天の橋立は、宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる、
全長三千六百メートルの湾口砂州である。
松島・厳島とともに、日本三景の一つである。
海抜130mの高台にある傘松公園は、
古くから、天橋立を望む絶好のスポットとして有名である。
ここからの眺めは、 「昇龍観」 と呼ばれ、
まるで龍が天へと昇って行くかの眺めになっている。
京都駅発八時三十八分の特急はしだて1号で、
天の橋立に向かった。
二時間程かかるので、京都駅で弁当を買い、車内で食べた。
十時四十五分、天橋立に到着。
駅から近い智恩寺へ行く。
「 智恩寺は、天橋山智恩寺が正式名称で、奈良県の安倍文殊院、 山形県高畠町の大聖寺などと共に、日本三文殊とされる寺院である。 この地の地形や伝承から、「九世戸の文殊」、「切戸の文殊」 などと呼ばれ、 人々に親しまれてきた。 」
寺伝では、
「 大同三年(808)に平城天皇勅願時として創建された。
延喜年間には、醍醐天皇から勅額を賜ったというが、
以後、中世までははっきりしない。
近代までは天橋山の一部を寺領としていた。
当初は密教であったが、江戸時代、別源宗調禅師を中興開山として迎え、
以降は臨済宗妙心寺派の禅寺になって、今日に至る。 」 と、ある。
日本三文殊の文殊堂で、御参りと御朱印をいただく。
「 切戸の文殊堂には、ご本尊の文殊菩薩が祀られている。
江戸時代に、宮津藩主・京極高国により、改築されたが、
中央の四本の柱は、その前の建物のものをそのまま使用している。
お堂外側に、多くの人から寄進された絵馬や算額が掲げされている。 」
特急はしだて1号 | 智恩寺入口 | 絵馬や算額を掲げた文殊堂 |
多宝塔は、室町時代の建築で、中央に大日如来が祀られている。
国の重要文化財に指定されている。
三門(山門)は、黄金閣と称され、建立されるにあたり、
後桜町天皇から下賜された黄金が名前の由来になっている。
京都府指定文化財である。
石造り宝きょう印塔は、鎌倉時代のものであるが、 いつのころか、和泉式部の歌塚と伝えられている。
説明板
「 丹か府志によれば、丹後守藤原公基が、日置金剛心院において、
和泉式部が書き捨てた和歌を持ち帰り、なみだの磯(涙が磯)に埋めて、鶏塚と呼んだという。
その反古の一首が、
いつしかと待ちける人に一声も
聞かせぬ鶏のうき別れかな
その後、明応(一四九二〜一五〇一)のころ、砂に埋まった塚を掘り出して、
文殊堂の傍らに建てたのが、今の歌塚であるという。
彼女が丹後に下って詠んだ歌のいくつかは知られているが、
前記の歌が丹後において詠まれたものかは分からない。
丹後において各処の和泉式部伝説があるなかで、
これもその一つとしてうけとればよい。
塔は堂々として、基礎の格狭間(ごうさま)や、
塔身の薬研彫(やげんぼり)の四方仏の種子(しゅじ)、
笠石四隅の突起等に時代的な特徴がみられる。
宮津市教育委員会 」
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智恩寺を出ると、門前茶屋通りがあり、
左奥に観光船のりばやモーターボート・レンタサイクルの基地がある。
右側に、名物「智恵の餅 四軒茶屋」 と、呼ばれる四軒の御茶屋さんがあり、
作りたての餅を競争で売っている。
それを横目に見て、左折すると、廻旋橋の小天橋がある。
説明板「小天橋(廻旋橋)」
「 昔は「九世戸の渡し」と呼ばれ、渡し舟があったが、大正12年に架橋。
渡船時に一文字に旋回することから、廻旋橋の名で親しまれている。
当初は手動であったが、昭和35年3月電動化。 」
橋を渡ると、横に細長い小島で、「特別名勝 天橋立」 の石碑があり、 九世戸の松 があった。
その奥には、昭和天皇の歌碑があった。
説明板「昭和天皇行幸の御歌碑」
「 めずらしく 晴れわたりたる 朝なぎの 浦わにうかぶ 天の橋立
昭和二十六年十一月十三日、昭和天皇が戦後の民情ご視察のため、
山陰地方をご巡行になり、
当地にご宿泊の際にご下賜いただいた御歌である。
石碑の書は、元侍従長故入江相政氏である。 」
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「日本の道一〇〇選」 顕彰碑があった。
説明板「顕彰碑」
「 府道「天橋立線」は、昭和六十二年八月十日の「道の日」に、
建設大臣から日本の特色ある優れた道路と認められ、
「日本の道一〇〇選」の一つとして、顕彰された。
この府道「天橋立線」は、日本三景の一つ、天橋立の中を通る道路であり、
周囲の景観との調和を図るため、砂利道のまま管理しております。
道路の幅員は三・五メートルから五・五メートルで、
沿道には大小約六,七〇〇本の黒松が続き、
白砂にふちどられた天恵の景観を有するとともに、
数多くの史跡や物語を秘め、美しい風光を保ち、
地元の人々から愛され親しまれています。
京都府 」
その先に、固定式の橋の 大天橋 があった。
橋の上から見た、阿蘇海の水は澄んだ青で、美しかった。
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橋を渡ると、
松林の中に公衆トイレがあり、道の左側に休憩所兼売店がある。
その先に、立派な枝振りの松があり、右に行くと、
北に向って、砂の浜が続いている。
「 天橋立は、J形をした砂嘴(さし)で構成されていて、
ここから3.6km先までは陸続きで、約5千本の松並木が続いている。
阿蘇海に山からの土砂が流れ込み、蓄積した砂が海流により、
陸からせり出す半島を形成して出来たものを砂嘴(さし)という。
昭和五十年以降、右側の砂浜が台風や海流の変化により、
削られ、天橋立の存続が危うかった。
地元経済の柱のため、死活問題ということになり、国と京都府、そして、
民間の協力により、砂浜の復活事業が行われて、現在の姿になった、という。 」
与謝野寛・晶子夫妻の歌碑がある。
小雨はれ みどりとあけの虹ながる 与謝の細江の 朝のさざ波 寛
橋のひらく時 くろ雲うごく 天の橋立 晶子
(与謝野夫妻が、昭和五年 天橋立にて詠める歌の自筆を拡大したものである)
「与謝野寛。晶子夫妻の歌碑」建立の経緯」
「 与謝野寛・晶子夫妻の最後の吟遊の旅が、当地、天橋立でした。
夫婦が多くの歌を遺すされたこの天橋立に、
歌碑を建立することが、私たちの責務ではないかと考え、
多くの天橋立を愛する人、与謝野夫妻の思いを寄せる人たちのご協力の下に、
ここに歌碑を建立する運びとなりました。
寛・晶子夫妻の歌をよみ、お二人を偲んでいただければ嬉しく存じます。
平成十八年(2006)七月七日建立
天橋立を守る会
歌碑建立発起人会 」
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右側の海岸近くに、智恵の松があった。
説明棒「智恵の松」
「 一本の松が三叉になっていて、三人寄れば、文殊の知恵から引用された。 」
その先の数本の松があるところに、「雲井の松」 の説明柱が立っていた。
説明柱「雲井の松」
「 雲の合間に座るが如くという意味で、そびえ立つ様を表している。 」
その先の右手に、岩見重太郎仇討ちの場 の石碑がある。
石碑前の説明碑「剣豪 岩見重太郎」
「 岩見重太郎は、講談などで有名な伝説上の剣豪で、
江戸時代の初めごろに活躍したと伝えられる。
重太郎は、父の仇の広瀬軍蔵・鳴尾権蔵・大川八左衛門を追って、
宮津にやってきたが、
仇の三人は藩主京極家にかくまわれていた。
やがて、藩主の許可を得て、ここ天橋立の濃松の地で、三人を討ち取り、
本懐を遂げたという。
また、重太郎には、毎夜、天橋立で通行人を襲っていた、
元伊勢籠神社の狛犬の足首を切、その夜行を止めたという伝説も残されている。 」
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その先の左側に、「磯清水」 の説明板があった。
説明板「磯清水」
「 この先の井戸は、磯清水と言います。
海(宮津湾と阿蘇海)に囲まれていますが、
真水(塩味がしない水)であることが有名です。
平安時代には、和泉式部という人が、
「 橋立の松の下なる磯清水 都なりせば君も汲ままし 」
という和歌をよみ、昔から全国の人にも親しまれてきました。
地域の人々が、この井戸の中やまわりをそうじしたり、
建物を修理したりし、守ってきたことが認められ、
昭和六十年に日本の「名水百選」の一つに選ばれました。
この井戸「磯清水」が、これから先も美しい水であるように、
井戸の中やまわりのゴミをなくして、
みんなで「磯清水」を守っていきましょう。
わたくしは、天橋立のみはり役の狐「橋立小女郎」です。
↑ 籠神社(このじんじゃ) 約2500m
↓ 智恩寺(ちおんじ) 約 700m
左に入っていくと、 天橋立神社 があった。
説明板「天橋立神社(天橋立大明神)」
「 天橋立神社の所在する場所は、天橋立の濃松(あつまつ)と呼ぶ地点に当る。
近くに真水がわくことから、磯清水と呼ばれる井戸があり、
磯清水神社ともいわれて来た。
当社の祭神は、明治時代の京都府神社明細帳では、伊ざなぎ命とされ、
江戸時代の地誌類では、かっては本殿の左右に祠があり、本殿の祭神を豊受大神、
向かって左は大川大明神、右は八大龍王(海神)とする。
当社は智恩寺の境内にあったものを天橋立内のこの地に移したという説がある。
確かに江戸時代前期の天橋立図屏風には、当地に社殿風の建物が描かれるとともに、智恩寺境内にある鳥居が描かれていて、社殿が存在する。
一方、南北朝期の「慕帰絵詞」に描かれた天橋立の図や雪舟筆の「天橋立図」には、すでに当地に社殿が描かれており、
江戸時代中期の「与謝之大絵図」
{享保九年(1724)}や「丹後国天橋立図」{享保十一年(1726)}には、
当地に「橋立明神」の文字も記されているため、
中世半ば以降は当地に鎮座すると考えられる。
いずれにしても、天橋立は江戸時代には智恩寺の境内地(寺領)であり、
天橋立神社も智恩寺に属する神社であった。
現在の社殿は明治四十五年(1907)の再建になる。
当社の参道は社殿から南西方向に進み、阿蘇海に達する地点に石造の鳥居が立つ。
鳥居の石材は、花崗岩で、形態は明神型、「吉津村誌」によると、慶安四年(1651)の造立、
願主は智恩寺住持南宗ほかの銘が記されているが、鳥居表面の風化が著しく、
現在これを読むことはできない。
宮津市教育委員会 」
更に奥に進むと、「名水百選 磯清水」 の石柱があり、井戸があった。
「現在は飲料は出来ず、手水としてのみ利用できる。」 との、
断り札が貼られていた。
井戸の左手に、「磯清水」 の説明板がある。
説明板「磯清水」
「 この井戸「磯清水」は、四面海水の中にありながら、
少しも塩味を含んでいないところから、
古来不思議な名水として喧伝されている。
そのむかし、和泉式部も
「 橋立の松の下なる磯清水
都なりせば君も汲ままし 」
と詠ったことが伝えられているし、俳句ににも、
「 一口は げに千金の 磯清水 」
などともあることから、
天橋立に遊ぶ人びとには永く珍愛されてきたことが明らかである。
延宝六年(1678)、時の宮津城主・永井尚長は、
弘文院学士・林春斎の撰文を得たので、
ここに「磯清水記」を刻んで、建碑した。 この刻文には、
丹後国天橋立之磯辺有り井池清水湧出、
蓋有海中面別有、一脈之源乎、古来以為勝区呼曰磯清水、云々
とある。
湧き出る清水は今も絶えることなく、橋立を訪れる多くの人々に親しまれ、
昭和六十年には環境庁認定「名水百選」の一つとして、認定を受けている。
宮津市教育委員会 」
石碑の右手に、「天橋立茶会」 の説明板があった。
説明板「天橋立茶会」
「 天正五年(1580)、細川藤孝・忠興父子は、明智光秀や茶人の津田宗及、
連歌師の里村紹巴を招待して、ここ天橋立で茶会を開催、
翌年、本能寺の変が起き、この茶会は、明智光秀の娘・ガルシア(玉)にとって、
父との最後の別れの場となったのかもしれない。 」
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天橋立神社に戻ると、
社殿の囲いの右手に、「与謝蕪村」 の説明板と句碑があった。
「 はし立や 松は月日の こぼれ種 」
説明板「与謝蕪村」
「 蕪村は、俳人、画家として名高く、
摂津毛馬(現在の大阪市都島区)の生まれとされ、
20才ころ、江戸に下り、絵と俳句を学ぶ。
38歳の時、京都から宮津見性寺の住職・竹渓を訪れ、三年余り、
宮津に身をおいた。
その右手の空地に、「大砲履歴」 の説明板があり、 アームストロング砲が置かれていた。
説明板「大砲履歴」
「 この大砲は海軍思想普及のため、大正十二年二月五日、
海軍大臣より下付されたものである。
一、名称四十径安式十五センチ砲身
二、製造会社 明治三十五年イギリスアームストロング
三、砲身価格 一万六千円
四、重量 約五トン
五、長さ 六メートル四十七センチ
六、砲丸重量 四十五センチ
七、発射弾有効距離 一万ニ千五百メートル
八、発射弾飛行時 三十八秒
九、弾丸火薬 一発価格百円
十、元搭載艦名 軍艦春日 」
その先には種類は分からないが、桜が咲いていた。
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道は、その先でループ状になっていた。
まだ、三分の一なので、あまりのんびりしていられない。
道は左の海岸寄りに続いていて、屋根を付けた、お地蔵さんが祀られていた。
その先には千貫の松があった。
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その先に、芭蕉の一声塚 と呼ばれる句碑があり、説明板も立っている。
説明板「一声塚 (芭蕉の句碑) 」
「 芭蕉が天橋立に遊んだ証拠もなく、橋立を詠んだ確かな句もないが、
宮津の俳句を楽しむ人々は、芭蕉の塚がないのを残念に思い、この句を選び、
江戸時代、1767年に文殊堂境内に句碑を建立。
その後、ここに移設。
「 一声の江に 横たふや ほととぎす 」
その先は左右にみっしり、松並木が続いている。
その先に、「双龍の松」 の大きな説明板があった。
「 日本三景・天橋立は古くから「神の住み給う天への架け橋」として、
多くの人々の目を楽しませ、心を和ませ、体を癒してきました。
しかし、平成十六年十月二十日に当地域を襲った台風二十三号の猛烈な風雨は、
天橋立の美しい姿を一変させ、二百四十七本の松の命を奪い去っていきました。
この「双龍の松」もそのとき、命を絶たれた命名松の一本です。
ここにその姿を保存し、惨状を記憶にとどめるとともに、
先人達が大切に守ってきた天橋立を子々孫々まで残していくため、
また、環境破壊に対する警鐘を込めて、この公園は整備されました。 」
説明文の左側に、在りし日の双龍の松の写真があった。
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その奥にあるのは、双龍の松 の枯れた姿である。
台風で根元から倒されて、上の部分は切られた姿で、内部は空洞になっていた。
その先に、「金樽いわしの話」 という説明板が建っている。
「 この天橋立の内海でかって大量の獲れた「金樽いわし」は、
別名「金太郎いわし」とも呼ばれ、
その歴史も非常に古く、一千年以上も昔から丹後の特産として名高いという。
したがって、この鰯にちなむ伝承も多く、
古くは平安時代の中頃、丹後の国司・藤原保昌が金の樽に酒を入れ、
内海で酒盛をしていたところ、
樽が海に落ち、それを漁師が網ですくおうとしたが、樽はみつからず、
かわりに金色に輝く鰯が大量に獲れたという。
同様の伝承で、酒盛りをしていたのは、時に源平合戦のころの平の忠房であるとか、
江戸時代後期の宮津藩主の本庄氏であるとも伝えられている。
とにかく、この金樽いわしは美味であったといい、
評論家として名高い小林秀雄氏も宮津来遊の折り、
宿で出された金樽いわしのオイルサーディンのおいしさに、
「ひょっとすると、これは世界一のオイルサーディンではあるまいか」と感動した、というエピソードもある。
名月や 飛びあがる魚も 金太郎 蝶夢
宮津市教育委員会 」
その先の三叉路に大きな松の木の下に、「特別史跡 天橋立」の石柱が建ち、 手前の左側には天橋立の地図などがあり、ここが最終地点に近い場所である。
案内板の歩行時間は50分とあったが、ゆっくり見てまわったので、
1時間以上かかった。
多くの人はレンタサイクルを利用していた。
天橋立観光船&レンタサイクルセット
行き:レンタサイクル帰り:観光船 大人1000円
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左側の道を進むと、「← 小天橋(廻旋橋)まで 2.6km
松並木終点 →」 の道標があった。
その先には、「コハクチョウ飛来地の御案内」 の説明板があった。
左手に汽船の乗り場があり、そのまま進むと国道178号が通る大通りに出た。
その先に、籠神社があるので、信号で対面に渡る。
「元伊勢大神宮籠之宮」 の石柱と、神橋があり、その奥に鳥居がある。
籠神社(このじんじゃ)縁起
「 古称 吉佐宮(よさのみや)
御祭神 彦火明命(ひこほあかりのみこと) - 社家海部氏の祖神
相殿 豊受大神 天照大神 海神(わたつみの神 - 社家海部氏の氏神) 天水分神
神代の昔より、奥宮真名井原に、豊受大神をお祀りしてきたが、
その御縁故によって、崇神天皇の御代に、
天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになり、
之を古佐宮と申し、豊受大神と共に、四年間お祀り致しました。
その後、天照大神は垂仁天皇の御代に、
又、豊受大神は雄略天皇の御代に、それぞれ伊勢におうつりになりました。
それに依って、当社は元伊勢と云われております。
両大神がおうつりの後、天孫彦火明命を主祭神とし、
社名を籠宮と改め、元伊勢の社、
又丹後国一之宮として朝野の崇敬を集めてきました。 」
天照大神が四年間営んだ元伊勢の吉佐宮があったことから、元伊勢といい、
現在まで、海部氏(あまべうじ) が宮司を世襲している。
境内は撮影禁止とあったので、御参りをし、退去した。
神門の前にある一対の狛犬は、国の重要文化財に指定されている。
凝灰岩製で、神社の説明では鎌倉時代とあるが、安土桃山時代の作である。
阿形の狛犬は、右前足が割れて鉄輪が嵌めこまれているが、
昔、この狛犬が天橋立に現れて悪さをしたので、天正年間(1573〜1592)に、
石見重太郎が斬ったことによると、伝えられている。
説明板「重文狛犬 阿吽一対」
「 伝承によると、作者の一心で魂の入った狛犬が、天正年中、
不意に天橋立の松林に出現して、
元伊勢詣りの参拝者や通行人を驚かした。
偶々親の仇討ちにひそんでいた石見重太郎が、之を聞いて鎮霊を決意し、
一夜待ち構えて音の方向に剛刀を一閃したところ、石の狛犬の前脚が切れて、
出現が止んだと云う。
以来、社前に還座して専ら魔除の霊験が聞こえたと伝えられる。
他所と違い、胴と脚がどっしりして、日本化された狛犬の最大傑作といわれる。 」
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神門前を左折し、境内を出て、傘松公園のケーブルカー乗り場を目指す。
途中に土産物店や飲食店があった。
のりばの府中駅ではリフトとケーブルカーの選択ができる。
リフトは随時乗れるが、ケーブルカーで行くことにし、帰りは観光船に乗るので、
それを合わせた切符を購入した。
出発時間がくると、あっという間に上に着いた。
展望台から下を見ると、リフトが通るところは桜が満開で、 その先に天橋立の姿が見えた。
その先に、股くぐりができる場所があった。
説明板「股のぞき」
「 その昔、国生みの神である伊ざなぎ(男神)が、
地上にいるいざなみ(女神)に会うため、
天から地上へと降りるのに使っていた「神の浮き橋」が、
天橋立となったという神話が残っています。
股の間から天橋立を見ることを「股のぞき」といいます。
股のぞきで逆さにのぞくその景色は、海と空が逆になり、
天に架かる浮き橋のように見えます。
ぜひ、股のぞきをお試しください。 」
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この一帯は傘松公園になっている。
傘松公園は海抜130mの高台にあり、古くから天橋立を望む絶好のスポットとして有名である。
ここからの眺めは、 「昇龍観」 と呼ばれ、
まるで龍が天へと昇って行くかの眺めになっている。
説明板「傘松公園」
「 宮津節で唄われた、傘松下にあり、天橋立の代表的な眺望地で、
天橋立を股の間からのぞくと、天地が逆転したように見える
「股のぞき」発祥の地として有名。
ここからの眺めは、天橋立が昇り龍のように見えることから、
昇龍観(しょうりゅうかん) と呼ばれている。
その先には智恵の輪にかわらけを投げるところがあり、
若いグループが交代で投げていた。
丸い輪にかわらけが通ると良いことがあるという、開運のかわらけ投げである。
その先に、「冠島沓島遙拝所」 の石柱があり、 鳥居・狛犬と 「賽奉」 と書かれた石碑が、海に向って建っていた。
由緒板の文面
「 両島は籠神社の海の奥宮です。
主祭神彦火明命と后神市杵嶋姫命が降臨しました。
彦火明命は豊受大神を祀り、丹後丹波から開拓し、后神は航海安全を祈り、
両神とも国の発展に貢献しました。。 」
沖をみると、春の陽気でぼやっていたが、
なんとか冠島をとらえることができた。
沓島は冠島の左の小さな細長い島で、確認したような、
しないような、かすみのある時期はむずかしい。
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フェンスに、「神が宿る冠島・沓島について」 という説明板があった。
説明板の文面
「 遙拝所の鳥居の先のかなたに浮かぶ二つの島が冠島 沓島です。
室町時代の画僧・雪舟は、天橋立図(国宝)に、
本来ならば、この構図に入らない島を絵の右下に描き込んでいます。
それは、この島が天橋立を含む若狭湾沿岸の住民から篤く崇敬され、
神宿る特別の島であることを、雪舟は知っていたと、考えられています。
冠島 沓島は、籠神社の御祭神の彦火明命(ひこほあかりのみこと)と、
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が天降り夫婦となった神聖な島として、
古代から特別視されて来ました。
この島に宿る神様は海を行き交う船をお守りし、
人々の暮らしを豊かにするよう見守っておられます。
ご神徳は、縁結び・夫婦円満・家内安全・事業繁栄・技術学問向上・
航海安全・貿易交渉・
財運など広大で、今も人々の祈りが捧げられています。 」
左側の上には、「沓島」 「冠島」 の写真、
下には、雪舟 国宝 「天橋立図」 が掲示されていた。
ケーブルカーの上の駅「傘松駅」の右手が今歩いてきた場所であるが、
ここには、天橋立Terrce という施設があり、売店と休憩スペース、食堂がある。
上にのぼると、団体で記念写真がとれるスペースもある。
階段のところに、練り香水 「ソワカの香り」 のポスターがあった。
また、ここから成相寺へのバスが出ている。
「 成相寺は西国三十三ヶ所第二十八番の札所で、
慶雲元年(704)文武天皇の勅願所として開山したと伝えられ、
美人観音、左甚五郎作「真向の龍」などがある。
時間の関係で行くことはあきらめた。 」
13時なので、食堂へ行ったが、平日でまた、コロナのせいもあり、
やっていなかった。
しかたがないので、売店で特製ハンバーガーを、娘はおだんごを注文し、
冷やしコーヒーとともに食べた。
食事後、帰る観光船の時間を調べると、
急げは次の便に間に合うことが分かった。
慌てて、傘松駅へ行き、下りのケーブルカーに乗った。
ケーブルカーを降り、坂を真直ぐ降りる。
両側に客引きがいて、「 食事如何ですか? 」 など、声をかけてくれるが、
無視して下り、国道に出た。
国道を横断し、左折して、急ぎ足で進み、バス停で右折すると、天橋立観光船の
一の宮桟橋に着いた。
船が出る10分前には到着できた。
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天橋立の船は観光船と他、モーターーボートも利用できる。
多少割高であるが、随時というのは利用のしかたではよいのではないだろうか?
乗る順番が遅かったので、天橋立側の席には座れなかった。
船は天橋立の西側を航行するので、白砂の浜はなく、
松が並んでいるのが見えるだけ。
小生の席からは阿蘇海の海岸が遠く見えるのみである。
船が左に回転し始めると、切戸で、桟橋に着いた。
お土産は城崎温泉で買うというので、門前町も駆け足で通過し、天橋立駅へ到着。
京都丹後鉄道宮豊線・十四時三十三分発豊岡駅行き、特急はしだて5号で、 城崎温泉へ向かった。
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京都から天の橋立へは列車かバスかの交通手段がある。
バスの方が乗り換えなく、また、安いので、おすすめであるが、
その後、城崎温泉へ行く予定で、ダイヤの関係から、列車で行った。
旅をした日 令和四年(2022)四月六日