新高山城は、小早川隆景が、天文二十一年(1552)から慶長元年(1596)の四十五年間、
居城とした山城である。
三原城は、小早川隆景が小早川水軍を統率するために築いた水城で、この城を築き、新高山城より、居城を移した。
◎ 新高山城(にいたかやまじょう)
新高山城は、広島県三原市本郷町本郷にあった古城で、最寄りの駅は山陽本線本郷駅である。
本郷駅から、本郷生涯学習センターに向って歩いて行く。
本郷生涯学習センターには、続日本100名城のスタンプと、城跡付近の資料が置かれている。
新高山城への入口は、「新高山城跡P」 の看板がある駐車場が近いので、
車の場合はそこに駐車するとよい。
「 小早川隆景 新高山城跡登山口 」 の看板があるところを曲って、
民家の間を過ぎると、山道が現れる。
道の傍らに、 「史跡 小早川氏城跡(新高山城跡)」 の説明板が建っている。
説明板 「史跡 小早川氏城跡(新高山城跡)」
「 小早川氏の祖・土肥実平、遠平父子は、源頼朝の平家追討に当って、
終始勲功をたて、はじめ、備前・備中・備後の三国の守護の地位を与えられたが、
安芸国の沼田荘 (沼田川流域、蓮華王院領) の地頭職を得ると
、一族あげて、相模国より西遷してきた。
鎌倉、室町時代を通じて、 沼田小早川氏が本拠とした山城は、
沼田川対岸の高山城であったが、
沼田小早川家を継いだ隆景は、 これまで高山城の副塁であった、
新高山城の大改修を行い、天文21年(1552)に、ここに本拠を移した。
以来、慶長元年(1596) 三原城に移るまでの45年間、
この新高山城が小早川氏の本拠となった。
この城郭は、標高197.6mの新高山の天峻を利用した山城で、
東西400m南北500mの全山を城塞にしている。
山頂尾根を削平した本丸、ニの丸、三の丸など、各種の郭は60余に及ぶ広大なもので、
城主や家臣の居館を山上にあげた中世山城から近世の城郭への過渡期を示す城郭である。 」
「新高山城登山道」 の道標があったので、道標に従い、登山道を上っていく。
「 新高山城の東寄りの中腹以上の斜面には岩山が露出し、
いたるところに岸壁がそそりたち、するどく聳えた俊厳な山容である。
外曲輪は、斜面の中腹から張り出した二つの尾根を利用し、
大手側を固める意図をもって巧妙に配置され、
匡真寺跡、鐘の段、番所跡、紫竹の丸、シンゾウス郭、大手道などがあった。 」
今、鐘の段に向って、上っている。
右側の山肌から根が生えて道にかかりそうになっている、木の階段を上り、
樹木が生い茂った中を登る。
石垣の残骸だったと思える石も転がっていた。
道の左側に、「← 鐘の段」 の道標が建っている。
道標に従い、中に入って行った。
樹木が茂る空地の先は、少し小高い地形になっていて、 近くに、「鐘の段」 の説明板があった。
説明板「鐘の段」
「 城山の南斜面中段に、半独立的小丘をなしている郭で、鐘の段 と呼ばれる。
この鐘の段は、北方背後に土塁を設けた二郭、東側に大小二郭、
西南部に三段の郭を配置している。
鐘の段を中心としたこれらの郭は、地形や縄張からみて、
中世初期の独立した山城(丘城)の形態をなしており、
この部分の築城年代は古いものと思われる。 」
説明板から、鐘の段は沼田小早川氏の初期に築かれたものだろう、と思った。
登山道に戻り、更に進むと、右側に 「番所跡」 の道標があり、 上がって行くと、左側の斜面に、「番所跡」 の説明板があった。
説明板「番所跡」
「 軽石の段、中の段、下の段の三郭からなり、
大手道を警固する番所が設けられていたところである。
この番所の東方と西方にも、それぞれ、東の番所、西の番所と呼ばれる郭が残っている。 」
番所跡は、山を削平したようになっていて、土塁が今も残っていた。
木の階段を上ると、石垣が崩れたように石が転がっている。
まさに、登山道である。 気をつけよう!!
その先は階段が、石積みになっていた。
その先の左側に、「匡真寺跡」 の説明板が建っていた。
このあたりは、城の南側中腹の腰曲輪である。
説明板「匡真寺跡(きょうしんじあと)」
「 小早川氏の菩提寺跡で、 隆景が天正五年(1577)、 亡父・毛利元就の七回忌、
亡母妙玖尼の三十三回忌に際して、 ここに、 匡真寺 (現在三原市宗光寺) を建立し、
法会を盛大に営んだ。
寺跡は、東西四十一メートル、南北七十二メートル に及ぶ広大なもので、
全面に瓦片が散乱し、築庭と思える涌水池、築地塀の跡などが残っている。 」
匡真寺跡に入って行ったが、雑草が茂っているので、瓦片は見つからず、
大きな岩があることを確認しただけである。
空地から見て、かなり大きな寺院であったのだろう。
眼下には、本郷の町と沼田川が見える。
当時は、新高山城下ま、で瀬戸内海が深く湾入していた、と聞いた。
坂を登ると岩塊があるが、ここは中の丸の下である。
「 新高山城は、 標高約二百九十八メートルの山頂尾根や鞍部を巧みに利用して、 東から東の丸、その南にライゲンガ丸、詰めの丸があり、 その西に本丸、その西に中の丸、釣井の段(井戸郭)を配置し、 その西に石弓の段、西の丸、北に北の丸、南に紫竹丸を配する東西約四百メートル、 南北五百メートルの大きな城郭であった。 」
右に行くと、中の丸で、 「中の丸(二の丸跡)」 の標柱と説明板が建っていた。
礎石のような石も見られたが、礎石は重臣の居館の跡と思われる。
説明板「中の丸(二の丸跡)」
「 本丸北方に四段の郭からなる東の丸、井戸郭、
五段からなる中の丸の各郭が配置され、これらが二の丸の縄張である。
中の丸の郭には随所に土塁が築き、曲輪を設けて、防備を固めている。
また、北方の中の丸の広い郭には礎石の配置が一部みられるが、
規模の大きな建物があったことが知られる。 」
右(東)に進むと、木の階段があるが、階段の上は 「門 跡」 とされる。
ここは 本丸の西南隅で、 かっては、内枡形の門が建っていたと推定されている。
階段の左側には、巨石が散乱しているが、これは本丸土塁である。
昔は、土塁の斜面を巨石の石垣で補強していた、と思われる。
この横を北に進むと右は本丸の土塁、 左は谷という狭い道で、 本丸腰曲輪。
そこを過ぎると、広い空間に出るが、「中の丸(二の丸)跡」の標木が建っていた。
「 中の丸は、複数の段で構成され、随所に土塁を築き、
いくつかの曲輪を設けて、防衛していた。
中の丸の東部は、重臣の居館の跡で、礎石が残っているというが、
草木が茂っていて確認はできなかった。 」
ここの東方にあるのが、釣井の段(井戸曲輪)である。
その北に、東の丸があるが、井戸曲輪も、中の丸も、二の丸の一部である。
草ぼうぼうの中に、井戸があるのが、釣井の段(井戸曲輪)である。
説明板「釣井の段(井戸曲輪)」
「 上下二段からなるこの井戸曲輪は、東西南北ともに、50m余という、
城内最大の曲輪である。
上段の曲輪には、径約2mの円形石積井戸が4ヶ所、
下段の曲輪には、 径4.2mと、2.2mの円形石積井戸が残っている。
今なお、清水を湛えるものもあり、
城主をはじめ多くの家臣団の城内生活を物語るものである。 」
釣井の段の南に、一段高いところにあるのが本丸である。
釣井の段との間には、土塁が築かれていた、という。
登城道は大手道で、その道を登ると、大手門 の説明板が建っている。
ここは本丸北西で、本丸への入口の大手門があったところである。
説明板「大手門跡」
「 大手道を登りつめたこの場所は、外枡形の大手門跡と推定される。
三原市の宗光寺の山門は重要文化財で、
高山城(新高山城)の大手門を移したものと伝えられるが、
ここにその門が建っていたものと思われる。 」
大手門をくぐると本丸で、礎石の一部と思われるものがあった。
説明板「本丸跡」
「 本丸は、山頂の尾根を削平した四段からなり、東西125mに及ぶ広大な郭出、
西側と北側の斜面は、巨石による石垣で補強している。
東端の最高部は標高197.6mで、巨石が露出しているが、
この上に櫓をあげていたものと思われ、近世の城郭の天守台にあたる櫓である。
本丸の広い曲輪には、居館の跡と思われる礎石が一部露出しており、
また、西側の中の丸から登り口にあたる本丸南西隅には、内枡形の跡が残っている。 」
小早川家文書によれば、『 永禄四年(1561)に、 毛利元就と隆元親子が新高山城を訪問し、 小早川隆景の居館に十日間滞在し、 隆景は、会所、表屋敷、裏屋敷、高間、常の茶の湯の間などの建物で、 連日、能楽や連歌、太平記 読みなどを催して饗応接待している。 」
東端の最高部の詰の丸へ行く。
本丸の東端にあるのは詰の丸で、その先は急崖になっている。
露出している巨石の上には、石造物がのっているが、
往時は、この上に櫓が建っていたと思われる。
「南無阿弥陀仏」 と書かれた石碑と石仏が祀られていた。
新高山城は、北側と東側は沼田川によって天然の濠をなしている。
詰の丸に立つと、眼下に沼田川によってひらけた本郷の町や瀬戸内海が望める。
対面に見える山は高山である。
「 高山には、小早川氏の祖の土肥実平から、四代目の茂平の時代に、
高山城が築かれた。
十七代を継承した隆景は、沼田川を挟んで高山城と対峙しする場所に、
新高山城を築き、城替えをした。
高山城は、約三百五十年間、沼田小早川氏の居城であった。 」
中の丸の西にある西の丸や北の丸方面には時間の関係もあり、
行かないで、下城した。
それでも、見学に一時間四十分かかった。
新高山城へはJR山陽本線本郷駅から登城口まで徒歩約20分、
登城口から本丸まで約30分〜40分
◎ 三原城
松が茂る海岸に、三原城の城郭が建ち並び、沖には船が停泊している。
この三原城絵図は、妙正寺に所蔵されているという。
「 小早川隆景は、毛利元就の三男だが、
幼い内に竹原小早川家の養子となり、家督を継いた。
天文十九年(1550)、本家の沼田小早川十六代繁平の妹・問田大方と結婚し、
沼田小早川氏十七代当主となり、翌年高山城に入城し、
その翌年には、副塁の新高山城を改築して移り、生涯四十五年間の居城となった。
永禄十年(1567)には前進基地として、
沼田川(ぬたがわ)の河口の大島と小島をつないで砦を築き、 水軍の拠点を造った。
これが、三原城の始めである。
小早川海軍の基地になった砦は、天正八年(1580)から天正十年(1582)にかけ、
二層の櫓が三十二、城門が十四ある城郭に改造されて、
小早川隆景は本拠を新高山城から三原城へ移した。
三原城は、瀬戸内海を軍事的に掌握する為に建てられた梯郭師式の城郭で、
海に向かって船入りを開き、壮大な天守台を北(陸側)に頂いた本丸、
その東、西、南の三方に二の丸、
そしてその東側に三の丸と東築出、西側に西築出を台形状の城郭で、
背後に新高山城下などから寺院を移築し、
背後の桜山には、詰城の機能を持たせていた、という縄張であった。 」
JR三原駅の南にある、ペアシテイ三原西館の西側出口に、石垣があり、
「三原城臨海1番櫓跡」 の石柱が建っている。
ペアシテイの外に沿って、南北に復元された水堀と石垣が続いている。
ペアシテイの南の道を東に進むと、城町交叉点がある。
このあたりは、城町 という地名である。
商店街を進むと突き当たりに、石垣があり、その上は城山公園である。
石垣は右に向って、続いているので、
進んで行くと、「三原城址之碑」 の石碑も建っている。
石垣は、「三原城船入櫓跡」の石垣である。
「 船入櫓は、本丸などの主城の南東にあった小高い島に、 手を加えて築かれた海上の櫓であった。 」
石垣をぐるーと回って少し行くと、狭い堀がある。
そこにある石垣の角に突起する丸まったものがあるが、これは島の岩礁である。
船入櫓が、島の上に築かれていたことを示す証拠である。
「聖トマス小崎像」 の傍らに、教会が建てた説明碑がある。
「 私のことも、ミゲル父上のことも、心配下さいますな。
天国の全き幸福を失わぬように努力なさいますよう、
人々からいかなることを受けようと耐え、
すべての人に大いなる慈悲をかけられますよう。
1597年 豊臣秀吉のキリシタン弾圧において、
長崎西坂の丘で処刑された殉教者26人の中に、 14才のトマス小崎がいた。
京都から長崎に護送される途中、 三原にて伊勢の母マルタに書いた別れの手紙の一部である。
処刑後、 父ミゲルの襟元から発見させ、 その訳はローマに保管され、
日本二十六聖人の一人として、世界の人々にあがめられている。
けなげな少年の心を末永く伝えるために、城址に近いこの地に石碑を建立した。
三原カトリック教会 」
この辺りは、市街地になり、城跡を示すものはないので、駅の北側に行く。
三原駅の周囲は三原城の本丸だったところである、
新幹線の駅下を囲むように、本丸の石垣がある。
「 明治二十七年(1894) 、
山陽鉄道三原駅開設の際、 城地は駅の用地になり、
さらに、山陽新幹線の建設の際、 駅の高架化も併せて行われた結果、
新幹線が天守台を横断して造られてしまった。
現在、三原駅の北側は、台形の天守台と、それを囲む三方の水堀と、
西側に縦長の長方形の空地を残すだけである。」
西側に縦長の長方形の空地に、 三原市長の書の 「隆景広場」 の石碑があった。
右側の水掘の先には、立派な天守台石垣がある。
説明板「天守台石垣(館町)」
「 日本一の規模を持つ天守台は、
広島城の天守閣なら六つも入るという広さを持つ。
三原城が造られた1567年より十年後に、信長によって安土城が造られ、
初めて天守台に天守閣が聳えるようになり、以後、全国に流行しました。
然し、この三原城築城の時は、まだ天守閣を造る思想がない時代だった、
と考えてられます。
山城から平城に移行する時代のごく初期の城築です。
この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は、群を抜きます。
しかも、余人は真似るべきでないと言われた、「アブミ積み」 という特殊の工法は、
古式の石積形式を四百年経た今日まで、立派に伝えております。
一七〇七年(宝永四年) の大地震では、城内を役夫二万五千人を動員して修理した。
しかし、破損箇所は・・・、
「元のごとく成りがたかりしを、伝右衛門(竹原市下市)をして築かしめられけるに、
遂に築きおさめければ ・・・」 とあるが、これは東北陵面のことと推測します。 」
その先には、「三原城跡歴史公園」と書かれた、説明板があった。
説明板「三原城跡歴史公園」
「 小早川隆景により、永禄10(1567)年に築かれたと伝わる三原城は、
明治時代に鉄道建設のため、本丸に三原駅がつくられました。
その後、市街化が進み、天守台壕端のこの場所にも、家が建ち並んでいました。
この公園は、平成23(2011)年から3年かけて、
発掘調査を行い、歴史公園として整備しました。
「紙本著色備後国三原城絵図」 が描かれた、江戸時代末期の様子をイメージしています。 」
西北部より、水堀と天守台を見たが、水堀から天守台まで、かなりの 距離があると、思った。
天守台に入るには駅の北西にある専用通路を利用する必要がある。
入口に 「天守台跡入口」 の看板があり、通路を進むと階段があり、
それを登ると天守台である。
江戸時代の天守台には、天守は築かず、隅に二重櫓を築かれていたようである。
中央部に、「史跡 三原城跡」 の看板はあるが、
全体の四分の三は、植え込みに占められていて、
城の存在を示すのは、「史跡 小早川氏城跡 三原城跡」 の石碑だけである。
「 小早川隆景は、兄の吉川元春とともに、甥の毛利輝元を助けて、
中国統一を完成させて、瀬戸内海の水軍を掌握していた。
隆景は、天正年間、 毛利氏の広島城築城と相前後して、
沼田川河口の三原の小島をつないで、城郭を築いた。
城郭兼軍港としての機能を持たせた名城で、
満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えたので、 浮城 とよばれていた。
小早川氏の移封後も、福島氏・浅野氏の支城となっていた。
寛文三年(1663)に、本丸御殿が建て変えられていたが、
JR山陽本線および新幹線が本丸を貫き、 本丸跡は姿を消した。
今は、天守台跡とそれをめぐる濠、および、船入り櫓跡、中門跡などが残るのみである。
」
三原城へはJR山陽新幹線・山陽本線三原駅より約5分
訪問日 令和元年(2019)九月七日