福山城は、元和五年(1619)、
備後福山藩十万石の藩主となった水野勝成が、三年間の歳月を費やし、
元和八年(1622)に竣工した城である。 久松城とも、華陽城という別名を持つ。
徳川幕府の西国経営の拠点としての重要な位置付けを与えられた城は
海陸路の要衝である福山の、
芦田川三角州の低い丘陵を利用した輪郭式の平山城である。
山陽新幹線・福山駅を降りると、駅の北側に 福山城跡の福山城公園がある。
公園に入り、坂を上って行くと、目の前にそびえ立つ高石垣の櫓が、 伏見櫓である。
説明文「伏見櫓」
「 伏見城の松の丸東櫓を移築して建てられたもので、城郭建築の初期の様子をよく残していること、
伏見城の遺構としても貴重なもので、国の重要文化財に指定されている。
桁行八間、梁間三間、三層の入母屋造り、本瓦葺きの建物で、
初層と二層は同じ平面で、その上にやや小さい三層を乗せ、内部は階段を付け、
床板敷き、小屋梁天井としている。 」
上っていくと、右側に筋鉄御門がある。
説明文「筋鉄御門」
「 筋鉄御門は、伏見城から移築されたもので、国の重要文化財に指定されている。
桁行十間、梁間三間の入母屋造りの脇戸付き櫓門で、
下層の各柱には、根巻き金具を付け、四隅に筋金具を打ち、
扉にも十二条の筋鉄を鋲打ちし、乳金具を飾るなど堅固な造りになっている。 」
筋鉄御門をくぐると本丸である。
広い空地の中にm「伏見御殿跡」 の石碑が建っている。
「 本丸は、天守周辺が僅かに高くなっていて、
ほぼ平面で構成された南北方向に長い曲輪である。
南西の伏見櫓から反時計回りに、月見櫓・鏡櫓・亭櫓・玉櫓、・櫓。内六番櫓・
荒布櫓・人質・火灯櫓の十の櫓があり、
櫓と櫓の間には、南面と天守周辺を除き、多聞櫓が廻らされていた。
「 明治六年(1873)の廃城令により、
建物の払い下げや取り壊しが始まった時、
本丸の天守・筋鉄御門・伏見櫓・御湯殿・鐘櫓の五棟の建築物が残されることになり、
鐘櫓を除く四棟は、国宝に指定された。
本丸以外の土地は、昭和初期までに、城北側の堀をかねた吉津川以外、
すべての堀が埋められ、三の丸の大半は市街化がした。
さらに、昭和二十年(1945)の福山大空襲で、伏見櫓、筋鉄御門のみを残し、
残りの三棟も焼失してしまった。 」
「伏見御殿跡」の石碑の周囲は芝生の広場になっていた。
本丸の奥に、鐘楼があり、説明板が建っている。
「 築城当時より、城下や近隣諸村に、時の鐘を告げた遺構で、
江戸期には、鐘と共に、緊急時武士を召集する太鼓も備えていた。
当初は、柿葺きか桧葺きであったが、明治以降荒廃がはげしく、
たびたびの補修のため、原形をとどめない状況であった。
昭和54年、銅板葺きとして、旧規に復したものである。
城地内に、鐘楼が所在するのは、全国的に事例がなく貴重な文化財である。
福山市教育委員会 」
現在の天守は、残された石垣の上に、建築された鉄筋コンクリート構造による天守で、建物内は福山市立福山城博物館になっている。
「
福山城の天守は、元和八年(1622)建立の五重五階地下一階の層塔型天守で、
規則的な構造を持ち、層塔型の形式を体現していて、
慶長期の城郭建築技術の完成形といえるものであった。
天守は、廃城後も破却を免れ、昭和六年(1931)には国宝に指定されたが、
昭和二十年(1945)の福山大空襲で、焼夷弾により、焼失してしまった。
」
天守最上階の回縁からは、市街を360度見渡せる。
本丸御殿跡の先は、福山駅、その先は市街地、その先はもやっているが瀬戸内海である。
本丸東側の二層二階の鏡櫓は、明治六年(1873)の廃城令により破壊された。
昭和四十八年(1973)、外観復元され、
内部は郷土史の資料や文書を収蔵する文書館になっている。
本丸東南隅の月見櫓は、伏見城にあった櫓を移築したもので
、望楼の役割を果たしていた。
明治の廃城の際にとり壊されたが、
昭和四十一年(1966)、天守と共に、外観復元された。
御湯殿は、御殿と共に伏見城から移築され、明治六年(1873)の廃城令でも、
壊されず残り、国宝に指定された。
昭和二十年(1945)の戦災で焼失したため、
昭和四十一年(1966)、内外ともに復元された。
福山城の見学を終え、福山駅のホームにいると、
反対側のホームに、キテイ新幹線 が入ってきた。
始めての出会いである。
福山城へは山陽新幹線・山陽本線福山駅から徒歩5分
訪問日 令和元年(2019)九月七日