名所訪問

「 坂・文学の町 尾道 」


かうんたぁ。


 

広島県の南東部にある尾道は、南が尾道水道、 北は尾道三山と呼ばれる千光寺山・西園寺山。浄土寺山に囲まれた、港町である。 
中世には、日明貿易の朱印船の寄港地、江戸時代には西国街道と出雲街道の宿場、 西回り廻船の寄港地として、商業が繁栄し、近代には造船業が興隆した。  
志賀直哉や林芙美子などが、居を構え、尾道を舞台とした作品を発表。 
映画のロケ地として使用されて、また、アニメの舞台にも使用されて、 アニメフアンの五大聖地になった。 
やまなみ海道の開通、尾道水道の日本遺産登録などで、観光客が増加している。


JR尾道駅を降りると、国道2号線を挟んだ対面が、尾道水道で、 そこから、対岸の向島に、福本渡船が出ている。

渡船は、数箇所から出ているが、小型の船で、バイク・自転車・人だけを乗せ、 数分で向う岸へ到着させる。 
尾道の通勤の足である。 

振り返ると、電光輝く尾道駅とバス群、その奥の山には尾道城(?)と、夕暮れに沈む家々が見えた。

尾道水道と渡船場
     渡船風景      夕闇の尾道駅
尾道水道と渡船場 渡船風景夕闇の尾道駅


翌日、長江口からロープウエイで、千光寺山へ登る。 
頂上駅は千光寺公園内にある。 
降りた先の下に、尾道市立美術館がある。
少し上ると、黄金に輝く母子像があり、円筒状の展望台があった。
そこから、下を見ると、尾道水道と市街地が一望でき、 向島への渡船の姿が見えた。 
昨日渡船とは違っていて、土堂二丁目から出る、尾道渡船である。
もやっていたので、遠景はぼやけていた。

千光寺公園
     展望台      尾道水道
千光寺公園 展望台尾道水道


ここから、千光寺にかけて、巨岩・奇岩・大石がごろごろしているが、 遊歩道に、それを利用した、文学碑が続いている。 文学のこみちというものである。

徳富蘇峰の碑文
「 海色山光信に美なるかな
  更に懐う頼子の出群の才を
  淋離たる大筆精忠の気
  維新の偉業を振起して来たる           」

前田曙山 句碑
「  浜焼きをむしりつつ  春惜しむな里(り)   」

正岡子規句碑
「  のどかさや  小山つづきに塔二つ     」
 松山の人、俳諧「ホトトギス」を発刊、俳句革新の大先達となった。 
 この句は、日清の役に、日本新聞の従軍記者として、尾道を通過した時の作で、 西国寺の三重塔と天寧寺の海雲塔を眺めたものであろう。 

徳富蘇峰の碑文
     前田曙山 句碑      正岡子規句碑
徳富蘇峰の碑文 前田曙山 句碑正岡子規句碑


物 外 (もつがい) の句碑
「  あれは伊予  こちらは備後春の風    」 
 愛媛県松山市の人、三原侯に信任され、尾道の済法寺の住職となった。
この句は、伊予に生まれ、備後に育った和尚のなごやかな気持がうかがわれる。 

十辺舎一九の歌碑
 「 十辺舎一九 日のかげは青海 原を照らしつつ 光る孔雀の 尾の道の沖   」
 静岡の人、有名な弥次郎兵衛、喜多八を主人公とした、東海道中膝栗毛の作者で、 山陽道漫遊の作。  」

「文学の小道」の道標に従って、碑文を見ながら、降りて行く。 

物外(もつがい)の句碑
     十辺舎一九の歌碑      文学の小道
物外(もつがい)の句碑 十辺舎一九の歌碑文学の小道を下る


金田一京助の歌碑
「 かげともの をのみちの やどのこよなき たびのつかれを わすれていこへり  」
 盛岡市で生れる。 東大文学部言語学科卒。 アイヌの研究などの著述がある。 
 この和歌は昭和三十年尾道に來遊の際の作である。  

江見水蔭(えみすいいん)の句碑 
 「   覚えきれぬ  島々の名や  夏がすみ    」 
 明治二年岡山に生まれた。 大町桂月らと交り、硯友社同人となった。 
 雑誌「小桜○」を刊行、田山花袋らを育てた。 

大きな岩に、小さな字で刻まれているのは、志賀直哉の文学碑である。 
 宮城県の人。 大正元年の秋から、同二年の中頃まで、千光寺山の中腹に居を構えていた。
 同10年から、大作「暗夜行路」を発表、昭和十一年に至って、完成した。 
 その寓居は現存している。 この碑は、志賀さんの懇望によって、小林和作画伯が、
 特に筆をとられたもので,「暗夜行路」の一文が刻まれている。  

金田一京助の歌碑
     江見水蔭の句碑      志賀直哉の文学碑
金田一京助の歌碑 江見水蔭(えみすいいん)の句碑 志賀直哉の文学碑


露呈した岩がある中に、横が広い石に、林芙美子の文学碑がある。
 放浪記
 海が見えた。  海が見える。  五年振りに見る尾道の 海は、なつかしい。 
 汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さな町の屋根が、提灯のやうに、拡がって来る。
 赤い千光寺の塔が見える。 山は爽かな若葉だ。 緑色の海、向うにドックの赤い船が、
 帆柱を空に突きさしている。 私は涙があふれてゐた。 
      小林正雄書               
 林芙美子は、下関の人、大正五年、尾道に移り住んで、尾道第二高等女学校を卒業。
 後、上京して、昭和四年に出世作「放浪記」を出し、新進作家として大成した。 
 この碑は、筆者・小林正雄氏は、小学校当時の恩師である。 

緒方洪庵の歌碑
「  軒しげく たてる家居よ あしびきの 山のおのみち 道せまくまで  」
 備中足守の人で、医学を志し、江戸に下る。 更に、長崎で、三年、二十九才のとき、
 大坂が開業して、洪庵と号した。 足守藩の侍医となり、ついに幕府の侍医を命じられた。
 この句は、文久二年(1862)の初夏、尾道に來遊したときの作である。 

巖谷小波(いわやさざなみ)の句碑
 「  大屋根は  みな寺にして 風薫る(かぜかおる)   」
 東京の人、おとぎばなし作家として、児童文学に尽した功は大きい。
 この句は、昭和七年、尾道を訪れた際、この地の風光をよんだ数句の中の一つである。

 

林芙美子の文学碑
     緒方洪庵の歌碑      巖谷小波の句碑
林芙美子の文学碑 緒方洪庵の歌碑 巖谷小波(いわやさざなみ)の句碑


山口玄洞の座右銘
 「 明徳を明らかにす 」 
 尾道市久保町の人、若くして上阪し、実業家として大成した。 
 故郷思う念が篤く、尾道市の上水道の敷設、明徳商業学校の創設など、
 尾道につくした功績はまことに大きい。 碑はに刻まれた三文字はその左右銘であった。

その先には、「祐七大明神」などの石碑が並び、樹木が茂っている。

玉の岩と大師堂との間に、石仏が数体祀られている。

山口玄洞の座右銘
     「祐七大明神」などの石碑      玉の岩と石仏群
山口玄洞の座右銘 「祐七大明神」などの石碑が並ぶ 玉の岩と石仏群


玉の岩の岩面に、山口誓子の句碑が刻まれている。
 「 寒曙(かんぎょう)に鳴る指弾せしかの鐘か   」
 明治三十四年京都生まれ、東大法学部卒、三高在学中より、俳句の道に入る。
 句集を始め、多くの著作があり、現代俳句の旗手と言われる。 
 この句は、昭和三十七年、尾道來遊の際、千光寺を詣で、宿舎で鐘の音を聴いての作である。

柳原白蓮の歌碑
 「 ちち母の声かときこゆ瀬戸海に み寺の鐘のなりひびくとき    」
 東京の人、女流歌人として、尾道を行脚したとき、千光寺、浄土寺に詣でて、
 数首を残している。 

岩に、白い丸を描いているのが、鏡岩か 何か分からなかった。

山口誓子の句碑
     柳原白蓮の歌碑      鏡 岩(?)
山口誓子の句碑 柳原白蓮の歌碑 鏡 岩(?)


玉の岩の出口の上に、「← 鐘堂・玉の岩・大師堂」と書かれた案内板があった。

田能村竹田(たのむらちくでん)の詩
 大分県竹田の人、天保5年二月、尾道に立ち寄り滞在数ヶ月、八月一日、
 千光寺山へ登って、花瓶に挿して楽しんでいた梅の花から、石榴の花までの残り花を
 束ねて、玉の石かげに葬り、盃の酒ををそそいで、詩を作り、石に刻んだのが、
 この碑で、○紅の碑と名付けた。 

「開運 厄除弘法大師」の看板がある、大師堂で、旅の安全を願って、お祈りをした。 

玉の岩の出口
     田能村竹田の詩      大師堂
玉の岩の出口 田能村竹田の詩碑 大師堂


大師堂の反対、崖の石垣の上に、多くの歌人・俳人などが歌に詠んでいる、鐘楼と鐘があった。

下を見ると、乗って来たロープウエイと、尾道水道の西方の景色が見えた。 

左の岩の先には、梵字岩があった。 

説明板「梵字岩(曼荼羅岩)
「 此の曼荼羅図絵は、徳川五代将軍綱吉公の○依僧東都湯島霊雲寺開基浄巌大和尚、 当地へ御留錫の砌り、書き遺されたるものなりと伝う。 円型の中に、 光明真言、大日如来真言の梵字が刻まれて、おります。 」

鐘楼と鐘
     眼下の風景      梵字岩
鐘楼と鐘 眼下の風景 梵字岩


岩の上には赤い建物の本堂があり、「奉納 南無不動明王」と書かれた、 幟がはためいていた。 

道を引き返すと、「千光寺受付所」の看板が掲げられ、赤い柱などで構成された受付があった。

「 千光寺の本堂は、貞享三年の造営で、施主は藤田勝長。御本尊の千手千観世音菩薩は、聖徳太子の御作。 多田満仲公の守本尊にして、 三十三年に一度、御開帳する秘仏です。 脇侍 不動明王・毘沙門天 覚○作  西脇檀 阿弥陀如来 聖徳太子作 」 

右側に、「中国観音霊場第十番千光寺」の大きな看板があり、建物の下を くぐると、石段があるので、上って行って合掌した。 

帰りは歩いて降りる。 
芭蕉の句碑があった。
 「  うきわれを 寂しがられよ 閑古鳥    」
 この句碑は、官製四年十月十二日、尾道の問屋業者等、五十二人が、 芭蕉翁百年忌を営み、その記念に建てたものである。

赤い建物の本堂
     千光寺受付所      芭蕉の句碑
頭上に赤い建物の本堂 千光寺受付所 芭蕉の句碑


中村憲吉の歌碑が三基あった。
 中村憲吉は、広島県双三郡在野村の人。
 アララギ派の歌人で、その作風は近代歌人中、特異な存在であった。
   後年、病魔におかされ、千光寺中腹で、病を養っていたが、昭和九年、四十六才で他界した。

中村憲吉の歌碑 その一
 「  岩かげの光る湖より風は吹き 幽かに聞けば新妻のこゑ   」
 新婚当時、夫人の郷里・鞆での作。

中村憲吉の歌碑 その二
 「  秋浅き木の下道を少女(おとめ)らは おほむねかろく靴ふみ来るも   」
 上京後、三年目、お茶の水での作。

中村憲吉の歌碑 その三
 「 おく山の馬柵戸(ませど)にくれば霧ふかし いまだ咲きたる合歓(ねむ)の淡紅はな  」

中村憲吉の歌碑 その一
     中村憲吉の歌碑 その二      中村憲吉の歌碑 その三
中村憲吉の歌碑 その一 中村憲吉の歌碑 その二 中村憲吉の歌碑 その三


「中村憲吉の歌碑」 と書かれた説明板があり、
「 昭和九年五月五日、アララギ派の代表的歌人・中村憲吉は、 この寓居で、四十六才の短い生涯を終えた。 平成九年、終焉の家の修復が成った。  十年、尾道市市制施行百年を記念し、歌碑三基を建て、また、 療養中の二首を陶板に刻み、旧宅白壁に埋める。
  中略      
 白壁陶板の二首
 「 病むわれに妻が屠蘇(とそ)酒をもて来れば たまゆら嬉し新年にして  」
 「 病む室の窓の枯木の桜さへ 枝つやづきて春はせまりぬ      」
と書かれていた。 奥にあるのが、寓居であろう。

その先に、国の重要文化財に指定されている、天寧寺の三重塔があった。

「 足利義詮が、嘉慶二年(1388)に五重塔として建立。  元禄五年(1692)、老朽化したため、上部二層(四重い・五重)を取り除き、 現在の三重塔(高さ約20m)の姿になった。 別名、海雲塔、弥勒菩薩が祀られている。 」

天寧寺は、曹洞宗の寺院で、貞治六年(1367) 足利二代将軍・義詮の開基したという 由緒ある寺である。

「 創建当時は、東西に三町の敷地に、七堂伽藍が建つ大寺院であった。 本尊は宝冠釈迦如来。 
康応元年(1389)、三代将軍・足利義満が、宮島の参詣の帰路、船を天寧沖にとどめ、 船橋をかけさせ、宿泊し、備後守護の山名氏の饗応を受けた。 
当初は臨済宗であったが、元禄時代に曹洞宗の寺院になった。 
天和二年(1682) 雷火のため、全山焼失、僅かに後山の海雲塔が残った。 」

中村憲吉旧宅
     三重塔      天寧寺本堂
中村憲吉旧宅 天寧寺の三重塔 天寧寺本堂


本堂前の羅漢堂には、江戸中期から明治期にかけて、 檀信徒から寄進された、五百羅漢像が祀られている。

先程の坂道に戻ると、急な>石段があり、 周囲には民家が密集している。
そこを毎日、行き来している住民はもとより、郵便配達員や宅配便業者の苦労も大変だろう、と思った。

一息付けるところに、「手づくり わらびもち」の看板、「坂の町尾道」の丸い提灯があり、のれんに「昇福亭」とある、甘味処があった。

 

五百羅漢像
     急な石段      甘味処
五百羅漢像 急な石段 甘味処


そのまま、下って行くと、山陽本線の千光寺前踏切がある。
その先に、国道2号線があり、横断して進むと、尾道本通り商店街がある。
この東西に続くアーケード通りは、京都から下関まで続く西国街道の一部である。 

商店街に入るとの看板を架けた銭湯と思った建物が、 その上に「遊・遊」YOU・YOU と書かれ、入ったらお土産屋のようなものだった。

千光寺前踏切
     尾道本通り商店街      旧大和湯・ 遊遊
千光寺前踏切 尾道本通り商店街 旧大和湯・ 遊遊


茶色系の石が置かれていて、「力 石』の説明板があった。 

「 これは力石といいて、尾道の湊が、北前船の寄港地として、 繁昌していた、江戸時代からの船着場で、荷物の積み込み積み降ろしをしていた、 浜の沖仕連中が、この石を指し上げて、力くらべをしていたものです。  なかなか重いものですが、見事これをさしあげたものの名前をほって、 後世に伝えています。 
この力石は、西浜(住吉神社)にあったもの、東浜のものは、現在、 西国寺境内にあります。 
石の重さは、力石が 二百二十キロ、百八十二キロ、百六十キロ、百六十キロ、 百二十五キロ、  あります。 」

道端に、行商人がいて、魚をさばいて、売っていた。
尾道ラーメンが食べたくて、店を探して、昼食にした。 うまかったです。

食事後、車で、西国寺へ行く。 

「 西国寺は、天平年間、行基により、創建されたと伝えられる 、真言宗醍醐派の本山である。 山号は摩尼山、院号は総持院、本像は薬師瑠璃光如来坐像。 」

西国寺があるのは、尾道三山の一つ・愛宕山の山腹にある。 
敷地は一万五千七百平方メートルある、大寺院である。 
入口は長さ二メートルのある大草鞋がある、仁王門である。 

「 仁王門は、室町時代末期の建立で、国の重要文化財に指定されている。 
楼門形式の仁王門で、 扁額「摩尼山」は、小松原彰親王の筆、仁王像も山門と同じ時代と思われる。 」

力石
     尾道らーめん      西国寺 仁王門
力 石 尾道らーめん 西国寺 仁王門


仁王門をくぐると、108段のかなり急な石段がある。

石段を上ると、朱塗りの金堂がある。

「 度々の火災で焼失し、現在の建物は、南北朝時代に、 備後守護の山名一族によって再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。  和様を基調とした折衷様式で、入母屋造の妻飾は、二重梁大瓶束で、 屋根に重厚感をもたせ、規模も壮大で、手法上も全体より受ける感じは和様の風格 が濃厚な堂々とした建物である。   」

金堂の左手に、英霊殿、その右奥に賀茂明神社がある。

「 宝形造の露盤上焔光を持つ宝珠も美しい屋根を持つ建物は、 かっては経蔵だったが、今は英霊の位牌が祀られている。 」

108段の石段
     金堂      英霊殿
108段の石段 金 堂 英霊殿  (中央奥) 賀茂明神社(右)金堂


下を見ると、仁王門の先の市街地が霧がかかるように、もやっていた。

金堂の裏側は一段高くなっていて、金堂の右手の石垣と使用禁止になっている門が見える。

「 門は、千光寺山頂から、元禄時代に移築された唐門である。  この門は法要門とあり、右手にある石段から本坊へ進むよう、書かれていた。 」

その先に進むと、右手に本坊、正面は本坊に続く渡り廊下があり、その左側に 持仏堂・不動堂・毘沙門堂・大師堂がある。
下の右側写真は、右から持仏堂、屋根の上に三重塔がわずかに見える。 
持仏堂の隣は、不動堂で、その間の前に寺務所がある。

「 三重塔は、永享元年(1429) 足利六代将軍・義教により、 建立されたもので、国の重要文化財に指定されている。 
復古式建築の純和様の重量感がある、美しい塔である。 
如意輪観世音菩薩を本尊とし、極彩色の四天王を祀る。 」

尾道にはこの西方に、浄土寺があるが、これまで数回訪れているので、 今回は行かなかった。

仁王門の先の市街地
     唐門      金堂
仁王門の先の市街地 唐門(法要門) 不動堂  持仏堂 (奥) 三重塔



千光寺へは、尾道駅から、おのみちバス 千光寺山ロープウエイ前で下車、 ロープウェイに乗り換え、山頂へ
西国寺へは、尾道駅から、おのみちバス 東西線で、西国寺下バス停で下車 

訪問日    平成十七年(2005)三月十日



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