◎ 足立美術館/p>
足立美術館は、島根県安来市にある近代から現代までの日本画を所蔵する
美術館である。
また、世界が認めた、日本一の日本庭園がある。
「 地元出身の足立全康氏は、大阪で起こした事業で財をなし、
横山大観等の日本画を収蔵し、故郷に帰り、美術館を開館した。
借景になる山を買い取ったり、人工的に滝を造ったりして日本庭園を作庭した。
庭園は「枯山水庭」「白砂青松庭」「苔庭」「池庭」など、六つに分かれていて、
面積は五万坪に及ぶという。
足立全康氏自らが、全国を歩いて庭石や松の木などを捜してきたといい、
専属の庭師や美術館スタッフが毎日手入れや清掃を行っている。 」
館内に入ると白砂青松庭が目に入ってきた。 見事の一言である。
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窓を額縁に御立てた部屋もあり、見てもあきない庭になっている。
「 庭園もまた一幅の絵画である。 」 という全康の言葉通り、
絵画のように美しい庭園には言葉を失った。
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窓を額縁に御立てた部屋 | 一枚ガラスからの庭園 | 白砂青松庭園 |
横山大観、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂、上村松園ら、
近代日本画壇の巨匠たちの絵が展示されている。
北大路魯山人と河井寛次郎の陶芸の展示室、林義雄、鈴木寿雄らの童画、
平櫛田中の木彫などもあった。
安来駅より、無料のシャトルバスが出ている。
安来駅から安来市広域生活バス(イエローバス)で、鷺の湯温泉・足立美術館前下車2分
◎ 松江城
JR山陰線の松江駅から北に向かうと、大橋川が流れている。
「
江戸時代には、大橋川の北側に、松江城や武家屋敷、そして、城下町があった。
川の南部は寺院と商人が住む町家になっていた。」
大橋川に架かる松江大橋を渡り、北側の旧松江城下に進む。
「 この地は、
室町時代には出雲守護を代々継承した京極家の守護所が置かれた。
戦国時代に入ると、京極家の分家の尼子氏が、月山富田城を本拠チとして、
松江はその支配下におかれた。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦で、尼子氏は敗戦し、
堀尾吉晴の子・忠氏が、 出雲・隠岐両国二十四万石 を拝領し、月山富田城に入城したが、周囲を高い山に取り囲まれ、大砲などを使う近代戦には不向きであり、
侍や商人を住まわせるには広大な広大な城下町を形成しなければならないため、
港がある松江の亀田山の末次城跡に、新たに城を築くことに決めた。
慶長十二年(1607)から慶長十六年(1611)の足かけ五年をかけて、
松江城及び城下町の建設が行なわれた。
寛永十一年(1634)、京極忠高が出雲・隠岐両国二十六万石で入封し、
三の丸を造営、城下は近世都市として整備された。
江戸時代中期以降は、親藩松平家(松江藩) の城下町として盛えた。
中でも有名な藩主が 「松平不昧公」 の異名を持つ、松平治郷である。
明治時代になると、松江は島根県の県庁所在地となった。 」
松江城の北側、塩見縄手と呼ばれるところには、今でも、武家屋敷が残っている。
この武家屋敷群の西端に、小泉八雲の居宅が残されている。
松江城は、千鳥城とも云われ、出雲藩18万6000石の本城であった。
「 宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれた輪郭連郭複合式平山城で、 東西三百六十米、南北五百六十米の城である。 標高二十八米余の地点に本丸を築き、 周囲を荒神櫓を始め六ヶ所の櫓とそれをつなぐ細長い多門をめぐらせ、 城を囲む内掘りの堀川は巾二十米〜三十米で、 宍道湖とつながる薄い塩水(汽水域)で、外堀は城の南に流れる京橋川を利用している。 」
大手門駐車場から県庁のあたりが三の丸で、藩主の御殿などがあったという。
駐車場から城山公園に入ったところは、
松江城の「馬溜」 と呼ばれる一辺四十六米程の正方形の平地で、
入口は桝形になっていて、大手木戸門があった。
「
奥の石垣の上の左右の櫓は、中櫓と太鼓櫓で八十七米の塀で結ばれている。
これは二の丸の南側の櫓で、明治維新後、破却されたが、
平成十三年(2001)に復元されたものである。
馬溜の右側、石垣が残っているところは大手門があったところで、
高さは三・八米、巾は十五米の二階建の楼門で、屋根にはしゃちほこが載った壮大な門である。 」
その先は「二の丸下の段」で、今は空地になっている。
江戸時代には米蔵がたくさんあった。
北には屋敷地、南は幕末には御破損方、寺社修理方があった。
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松江城馬溜、背後に太鼓櫓 | 松江城大手門跡 | 松江城二の丸下の段 |
二の丸に上る石段の右側に石垣がある。
上ってくる敵兵を鉄砲で攻撃するための火点(鉄砲櫓)があった所である。
石段はここで切れ、右側にまた、石段が続く構造で一気に上れなくしている。
先に進むと「三の門跡」に出て、その先は二の丸跡である。
「 二の丸は本丸南側の一段低い平地で、江戸時代には中央に御書院があり、 松平家二代藩主綱隆の時までは藩主の居宅となっていた。 御書院の北には御殿女中の住居である局長屋、南には御月見櫓があり、 その他、御広間、御式台、御作事小屋、番所、井戸があった。 」
「二ノ門跡」 の標木を過ぎると、左側に鳥居があり、
その先に明治三十二年に東照宮を移築した松江神社、
その奥に明治三十六年に建てられた興雲閣が見える。
三の門と二の門間は短く、二十米しかない。
石段を上がると左側に巨石がはめ込まれた石垣と正面は南多聞による枡形になり、
右折すると正面に頑丈な一の門があり、
右側も多聞と敵兵はここで三方から攻撃を受けるということになる。
この本丸一ノ門と南多聞の一部は昭和三十五年(1960)に復元されたものである。
一の門をくぐるとここから先が本丸である。
「 本丸は標高二十八米余にあり、北東部の一部土塀を除けば、 周囲は祈祷櫓(荒神櫓)、武具櫓、弓櫓、坤(ひつじさる)櫓、鉄砲櫓、 乾の角櫓という六つの櫓とそれを結ぶ細長い多聞がめぐらされていたという。 」
天守閣は二重櫓の上に二重(三階建て)の望楼型櫓を乗せた型になっていて、 五層六階、下見板張り、白漆喰、千鳥破風付きで、千鳥城ともいわれた。
「
南側に地下一階を持つ平屋の入母屋造附櫓があるので、これが防御の役割を果たしていた。
侵入すると上部の狭間から入口に向って鉄砲や矢が撃ちこまれるようになっていた。
二重目と四重目は東西棟の入母屋造で、二重目の南北面に入母屋破風の出窓をつけている。
三階には華頂窓、外壁は初重と二重目は黒塗の下見板張り、
三重目と四重目と附櫓は上部を漆喰塗、その下を黒塗下見板張りとし、
壁の大部分は白壁でなく、黒く塗った雨覆板(下見板張り)でおおわれ、
実戦本位で安定感のあるもので、南北の出窓部分の壁だけ漆喰塗である。
屋根はすべて本瓦葺き、木彫り青銅張りの鯱は高さ二米余あり、
日本に現存する木造のものでは最大で、
入口から向かって左が雄の鯱は鱗があらく、右が雌である。
石垣は「牛蒡積み」といわれる崩壊しない城石垣特有の技術が使われている。
窓は突上窓と火灯窓があり、二階に一階屋根を貫くかたちで開口した石落しが八箇所あり、
狭間は六十もある。 」
一般的な天守閣は上から下まで一本の通し柱で支えられているが、 松江城は現代の家のように二つの階にまたがる通し柱で造られていた。
「
建物の中央部には地階と一階、二階と三階、四階と五階をつなぐ通し柱があり、
側柱など外側部分には一階と二階、三階と四階をつなぐ通し柱がある。
最上階には廻縁高欄があり、雨戸を取り付けているが、
望楼からは松江市内を眺望することができた。 」
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松江神社と興雲閣 | 松江城一の門と櫓 | 松江城天守閣 |
旅した日
足立美術館 平成二十八年(2016)十月二十五日
松江城 平成二十八年(2016)十月二十六日