石部宿から草津宿へ途中にある、旧和中散本舗の豪商・大角弥右衛門家の建物は、
国の重要文化財に指定されている。
和中散とは、徳川家康が腹痛を直したと伝えられる腹痛の漢方薬である。
新善光寺は、高野宗定により、信州の善光寺より、御分身如来の、一光三尊善光寺如来を持ち帰り、創建した寺である。
石部宿から草津宿までは、約十二キロの距離だが、東海道は比較的多く残っている。
石部宿の西の玄関の見附を出たあたりは古い家が残っている。
少し歩くと、小さな松が多く植えられたところに出る。
右手には、JR石部駅がある。
ここは「縄手」 といい、直線状に道が長く続くところである。
「 昔、大名行列が宿場に入る前、長い松並木の下で整列をしたところ ・・・ 」
、の説明があった。
道の左側に「東海道」と記された常夜燈があり、、宿場の町を意識して造られたと思われる、
東海道のポケットパークになっている。
そこを過ぎると、道は右にカーブし、少し歩くと、橋を渡り、丁字路に出る。
左側の工場前に、「 左五軒茶屋 」 、とあり、
小さく、 「 東海道古い道は直進 」 、の表示があった。
「 東海道は、江戸時代初期には、直進する道であった。
しかし、野洲川の氾濫で歩けなくなったため、正面の山の左裾を回る道が開発され、
旅人は、そちらを通るようになった。
直進する道を下道、左に大きく迂回する道を上道と呼んだようである。 」
その先に見える山は、安藤広重の石部宿の絵にある灰山である。
「 昔、石部金山と呼ばれ、聖武天皇時代には銅が、江戸時代には黄銅鉱が採掘された、といわれる。 」
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二つの東海道がある訳だが、現在の直進する道は道路も整備されている上、距離も短い。
灰山の山砂運搬のトラックが通るのが難点であるが・・・
小生は遠回りになる上道を歩く。
三叉路を左折し、上道に入ると、工場に沿って歩き、それがなくなると、
民家が現れたが、そこに「五軒茶屋」 というバス停がある。
名前から察すると、江戸時代には、五軒の茶屋が置かれたのであろう。 今も家数はそう多くない。
道は、右左右と曲がり、山裾を通って坂を上って行くが、静かな山道である。
名神高速道路が通るガードをくぐり、向こう側にでた。
すると、正面に採石場があり、灰山がどんどん削られていく姿が見えた。
ここからは栗東市。
ここで、右折し、高速道路に沿って歩く。
ダンプ一台分の狭い道で、ダンプを気にしながら下ることになった。
途中で、高速道路を見上げると、「近江富士455m」 と書かれた看板があった。
その方向を見上げると、三上山が見えた。
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坂を下ると、先程別れた右の道と合流する。
その地点にはダンプの侵入を調整する係員が立っていた。
ここで左折し、田圃に囲まれた道を進むと、伊勢落集落に入る。
白い漆喰に連子格子の古い家が多く、しっとりとした町並を形成していた。
「 伊勢落(いせおち)の地名は、伊勢参りの旅人が中山道から東海道へ行くのに、 守山市伊勢町からここに出たが、その道は伊勢大路とか伊勢道と呼ばれており、 伊勢に落ちるところということに由来する、と思われる。 」
やがて、左右に太い道がある交差点に出る。
ここまでの狭い道を走ってきた車は、全て、右折し、国道1号に向かって行く。
右角には、「生涯学習の町 伊勢落」、という看板がある。
この先も、集落は続いていた。
道辺には「延命地蔵大菩薩」と書かれた提灯を掲げた、屋根付きの祠中に、石仏が花を生けて祀られている。
右手にはJRの線路が平行していて、その奥に近江富士といわれる三上山が大きく見える。
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少し歩くと、林集落に入った。 」
右側の民家の目立たないところに、「新善光寺道」の道標が建っている。
少し進むと、右側に、浄土宗本願寺派の楞厳山長徳寺がある。
「 長徳寺は、永正十六年(1519)、開基のこの寺の境内には、石仏群がある。
中に入ると、お堂があり、その前の右側に「薬師如来堂」の石柱が建っている。 」
寺の左角には 「 従是東膳所領 」 と書かれた領界標が建っている。
これから東とあるので、西の間違いではないかと思ったが、
膳所藩の領地は滋賀郡・栗太郡を中心に、近江国六郡、河内国三郡まで及ぶので、ここも飛び地になっていたのだろう。
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少し先の道の右側に、「新善光寺道」 と書かれた、大きな道標が建っている。
右折して、少し行くと、新善光寺がある。
「 東海道名所図会に、 「 信州善光寺如来と同体なり 」 と書かれている寺院である。
寺の由来を示す 新善光寺縁起によると、
「 今から八百年程前、源平の乱で敗れた平清盛の長子・小松内府重盛の一族のひとりである、
小松左衛門慰尉宗定が、この地にのがれ住んだが、当地の地名を取って、高野宗定と称した。
彼は、平家一門の菩提を弔うため、信濃善光寺へ四十八度の参詣を発願された。
その後、十二年かけて、この願は成就したが、満願の未明、信濃善光寺如来より、夢の中でおつげを賜り、
「 江州(滋賀県)一円の衆生済度のため、我を連れ帰れ 」、 という霊告を得られた。
宗定は御分身如来を頂き、この地に請来された。
時に、建長五年(1253)一月十三日のことである。
これが善光寺分身仏の由来で、宗定公の御影は、五十年に一度の御開帳の秘仏として、御奉安している。
本尊は、一光三尊善光寺如来だが、南北朝時代に作られた九十八センチの本造阿弥陀如来は、
慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)の作と伝えられ、国の重要文化財に指定されている。 」
本堂は、膳所城主・本多俊次が、寛永年間(一661〜73)に、三間四面の建物を建て、
著した略縁起と共に寄進したもの。
本堂の老朽化が進んだため、昭和五十四年九月より昭和五十六年六月まで
、一年九ヶ月をかけて解体修理が行われている。
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街道に戻り、(三叉路が二つあるが、)そのまま直進すると、六地蔵集落に出る。
江戸時代には、石部宿と草津宿との間宿(あいのしゅく)だったところである。
道の両側には古い家が多くのこっている。
道は、左にカーブするが、右側に金剛山法界寺があり、「国宝地蔵尊」 の石碑が建っている。
説明板「重要文化財 木造地蔵菩薩立像」
「 法界寺の本尊である当像は、僧形の丸い像で、半眠・閉口し、衲衣の端を右肩に懸け、
偏さんと裳を着けて直立する。
現状では右手に錫杖を、左手に宝珠を執る。
像高96.5cm、ヒノキ一本造り。 平安時代(10世紀)ごろの作とみられる。
ここ六地蔵の地名となった六躯の地蔵像の一部であると伝わる。
平成18年3月 栗東市教育委員会 」
当日は門が閉まっていて、入ることはできなかった。
その先の道を越えた左側に、大きな古い建物があり、「史蹟 舅和中散本舗」 の石柱が建っている。。
旧和中散本舗の豪商・大角弥右衛門家である。
「
和中散は、徳川家康が腹痛を起こしたとき、この薬を飲んだところただちに直ったことから、
腹の中を和らげるという意味で名付けられた、と伝えられる腹痛の漢方薬である。
江戸時代には、和中散を作って売る店が何軒もあったようで、
大角家は、その一軒で、同時にまた、間宿の茶屋本陣でもあった。
建物に付属する日本庭園は、国の名勝に指定されている。 」
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道の反対側には、お堂があり、その隣の建物は大角家住宅隠居所である。
大角家の家長が隠居したとき住む為に造られた建物である。
大名が本宅を本陣として使用している間は、家族も一時的に居住した。
江戸時代を代表する豪華な建物として、国の重要文化財に指定されている。
現在、和中散は製造されていないが、街道に面して建つこれらの建物は、
当時の賑わいを偲ばせるものである。
その先、道を隔てて大きな道があるが、ここに 「東海道一里塚」と書かれた石碑が建っている。
右の狭い道が東海道なのでこの道を行く。
少し歩くと、車が一台ほどの狭い道になった。
しばらく歩くと、小野集落(旧小野村)に入る。
白漆喰の家に倉がある家があり、「酒屋清右衛門」 と表示されていた。
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この先もベンガラで塗られた連子格子の家など、古い素敵な家が残っている。
そこを過ぎると、手原(てはら)集落に入る。
ここは、道中記などで、「手孕村」 と書れていたところである。
手原1丁目の信号交差点の右側の駐車場の端に、に、「東海道」の小さな道標がある。
以前、「右 東海道 」と書かれているので、設置の方向が間違っている、と指摘を受けていたが、確認すると、
右の字が白く塗られて消されていた。
名神高速道路栗東ICへの接続道路の高架をくぐる。
このあたりも古い家が残っている。
まもなく、左手に背の高い木が見えてきた。
近づいていくと、右側に白い倉がある立派な屋敷がある。
壁に、 「東海道 手原村平原醤油店 塩谷藤五郎」 と、書かれた張り紙があり、
江戸時代には醤油製造業だったことがわかる。
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道の反対側にある、赤い柵で囲まれている神社は、手原稲荷神社である。
「
江戸時代の東海道名所記に、「 左の方に、稲荷の祠あり 老木ありて傘の如くあり 傘松の宮という。 」 と、
書かれていた。
、
傘松の宮とか、里中稲荷大明神とも称された神社である。
神社の由来書によると、
「 祭神は稲倉魂神・素戔鳴尊・大市比売神。
寛元三年(1145)、領主・馬渕広政が勧請、子孫は手原氏と称し、当社を崇敬、
文明三年(1471)、同族の里内為経は社殿を修し、
社域を拡張、慶長七年(1612)、宮城丹羽守豊盛が社殿を造営した。 」
鳥居の左側に、稲荷大明神常夜燈が建っていたが、皇太神宮常夜燈もあった。
明治天皇が寄られたようで、境内に、「明治天皇聖跡」という石碑があったが、
鳥居の左脇には、「明治天皇手原小休止碑」が建っている。
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神社の角を右折すると、JR草津線の手原駅であるが、東海道は直進。
手原駅を過ぎたあたりから、人の往来が多くなった。
道なり歩いて行くと、道は左(南西)にカーブし、信号のない交差点に出る。
左右の道は、車の通行を多く、右手の方が賑わっているようだった。
車に注意しながら、交差点を渡り、右側の「ビィラ栗東」 というマンションと左の堤の間の道を行く。
少し先の堤の中腹に、「 九代将軍足利義尚公鈎陣所ゆかりの地 」 と書かれた石碑が建っている。
「
足利九代将軍・義尚は、幕府に抵抗する近江守護・佐々木高頼を攻めた。
文明十九年(1487)、この地に陣を張り、佐々木陣営と小競り合いを繰り返した。
しかし、二年後の延慶元年、陣中において、二十五歳の若さで、病没。
本陣は、ここから西に三百メートルほどの永正寺のあたりに置かれたようである。 」
堤の向こうには、上鈎 (かみまがり)池がある。
堤に沿って進むと、上鈎東の信号交差点に出るので、交差点を渡って、まっすぐ進む。
道は、わずかに右へ左へとカーブする。 少し上りになると、葉山川に出た。
川に架かる葉山川橋を渡ると、右側は、一面の畑で、その先に、草津の町が見える。
川辺信号交差点を越え、少し行くと、左側に、善性寺がある。
「
文政九年(1826)、シーボルトが、この寺の住職で、植物学者でもあった恵教を訪ねている。
シーボルトは、その時の印象を江戸参府紀行に
、 「 かねてより植物学者として知っていた川辺村善性寺の僧、恵教のもとを訪ね、
スイレン・ウド・モクタチバナ・カエデ等の珍しい植物を見学せり 」 と、綴っている。 」
まもなく、東海道は金勝川の堤に突き当たる。
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ここには、巡回バス 坊袋バス停があり、
その左手下に、小さな 「 金勝寺 こんぜ」 「東海道 やせ馬坂」 「中仙道 でみせ」 と刻まれた道標が建っている。
ここを左折すると、右側に、「浄土宗延命山地蔵院」の石柱があり、その奥にお堂があり、
境内には天照皇太神宮、八幡大菩薩、春日大明神の碑がある。
春日大明神碑の側面に「元禄年間亥年」 の刻印があるが、寺に神社の碑があるのは、
神仏混交時代の遺物でおもしろいと思った。
道を左折し、少し歩くと、右側の民家前に、「東海道一里塚」「草津宿まで半里」と書かれた跡の石柱が建っている。
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二百メートル程歩くと、真宗大谷派 久遠山専光寺がある。
更に、数百メートル歩くと、道はやや左に曲がっており、
右側に、「従是西膳領」と書かれた領界碑と「目川立場 田楽茶屋 元伊勢屋跡」の説明板が建っている。
説明板「元伊勢屋跡」
「 東海道を往来する旅人の休憩所として、江戸幕府によって、立場茶屋が置かれた。
ここで供された食事は、地元産の食材を使った菜飯と田楽で、独特の風味を有し、東海道の名物となった。
天明時代の当家の主人・岡野五左衛門は、「岡笠山」と号した文人画家である。
与謝蕪村に師事し、その力量は、「よく師法を受け、筆神に入る」と称賛され、「幕府の命に応じて揮毫し、
将軍の覧に供す」 と、記録されている。
作品には氏神の小槻大社へ奉納された大絵馬の外、地元にも数点の作品が残されている。 」
数軒先の寺田家の前に、 、「目川田楽、古志まや跡 滋賀県栗東市岡三八八番地」の石柱と、「名代 田楽茶屋 古志ま屋跡」の 説明板が建っている。
説明板「名代 田楽茶屋 古志ま屋跡」
「 東海道を往来する旅人の休憩所として、江戸幕府によって、立場茶屋が置かれた。
ここで供された食事は、地元産の食材を使った菜飯と田楽で、独特の風味を有し、
東海道の名物となった。
田楽茶屋は、立場の元伊勢屋(岡野家)と、この古志ま屋(寺田家)・京伊勢屋(西岡家)
の三軒を言い、すべてが岡の地に店を構えた。
当家の藤棚は、明治初期に、新善光寺へ奉納された。 」
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その先に真宗大谷派 東護山乗圓寺がある。
その先、西岡家の前に、「目川田楽 京いせや跡 滋賀県栗東市岡四〇五番地」の石柱と説明板が建っている。
京伊勢屋は、目川の立場茶屋の三軒の内の一つであった。
道は左、右、左とカーブし、その先で堤と突き当たるので、右にカーブする道を進む。
この辺りは、坊袋で、左は堤、右下には畑が広がり、その先には、遠くなった三上山が見えた。
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新幹線の下をくぐると、また、住宅地になる。
右側に、「従是東膳ヽ領「 と書かれた領界碑が建っている。
その先に、帝産バス 、新屋敷バス停がある。
更に歩くと、小柿1丁目の右側に、 蔦にからまった「史跡老牛馬養生所跡」と、
「史跡 史跡老牛馬養生所跡」の説明板が建っている。
説明板「元伊勢屋跡」
「 栗太郡志等に、「この施設は和迩村榎の庄屋・岸岡長右衛門が、湖西和迩村の牛場で、
老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても、
息のある間は打ちはぎにすることを止めるようと呼びかけ、
天保十二年四月、当地が東海・中山両道を集約する草津宿の近くであることから、
ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された」 と、記されている。
なお、打はぎとは、殴り殺して、皮を剥ぐこと。 」
少し歩くと、左に土手が見えてきて、「草津市」 と書いた看板がある。 草津宿の入口である。
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訪問日 平成十九年(2007)三月二十一日