「島原城の誕生由来」
「
有馬晴信は、原城の近くの日野江城を居城としていたが、
北九州を席巻していた佐賀龍造寺隆信軍との戦いで、
この地(森岳という)に本陣を構えて、島津軍と連携して、撃破した。
有馬晴信の子・直純は、関ヶ原の戦い後、徳川家康の小姓となり、仕えた。
慶長十八年(1613)、父・晴信は岡本大八事件で改易の上、死罪になったが、
妻が家康の養女・国姫だったので、蓮座を免れ、父の跡を継いて、
日野江藩主となった。
しかし、元和二年(1616)、、自ら願い出て、日向国延岡に転封した。
この代わりに、大和国五条から松倉重政が転入し、日野江城へ入城。
重政は、日野江城が狭かったので、城の移転を考え、
この瑞祥の地・森岳に、元和四年(1618)から、島原城を築き始めた。
四〜七年の歳月を経て、寛永元年(1624)に完成した。
同時に島原城下町も整備した。
明治維新の城解体令により、廃城になり、払い下げ・全ての建物が解体された。
島原市民の城復元の取組みにより、昭和三十九年(1964)に、天守閣を復元、
その後、本丸跡の整備が行われた。 」
本丸に入る土橋の先には本丸石垣がある。
その先には復元された西三重櫓が建っている。
本丸はほぼ長方形で、周りを内掘(水堀)で囲まれていた。
「 内掘には1950年代まで農家が栽培していたレンコン だ根付いていて、秋にはレンコン掘り大会が催される。 」
本丸石垣は高く頑丈な石垣が特徴である。
土橋 (奥) 西三重櫓 | 内掘(水堀) | 本丸石垣 |
本丸門があったと思われる石垣の間を通り抜けて、本丸に入ると、 目の前に天守閣が現れた。
「 松倉重政(まつくらしげまさ)が築城した島原城は、
南から北に本丸・二の丸・三の丸が並ぶ連郭式城郭である。
本丸に五層の天守閣を置き、本丸と二の丸の間は廊下橋門が結ぶ。
城内には三基の三重櫓を建て、平櫓は三十三基あった。 また、
外周は四キロにわたり、矢狭間を持つ練塀で取り囲んだ。
四万石の大名には過分な城であったが、
海外貿易の利益への期待と、
松倉氏の新興大名としても意気込が見られます。
比較的単純な縄張であったが、
普請工事は、火山灰や溶岩流からなる地盤での工事のため、困難を極めた。
城造りのための課役、キリシタンの弾圧過酷な年貢などを住民に課したため、
島原の乱が起きた。
二代藩主・松倉勝元は、その失政を追求され、島原藩を改易された。
その後、譜代大名の高力氏・松平氏・戸田氏、再び松平氏と、
四代十九氏の 居城となり、明治維新を迎えている。
その間、寛永十四年(1637)の島原の乱では、
城に攻め寄せた一揆軍の猛攻をしのぎ、寛政四年(1792)の島原大変時には、
打続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきた。 」
現在の天守は、昭和三十九年(1964)に、 コンクリート製で再建されたもので、キリシタン史料館になっている。
「 松倉氏により建てられた天守は、 破風をもたない独立式層塔型五重五階 (初重の屋根を庇として四重五階とも) 天守で、 最上階の廻縁高欄を後に戸板で囲んだため、唐造りのようになっている。 」
本丸の南西隅にある三層櫓は西三重櫓で、 昭和三十三年(1960)に再建されたものである。
天守の左手に吉野梅苑があり、その中に祠があった。
祠脇の説明板
「 松倉重政公と築城工事中に死亡した人々を祀った祠で、
正面の扁額は松平家第十代松平忠精公が奉納されたもの。 」
天守閣 | 西三重櫓 | 吉野梅苑の祠 |
本丸の北東隅にあるのは復元された 巽三重櫓で、内部は民具資料館になっている。
その反対側の南東隅に行くと、 復元された 丑寅三重櫓があり、西望記念館になっている。
両櫓の中央部には移転してきた、景華園遺跡の 「支石墓掌石」 があった。
説明板
「
景花(華)園は、中野町一帯の海岸段丘上にある弥生時代から鎌倉時代までの 住宅跡・
墓城跡 だったところで、 元禄十二年(1699) 藩主・松平忠雄が別邸を建て、
景花園と名付けたことによる。
掌石の重量は十八・四トンである。 」
天守の裏側の庭には、多くのブロンズ像が展示されていた。
巽三重櫓 | 丑寅三重櫓 | 支石墓掌石 |
北側の二の丸とは廊下橋でつながっていた、といい、
天守の奥に進むと、左手の下には松林がある。
堀の先には二の丸の石垣がちらっと見え、その先
に島原文化会館が建っていた。
二の丸跡へは行かず、
本丸から下に降りてきて、堀の外を武家屋敷に向って歩く。
本丸の左隅にあるのは観光復興記念館で、
その左に飛び出している石垣は、二の丸の石垣である。
「 江戸時代の本丸と二の丸は水堀で隔てられ、
廊下橋で繋がっていたが、今は埋め立てられて、ゲートボール場になっている。
二の丸には藩主館兼藩邸があったが、
今は島原文化会館と森岳公民館と駐車場になっている。 」
二の丸の北側が三の丸で、城の北西に、家臣団屋敷(武家屋敷)街がある。
島原商業高校の先に、石垣で囲まれた家がある。
その前に 「吉田松陰来訪の地」 という説明板が建っている。
説明板「吉田松陰来訪の地」
「 ここは島原藩士・宮川度右衛門の屋敷跡です。
この一帯は鉄砲町の一角にあたり、
幕末の島原藩士屋敷図にも、ここが宮川邸であったことが記されています。
幕末期の当主・宮川度右衛門守興 (1794-1859) は、種子島流荻野派の砲術師範として、
多くの弟子を育てました。 嘉永三年(1850)十二月四日 、長州藩士・
吉田松陰 (1830-1859) が、兵学研鑽の旅の途中にここを訪れております。
松陰は、この旅について記録した西遊日記の中に、
「 宮川云、直発砲ニ非サレハ功ヲ成スコトナシ (宮川が言うには直発破でなければ功を成すことは無い) 、、 故ニ近頃葛論砲ヲ造ル (そのため、近頃はカノン砲を造る)
と、その日、守興から聞いたことを書き残しています。 」
その先の小路には湧水が流れ、
約二百メートルの家臣団屋敷(武家屋敷) があった通りがある。
その通りを進むと、右側に島田邸がある。
説明板「島田邸」
「 島田家は、藩主松平氏の草創以来の古い家柄で、藩主の転封に伴い、
三河国吉田、丹波国福知山と転じ、 寛文九年(1669) ここ島原に入った。
歴代地方代官、郡方物書などを勤めたが、幕末には御目見獨禮格で、
七石二人ぶちを受け、材木奉行、宗門方加役、船津往来番などの重職についた。
このあたり一帯は中、下級武士の屋敷で、
一戸当たりの敷地は 三畝(90坪) ずつに区切られ、
家ごとに枇杷、柿、柑橘類などの果樹を植えていた。
道路の中央に流れる清流は往時の生活用水路である。 」
この通りを見学し、島原城の見学は終えた。
(左)二の丸石垣(右上)観光復興記念館 | 宮川度右衛門屋敷跡 | 嶋田邸 |
島原城へは島原鉄道島原駅から徒歩約5分
長崎市内から車で、長崎多良見ICからの有料道路を利用して諫早ICまで行き、
その後国道、県道を走り、島原城まで、1時間半。
日本100名城の島原城のスタンプは島原城天守入口にて
旅をした日 令和元年(2019)九月二十七日