡からほぼ完全な形で出土した金箔鯱瓦を常設展示している。
天守の南に空地があるが、これは南小天守と渡櫓跡である。
天守閣を出て、東に向かったところが東小天守跡で、石垣で出来た基礎は残っている。
その先にある石段を上り、本丸に巡らされた石垣の上を歩き、東側で降りた。
本丸の北東部に崩れかけた石垣がある。、
「 これは、福島正則が、江戸幕府より「無届け修築」を咎められた際に、
壊した跡と、いわれるものである。
福島正則は、尾張清洲から広島城に四十九万石で入封するが、
幕府の許可が下りないまま、石垣等の修理を行ったことを幕府から咎められ、
改易となった。 」
本丸の東中央にあったのが、裏御門である。
「 裏御門も枡形の楼門だったが、明治維新で壊され、 「裏御門跡」 の標柱と石垣が残っているだけである。 」
門跡の石垣上に上り、南に向って歩くと、 南東隅は本丸の櫓があったような形をしていた。
広島城訪問の最後となり、ここから二の丸方面をうつした。
広島城へは山陽新幹線・山陽本線広島駅から広島市内線で約15分、紙屋町東下車、徒歩約15分
旅をした日 令和元年(2019)九月七日