名所訪問

「 南蛮貿易発祥の地 平戸 」


かうんたぁ。


 

長崎県の北西部にある平戸は、平戸藩松浦氏の城下町で、 鎖国前は中国、ポルトガル、オランダなどとの国際貿易港だった。 
フランシスコ・ザビエルが来航し、キリスト教の布教を始めた。 
平戸城は松浦鎮信が築き、徳川家康を恐れて焼捨てた日之嶽城跡に、元禄時代に 松浦棟が築いた城で、日本100名城の第90番に選出されている。 
玖島城(大村城)は大村喜前が慶長四年(1599)に築城した城を大村純頼が加藤清正の意見を 取り入れて、慶長十九年(1614)に大改修した海城である。 



JR佐世保駅で降り、佐世保の港に面する店で、 佐世保ハンバーガーを食べた。
ボリュームはあったが、野菜が多いためヘルシーで、さっぱりしていて、おいしかった。 
レンタカーで、平戸へ向かう。 
鉄道では、佐世保駅で松浦鉄道西九州線に乗り換えて、たびら平戸口駅で下車すると、 平戸大橋入口まで1km程である。
平戸からは国道204号を走り、平戸大橋に至る。 

「 平戸大橋は、国道383号の平戸市の平戸島と本土部を隔てる、 平戸瀬戸に架かる、トラス吊橋構造の橋である。  昭和五十二年(1977)に開通した、長さ665mの橋で、海面上30mにある。 」

最初に行ったのが、平戸オランダ商館である。 
県道153号の海岸を走ると、白亜の建物が見えてきた。 
これは平戸オランダ商館を復元したものである。

「 慶長十四年(1609)に、 江戸幕府から貿易を許された東インド会社が、平戸城主・松浦隆信の許しを得て、慶長十四年(1609)に、平戸に設けた貿易拠点である。  三代将軍・徳川家光による禁教令により、寛永十七年(1640)に全ての建物が壊され 、翌年の寛永十八年(1641)、オランダ商館は長崎出島に移転し、 平戸での南蛮貿易は終焉を迎えた。  その跡は平戸の町人地となり、御船手屋敷が建ち並んだ、という。 」

平戸湾に沿って南に走り、浦の町から上に上ると、 平戸ザビエル記念聖堂(カトリック平戸教会)がある。 

「 カトリック平戸教会は、大正二年(1913)に仮聖堂が建てられ、昭和六年(1931)に鉄筋コンクリート造りで作られたゴジック建築の教会で、 正面に大塔、左側に小塔を配し、空に向って垂直性を強調した外観が印象的である。  窓や扉の尖りアーチ、大塔の周囲に林立する尖塔、 側面のフライイングバットレス(控柱)などにゴジック建物の要素を見ることができる。 」

佐世保バーガー
     平戸オランダ商館      平戸ザビエル記念聖堂
佐世保バーガー平戸オランダ商館平戸ザビエル記念聖堂


聖フランシスコ・ザビエル記念像が建っていた。 

「 ザビエルは、バリー大學在学中に母の教えから、 大学教授の地位や一切の名誉から離れ、同志とともに修道会(イエズス会)を創立し、 インド各地の伝道の後、1549年に鹿児島に上陸して、 日本で初めてキリスト教とヨーロッパの文化を伝えた。  翌年、平戸に來島し、藩主・松浦隆信お歓迎を受け、布教活動を行った。 
ザビエルは三度にわたり、平戸を訪れて布教した。  ザビエル以降はイエスズ会宣教師によって、 平戸島、生口島では多くの住民がカトリックの洗礼を受け、 江戸時代の禁教令の下でも隠キリシタンとして信仰を続けた。 」

平戸は、鎌倉時代に、松浦党の一族が住みつき、 館山に館を築いたことに始まる。

「  天文十九年(1550)には、松浦隆信が南蛮貿易を始め、平戸港にポルトガル船が始めて 入港。 
慶長五年(1600)、松浦鎮信(まつうらしげのぶ)は、徳川家康より、 六万三千石の所領が安堵され、平戸藩を立藩する。  鎮信は、慶長四年(1599)に、三方を平戸瀬戸に囲まれた亀岡山に、日之嶽城を築いたが、幕府による改易を恐れて、慶長十八年(1613)、城を焼き捨てた。   日之嶽城を廃城にした後、平戸オランダ商館の北西の山腹に、 中の館 と呼ばれる居館を構え、平戸藩の藩庁とした。  跡地は、現在、松浦史料博物館になっている。 」

以後、城は築かれなかったが、元禄十六年(1703)、 平戸藩五代藩主・松浦棟(まつうらたかし)が、 寺社奉行に抜擢されたのを機に、城の復活の動きが加速し、実現に漕ぎつける。

「 寺社奉行になった松浦棟は、新規築城を幕府に願い出て許され、 日之嶽城跡地に日之嶽城の石垣を利用して、 宝永元年(1704)から享保三年(1718)の十四年間、総銀千百八十貫余、 総人数五十一万人余という大事業の末に完成させた。 
また、宝永四年(1707)には二の丸に御殿を建て、御館から藩主以下藩庁が移され、 平戸藩の中心になった。 
江戸時代中期になって、平戸城の築城が裁可されたのは異例のことで、 これは徳川家と姻戚関係にあったことと、東シナ海警備の必要性によるものといわれる。 」

車を平戸城駐車場に停めた。 
その上には、護国神社と市営相撲場があった。 
市営相撲場の隣には懐柔櫓が建っていた。 

「 この一帯は、本丸より一段低い三の丸跡で、 懐柔櫓は昭和三十七年(1962)に模擬復元されたものである。 」

聖フランシスコ・ザビエル記念像
     護国神社      懐柔櫓
聖フランシスコ・ザビエル記念像 護国神社 懐柔櫓


護国神社の前は東櫓と安寿門があった場所で、 そこから下を見ると、しっかりした石垣が築かれていた。 

護国神社でお参りを済ませ、そこを出ると  「平戸城三ノ郭跡」 の道標が建っていた。 

「 平戸城は、平戸瀬戸に望む高台の山上部に、 本丸・二の丸・三の丸、海岸に面した山麓部分には、 海城ならではの船着場・小舟入や御舟入等が設けられた。  平戸城には櫓数七、櫓門が四、塀の総長は千五百四十八間半であった。 
明治四年(1871)の廃藩置県により廃城となり、山上部の建物は、北虎口門・ 狸櫓(たぬきやぐら)を残して壊された。 」

細い道の右側に亀岡神社がある。 神社があるのは、二の丸跡である。

「 明治十三年(1880)、 平戸城内にあった霊椿神社が老朽化したため、 七郎神社・乙宮神社・八幡神社の三社と合祀して、亀岡神社が建立された。  境内北側端中央の高い石垣の上に本殿、 その下に 「阿翁石」 と呼ばれる、 松浦市鷹島産の粗粒玄武岩で作られた基壇の上に、拝殿があり、 その間に幣殿と登廊がある。 本殿入口は桁側から入る平入で、 正面中央に階段があり、左右に神像を安置する独特の形式で、 瓦には平戸松浦家の 家紋・三ッ星が入れられている。 」

左側には、漂泊の俳人・種田山頭火の句碑が建っている。

「 句碑には、
   「  酔いどれも  踊りつかれて  ぬくい雨  山頭火 」
の句が刻まれており、 その下に 
「 日本は世界の公園である。 平戸は日本の公園である。 山頭火行乞日記より 」
の文字がある。 種田山頭火は漂泊の俳人と呼ばれるが、 昭和七年三月三十一日に平戸を訪れ、島の美しさと人の温かさに感激し、 一時落着き先にと考えたほどであった。 」

三の丸石垣
     亀岡神社拝殿      山頭火句碑
三の丸石垣 亀岡神社拝殿 山頭火句碑


細い道をそのまま進むと、二の丸に建てられている、 乾櫓に突き当たる。 

「  乾櫓は、天守の代用とされた三重三層の櫓で、 乾櫓の脇には、脇虎口という非常用の隠し門が設置されていた、という。  現在の建物は、昭和三十七年(1962)に模擬復元されたものである。 」

右折して社務所の先を左折する。  その前方にあるのが北虎口門で、入口に入城券売場(510円)がある。 

「  北虎口門は本丸の北下に位置し、二の丸の搦手を守る門である。 
宝永四年(1707) に完成した門で、石垣と石垣の間に門を渡す櫓渡し門の様式で、 造られている。 攻防の拠点となる虎口であり、 改変されている部分が多いが、現在も残る建物として、貴重なものである。 
なお、山鹿流法で縄張された際に、隣接する地蔵櫓と共に北側に移動したといわれる。   」

門に入ると、左側にあるのは地蔵坂櫓である。
これは、昭和三十七年(1962)に復元されたものである。 

乾 櫓
     北虎口門      地蔵坂櫓
乾 櫓 北虎口門 地蔵坂櫓


地蔵坂櫓の前の道は、江戸時代、平戸城の大手道であった。 
ここからは小舟入、御舟入があった港が一望できた。

「  船着き場の小舟入、御舟入から、地蔵坂を上り、地蔵坂櫓に至り、門をくぐり、 二の丸や本丸へ登城した。 」

北虎口門の先の左側に白壁の塀がある。 
かってはこの塀が周囲を取り囲んでいたのだろう。

「  塀の外側は外郭と海で、ここが平戸城にとって弱点だったので、 北虎口門から本丸に上がる階段には、上下二段に設けられた二重の狭間が配されていた。 現在は、上の白塀部分の狭間が失われている。 」

門の先、左上にある狸櫓は、明治四年(1871)の廃藩置県により、 廃城になった時、残された数少ない建物である。 
狸櫓は、以下の話が残っている。

「  櫓の床下に狸が住みだした。 天保初年(1830)、櫓の修理のため、 床板を全てはぎとると、ある夜、小姓に化けた狸が、藩主の寝所にやってきて、 我ら一族を櫓に住ませて頂きたい、そうすれば城を永代守護するという。  これ以後、狸櫓と呼ばれるようになった。 」 

港眺望
     現在の白塀部分      狸櫓
港眺望 現在の白塀部分 狸櫓


石段を上った先には本丸門がある。 
bこれは、昭和三十七年(1962) に復元されたものである。 

本丸門をくぐると、左右が石垣、正面が石段で、 上部から攻撃できるようになっている。 

「  本丸、二の丸をはじめ、外郭ラインの至るところに、 山鹿流軍学による折れや屈折が施されている。 」

石段を上ると現れたのは天守である。 

「 本丸北東隅に建つ天守は、層塔型、三重五階、 鉄筋コンクリート造りである。 
江戸時代の中期に造られた平戸城は、幕府から許可されない天守は建られなかった。  この天守は一般的に模擬天守といわれるもので、 昭和三十七年(1962)に、城を復活させる時に、 城のシンボルとして築造されたものである。 

本丸門
     本丸虎口      模擬天守
本丸門 本丸虎口 平戸城 模擬天守


天守に上ると、懐柔櫓が下に見え、 平戸港の先の平戸瀬戸からはもやで少しかすんでいるが、 平戸大橋が見えた。 

天守を降りると、本丸門の左部に、沖見櫓があった。 
これは、昭和三十七年(1962)に復元されたものである。 

また、天守の南に一段下がったところには、見奏櫓があった。 
これは、昭和三十七年(1962)に模擬復元されたものである。 

以上で、平戸城の見学が終えた。

本丸門
     眼下の景色      沖見櫓
眼下の景色 沖見櫓 見奏櫓


平戸城へは松浦鉄道たびら平戸口駅から西肥バス平戸行きで約10分、 平戸市役所前で下車、徒歩約5分  


訪問日    令和元年(2019)九月二十六日



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