名所訪問

「 萩城下町と萩城(続き) 」


かうんたぁ。


萩城は、日本海と指月山を背後の守りに築かれた山城で、桃山時代様式の城である。 
日本100名城の第75番に選定された。 
日本100名城の萩城のスタンプは本丸入口の料金所にある。


◎ 長州藩の居城 萩 城

三の丸地区から西に向い、小川を渡ると萩城の駐車場がある。 

「 関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元は、 周防、長州の二国に減封され、広島城を明け渡し、 日本海に島状に突き出した標高百四十三メートルの指月山とその麓の三角州に、 慶長九年(1608)〜同十三年(1608)にかけて築いたのが萩城である。 」 

指月第1駐車場に車を停めると、 反対側にあったのは、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋である。 

「 旧厚狭毛利家屋敷長屋は、二の丸南門の近くにあり、 萩に残る武家屋敷で最大のもので、国の重要文化財に指定されている。 
厚狭毛利家は、毛利元就の五男・元秋を始祖とする毛利家の一門で、 総石高八千三百七十一石のうち、主として、 厚狭 (現在の山陽小野田市) に知行地を持ち、 ここに居館を構えていたので、厚狭毛利 と呼ばれた。 」 

厚狭毛利家・萩上屋敷は、萩城の二の丸東門の南百メートルのところにあり、 面積約一万五千五百平方メートル(約4700坪)の広大なものだった。 

「 屋敷地内にあった主屋や庭園は、明治維新後に解体され、 この長屋だけが残った。  昭和四十三年(1968)の解体修理の際、発見された棟札から、 十代元教(のちの元美)の代、安政三年(1856)に建てられたことが分かった。  用材はすべて領地の厚狭で調達され、 切り込みを施したうえで、記号と番号をつけて、海路で萩まで運ばれたといわれている。 
建物は桁行五十一・四メートル、梁間五メートルで、 屋根は入母屋造本瓦葺きで、出格子五ヶ所、格子窓六ヶ所を設けている。  内部は、東の屋敷と中の屋敷、物置、西の屋敷と板の間の五つのブロックに分れていた。 」 

駐車場の東側に、江戸時代には二の丸東門があり、 指月小橋を渡ると三の丸の武家屋敷に通じていた。 
駐車場の北側は二の丸南門の跡で、 入口の石垣の前に、「中堀跡」 の標柱が建っていたので、 江戸時代にはこの前は水堀で守られていたのだろう。 

門跡(虎口) の石垣を入ると、正面の石垣の前に、毛利輝元の銅像が建っていた。 

説明板「毛利輝元」
「 天文二十二年(1552) 毛利隆元の長男として生まれ、 永禄六年(1563)、父の死亡により十才で家督を相続し、祖父元就の手によって養育された。  信長や秀吉と覇を競い、中国地方八ヶ国百十二万石を領する大大名になり、 天正十七年(1589) 広島に居城を築いた。  豊臣政権では五大老の一人として権勢を誇ったが、関ヶ原の戦いで敗れ、 周防、長門二ヶ国三十六万九千石に減封になり、 慶長九年(1604)、 萩城に入り、 寛永二年(1625)七十三才で没し、 萩城三の丸(堀内)の天樹院に葬られた。 」 

厚狭毛利家萩屋敷長屋
     二の丸南門跡      毛利輝元像
厚狭毛利家萩屋敷長屋
二の丸南門跡
毛利輝元像


石垣を右折し、左折すると石垣の前に、「塩矢倉跡」 の標柱が建っていた。 
石垣を出ると左側に萩焼の窯元があるが、この左手一帯は萩城の二の丸跡である。 
萩焼資料館の前方には左側に、「史跡萩城址」 、右側に 「志都岐神社」 の石柱が建ち、土橋を渡ると萩城の入城券売場がある。 ここが本丸門の跡である。 

「 萩城の本丸は、東西約二百メートル、南北約百四十五メートルで、 本丸御殿を中心に、南西に天守、南東に着見櫓、北東隅に井上櫓を配し、 正面となる南側には本丸門と極楽橋を設け、 二の丸との間に、幅二十間(約40m)の内堀と石垣を巡らせていた。 」 

目の前の極楽橋は現在は土橋であるが、往時は木橋だったという。 

塩矢倉跡
     萩焼資料館      本丸門跡
塩矢倉跡
萩焼資料館
本丸門跡


本丸門は、外側が高麗門、内側が渡櫓門で構成された内枡形の虎口だったという。 
本丸門の左側の石垣に上れる階段があるので、上っていき、 下を見ると、渡櫓門の石垣の様子が確認できた。 
石垣の前には、幅四十メートルの水堀が広がっていた。 

「  石垣は、左に着見櫓まで続き、右に少し行く。  右に折れて十数メートル先でまた、左に折れ曲がり、 その先は天守台まで続いている。 」 

天守台の手前まで石垣の上を歩き、階段状(雁木)に築かれたところを降りた。 

「  天守台に続く石垣の脇に設けられた雁木(石段)は、 全国でも最大規模のものである。 」

内枡形の虎口
     水堀(右奥)天守台      天守台(右)階段
本丸門の内枡形虎口
水堀 右は石垣の先に天守台
多聞櫓跡と右は雁木、奥は天守台


下に降りて進むと、左側に 「萩城天守閣」 の説明板が立っている。 

説明板 「萩城天守閣」
「 萩城は毛利輝元が慶長九年(1604)に起工し、同十三年(1618)完工した。 
桃山初期の形式を示す、白亜天守閣は高さ八間(14.4m)、 初層は東西十一間(19.8m)南北九間(16.2m)、 最上層は東西三間半(6.3m) 南北三間(5.4m)である。  初層は、石垣全面にわたって、半間を張出し、俯射装置になっていた。  明治七年(1874) の解体まで二百七十年間、 毛利氏十三代の萩城の象徴として偉容を誇っていた。 」 

「萩城天守閣跡」 の標柱がある石段を上ると、 その先に天守台に上る石段が見えた。  

「 天守台の高さは六メートルで、本丸南西隅に突き出す形で築かれ、 堀側の勾配のゆるやかな裾から上に行くに従って、急勾配に立ちあがっていく 「扇の勾配」 と呼ばれる美しい反りを持つ。 
これは、三角州の地盤の強度を補うため、底面を広げることで、 荷重を分散させる工夫である。 」 

天守台の上には柱石と思える礎石が多く残っていた。  また、天守台からは城の四方が見渡せた。  

下の写真は、明治に壊される前の写真である。
明治維新後、萩城の全ての建物が壊され、 今は本丸などが指月公園になっている。 

天守台と石段
     扇の勾配の天守台      天守閣
天守台と石段
扇の勾配の天守台
萩城天守閣


志都岐山神社の参道に架かる万歳橋は、嘉永二年(1849)に、 現在の江向の地に建てられた藩校明倫館にあったものである。 
手前右側にある樹木は、ミドリヨシノ といい、 がくが緑色であることから、その名が付けられた。 
奥に見える社殿は、志都岐山神社(ちづきやまじんじゃ) である。 

志都岐山神社縁起
「 明治十一年(1878)、 萩城本丸内に、 山口の豊栄神社(祭神毛利元就) と、 野田神社(祭神毛利敬親) の遙拝所が創建され、 翌明治十二年(1872)に、両遙拝所を両神社の分社とし、指月神社と称した。 
同十五年、志都岐山神社 と名を改め、 同三十三年、毛利元就・隆元・輝元・敬親・元徳を五祭神とし、 毛利氏十二代の藩主を配祀した。 」 

神社の南西に、花江茶亭(はなのえちゃてい) がある。 

「 安政の始め(1854年ごろ)、十三代藩主・毛利敬親(もうりたかちか)が、三の丸の橋本川沿いにあった、花江御殿(川手御殿、常磐御殿)内に造った茶室である。  この茶室で、敬親は、支藩主や家臣と茶事を託して、時勢を論じ、 国事を画策したといわれている。 
維新後、長尾氏に譲渡されたが、明治二十二年(1889)頃、 品川弥二郎等が主唱してこれを買い取り、指月公園内の現在地に移築した。  建物は木造、入母屋造、茅葺き、平屋建、桁行六・八四メートル、 梁間三・六二メートル、 本床と脇床がついた四畳半の茶室と、三つの水屋からなっている。 」 

その近くに庭と建物があり、 「梨羽家茶屋(煤払いの茶屋)」 の説明板がある。 

説明板「梨羽家茶屋(煤払いの茶屋)」
「 東郊、中津江にあった萩藩寄組士・梨羽家 (三千三百石) の別邸茶室で、年末萩城内すす払いの際、藩主が一時ここに休憩したことから、この名があります。  茶室としても、江戸時代中期の花月楼形式の優れたものです。 」 

志都岐山神社
     花江茶亭      梨羽家茶屋
万歳橋 (奥)志都岐山神社
花江茶亭
梨羽家茶屋と庭


志都岐山神社の西側に行くと、「詰丸跡」 の立派な説明板がある。
左側には石段があり、詰丸跡へ上っていけるようになっている。 

説明板 「詰丸跡」
「 萩城は、山の名をとって指月城とも呼ばれ、 ふもとの平城にあわせ、山頂に詰丸を設け、 せまいながら、本丸、二の丸を置いて、陸と海とを監視するため、 矢倉数箇所、天水溜数箇所などをもつ望楼であった。 

山頂の詰丸は石垣と土塀で囲まれた本格的な山城で、 東側の上段を本丸、西側の下段を二の丸として、 石垣と掘で仕切られた両者の間には棟門でつながっていた。 
門櫓以外の七基の櫓が建てられたが、 籠城の時に備え、武器が貯蔵されていた。  山頂には井戸がないため、水溜があり、昭和四十年に土塀の一部とともに復元され、 登城道も整備されている。 」 

指月山の南側の麓には水掘が入り込み、その先に石垣が門跡のように残っていた。 
石垣の前に、「八間矢倉跡」 の標柱があったので、 ここには八間の櫓が建ち、西側からの攻撃に備えていたのだろう。 
石垣の先は現在は石彫公園になっていて、北側には湾の白浜があった。 

詰丸の案内板
     八間矢倉跡      石彫公園
詰丸の案内板
八間矢倉跡
石彫公園


本丸跡まで戻り、東側に向う。 
本丸と東にある二の丸との間に石垣がある。 
石垣の北側には、六代藩主・宗広が、「東園」 と名付けた回遊式庭園がある。 

説明板 「東園」
「 東園は萩城本丸の東北方面に位置し、 二の丸内につくられた回遊式の庭園で、池の側には御茶屋もあった。  萩藩の儒学者山県周南が著した 「東園記」 によると、 六代藩主・毛利宗広(1717〜1751) の時、この地に古くからあった池を浚渫し、 庭をつくって東園と成し、高い館を建てて、園を総覧できるようにした、とある。  そして、七代重就(1725〜1789)が家督を継いた時も、旧に従いこの地を遊息地とし、 庭内の各所に、六景二十勝の名称をつけ、その景観を装飾したという。 
なお、東園と名づけて整備される前にも、この地には御花畠と称した庭園があり、 御茶屋も建てられていた。 」 

東園から東に向って歩くと、日本海が見えるところに出た。  菊ヶ浜である。 

二の丸との間の石垣
     東園跡      菊ヶ浜
二の丸との間の石垣
東園跡
菊ヶ浜


二の丸は、本丸と指月山を囲むように、 北から東、そして南にぐる〜と造られた曲輪である。 

「 東西百五十三間、南北五十八間で、 その中に十三の矢倉と三十四の井戸、蔵元役場、寺社などがあった。  また、東門から潮入門に至る石垣の上には、 鉄砲を撃つための四角い穴をあけた、 銃眼(鉄砲狭間) 土塀 が巡っていた。 」 

土塁の上から菊ケ浜を見ると、石垣の上に白壁塀がある。 
この土塀は、昭和四十年に復元されたもので、 銃眼土塀 と呼ばれるものである。 
横光利一は 「 蓬生ふ 銃眼の中 海光る 」 という句を詠んでいる。 

復元された二の丸銃眼土塀の北側にあるのは潮入門跡である。 

「  菊ヶ浜に面した東側には潮入門櫓の他、いくつかの城門があったが、 それらの門は石垣のみが残っている。 」

東門に向って進むと、城門跡 の石垣があり、 左には海に入れる開口部が設けられていた。 
石垣の前の松が植えられているところに、「華矢倉跡」 の標柱が建っているので、 櫓があったのだろう。 

その先の枡形石垣が残るところが、東門跡で、 右折すると内掘前に出て、そのまま進むと本丸門前に出た。 
これで萩城を一周したことになり、萩城の探索は終了した。 

二の丸銃眼土塀
     潮入門の跡      華矢倉跡
奥に見えるのが銃眼土塀
潮入門の跡
華矢倉跡


萩城へはJR東萩駅から萩市内循環「まあーるバス(西)回り」で、 萩城跡・指月公園入口で下車、徒歩約4分。 


旅をした日   令和元年(2019)九月四日〜五日




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