佐倉道(さくらみち)は、下総国佐倉藩主が参勤交代につかった道で、 日本橋から船橋宿を経由して佐倉城に通じていた。
「 最初は日光街道の浅草橋から両国橋を渡り、竪川通りを東進し、
旧中川の逆井の渡しから四股、五分一、八蔵橋、菅原橋を経て小岩に出て、船橋へのルートだった。
しかし、日光街道に千住宿が開設されると千住経由に変わり、水戸街道の新宿から小岩に出るルートになった。
この二つの街道は「佐倉道」と呼ばれたが、両者を区別するため、古い道は元佐倉道と呼ばれた。
江戸中期以降、成田詣でが盛んになると、街道は成田まで延長され、その頃から成田街道と呼ばれるようになった。 」
千住から水戸街道・新宿
平成二十六年(2014)五月二十六日、JR常磐線北千住駅から京成本線国府台駅まで歩いた。
北千住の宿場町通りを北にぬけると、千住四丁目と五丁目の境に大きな交差点がある。
江戸時代、ここが奥州・日光街道と水戸街道の追分であった。
水戸・佐倉街道は東側の右の細い道に入る。
千代田線・常磐線のガードをくぐると清亮寺があり、
東武線のガードをくぐると荒川の堤防に突き当たる。
「 昔はここに弥五郎橋が架って、千住宿と小菅村を結んでいた。
明治四十四年に荒川放水路の工事が始まり、川の形が変わり、橋もなくなったという。 」
土手に登ってみると幾つもの鉄橋が並んで建っていた。
しょうがないので、千住新橋に向い、橋を渡って向う側に出た。
橋を渡りきると、右折して中央環状線の高架下に降り、千代田線・常磐線のガードと東武線のガードをくぐる。
左側に東武・地下鉄日比谷線の小菅駅がある。
それを横目で通り過ぎると、左側に「万葉公園」という小さな公園があった。
「 公園を流れる細い水路は古隅田川で、ここから中川まで五キロにわたって残っていて、足立区と葛飾区の境界線をなしている。 」
公園が出来た時期は分らないが、水路に沿って設置された説明板の画面が禿げ落ちていて、
読むのが困難になっていた。
説明板には
「 小菅ろの 浦吹く風の 何(あ)ど為為(すす)か 愛(かな)しけ児ろを 思い過(すご)さむ (万葉集・巻14東歌3564)
という歌があり、これが万葉公園の名の由来のようである。
また、説明板には以下のようにと書かれていた。
「 小菅には江戸の初め関東郡代伊那忠治の一万八千余坪にのぼる広大な下屋敷がありました。
元文元年(1736)、八代将軍吉宗の命により、屋敷内に御殿が造営され、葛西方面の鷹狩の際の休息所として利用されました。
御殿の廃止後は小菅籾蔵が置かれ、明治維新後に新しく設置された小菅県の県庁所在地となっています。
さらに小菅籾蔵跡には小菅煉瓦製造所が建てられ、現在の東京拘置所の前身である小菅監獄に受け継がれて行きます。 」
荒川土手 | 万葉公園 |
その先の右手信号を渡って、土手に上ってみたが、川幅も広く、
江戸時代の風景とはかけ離れているのだろうと思った。
万葉公園まで戻ると、南に東京拘置所があるが、当然といったら当然であるが、警戒が厳重である。
守衛のいる門の手前の左側に案内板があり、鉄格子の向こうに灯籠が建っていた。
葛飾区教育委員会の建てた説明板
「 旧小菅御殿石灯籠 所在地 葛飾区小菅一丁目35番 登録年月日 平成元年(1989)3月20日
円柱の上方に縦角形の火袋と日月形をくりぬき、
四角形の笠をおき宝寿珠を頂いた総高210cmの御影石製の石灯籠です。
もとは数行の刻銘があったとみられますが、削られていて由緒は明確でなく、また銘を削った理由も詳かではありません。
ただし当地は、徳川家康の関東入国以来関東郡代職にあって農政に秀でた伊奈氏代々の下屋敷があったところで、
小菅御殿あるいは千住御殿と称され、将軍鷹狩りの時の休憩所ともなっていることから、
灯籠の造立は江戸時代中期以降と考えられます。
もとは裏庭にありましたが、現在は手水鉢・庭石とともに、拘置所正門脇に移して保存されています。
なお、小菅御殿は寛政4年(1792)、伊奈氏の失脚とともに廃され、その後、江戸町会所の籾蔵、幕末期には銭座が置かれました。
寛永元年(1624)、小菅村の10万坪の広大な土地が関東郡代伊奈氏に与えられ、そこに下屋敷が設けられた。
後にそこは、将軍の鷹狩りの際の休息所にあてられ、
元文元年(1736)には頻繁に狩をした吉宗の命により小菅御殿が造られた。
明治にはいって一時小菅県庁が置かれたこともある。
その後曲折を経て東京拘置所となった。 」
拘置所の南側を歩いていくと、左側にモダンな拘置所の建物が一望できた。
塀の前に 「 小菅御殿と江戸町会所の籾倉 」 という白い紙が板に貼られた説明板があった。
説明板「小菅御殿と江戸町会所の籾倉」
「 寛政六年(1794)に取り壊された小菅御殿の跡地の一部に天保三年(1832)に江戸町会所の籾倉が建てられた。
大飢饉や大水、火災などの災害に備えたもので、老中松平定信の建議によるものだった。 」
旧小菅御殿石灯籠 | 東京拘置所 |
T字路で右折すると、左側に「松原児童遊園」という小さな遊び場があり、
右側には赤い柵に囲まれた小菅稲荷大明神の小祠があった。
ここにも白い紙が板に貼られた 「小菅稲荷神社と小菅御殿の狐穴」 という説明板があった。
説明板
「 小菅稲荷神社は小菅御殿の鎮守として小菅御殿内に祀られていたが、昭和に現在地に移された。 ・・・ (以下省略)」
この広い道は、小菅御殿の正門から水戸街道に出る御成道で、 以前は見事な松の並木が続いていたようだが、今は松原通りの名に残るだけである。
松原通りから左に細い道を入り、草津湯の前を通り過ぎた先に西小菅小学校がある。
校庭に「銭座跡」と刻まれた石柱があるというが、中に入れないので、見付けられなかった。
校門脇の左側の草藪に、葛飾区教育委員会の建てた「小菅銭座跡」の説明板がある。
説明板「小菅銭座(ぜにざ)跡」
所在地 葛飾区小菅一丁目25番1号 西小菅小学校 指定年月日 昭和58年(1983)2月21日
安政6年(1859)から翌万延元年にかけて、幕府は貨幣の吹替(改鋳)を行いました。
この吹替のため幕府は安政6年8月に小菅銭座を設けました。
小菅銭座は旧小菅御殿跡の一角に作られたといわれ、広大な敷地(15,000u 約4,600坪)を持ち、
この西小菅小学校の辺りがその中心地であったと思われます。
ここ小菅銭座では鉄銭が鋳造されていました。
今その頃の様子を示すものは何も残っていませんが、貨幣史関係の史跡として大切なものです。 」
小菅稲荷神社 | 小菅銭座跡の説明板 |
郵便局を過ぎると、頭上に高架橋があり、それをくぐると道は突き当たりになった。
、
右側に 「水戸橋跡地」 の説明板があった。
綾瀬川に架かる水戸橋は以前はここに架かっていたようだが、
今は左に歩いた先にコンクリートの新しい橋が架かっている。
説明板
「 水戸橋は水戸黄門と縁があるようで、昔、川に架かる橋のたもとに妖怪が出没。
水戸黄門が橋のたもとで妖怪を退治し、 「 後日再び悪行を重ねることのなきよう、
橋に我が名をとって水戸橋と命名し、後の世まで調伏するものである 」 と自ら筆をとったといわれている。 」
左手には鵜乃森橋があるが、流れているのは古隅田川で、両側はウッドデッキの遊歩道として整備されていた。
右側に小菅交番がある交叉点を直進すると道幅が広くなり、きれいに舗装された道が真っ直ぐに延びている。
左側の蓮昌寺を過ぎると、小菅三丁目交叉点に出た。
道路標識には 「←四つ木、↑西亀有 綾瀬→、」 とあるが、
左右の道は都道314号、直進は都道308号である。
現在の水戸橋 | 鵜乃森橋 |
交叉点を直進すると、程なく左斜めに入っていく道がでてきた。
左の電柱下に 「旧水戸街道 旧水戸佐倉街道 →」 の標示があり、これが旧道である。
ここからは西亀有地区で、商店や会社はまばらに存在するだけで、住宅地である。
道は北東に延びているが、道なりに進むとJR常磐線の高架橋が見えてきた。
そのまま進むと高架橋の手前で突き当たったので、右折して線路に沿って歩く。
交叉点を越えると駅もないのに高架下にはミニスーパーのE-MART亀有店があったので、
アイスクリームを買った。
この日は雲一つない快晴なので、大変に暑かった。 食べながら歩く。
三叉路を過ぎると道は線路を離れ、大きく蛇行して信号交叉点に出る。
交叉点を越えると左にカーブして、西亀有三丁目交差点に出た。
「
左手に砂原第二公園があるが、西亀有は古くは葛西郡砂原村だったのである。
砂原の地名はかって隅田川が蛇のようにくねって流れていて、その南方に砂原が広がっていて出来た土地からだろう? 」
旧水戸佐倉街道入口 | 常磐線高架下 |
西亀有三丁目交差点からの道は都道467号で、道幅も広く急に都会化してきた。
ここから亀有で、江戸時代には水戸街道と水路とが交差する交通の要所だった。
都道467号を亀有四丁目交叉点、道上小東交差点と進み、次の信号交叉点に来ると、
右手に 「曳舟古上水橋」 の石柱と「曳舟親水公園」 の石碑があり、
「曳舟川の由来」の看板があった。
「看板の説明文」
「 曳舟川は明暦三年(1657)の大火の後、
開発された本所・深川の新市街地へ飲料水を供給する目的に開発された水路である。
成立は万治二年(1659)といわれ、亀有上水とか本所上水、小梅上水とも呼ばれていた。
享保七年(1722)に亀有上水は廃止され、小梅より南部は埋め立てられたが、
上流部は用水として残され、古上水掘と称された。
篠原村(現四つ木)と亀有村間二十八町(約3q)の水路は人を載せた小舟を引っ張り運ぶ曳舟が行われたことから、
曳舟川と呼ばれるようになった。 」
曳船川は越谷市の逆川から引かれた用水で、正式名は東京葛西用水だが、
今は暗渠となり、四つ木までの約3kmを区が曳船川親水公園として整備したもの。
左側に木造の船着場休憩所、右側に小川の流れを配し、
水道水をろ過、滅菌して秒速10cmで循環しているという。
休憩所は何か所かあり、公園というより遊歩道である。
曳舟古上水橋碑 | 曳舟親水公園 |
曳舟川親水公園のある交叉点を渡ると、 「旧水戸街道 亀有上宿」 の石柱があった。
街道を少し進むと、右側に老人ホームの大きなビルがあるが、その手前のマンション前に、
水戸黄門と助さん、格さんの像と水戸街道一里塚跡を一つにした石碑があった。
車道側に 「 旧水戸街道拡幅工事完成を祝い、石像三体及び商店会地域表示の石柱を建立する。
平成14年4月吉日 葛飾区 亀有上宿商店会 」 とあり、最近建てたものである。
また、区が建てた説明板には、 「 亀有一里塚は千住宿から一里、江戸日本橋から三里に位置し、明治末までは一里塚の跡は残っていた。
一里塚は現在地より東に約10mのところにあった。 」
とあった。
亀有二丁目交叉点の左右の道は都道318号、通称環状7号線である。
水戸街道は直進するが、左手にはイトーヨーカドーの大きなモールが聳えていた。
ここは日本板紙の工場跡地だと思うが・・・
旧水戸街道 亀有上宿碑 | 水戸黄門主従と一里塚の碑 |
その先にあるのは中川に架かる中川橋である。
「 家康が江戸に入った当時は利根川と荒川の本流の川が流れていたため、
度々水害にあったため、
家康の命令で関東郡代伊奈氏が利根川の流れを銚子に変える工事を行なった。
その際、荒川を西に移す工事が行われたが、完成した後に残った流れが中川で、
工事前には中川という川はなかったのである。
また、幕府は江戸への侵略を防ぐため、橋を架けるのを禁止した。
中川橋が架けられたのは明治十七年で、地元の有志らの寄付金で木橋が掛けられた。
二代目は昭和八年に架けたものだが、
老朽化により平成二十年(2008)に現在の橋に架け替えられた。
橋の長さは百二十メートル、車幅を拡幅し、さらに橋の両側に歩道が設けられている。 」
中川は程よい川幅で眺めのよい川。 のんびり歩くがすぐに渡り終えた。
渡り終えた先は小田原北条氏によって作られたといわれる新宿(にいじゅく)である。
「
新宿は参勤交代で十四藩の大名が利用したが、千住宿と松戸宿の間にあったため、
休憩だけで、本陣や脇本陣は置れなかった。
天保十四年の宿村人別帳によると、総戸数百七十四軒、旅籠屋大二軒、小二軒、人口は九百五十六人、名物は中川で獲れた鯉や鱸で、藤屋、中川屋、亀屋などの料理屋が店を並べていたというが、
宿場の面影は残っていない。 」
中川橋東詰交叉点を越えた先の信号交叉点左手に宝蓮寺がある。
「 宝蓮寺は天文元年(1532)に栄源により開基されたと伝えられる寺で、 本堂は安政二年(1855)の大地震で倒壊し、明治三年に改築されたものである。 」
宿場に入る道は桝形構造になっているので、信号交叉点を右折し、 少し進むと右側に「西念寺」の標柱の先に山門が見えた。
「 西念寺は浄土宗の寺院で江戸時代には門末七カ寺を擁する本寺だったという。 」
直進すると右側に日枝神社山王保育園があり、街道はここで左折する。
そのまま直進すると、新宿日枝神社がある。
「
当初はやや西方にあったが、享保十四年(1729)にの中川が改修された時、
現在地に遷座されたといい、新宿(にいじゅく)の鎮守社である。
平成二十年(2008年)に本殿、神楽殿、山門鳥居などを一新された。 」
宝蓮寺 | 西念寺の山門 |
新宿から小岩
左右に新宿一里塚というバス停があるが、江戸時代にはこのあたりに一里塚があったのだろうか?
その先の左側に 「金阿弥橋」 と書かれた埋め立てられた橋の欄干が残っていた。
その先は区画整理が行われているのか?と思いながら、街道を探す。
三叉路には「↑水元 水戸街道→」 の大きな標識がある。
水元は水元公園があるところだが、水戸街道は右である。
右に行くと中川大橋東交差点に出た。
道の左右の大きな道は国道6号線である。
「
数年前までは「あづまや」 という蕎麦屋の角に道標があり、
ここで佐倉水戸街道は佐倉と水戸の二街道に分かれたというが、
蕎麦屋も道標もなくなっていた。 」
金阿弥橋の欄干 | 水元 水戸街道の標識 |
中川大橋東交差点の正面には車進入禁止の一方通行になっている道。
左手にある新しい大きな道は水元公園からの上下之割用水が流れていた道で、
今は用水が暗渠になっている。
交叉点の対面の一方通行になっている道に入るが、道幅は狭く、車一台だけで歩道はない道である。
右側の新宿ポンプ所を過ぎると、左側に亀田橋駐在所があり、右奥に新宿公園がある。
亀田橋駐在所の先の角を左に曲がると、右側に祠があった。
祠には、中央の下河原北向地蔵と並んで、左端に角柱三猿浮彫道標がある。
「葛飾区の説明板」
「 元禄六年(1693)に建てられた区内最古の道標である。
道標上部の正面と左右側面にかなり摩耗している仏形坐像又は三猿と思える浮彫がある。
正面には 「 是より右ハ下河原村 左さくら海道 」 右面には 「 これより左 下の割への道 」 と書かれ、
左面には年号が記されている。
下河原村は新宿街の小字名、下の割は東葛西領の南(現在の江戸川区)を指す。 」
佐倉街道 | 三猿浮彫道標がある祠 |
なお、駐在所の先を左折せず、そのまま南西に進むと青龍神社に至る。
「 青龍神社は、水の神を祀る榛名神社の分霊を勧請して、建立されたもので、白ヘビを神様の使いとして祀っている。 神社の前の池は、大昔、中川が決壊してできた池で、白ヘビが棲息すると伝えられてきた。 現在も雨乞いの神事が行われるなど、水を司る神聖な場所として、パワースポット的存在という。 」
池には水連が咲き始めていた。
先程の祠まで戻り、その先を行くと大通りに出た。
この道は中川大橋東交差点の左手にあった上下之割用水の広い道である。
右折して少し行くと新金町貨物線の高砂踏切があるので、そこを渡り進む。
青龍神社鳥居 | 白ヘビの池 |
交叉点の手前左側に曹洞宗の崇福寺がある。
門前には馬頭観世音碑が建っていた。
説明板「崇福寺」
「 慶長五年(1600)に香山和尚により日本橋浜町に建立した崇福庵が前身。
慶長十八年(1613)上野厩橋(現前橋)藩主、酒井雅楽頭忠世の帰依により堂舎を建立し、
国府台の総寧寺を本寺とし崇福寺と改名。
明暦の大火(1657年)により焼失した為、浅草松清町に移転し、酒井忠世の孫、忠清は本堂を再建した。
以来酒井家の菩提寺として永く栄えた。
大正十二年の関東大震災にて被災し、昭和三年浅草よりこの場所に移転し、
同八年本堂、山門、鐘楼等を再建した。
本堂の屋根等の寺紋は酒井家の家紋の剣かたばみが使われている。
なお、酒井氏本家の歴代の墓所は前橋の龍海院にあるが、
当寺には分家の伊勢崎酒井家の墓がある。 」
街道は崇福寺の交叉点を直進だが、右折して柴又帝釈天へ寄り道をする。
隣の源照寺の門前には 「史跡 山田検校の墓」という説明板があった。
説明板史跡 山田検校の墓」
「 山田検校、名は十養一と称し、江戸時代の琴曲山田流の開祖として世に知られる。
宝暦七年(1757)の生まれ、幼少のとき失明し、琴を習い、瞽官に累進して検校の位を授けられる。
文化十四年(1817)に六十一才で病没す。 」
源照寺から更に進むと、「曹洞禅寺」 「理昌院」 の石柱がある寺がある。
更に進むと、交叉点の手前に、古録天神社があった。
社殿右手の石碑には次のように記されている。
「 古録天神社は明治の初期まで 「 大六天宮 」 と称し、当地が新宿鷺沼という地名であった。
往古より当町内の鎮守として鎮座、その御祭神(かしこ根尊)の宏大無辺の御神徳を氏子宗敬者の上に日夜遍く垂れ給わっている。
社殿が建立されてから百三十年以上経過、老朽化進み神社護持が困難になったので、協賛会を発足。
氏子並びに宗敬者のご浄財により、新社殿を造営、同時に境内社の天満宮北野神社、矢付稲荷神社を合祀し、
主祭神惶根尊、相殿に菅原道真公、宇迦之魂神を加え、三柱の神を御祭神とする。
平成十五年八月に木造流れ造りの社殿と手水舎を完成させた。 」
古録天神社は、古録天神とも大六天神とも呼ばれ、
主神のかしこ根の尊は万物を生成する祖神であるとする。
日本書紀に、根源神たちとして登場する中に四組八神があり、
その中に面足尊(おもだるのみこと)とペアになる神としてかしこ根尊(かしこねのみこと)が書かれている。
その後、中世の神仏習合により、神世七代の六代目であることから、
仏教における天界の最高位である第六天魔王の垂迹とされ、修験道で信奉されるようになった。
明治の神仏分離により、第六天魔王を祀る寺の多くは神社となり、
「第六天神社」 「胡録神社」 「面足神社」 などと改称したが、当神社もその一つである。
崇福寺 | 古録天神社 |
交叉点を横断してそのまま進むと、北野小学校、北野小学校の所で、
右折して進むと京成金町線の線路に突き当たった。
右の八幡神社の境内を抜けて、線路を渡ると柴又帝釈天前交叉点に出た。
対面から出てきた大型バスが交叉点をギリギリに右折していった。
直進すると右の道に入ると帝釈天の門の前に出た。
日光東照宮陽明門を模したといわれる二天門は総ヒノキ造りに壮麗な彫刻を施した重厚な山門である。
門をくぐると、瑞竜の松が枝を拡げ、正面に帝釈堂の偉容が現れる。
中には見事な彫刻があり、内外二重のガラス張りの回廊が設けられ、ガラス越しに彫刻美を鑑賞する。
「 柴又帝釈天の正式名称は経栄山題経寺で、
寛永六年(1629)、禅那院日忠と題経院日栄という僧によって開創された日蓮宗の寺院である。
九世住職の日敬の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、
柴又帝釈天として知られるようになった。 」
全国的に知れ渡るようになったのは渥美清演じるトラさんの 「 男はつらいよ 」 映画による。
参道には映画に出てくる草だんご、寅さん煎餅、うなぎの蒲焼など、食べ物屋が多い。
近くには 「 寅さん記念館 」 や 「 山田洋二記念館 」 などがある。
もと来た道に戻り、直進すると江戸川堤防にぶつかり、
土手をおりて広い河川敷公園をよこぎると、矢切の渡しにでる。
「 江戸時代初期、地元民の生活向けに設けられた渡し場で、
現在も運行されている数少ない渡しである。
対岸に渡り、北に向うと、映画のなった伊藤左千夫の 「 野菊の墓 」 の文学碑がある。 」
映画「 野菊の墓 」 は小生が高校の頃、上映された作品で、
十五歳の政夫と二つ年上の従姉民子との純真可憐な恋物語である。
悲恋に終わるストーリーには多感な時期だった小生も涙が止まらなかった思い出がある。
柴又帝釈天二天門 | 矢切の渡し |
崇福寺まで戻り、街道を行くと高砂商店街へ入って行き、高砂八丁目交差点に出た。
この交叉点を右折すると京成たかさご駅で、左折すると先程の柴又帝釈天へ行ける。
京成金町線の踏切を渡り進むと、右側に京成ドライブスクール、左側に桜道中学校がある。
学校を過ぎた路傍に、「さくらみち」「旧佐倉街道」 の新しい石標が建っていた。
七福神を乗せた宝船の浮き彫りを施した下に、
「 佐倉藩主をはじめ、房総十数藩の大名が通った他、成田へ通じる参詣道であり、
成田千葉寺道とも呼ばれた。 」 などの街道の説明付きである。
七福神は葛飾七福神めぐりの道ということらしい。
桜道というだけあって桜並木が続き、左右は住宅地である。
さくら道の道標 | 桜並木のある道 |
北総鉄道の高架の左手には新柴又駅があるが、その北方に題経寺という寺院がある。
その境内に 「浅間山噴火川流溺死者供養塔」 が建っている。
「 天明三年(1793)七月、浅間山が大爆発を起こした時、 利根川上流の吾妻川が山津波と皇降灰で出来たダムが決壊し、 下流は大洪水となり、死者は二千余人に及んだ。 最下流にある柴又も同様で、上流からの川流溺死者も漂着した。 柴又の人々が供養のために建てたものである。 」
北総鉄道の高架をくぐると、柴又街道と交差する柴又五丁目交叉点に出る。
ここは昔は柴又村と鎌倉新田の境界だった。
成田街道を歩くと、柴又街道と何回か交叉するが、ここからが一番近いかもしれない。
少し歩くと、江戸川区北小岩の標示に変わったが、北小岩は江戸時代は伊与田村だった。
「さくら道」 の道標に代わり、江戸川区は 「親水さくらかいどう」 の道標が建っている。
道の右側半分が車道で、左側は並木と細い水路を配した遊歩道に整備されていた。
元は道沿いに、利根川から引いていた農業用水路が流れていたらしいが、それに変わる水路である。
浅間山噴火川流溺死者供養塔 | 親水さくらかいどう道標 |
静かな住宅街をとおりすぎると、江戸川の土手に突き当たるが、一つ手前の信号交叉点の南には小岩公園があり、力石がある。
「 力石は地域の青年たちが力比べの道具として使用したもので、江戸中頃から始まり、 明治、大正と続いたが、二十世紀に入ると廃れていった。 右の石には六十五貫目とあるので、244kg、左の石には四十八貫目とあるので、180kgである。 」
江戸川の土手に突き当る右側に小岩親水緑道の標示があったので、 中に入ると水神碑と水が流れていた。
「説明文」
「 かつてこの辺りの農村は、江戸川を目の前にしながら水不足の悩みが絶えなかった。
明治時代、上小岩村の石井善兵衛を中心に運動を進めた結果、明治十一年(1878)に取水口が完成し、
善兵衛樋と命名された。
大正十三年(1924)、地元の人達が、その功労者の氏名並びに石井善兵衛の功績を称えるために作ったのが水神碑である。 」
水が滝のように流れているのは善兵衛樋であることを知った。
善兵衛樋は、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく噴き出し、流れ落ちる仕組みになっている。
まるで滝のようで、その背後の見上げるような土手の向こうには、
江戸川からの取水口と流れがそのまま残っている。
その裏に祠があり、馬頭観音碑と地蔵菩薩が祀られていた。
右側の地蔵菩薩は慈恩寺道の道標になっていて、右面に 「是より右岩附慈恩寺道 岩附迄七里
是より左千手道 新宿迄壱里千手迄弐里半 」 とあり、岩槻と千住の二方向と距離が示されている。
正徳三年(1713)に建立されたもので、埼玉県の慈恩寺まで行く旅人によって大事な道しるべだった。
力石 | 慈恩寺道道標 |
街道は江戸川の土手道を歩いてもいいが、車道の下の狭い道を右に進むと坂になり、
上ると唐泉寺の脇に出る。
唐泉寺は 「封じ護摩の寺」 と書かれ、赤い幟がはためいていた。
細い道が途切れるので、左の土手に上り、その先の右下に見える細い道の続きを歩く。
少し先のセブンイレブンの看板板のある三叉路で右に入ると小岩田天祖神社がある。
この道は進入禁止の一方通行の道で、そのまま南下すると京成江戸川駅の高架下に出る道である。
完全な住宅地で左に江戸川の土手が見える。
左側にある真言宗真光院には区文化財の木造閻魔坐像が祀られているという。
寺前の右側に祠があり、祠の前に青面金剛碑と庚申塔碑、中にも石碑群があったが、どらえもんの碑は意外だった。
道を進むと右側の公園の奥に、光ヶ嶽観音堂があり、
里見義豊、義俊の守り本尊と伝えられる一寸八分(約6cm)の観音像を祀っていた。
唐泉寺 | 真光院の庚申塔碑等 |
更に進むと左側に若竹寿司があり、店前に二基の道標があった。
「 奥の道標は伊与田村の観世音道石造道標といわれるもので、
正面に 「安政四年(1775)二月吉日 是よりあさくさわん世於ん道 伊与田村中 」
右面に 「右舟ばし迄三里 」 左面に 「にいしく道 」 とある。
あさくさわん世於ん道とは浅草観音への道のことで、旧佐倉街道、にいしく道とは新宿への道で佐倉街道である。 」
京成江戸川駅の高架下をくぐり抜けると、
右側に旧伊与田村(現 北小岩3・4丁目)の鎮守の北野神社があった。
江戸時代にこの地にあった稲荷神社と北方の北野神社が明治の神社統合令により合祀され、
現在の北野神社になった、とある。
社殿の右手前に重さ三十八貫目(142.5kg)の力石があった。
江戸時代後期に日本一の力持ちと言われた三ノ宮卯之助が持ち上げたとされるものである。
観世音道石造道標等 | 北野神社の力石 |
京成本線江戸川駅の高架下をくぐり進むと、向いに中華料理昇龍のある交叉点に出る。
左側の家は江戸時代旅籠屋だった角屋旅館だが、残念ながら廃業されてしまった。
ブロック塀を背にして 「御番所町跡」 の説明板が貼られているが、痛みがありよくは見えないが、
「 このあたりは、むかし御番所町といわれたところで、この先の江戸川河川敷には、小岩市川の渡しと関所がありました。
小岩市川の渡しが定船場となり、御番所(関所)が置かれたことから御番所町と称したと思われます。
江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』の伊予田村の頃にも、関所は「新町内江戸川の傍にあり、
ここを御番所町とも云うと書かれています。 」 とある。
三叉路の右の道を少し進むと、右側に少し引っ込んだところに、御番所町慈恩寺道石造道標が建っていた。
「 安永四年(1775)に建てられたもので、
正面に 「 右せんじゅ岩附志おんじ道 左り江戸本所ミち 」
右面に 「 左り いち川ミち 小岩御番所町世話人忠兵衛 」
左面に 「 右 いち川みち 安永四乙未年八月吉日 北八丁堀 石工 かつさや加右衛門 」
とあり、岩附志おんじとは、これまで数回出てきた埼玉県岩槻市にある慈恩寺のことで、
せんじゅ岩附志おんじ道は水戸街道から下りてきた佐倉道を指す。
また、江戸本所ミちは、浅草橋からの近道、元佐倉道(現在は国道14号・千葉街道)である。
江戸時代には、浅草から来た旧佐倉道と水戸街道を下りてきた成田街道(佐倉道)がここで合流し、
左手に降りて、番屋で許可を得て、渡し船で市川に渡っていたという。 」
旧佐倉道を少し進むと、右側に宝林寺があり、
境内には小岩市川渡の江戸川岸に建てられていた立派な常灯明が建っていた。
寺の左手には古い地蔵菩薩や庚申塔が祀られていた。
御番所町慈恩寺道道標 | 江戸川岸に建てられた常灯明 |
中華料理昇龍に戻り、江戸川に向って進み、石段を上って土手にでると、 「小岩市川の渡し跡 小岩市川関所跡」 の説明板があった。
「説明板」
「 江戸時代のはじめ両国から竪川(たてかわ)の北岸を東にすすみ、逆井の渡しで旧中川を渡り、
小岩で現在の江戸川を渡って房総へむかう道がひらかれました。
元佐倉道と呼ばれ、明治八年(1875)に千葉街道と改称されています。
江戸時代に作られた水戸佐倉道分間延べ絵図には「 元佐倉通り逆井道 江戸両国橋え三里 」 と記されています。
江戸から佐倉にむかう道筋には千住から新宿に至って水戸街道と分かれ、小岩に至る佐倉道があり、
江戸時代にはこちらが街道として利用されていました。
江戸を守るために江戸川には橋が架けられませんでした。
小岩市川の渡しの小岩側に小岩市川関所がおかれていました。
常時四人の番士が配属されていました。
上流の金町松戸関所とともにに江戸の出入りを監視する東の関門でした。
戊辰戦争ではここも戦場になっています。
明治二年に廃止されました。 」
なお、小岩番所の説明板の北よりの河川敷が小岩菖蒲園として整備されているので、
後日(6月13日)訪問して見事な菖蒲を観賞しましたよ!!
今は渡しがないので、市川橋を渡って東に向う。
夕闇が迫り、京成電車や反対側に走る総武線の電車が、絶え間なく鉄橋を渡っている。
約四百メートルの橋を渡り、左折して「市川の渡り跡」の石碑の前を通り、
京成国府台駅に到着して、今日の旅は終えた。
小岩市川の渡し跡 | 小岩菖蒲園 |