知覧武家屋敷群は、国の重要伝統的建造物群に指定されている。
800mの通りに、国の名勝に指定された庭園などを持つ武家屋敷が並んで建っている。
ここは薩摩藩時代に造られた、外城の麓(武家屋敷群) である。
知覧(ちらん)は、鹿児島市の南、薩摩半島の中央部の山間にある集落である。
鹿児島市内から、九州自動車道の谷山ICに入り、指宿スカイラインで、尾根の道を走り、
知覧ICで降りる。 県道23号を中岳を回り込むように走ると、
南九州市役所前交叉点に出る。
知覧武家屋敷群は、その近くにあった。
本馬場通りの三叉路の手前に武家屋敷を見る料金所があり、御金を支払った。
「
薩摩藩(島津七十七万石)は、領内を百十三の地区に分け、地区内を守る山城・外城を造り、
麓に、数十人から、時には数千人の武士を居住させる・
麓(武家屋敷群) 制を採っていた。
江戸時代に入り、徳川幕府により、一国一城制度が実施された際、
薩摩藩は、鹿児島城以外の山城は廃止したが、外城の領主である地頭の制度は残し、
江戸幕府もそれを認めた。
知覧の麓(武家屋敷群)は、麓川にある。
「 麓(ふもと)は、シラス台地の端にある山城と、 近くを流れる川に挟まれた、防衛に適する場所に作られた。 麓の中心には、仮屋(かりや) と呼ばれた役所や、私領の場合は領主の屋敷があった。 その周囲を 馬場 と呼ばれる、何本かの広い道と、人が歩く程度の狭い道で、町割され、 その間に、武家屋敷がそれぞれ隣接するように配置された。 、 武家屋敷には、門と玄関の間に生垣を配置する等、まるで城のような構造を持っていた。 武士達はそこに住み、心身を鍛え、農耕に従事し、 平和の世でありながら、武芸の鍛錬に励んでいた。 」
知覧武家屋敷群の道に入ると、きちんと刈り込まれた生垣の家が続く。
この先に、国の名勝に指定されている七つの庭園がある。
最初に入った西郷恵一郎庭園。
「 庭の南東部の隅に、枯滝の石組を設けて高い峯とし、 この峯から低く高く刈り込まれたイヌマキは遠くの遠山を表現している。 鶴亀の庭園とも呼ばれ、一変して高い石組は鶴となり、 亀は大海にそそぐ谷川の水辺に遊ぶがごとく配され、石とさつきの組み合わせは至妙である。 」
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知覧麓の整然とした縦横の道路は、第18代知覧城主の島津久峯の時代に造られたものである。
「 武家屋敷庭園群は1750年前後に造られた。 主屋と庭園がよく調和し、石垣の上には大刈り込みによる生垣がつづいて、 麓全体が母ヶ岳を中心に自然をよく取り入れた一つの庭園を形成している。 昭和56年に7庭園が名勝に指定された。 指定理由として、鹿児島藩にだけにある郷の麓にあること、 いずれも江戸時代中期の作庭で、それぞれ優れた意匠で構成されていること、 その手法は琉球の庭園と相通じるものがあることなどをあげ、 庭園文化の伝波を知るうえでも、貴重なものと、説明している。 」
その先の交叉点の先、右側に平山亮一氏邸があった。
「 江戸時代に建設された主屋は、茅葺から瓦葺きに姿を変え、
今も残されている。
庭園は天明(1781)の作庭と伝えられ、イヌマキの生垣は波状に、
サツキの刈込は築山のように仕立てている。
刈込の前には琉球庭園に見られる盆栽を乗せるための切石が置かれている。 」
サツキが咲く頃くると、ピンクではなやかになり、きれいだろうと、思った。
その先に三叉路があるが、ここに「石敢当」と「稽古所跡」の説明板があった。
白い石が石敢当で、「稽古所跡」の石碑も立っていた。
説明板「石敢当」
「 三叉路の突き当たりに建てられているこの石塔は、屋敷内に魔物が入ってくるのをふせぐ
「石敢当」というものです。 中国発祥の考え方で、江戸時代に琉球を経て伝わりました。
丁字路や三叉路に設置されます。
南九州市では、麓(武家屋敷群) や海運業が盛んであった海岸地域に多く確認されています。 」
説明板「稽古所跡」
「 江戸時代後半、郷土子弟の教育の場が稽古所です。
稚児は数え7歳から、二才は15歳から25歳までの若者が学問や武術礼儀作法を学びました。
知覧には5番組まであったとされています。
石碑の右側には、ここは知覧島津氏が領主の時代に武士たちの青年たちが集まり書を読み、
学問を行い、武芸の鍛錬に励むために設置された場所であると彫られています。
「書ヲ読ミ武ヲ練リ」の書は、太平記や義士伝、太閤記を読み上げ、武は示現流の剣術や弓術、
相撲を修練していたとされています。 」
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その先は道が右に曲るが、正面に重厚な茅葺屋根の家が見える、
道に石垣の前に、「大河ドラマ「西郷どん」撮影地 知覧武家屋敷庭園群」
「第一話 妙円寺詣りのシーン 撮影日 2017.8.27(SUN) 」の看板があった。
道を進むと、左側に「知覧型二ッ家」の説明板があり、中に入ると茅葺の家があった。
説明板「知覧型二ッ家(小棟おき二ッ家)」
「 鹿児島に独特だといわれる二ッ家の中で、特に知覧だけにみられる二ッ家は、
二つの屋根の間に小棟をおいてつなぎとした造りです。
民家建築文化史の上からも、貴重なものとされています。
居住用のオモテと台所のあるナカエの建物が、別棟となっている分棟式民家は、
生活上不便が多く、次第に近づけるようになったのです。
知覧型ニッ家は、その分類式の建物であるオモテとナカエが合体したもので、
知覧大工によって創作された知覧独特の知覧町の建築文化であります。 」
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二ッ家を出て進むと、左側に佐多美舟庭園があった。
説明板「佐多美舟庭園」
「 宝暦年間(1751~1764)の作庭と伝えられ、指定を受けた7庭園で最も広い庭園です。
美舟家は、知覧の領主の流れをくむ家柄で、
江戸時代は御役人と言われる知覧における最高の役職を担う家の一つでした。
門も最も高い屋根の左右に一段低く小さな屋根を付けた格式の高い門構えとなっています。 」
反対の右側にあるのが佐多民子庭園である。
説明板「佐多民子庭園」
「 巨石奇岩を積み重ねて深山幽谷の景をうつしだし、小舟に乗って石橋の下を潜って行くと、
仙人が岩の上から手招きしているようだ。
麓川の上流から選んだ庭石は、凝灰岩質のもので、巨石のため、石目にそって割り、
牛馬で運びしやすくしたものである。 」
その先、右側にあるのは佐多直忠宅である。
門をくぐると、切り石の目隠しに突き当たる。 屏風岩とも呼び、防衛を兼ねた造りである。
「 この家は 知覧島津家重臣・佐多十郎左衛門(現当主の曽父母)の時代(約170~180年前)に建てられたものだが、 その後、中屋(土間、囲炉裏等を備えた炊事棟)を解体、規模を縮小し、 来客を接客する部屋がある棟の一棟を瓦葺きにした。 平成19年に中棟を増築の形で復元した。 」
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左にすすむと、形の樹木に刈り込まれ、その下に小さな灯籠があった。
その先には母ヶ岳を借景とした石組の枯山水の庭があった。
説明板「佐多直忠庭園」
「 佐多直忠住宅は、江戸時代中期の武家屋敷の風格を備えている。
1741年~1744年の作庭で、借景の母ヶ岳を望む庭の一隅に、
石で組まれた築山を設け、その中心部に3.5mの立石と枯滝の石組が絶妙な趣きを呈し、
一幅の水墨画をそのままに現わした名園である。 」
そこを出ると、交叉点で、直進すると、左側に「旧高城家住宅」の説明板がある。
説明板「旧高城家住宅」
「 旧高城家住宅は、明治以前に建てられた武家住宅であり、
「おとこ玄関」と「おんな玄関」の二つがある特徴をもっている。
他の知覧型二ッ家と同様に、
「おもて」と「なかえ」の二つの屋根の間に小棟を置いたタイプのもので、知覧だけにみられる。
二つの本棟と小棟の形、そこにできる屋根の造形は実に美しく、
この構造は、知覧大工の創造力と技術によって完成されたものである。
昭和に入り、「なかえ」部分は失われていたが、平成6年3月に復元したものである。 」
建物の前の奥行きがなく、写真のフレームに入りきれなかった。
色の新しい右側が復元されたものである。
左側の縁側の外の廻りに庭がつくられていた。
この先に森重堅庭園があるが、ここで終わりにして、駐車場へ戻った。
駐車場を出て、今夜の宿泊先の指宿岩崎ホテルに向った。
有料道路は使用せず、備蓄石油タンクのある喜入近くに降り、
国道226号を左に時々海を見ながら走り、約1時間かけて、ホテルに到着した。
ホテルで小休止後、ホテルの地下から海岸に設けられている砂風呂へ行った。
「
指宿の地形が特殊で温泉が海岸に流れているのを利用しているのが砂風呂である。
のんびりと海を眺めながら、楽しむものと思っていたのは間違い。
砂をかけられて、5分もしない内、身体があつくなり、そのままだと茹で蛸になると、
係員に合図して砂を除いてもらった。
砂風呂とはという貴重な体験であるが、
私が理想にしていたのんびり砂の中とは違っていた。
この後、屋上にある展望ふろで、のんびりし、今日一日の疲れをとった。」
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知覧武家屋敷へはJR鹿児島中央駅から指宿枕崎線坂之上駅で下車、 知覧行きのバスで、市役所前下車すぐ
旅をした日 令和三年(2021)三月十八日