東海道の脇往還 姫街道を歩く 




姫街道は、磐田市の見附宿から愛知県の御油宿までの十五里四町(約60km)の距離で、江戸時代、 東海道の新居宿が、江戸から下る女性に対して、厳しい取調を行ったので、それを避ける女性がこの道を利用したことから、この名前が付いたといわれている。  その内、見附宿から池田の渡船場までの道は、古くから池田近道とも呼ばれ、多くの旅人に利用された。  東海道は、見附宿から中泉代官所の方へ南下し、豊田町森下付近から池田渡船場まで北上する遠回りの道だった。  池田近道は、見附宿よりまっすぐに西に出て、一言坂を通り、池田渡船場まで、斜めに直線で行けるので、この道が旅人に好まれたのは当然である。  しかし、この道には難点があり、徒歩の人しか通ることができない狭い道であった。 馬や荷物は東海道を経由するしか方法がなかった。 






見附宿から池田の渡し

平成二十一年六月一日、見附宿から三方が原追分まで歩く。 二年前の四月、東海道の旅で、見附宿を訪れた際、姫街道の存在を知った。  姫街道という響きは、なんとなく、ロマンを感じさせるような気がして、姫君が歩かれた道を一度、歩いてみたいと思った。  それから、二年ほど経った今日、見附宿の東海道と姫街道の追分にある西坂町の信号交差点に立っているのは、感無量というところである。  丁度、小学生や中学生の登校時間で、母親や御婆ちゃんが道に出て、見送る風景を見ながら、出発である。  東海道は、交差点を左折するが、姫街道は狭い道を直進する。  道左側の理髪店の角の 「 遠州見付宿 これより姫街道 三州御油宿まで 」 と書かれた木製道標を見ながら進むと、加茂川に架かる河原橋がある。  橋の先で道は二つに分れるが、そこには秋葉山常夜燈(中央)が建っている。  道を左に入った西光寺(右)は、正面は東海道に面していて、そこには日限地蔵尊の石柱が建っている。 
「 西光寺は、文永二年(1265)の創建で、当初は真言宗の寺だったが、弘安年間に一遍上人を迎え、改宗し時宗の修業道場になった。  明治四十四年には、西坂にあった蓮光寺を合併。 蓮光寺は、遠江国守、平重盛が建立したという由緒ある寺で、その際、薬師如来坐像など、多くの仏像がこの寺に移された。  本堂にある日限地蔵尊は、お願いしたことがその日だけに限り、霊験あらたかになる、といわれるが、 後水尾天皇の皇后(徳川秀忠の娘)だった東福門院が寄進したもの。 」 とある。 

西坂町交差点 秋葉山常夜燈 西光寺

本堂などは、最近の大修理を終えて、新しい建物になっていたが、表門(右下)は、徳川家康の別荘、中泉御殿(中泉代官所)の門を移築したものである。  鐘楼(山門)は寛政元年(1789)建立とある。  山門右側の大クスノキは、樹齢五百年の老木だが、今も青々とした葉を茂らせていた。  見附宿の南本陣、神谷家や北本陣、鈴木家の菩提寺で、墓があるという。 
街道に戻り、三叉路の右側の坂道を上って行く。 かなり急な坂であるが、距離は短く、すぐに平らな道になり、 道なりに行くと、右側に樹木の茂る所(中央)に出た。 歩道の右側に一本松跡の石柱がある。  右側にかぶと塚公園の標石があったので、中に入ると、左側に中部第129部隊跡の標柱が建っている。  また、左手奥には、第1航空情報連隊跡 通称 中部第129部隊 東海第552部隊 師 第552部隊 と書かれた石碑(右)があり、 花がたむけられていた。 石碑の裏側には、隊の沿革が書かれていた。 
「 昭和16年12月8日 第2次世界大戦勃発し 帝国陸軍航空部隊は 国土防空の目的をもって 昭和17年1月 ここ磐田ヶ原台地に表記部隊を開隊した。  即ち通称中部129部隊とし 秘匿名称は第1航空情報連隊と称した。 以後この地に於いてわが国最初の電波警戒機部隊として幾多将兵を育成し、太平洋戦争全戦域に出動し赫々たる武勲を樹てたが、 其の多くは国土防衛の礎となって再びここ磐田の地に還らなかった。 今日この地に部隊碑を建設するに際し併せてこれ等戦友の霊を弔慰するものである。  
           昭和57年10月24日                  第1航空情報連隊戦友会有志一同   」   

旧中泉御殿表門 樹木の茂る所 第1航空情報連隊跡碑

左手に体育館があるが、まっすぐ進む。 かぶと塚公園の案内図があったので、場所を確認して、道の左側の鬱蒼とした、しじまの森に入る。  兜塚古墳(左下)は、直径八十メートル、高さ八メートルの円型古墳で、茶碗を伏せたような形をしていた。  かぶと塚の名の由来は、形が兜を伏せた状態に似ていることからという。  古墳の上から周囲を見渡し、古墳の周りを歩いて一周しても、見学は短時間で終った。 
体育館の脇を抜けると丁字路で、ここを左折すると国道1号線に出た。 国道を右に向かって進むと、右側に磐田警察署がある。  二百メートル程歩くと、磐田市一言歩道橋の右側に、右に入る細い道がある。 姫街道はここで、国道1号線と別れて、右側の道を行く。  一言集落の民家があり、左にダイハツのサブデーラーがある交差点を横切ると、右側の畑の中に、常夜燈と書かれた小さなお堂(中央)があった。  お堂の中を覗き込むと、奥の方にお札を収めるような社形のものがあり、 その中には、火除けの神様、秋葉山のお札が入っているような気がした。 建物は常夜燈の形をしているのだろう。 

兜塚古墳 常夜燈

道は二つに分れ、右は上り、左は下り坂である。 坂の名は一言坂というが、けっこう急な坂であるが、左の方の急な坂を下る。  その先は左から右に下る道がある三叉路であるが、姫街道は、右に下る。 
下っていくと、左にカーブする所の右側に、琴平神社跡の石段があり、その左側に、かぶと塚への道標を兼ねた一言坂戦跡説明板(右)が建っていた。 
『 元亀二年(1572)、甲斐国の武田信玄と遠江国領主の徳川家康との間で戦いがあり、袋井市の三箇野川の戦いで敗れた徳川軍は、浜松城を目指して敗走したが、一言坂で追いつかれ、再び合戦となった。  これを一言坂の戦いという。 このとき、家康の家臣、本多平八郎忠勝が、大槍を振り回して一人大奮戦し、枯草に火を放ちその煙の中、見事に、徳川軍を退却させた、と伝えられている。   相手の武田軍も、この時の武勇をたたえ、「 家康に過ぎたるものが二つある。 唐の頭(兜)に本多平八。 」 と書いた札を磐田市の国府台に立てたといわれる。  』 

一言坂戦跡

道なりに坂道を下ると、左側に一言坂碑(左下)の道標があり、正面に磐田小型運送の駐車場のようなところに出た。  右側の広い道を進み、小さな祝川の橋を渡ると、三叉路。 三叉路を左折して、直進すると、国道1号線に出て、 東海道に合流するが、姫街道は右折して進む。 
周りの景色はのどかな田舎という風情であるが、道は対面二車線で、歩道がない狭い道でだが、車の通行は多い。  そのまま進み、信号のある五差路の交差点(中央)で、対面の用水路のある左側の細い道に入る。 
これが姫街道である。 左右に家があり、左側の家の紫陽花はすでに咲いていた。 約百メートルほど進み、最初の 交差点で左折し、そのまま進むと、こんもりとした木立があり、お寺のような家が見える。 直進する道はなさそ うなので、三叉路を左折し、その先の三叉路を右折し、垣根に覆われた家を少し進み、右手の山門に向かう。 
一本の松の木があり、正面には山門、左側に観音堂があった (右下写真)
山門は、旗本だった皆川歌之助の陣屋門を移築したと伝えられるもので、山門をくぐった先にある寺は智恩斎である。  

一言坂碑道標 五差路交差点 智恩斎

山門の左側にある観音堂は簡易な建物だが、中には一言観音と書かれた額の下に、木枠で囲われた中に一言観音(左下 )といわれる石仏が祀られていた。 一言観音は、一生に一度だけ願いが叶えられるという観音様で、武田信玄に 戦いに敗れた徳川家康が戦勝の一言を願ったといわれる。 
先程の道に戻り、直進すると突きあたる三叉路である。 江戸時代の姫街道は、ここから右斜めに進む道だったが、 現在は道は消滅している。 しょうがないので、三叉路を右折し、すぐ先の三叉路左折して進む。 田圃道を 歩いて行くが、途中の田圃にブルドーザーが入り、田圃から砂利を採取中である。 年内には工事が終わり、もとの 姿に戻す、と関係者は云った。 そのまま進み、彷僧川にかかる豊田4号橋(中央)を渡ると、ここからは、弥藤太島 地区で、田植えを済ましたばかりの田が左右に広がり、緑一色である。 空は青く、一部に白い雲が浮かんでいて、 大変清々しい気分になった。 少し歩くと、交差点の右は森岡集会所で、道の奥にミニパトカー(右)が見えたので、 歩いて近づくと、右側に豊田交番があり、大通りに出た。 交番を見ながら右折して、大通り を北上、磐田バイパスのガードをくぐり、その先右側のJA遠州中央敷地角の交差点を左折する。 

   観音堂内 豊田4号橋 森岡集会所付近

交差点を渡り、 道路右角の新造形創造館の前を少し歩くと、敷地左端の用水路の手摺のところに、池田近道(姫街道)の木標(左下)が建っていた。  智恩斎を過ぎた丁字路で消滅した姫街道が、ここで復活した訳である。 池田近道の意味は冒頭に述べた通りであるが、 幅が一メートル余の狭い道のため、徒歩の人しか通ることが出来なかった。 用水路左脇の道は広いとはいえないが、 当時の池田近道はこんなに広い道ではない。 
道を進み、突当りを左折すると、上新屋の集落に入る。 左側に上新屋自治会倉庫があり、その先の狭い交差点の左側に、秋葉神社御神燈(中)があり、岩田郡井通村新屋区と書かれていた。  少し進むと、集落は終りになるが、 三叉路の左側に小公園の上新屋ポケットパークがある。  中に入るとブロック敷の上に、藤と香りの道路マップ(右)の名で、合併前の豊田町の観光施設がカラフルで、マンガチックに描かれていた。 
「 藤と香りの道:豊田町駅をスタートし、香りの博物館、熊野伝統芸能館、新造形創造館などの施設を巡り、 熊野御前ゆかりの行興寺と池田宿の街並みを回る九キロのコースである。 」                

  池田近道道標 秋葉神社御神燈 藤と香りの道路
マップ

上新屋ポケットパーク案内碑(左下)には、第四場(逢瀬の場)として、
『 夏がきました。 熊野(ゆや)は宗盛(むねもり)にさそわれて、蛍狩りにでかけました。 蛍がとびかう中で、
宗盛は熊野にいいました。 「 わたくしと一緒にくらしてくれないか 」 見付の国府で宗盛と暮らす熊野はとてもしあわせでした。  ところが、宗盛が都に帰る日がきました。 宗盛は熊野との別れがつらく、 「 どうか都についてきておくれ 」 というのでした。 』 という、熊野御前と平宗盛の物語が書かれている。 
また、賀茂真淵が天丈五年(1740)岡部日記に書いた 「 まれにわたる 天の中川 なかなかに うれしき瀬にも 袖ぬらしけり 」 という歌が刻まれていた。  この碑は、道標にもなっていて、池田の渡しまで、1360m とあった。 
公園を出て、農道のような道を直進すると、五十メートル程で交差点に出る。  姫街道は、ここから右斜め前方にある白い建物の左側の方向に進むのだが、道が消滅してないので、そのまま直進し、寺谷用水路にかかる橋の手前で右折する。 用水路に沿って進み、白い建物の先の交差点を左折して、用水路に架かる橋を渡り、直進する。 
住宅が多くなる交差点(中央)からは、姫街道が残っている。 先ほどの交差点で消滅した道は、斜めに田畑の中を横断して、この道に合流していたのである。 
その先、学習塾などがあり、交差点に出るが、直進すると保育園がある三叉路に突き当たる。  ここは右折して、少し行くと、右側に新しい立派な寺ある。 大きな門構えの曹洞宗の永平寺を本山とする妙法寺(右)である。
山門前には 禁葷酒の大きな石文があり、くんしゅさんもんにいるをゆるさず(不許葷酒入山門)とあるのは、禅寺として当然だろう。  墓参りにきた二人連れのおばあちゃんに聞くとかなり歴史がある寺という。 

  上新屋ポケット
パーク案内碑 姫街道が復活する 妙法寺

小生が立ち寄ったのは、天竜川の池田の渡しの渡船権を家康から与えられたという半場善右衛門の墓がこの寺にあるはずだからである。  墓はなかなか見つからなかったが、墓地に向かって、右側の二列目の左側の一番奥にあるのを 見つけた。 古い男女の墓と思える隣に先祖代々之墓(左下)があり、その左の隣の家の墓との間に、半場善右衛門の偉業を称える碑が立っていた。 
  「 半場善右衛門 元亀三年、1572、武田軍との一言坂の戦いの折、徳川家康を助けたことにより、天竜川渡船の権利と半場姓賜った。  以来、明治維新にいたるまで、代々、その子孫は渡船方名主を務めた。 」 
街道に戻り、道を進むと、交差点があり、右手に誓渡院、左側に時宗の行興寺(中央)がある。 
行興寺は、平安時代末期、宿場として栄えた池田の長者、藤原重徳の屋敷跡とされ、熊野(ゆや)御前ゆかりの寺として有名である。  彼女を主人公にした謡曲 熊野のハイライトは、清水寺の花見の場である。 
『 池田の長者の美しい娘、熊野御前は、遠江の守、平宗盛(平清盛の息子)の寵愛を受けて、都に上がる。  その後、母が病気になるが、郷里に帰ることを許してもらえず、宗盛が桜見物に清水寺へ熊野御前を連れて行った折、
      「 いかにせむ 都の春も惜しけれど なれし東の 花や散るらん 」
 (京の春の桜も惜しいけれど、こうしている間に住み慣れた遠州の桜(と、母の命)も散ってしまいそうです)
と詠い、舞った。 この歌に心うたれた宗盛は、熊野が郷里に帰ることを許した。 熊野御前は、必死になって母の看病をしたが、その甲斐もなく母は亡くなってしまう。 』 という話である。 
寺の境内の藤棚の下に、熊野と母、侍女の墓(右)があった。 
なお、ゆやという名は、父重徳が紀州熊野権現へ祈願をかけ授かった娘だったので、熊野(ゆや)という名が付けられた、といわれる。 

  半場善右衛門碑 行興寺 熊野と母、侍女の墓

行興寺には、熊野御前が植えたといわれる熊野の長藤がある。  境内の藤棚面積は、五百七十二平方メートルで、そこには、樹齢八百年の国指定天然記念物の藤が一本、樹齢四百年の県指定天然記念物の藤が五本あり、 その他にも多くの藤が植えられている。 
国の天然記念物の長藤(下中央)は、熊野御前が八百五十年前に植えたと言い伝えられているものだが、その真偽はこの藤だけが知っている。  毎年、藤の花の開花時期にあわせ、四月下旬から五月上旬にかけて、長藤まつりが開催される。

国天然記念物の大藤

藤棚を進むと、西法寺薬師堂(下中央)があるが、浜松市に移転し、当地には寺はない。 傍らの案内板によると、
「 西法寺は、鎌倉時代の貞永年間に創建された真言宗の寺院である。 鎌倉時代から拡がった大衆仏教により、 貴族中心と見られた真言宗から、庶民信仰の曹洞宗や時宗への改宗が相次いだ。  江戸時代には、池田町内四十二の寺のうち、曹洞宗の寺が三十九で、時宗の寺が二寺、真言宗は西法寺のみになってしまった。  現在は、浜松市に寺は移転し、当地には寺はない。 」 とあった。  その先にある建物は、能舞台があり、薪能なども上演される、磐田市の熊野伝承芸能館だが、今日は月曜日で休館だった。 

西法寺薬師堂


街道に戻ると、行興寺の対面に小さな祠の中に石仏(左下)があり、街道を歩く旅人を見守っていた。  二百メートル程歩くと、左側に長細い建物がある。 天竜川の記録パネルが掲示されている歴史風景館だが、ここも月曜休館。  施設に隣接している屋根付休憩所は、利用可能で、自動販売機でお茶を買い、しばし休憩。 
道の反対側の床屋の前に、寛政九年(1797)の建立の秋葉山常夜燈(中央)があった。 
その先は上り坂になっていて、白いガードレールで隔てられた道を上ると、天竜川堤防道の手前が三叉路になっていて、池田橋跡の石碑(右)が建っている。 
「 明治十六年に幅九尺(2.7m)、長さ四百二十五間(765m)の有料橋が天竜川に架けられた。 これが池田橋である。  昭和八年に現在の天竜川鉄橋が完成するまで利用された。 」

小さな祠の石仏 秋葉山
常夜燈 池田橋跡跡

三叉路には、堤防上の道路まで上れる石段があり、途中の右側の遊歩道に、家康が与えた渡船許可状に関する説明板(左下)が建っていた。 
「 天竜川の渡船は、当初は池田村が独占していたが、慶安二年(1649)に馬込川に橋が架かったので、馬込川の渡船を運営していた船越村に権利の一部を譲った。  天竜川を東の大天竜と西の小天竜に分け、西の小天竜を池田村と船越村が隔日交代で当たることにしたのである。  とはいえ、江戸時代を通して、渡船の最高責任は池田村が担い、それを運営するため、前述の半場善右衛門の子孫が名主(川庄屋)を務め、その下に十一軒の居番(川年寄)、十六軒の船頭がいて、それに数十軒の渡船従事者がいた。  江戸中期には、池田村で大番船六艘、小番船二十二艘、高瀬船が十艘前後あった。  渡船場は、江戸時代初期には、ここより少し下流にあったのが、その後、上流の池田村と対岸の中野町村に移った。  その為、見附宿から近道になる池田近道ができたのである。 」 
というのが渡船の歴史である。 堤防道の343号線に出ると、天竜川の河川敷にある駐車場に向う。 
その奥には池田の渡し碑(中央)があった。 
「 池田渡船場は、三ヶ所あり、通常はここから四百メートル下流の天竜川渡船場跡碑がある辺りの下の乗船所が使われた。  水量が増すと、二百メートル上流の天白神社境内にある池田渡船場碑の辺りにあった、中の乗船所に移り、急流になると、ここの上の渡船場になり、天竜川を斜めに横断した。 」、とある。 
池田の渡し碑の先の天竜川の河原では多くの人が釣り竿をかざしている(右写真)
 今日は六月一日で、鮎の解禁日だったのである。 
 

渡船許可状に
関する説明板 池田の渡し碑 鮎釣り

池田の渡しから三方原追分

渡しはないので、五百メートル程下流の天竜川橋を渡ることにし、堤防道の343号線を南下し、天竜川橋へ行くが、この道は車が多いが歩道がないので怖い。  天竜川に架かる橋は、手前の新天竜川橋と並んで、下流に天竜川橋がある。  天竜川橋(右下)には、橋の隅に歩行者用の白い線が引いてあるが、ほとんど消えかけていた。  新天竜川橋が出来たので、以前のような通行量はないが、車と接近するので、危険と背中合わせである。  対抗車が来るのを見るのは怖いので、車を背にしながら、一キロ弱の橋を渡り終えた。 なお、橋の中間から磐田市と別れ、浜松市となる。 
上述のように、池田道は、池田宿で船に乗り、対岸の西渡船場に着くと、津島神社の南を通り、浜松インターチェン ジの南から西へ向かって、市野宿手前の下石田で、姫街道・本坂通と合流する道だった。  しかし、この道の殆どが消滅しているといわれるので、この後は姫街道(本坂通)を歩くことにした。 
橋を渡るとすぐ左折して堤防道を歩くが、この道も車が多くて歩道の表示はない。 三百メートルほど下流へ歩くと、 右側に、明治大帝御聖蹟の石柱とその奥に玉座迹の記念碑(中央)が建っていた。  ここは、明治天皇の行幸の際、天皇がここに座って、金原明善に謁見したという場所で、それを記念して建立されたものである。  その先には船橋之記の碑、続いて、船橋跡と天竜川木橋跡の標柱が建っている。 
「 明治元年に、明治天皇が京都と江戸を往復された際、中野町村の浅野茂平が指揮をとり、七十八艘の舟を並べて、船橋を架けたところである。  浅野茂平は、その後、明治七年に本格的な船橋を完成させたが、その功績を讃える天竜川橋起巧碑が中野町に建立されている。  その後、明治九年には船橋から木橋に架けかえられた。 」 
天竜川木橋跡の標柱の先で、右にカーブする坂を下ると右側の小高いところに六社神社(右)がある。 
六所神社は、建治二年(1276)に尾張国中野郷より勧請した、この地の産土神である。 

天竜川橋 玉座迹の記念碑 六社神社

神社の前には、東海道の道標が建っているが、その先の三叉路を左折して進む県道314号線が旧東海道である。  このあたり(左下)は中野町であるが、十返舎一九の東海道中膝栗毛に、「 舟よりあがりて建場の町にいたる。 此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし 」 と、あるが、京都と江戸のちょうど中間点にあることから、中野町という地名が付いたといわれる。 
その先の右側にある碑は、浅野茂平の天竜川橋起功碑である。  二年前に東海道の旅で歩いた時、寄れなかったうなぎの中川屋(中央)でうなぎ膳(中央)をとったが、百三十年前の明治十年に開業した老舗というだけあって、大変うまかった。  なお、古い建物は壊され、新しくなっていたのは少し残念だったが・・・ 
道の左端に、西町通りの標柱がある。 少し歩くと、右側に松林寺の奥山大権現とある常夜燈(右)がある。 
奥山大権現とは秋葉山半僧坊のことである。 
 

中野町 中川屋のうなぎ重 奥山大権現板

松林寺は、元中元年(1384)、方広寺開山の無文元選禅師が、この地の豪族、安間氏の要請により開創した寺である。  境内に延命子育地蔵が祀られている。 また、徳川家光が浜松城主に命じて建立させたという薬師堂(左下)があり、遠江四十九薬師第八番札所になっている。  道の反対側の民家の駐車場に、かやんば高札場跡の標柱があったが、かやんばは萱場。  更に百五十Mメートル歩くと、金網で囲まれた空地に角に東海道松並木跡の標柱が建っていた。  その先右側の白壁に黒い板が張られた粋な塀で囲まれた大きな家が、幕末は村の庄屋、明治、大正期の実業家、天竜川の治水に人生を賭けた金原明善の生家(中央)である。 
 「 金原氏は、明治八年に天竜川の治水に着手したが、政府からの補助金が少なかったため、全財産を売り払って 資金を作り、治水工事の費用に充てた、といわれ、明治三十三年に天竜川堤防工事を完成させた。  先程の天竜川土手にあった玉座迹は、明治天皇が、金原明善を謁見した場所なのである。  生家の向かいの金原明善記念館では、彼の生涯を知ることができる。  治水関連道具や明善ゆかりの品々が展示されていて、入場無料。 建物の手前角に、 中ノ町村 和田村 村境 の標柱が建っている。 」 
約二百メートル行くと、トの字の三叉路があり、道路は黄色に彩りされた進入禁止の標識(右)がある。  この場所が、姫街道の追分(起点)となったところで、このあたりは、安間の萱場と呼ばれていた。 

薬師堂 金原明善の生家 本坂道の追分

東海道は、この先で、天竜川橋を渡ったところで別れた広い道と右側から合流する。  その三角地の金網の中に、安間一里塚跡の標柱(左下)があるが、江戸より六十四里目の東海道安間一里塚は、姫街道の一里塚の起点となっていた。  小生は、ここで、東海道と別れ、右折して車進入禁止の道を北に向かう。 姫街道の正式名称は、本坂越脇往還といい、この先、下石田で池田からの姫街道と合流していた。 
すぐに大通りに出るが、これは旧国道1号線で、安新町交差点を横断して、細い道を北へ進む。  この道は狭いのに車の通行が多く、歩くのは恐い道である。  少し歩くと、国道1号線に出たが、新天竜川橋と関連した浜松インターへ繋ぐ工事などを行っている。  国道を横断するため、道の左側にある安新歩道橋(中央)に上る。 
歩道橋を降りて、高速道路に入る道のガードをくぐると、右側に了願公園があるが、そこには、
「 始祖了願に因み、旧浜名郡和田村安間新田の代々名主を努めた安間本家から土地の寄付を受け開園した。 」 と、案内板があった。  そこから僅かに進んだ右側の民家の塀際に松が植えられていて、その下に四十センチ程度の道標(右)があるが、 よく見ていかないと見落としてしまう。 石碑には、右笠井、秋葉山、左市野、気賀、金指 と、書かれているが、 姫街道と笠井、秋葉方面との分岐点だったのだろう。 

安間一里塚跡標柱 安新歩道橋 道標

公園から四百メートル程歩くと、県道65号線に出る。 右側を少し歩き柏木橋を渡り、変則の柏木橋交差点に出る。  交差点を横断して、左側のサークルK側に渡った。 サークルK(左下)で冷たい飲み物を購入し、のどを潤す。  
サークルKの駐車場の三角形になっているところに県道314号線の方に向かって、姫街道の道標が建っていた。 
指示に従い、県道314号線を北西へ進む。 県道は、道幅が狭いのに、車の通行量は半端でない。  歩道がないので、排水溝の蓋の上を歩いた。  五百メートル程先の下石田中交差点を過ぎると、左に行く細い道があり、その角に、半僧坊五里廿六町と刻まれた半僧坊道標(中央)が建っている。  なお、半僧坊とは、浜松市引佐町奥山の方広寺に祀られている半僧坊大権現のことである。 
「 半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子、無文元選禅師が天平五年(1350)、中国から帰国の途中、海難にあったところを助け、 また、建徳2年(1371)に、禅師が方広寺を開山したときは弟子として仕え、禅師亡き後は方広寺の鎮守として、祀られた。 」
、という。 その先の駐車場の一角に常夜燈(右)が建ち、その奥にお堂がある。  お堂は長泉庵というようで、中には馬頭観音像が祀られている。 


サークルK 半僧坊道標 常夜燈

姫街道は、数分で、下石田北交差点(左下)に出て、右からの261号線と合流する。  交差点を直進し、二百メートルほど歩くと、手押しボタン式信号機がある交差点があるが、ここで右から合流する道が、姫街道の池田近道のようである。  道は左にカーブして安間川(中央)を渡る。  江戸時代、この先には、姫街道の市野宿があった。  新しい家が立ち並ぶ道を道なりに進むと、左にカーブした先の右側に姫街道の標柱があった。  このあたりは市野宿の旅籠などがあったところだが、当時の宿の面影は殆ど残っていない。  斉藤本陣があったところも表示がないので、分からなかった。  その中で、左側の料理旅館の建物(左下)が、古式そう然としていて、旅籠のイメージだった。 
「 市野宿が衰退したのは、明和元年(1764)に、東海道の浜松宿から三方原追分で本坂道に合流し、気賀宿へ抜ける浜松道が幕府の道中奉行管轄となったためである。  旅人は宿場町として大きい浜松宿に泊まり、歩く人の流れも変わり、市野宿は、浜松宿に押されて衰退し、宿場機能を失った。 」

下石田北交差点 安間川を渡る 料理旅館

その先は市野交差点。 ここは、県道45号線が左右に通っている。  交差点を横断し、県道296号線と合流する突当りの三叉路を左折する。 この三叉路は、車が猛スピードで間断なく行き交い、危険である。 
次の交差点を左折した正面の建物を挟んで、道は二つに分れる(左下)ので、261号線と別れて、右の細い道を進む。  このあたりは、宿場特有の枡形の跡で、江戸時代には市野宿の西の入口である。 
県道261号線にすぐに出て、右折して少し歩くと、右側に熊野神社(中央)があり、街道に面した鞘堂には、秋葉山 常夜燈が納められている。 境内には、経塚碑や五輪塔などがあった。 
姫街道は、ここから長い直線の道で、江戸時代、八丁とうもといわれた八丁畷である。  
西へ約一キロ歩くと、与進北小南交差点の左側に市野ゴルフ場があり、その先の右側には、浜松テクノカレッジ(浜松技能開発専門校)(右下)があった。 

道は二つに分れる 熊野神社 浜松テクノカレッジ

その先の三差路は右折して、261号線を北上すると右側に黄檗宗の長福寺がある。  道は、左折していくが、左折する手前の左側に、江戸から六十五里目で、姫街道で最初の一里塚跡の碑(左下)がある。  少し歩くと、小池町交差点、交差点を直進し、二百メートル程進んだ信号交差点で、道は二つに分れる。  県道261号線は右方向へカーブするが、姫街道はそのまま直進し、細い道に入ると、右側に屋根にシャチホコ付の立派な龍燈(中央)がある。 
この山門のある寺は、臨川山大養禅院で、龍燈とは灯明堂のことで、内部には秋葉山常夜燈があったようだが、今はなく石板が入っていた。  寺の前の道を進むと、約百五十メートル先の貉川あたりから、約五百メートルが住宅や工場に変わり、姫街道は無くなっている。  橋を渡り、次の交差点を右折して、信号交差点に出た。 再び、 県道261号線に合流、この右側には遠鉄自動車学校(右)があったが、ここは西に向かって歩く。 
遠州鉄道の踏切の左手には無人の遠鉄自動車学校前駅がある。 

小池一里塚 大養院龍燈 遠鉄自動車学校

大養禅院の先で消滅した姫街道は、踏切を越えたあたりから県道161号線として復活する。  有玉南町東交差点を越え、有玉南町市場公会堂を左に見ながら左にカーブすると、その先に馬込大橋北交差点(左下)がある。  左右の道は国道152号線(秋葉街道)である。 姫街道は国道を横断して、正面左の狭い道に入る。  旧秋葉街道は、このあたりは枡形になっていたようで、浜松宿から北進してきた道が姫街道と五十メートル程重なり、この先の三叉路から北進して行ったようである。
姫街道(県道161号線)は、道幅が狭いが、車の通行が多い。 道に左側に馬乗場跡の標柱があった。  標柱の少し先に姫街道の道標(中央)があり、その先に立ち葵の花が咲いていた。 馬込川に架かる五枚橋(右)に出た。  名の由来は、川に置かれた石の上に、五枚の板を五枚並べた仮板橋だったことによるらしい。 

馬込大橋北交差点 姫街道の標柱 五枚橋

橋を渡るとすぐ左に入る細い道に入り、十メートル先で右折すると、左方向に少しだけ道がある。  道は川に突きあたるが、その手前に五枚橋跡の標柱(左下)が建っていた。 この辺りに昔は五枚橋が架かっていたようである。
馬込川の西岸は、下流にかけて綺麗に整備された親水公園になっていて、 ゲートボール場もあるようで、お年寄り達が楽しんでいた。 
細い道を西に進むと、車が通る少し広い道がある交差点に出る。 右折すると五枚橋交差点だが、そのままは直進して住宅の中をいくと、 道は行き止りになるので、石段(中央)を上り、県道に出る。 
県道の向こうに見える坂道は、三方原台地へと上る宇藤坂である。  横断歩道のない県道を横断するが、車の通行が多い道路なので、なかなか対面に渡れない。  宇藤坂の細い坂道を上っていくと、上りきった正面に黒い板壁の蔵があり、三叉路の右側の奥に、黄色と白の家が見えた。  奥に向かって狭い道を約百メートル歩いて行くと、突き当りにラブホテルがある。 
 

五枚橋跡標柱 県道に出る石段 ラブホテル

ホテル外壁の左側に、旧俊光将軍社の標柱があり、その奥に小さな社殿(左下)が建っていた。 
「 この社は、戦前には、教科書にも載ったといわれる文武両道のシンボル坂上田村麻呂にゆかりのある社である。  この社に祀られているのは田村麻呂ではなく、その子の俊光で、社殿の前の木柱には旧俊光将軍社とある。  明治の神社統合令により、地区の神社を一ヶ所に集めてできた郷社有玉神社に祭神は移されて、現在に至っている。   なお、文武の武は坂上田村麻呂、文は菅原道真を意味する。 」 
武田信玄が三万の軍勢を引連れ、北方の大菩薩坂を上り、三方原へと向ったと、いわれる。  また、ホテル前の三叉路を右折し、馬込川に沿って北上すると、東名三方原SCの南東に欠下城があった、というが、今は城の領域が分かる程度らしい。  そちらには行かず、先程入ったところまで戻り、旅を続ける。 
右側に欠下平公会堂があり、旧姫街道の標柱が建っているが、その先には秋葉山常夜燈(中央)がある。  その先は、右に三方原台地に上がる坂道があり、歩いて三方原SC方面へ行ける。  直進すると、県道に合流する手前の右側に、最古の道標と書かれた標柱があり、天保三年(1832)の建立、と書かれているが、 脇に 「 右きが かなさし 左庄内道 」と、刻まれてい岩石があった。 姫街道の遠江国に残る道標の中では最も古いという。  それにしても、標柱がなければ、単なる庭石と思って通り過ぎてしまうだろう。 

鞘堂 秋葉山常夜燈 最古の道標

道が県道に合流した坂道にも、姫街道の道標があった。 坂道を上って行くと坂の頂上あたりにはスパーや郊外型のお店が多く建ち並んでいた。  三百メートル歩くと、萩原荘バス停、更に七百メートル歩くと、一里山橋交差点。  交差点を越えて少し歩くと、左側の少し小高いところに、一里塚の標柱(中央下)が草に埋もれてあった。  ここも注意しないと通り過ぎてしまう。 標柱の傍に追分一里塚の案内板があり、 
「 追分一里塚は、江戸から六十六番目、姫街道では小池一里塚に続く二番目の一里塚である。  塚の上に植えられた松は、比較的最近のものである。  大正後期までは、右側にも塚が残っていたようであるが、今は無くなっている。 」 とあった。 

追分一里塚

五百〜六百メートル歩くと、元追分交差点(左下)で、左からくる道(257号線)が、江戸中期に幕府の道中奉行の管轄になった、東海道の浜松宿を起点とする浜松道である。  この道が出来たため、市野宿が疲弊したことは既に述べた通りである。  姫街道は、斜めに交差する257号線を横断して、松の木に向かって進む。  交差点を渡った右側に、奥山半僧坊大権現の標柱(中央右)が建っていた。 
少し歩くと、先程見た松の木のところに到着。 道の左側の店の外壁(右)には、姫街道と書かれて、松並木を歩く旅人の絵が大きく描かれていた。 
この松の木を手始めに、松並木は三キロ七百メートルにわたり、道の左側に続く。 これだけ長い松並木は全国でも残り少ない。  ここから気賀宿までと思ったが、 足の具合が少しおかしい。 大事をとってここで終えることにした。  幸い、バス停が近くにあるので、浜松駅までバスに乗り、駅で家族分のうなぎ弁当を買い、自宅に帰った。 

元追分交差点 奥山半僧坊大権現
道標 追分一里塚



                                          続く ( 三方ヶ原追分〜三ケ日宿 )



かうんたぁ。