『 東海道を歩く  ー 大 津 宿  』


草津宿を出ると、矢倉集落に矢橋道の道標が建っている。 矢橋港からの渡しに向う追分だった。 
瀬田川には、唐橋を制する者は天下を制す、といわれた橋が架かり、古代から幾多の戦いが繰り広げられた。 
大津宿は、江戸時代、天領で、商人の町であると共に、東海道最大の宿場といわれた。




 

草津宿から 石山まで

立木神社 平成20年4月24日、早朝に、名古屋を発ち、鈍行を乗り継ぎ、八時過ぎに、草津駅に着いた。 駅を出て、左側の商店街を通 り抜けると、ファミリーマートのところで、以前歩いた中山道に出た。 そのまま歩いて、新東海道、そして、草津川のトンネル を抜けると、東海道に変り、前回終わった立木神社の前に出た (右写真)
東海道を本格的歩き始めたのは、中山道を歩き終えた昨年の一月からである。 
草津川 中山道と違い、交通の便がよいので、順調に計画を消化したが、夏から秋にかけて、富士山が見えないなどから中断したが、その 気で歩けば、六ヶ月で終わる感じである。 時間がたっぷりある隠遁生活者にとっては、慌てるたびではなく、楽しみながらの歩 きであったが、残りは草津から京都になった。 少し歩くと、橋が見えてきた (右写真)
新草津川である。 旧草津川は、先程くぐったトンネルの上に原形のまま残されているが、水は流れていない。 記録によると、 旧草津川は草津宿より高い天井川だった。 
草津川 平素は水がなく、歩いてそのまま歩けることから、砂川と呼ばれていたが、大雨が降ると一気に水嵩を増し、川止めになることも しばしば、堤が決壊して、宿場町が飲み込まれ、復旧するのに大変苦労した、とある。 
それを変えるため、2007年7月、新たに開削されて、出来た川である (右写真)
橋を渡り、交差点を横断した先の道は狭く、車がすれ違うにはかなり気を付けなければ
矢倉集落 ならない。 道の奥にある光伝寺は、承平年間(931〜938)の創建と伝わる寺で、応仁の乱により消失したが、明暦年間(1655〜165 8)に再興された。 その先に小さな神社があったが、なにが祀られているのかは確認していない。 矢倉公民館の前後には、古い 家がかなり残っていた (右写真)
古川商店のショウルームに、杉球が吊るされ、酒徳利が置かれていたので、造り酒屋のようである。 
瓢泉堂 通り過ぎ、振り返ると、天井川と書かれた酒の看板があった。 
少し行くと、交差点の右側に、瓢箪(ひょうたん)を扱っている瓢泉堂がある (右写真)
矢倉の瓢箪は、今から二百五十年ほど前から作られたといわれるが、現在はこの店だけである。 この場所は、東海道と矢橋 (やばせ)街道の追分で、江戸時代には、 瀬田へ廻ろか、矢橋へ下ろか 此処が思案のうばがもち、 と言い囃 された、姥ヶ餅屋(うばがもちや)があったところである。 この店は、明治になり、姥ヶ餅屋が移転した後、同 じ矢倉の地から移ってきた、
矢橋道標 という。 与謝蕪村は、「 東風吹くや 春萌え出でし 姥が里 」 と、いう句を残している。 店の角には、右やはせ道、こ れより廿五丁、と刻まれた矢橋道標が建っている。 この道標は、姥が餅屋の軒下に、寛政十年(1798)に建てられたもので、東海 道を往来する旅人を矢橋の渡しに導くためのものだった (右写真)
矢橋道は、ここから矢橋港まで通じ、矢橋港から大津行きの大丸子船(百石船)が出ていた。 
矢橋の渡し 矢橋港から大津の石場までの渡しは、湖上五十町(5.5キロほど)の距離、陸路の瀬田の大橋経由は三里なので、急ぐ旅人は船便 を利用したようである。 江戸時代の旅人は、東海道をひたすら歩いたと思っていたが、近江路では、船便を利用し、時間短縮や 疲労防止を図ったようである (右写真)
江戸時代の旅人はここで茶を飲みながら舟にするか、大津まで歩くかを思案したことだろう。  矢橋道については、 東海道脇往還 矢橋道に掲載していますので、ご覧ください。
安藤広重の草津宿 右写真は、安藤広重の草津宿であるが、琵琶湖の白帆と松並木が描かれているが、どこの場所を描いたのだろうか?  矢倉集落を過ぎると、矢倉南交差点で、国道1号線に出る。 対面の標識に、旧東海道の案内表示があるので、それに従って、国 道を斜めに渡る。 これから先は野路である。  野路は、東山道の宿駅の野路駅舎として、源頼朝など武将達が往来したところで、宇治への分岐点であったが、東海道が開設さ れ、草津宿ができたことで、
野路一里塚碑 野路の存在は低下していった。  道を渡った反対側の小さな上北池公園に、野路一里塚と書いた石碑が建っていた。 傍らの説明文には、 野路の一里塚は、これ より北西三十メートルと道を挟んだ北東二十メートルにあったが、明治十四年、国有地払い下げで消滅した、と書かれていた (右写真)
東海道は国道の1本東の狭い道で、国道を平行して進んでいる。 左側の教善寺の前には、
清宗塚 草津歴史街道 東海道の案内板があった。 少し先の右側の遠藤家という民家の中に清宗塚がある。  清宗とは壇ノ浦で敗れた平家の総大将平宗盛の長男である。 捕虜になっていた清宗は、父宗盛が野洲の篠原で断首されたことを知り、西方浄土に手を合わせて祈った後、堀弥太郎景光の一刀で首をはねられた。 清宗の亡骸を葬ったというのが、清宗塚で、錦鯉が泳いている池の奥の五輪塔が、それだった (右写真)
遠藤家は、この塚を数世紀に亘り守ってきたわけで、遠藤家の歴史の長さと行為に感心
新宮神社 し、この史跡をあとにした。 このあたりは、野路集落の中心であるが、道が狭い。 近くに立命館大学があるのだが、マナーが悪いのか、南草津駅からここまで、駐車禁止など至るところに注意が書きが貼られている。 願林寺の裏には,八幡神社跡の記念碑があり、京都の石清水八幡宮に近い歴史があった、とある。 その先に、新宮神社と都久夫須麻神社の石柱と鳥居が建っていたが、本殿は重要文化財である (右写真)
野路の玉川 少し歩くと、信号のない交差点に出た。 東海道は、車に注意しながら、大きな道を渡る。 その先の右手のフェンスに囲まれた中にあるのは野路の玉川である (右写真)
野路の玉川は十禅寺川の伏流水が湧き水になり、一面に咲く萩と共に、近江の名水・ 名勝として有名だったところで、源俊朝が千載和歌集で
『  あさもこむ  野路の玉川  萩こえて 色なる波に 月やとりけり   』
と詠まれた他、多くの歌人が詠んだ。  十六夜日記(阿仏尼作)では、
『 のきしぐれ  ふるさと思う  袖ぬれて 行きさき遠き  野路のしのはら  』
と詠んでいるが、しみじみとした感慨にふける歌である。  しかし、野路宿駅の衰退とともに
野路の玉川も運命をともにしたようである。 現在のものは、昭和五十一年に復元したもの。 
道はカーブし、南笠東に入るが、江戸時代には、松並木があったようだが、今はない。 
月輪集落 右手の弁天池は、マンションや住宅などが建ち、見えづらかった。 狼川を渡ると、道は緩やかな上り下りをくり返しながら続 く。 栗林から大津市で、以前は畑か山林だったと思われるところに、民家の中に、工場が増えてきた。 月輪三丁目の 信号のない交差点の左側に、古く立派な家があった (右写真)
玉川からこの間、一キロ以上だが、街道という雰囲気はなく、写真を撮るものは何もない。 
月輪寺 道の狭さだけが、当時のものだろうと思った。 月輪は、江戸時代、立場茶屋があったところで、それを示す石碑が街道脇にあっ た。 街道に沿った柵の中に、新田開発発祥之地、明治天皇駐輩之碑 などの石碑が建っていた(右写真)
その奥にある寺は、月輪寺で、文久三年(1863)の開基である。 ここから一里山である。 東海道は車道を横断しながら、くにゃ くにゃ続いている。 車一台分位しかない狭い道なのに、
一里塚碑 予想した以上の車が走り、歩きづらかった。 やがて、洋服お直し工房の脇に出た。 一里山一丁目の交差点で、瀬田駅へ行く 広い市道と旧東海道が交差している。 店の一角に一里塚碑が建っていた (右写真)
説明板には、この地点に一里塚があり、松が植えられていたが、明治に取り除かれた。 一里山という地名は、ここからでてい る、 とあった。 
狭い下り坂 交差点を横断すると、狭い下り坂になった (右写真)
この先、東海道は、大江三丁目と六丁目の境を行くが、国道に向かっていく道が多く、分かりずらい。  道筋に市の設置した案内板があるので、見ながら行くとよいのだが、少しはずれると分からなくなってしまう。 東消防署前の道 標、続いて、市立瀬田小学校前の道標に出た。 瀬田小学校の近く(小学校南の忠魂碑付近)に、西行屋敷跡がある。 
大江三丁目の交差点 西行法師は、佐藤義清という北面の武士であったが、二十三才で出家し、諸国行脚にでて、多くの歌を残した。 この大江の地 に、一時期、住んだ、と言い伝えられている。 東海道は、ここで左折し、左に正善寺を見て進み、関電瀬田変電所を左に見て進 むと、博受保育園前バス停の先の交差点で右折する (右写真)
ここには、近江国府跡の道標があったので、交差点を直進し、突き当たったところを右折し、
近江国府跡 次に左折し進むと、雇用瀬田宿舎の手前に、近江国衙跡があった (右写真)
近江国府は、奈良中期(八世紀)に建設され、平安中期(十世紀末)まであった近江国を治める役所で、東西二町(二百十八メート ル)、南北三町(三百二十七メートル)に、南北の前殿と後殿、東西の脇殿という建物を中心とし、門や築地垣があり、千名を越え る官吏と兵士が勤務していた、という。 ところどころに、島のように囲まれたところがあるが、これは建物のあった
国府のイラスト ことを示すもののようである。 その外側に九町(九百七十二メートル)四方の規格化された街路が広がっていたようである。  中央の建物の中に、発掘状況などの資料とともに、国府の想像図がイラストになっていた (右写真)
建物が建っているわけではないので、見学はあっという間に終わった。 
(ご参考) 近江国の国府、国分寺、国分尼寺に興味にある方は、
        友人のページ「国府物語」   をご覧ください。

高橋川の橋 反対側の公園になっているところに、御婦人がいたので、建部神社に行く道を伺うと、これから帰るので案内する、という返事。  ついていくと、瀬田宿舎を抜け、坂を下るところで、この先の車道の先に裏門がある、といわれて、別れた。 いわれるままに 坂を下ると三差路になり、左の道を進むと、右手に神社があった。 東海道を歩く場合は、国府に入る三差路を右折し、旧国道1 号線の広い道に合流、高橋川の橋を渡る (右写真)
建部神社入口 神領の地名は、建部神社の門前に位置し、御料田(神領)となったことから名付けられた、という。 少し古い家が残る商店街を行 くと、神領建部大社前のバス停があり、三差路になるが、左折すると、建部神社の大きな石柱と鳥居が見えてきた (右写真)
この後、参道を歩くと、神門に出る。 神社の創祀時期は、定かでないが、昔から建部大社とか建部大明神などと称え、近江国一 の宮として延喜式内名神大社に列する由緒正しい神社である。 社伝によると、景行天皇四十六年、稲依別王(日本武尊の子)
建部神社神門 が勅を奉じて、神崎郡建部郷千草嶽に、日本武尊を奉斎し、天武天皇白鳳四年、勢田郷へ遷座した。 天平勝宝七年(755)、孝徳 天皇の詔により、大和一の宮大神神社から大己貴命を勧請し、権殿に奉祭せられ、現在に至っている、 とある。 案内された通 り、裏から入ると、すぐ神門に出たので、東海道を歩いた場合より早かった (右写真)
本殿に、主祭神の日本武尊を、相殿に、天明玉命、権殿に、大己貴命を祀っている。 
三本杉と拝殿 神門の奥に、神木の三本杉と入母屋造の拝殿があったが、御神木の三本杉の一本は枯れてしまっているよう思えた (右写真)
神社の創世に不明な点があるようだが、稲依別王の子孫である建部連安麿が、天武天皇の頃(676)、創建したという説が有力。  承久の乱の時、戦火にあい、社殿と多くの社宝を失った。 延慶弐年(1319)、勢多の判官、中原章則が再建したといわれる。 
石燈籠 歴代の朝廷の尊信が驚く、また、源頼朝が伊豆に流される途中、建部大社に立ち寄り、源氏再興を祈願、見事にその願が叶ったこ とから、武運来運の神として信仰を集めた。 拝殿の先には、中門を隔てて、本殿と権殿が並んで建っていた。 中門の右手の柵 内にある石燈籠は、文永七年(1270)の銘があり、国の重要文化財である (右写真)
その他、平安末期から鎌倉初期の作と推定される、木造女神像三体があり、重要文化
唐橋東詰交差点 財に指定されているが、これは宝物館に保管されている(拝観料200円)
街道に戻り、商店が立ち並ぶ道を歩くと、唐橋東詰交差点に出た (右写真)
交差点の左手前角に、田上太神山(たなかみやま)不動寺の道標があり、是より2里半、と刻まれていた。 寛 政十二年(1800)に建立されたもので、田上不動道への起点を示すものであるが、もとは、瀬田三丁目の瀬田商店街の角にあったも のだが、何故かここに移築されて
常夜塔と句碑 いた。 交差点を渡った先に、常夜塔と句碑があった (右写真)
下に降りた河川敷の中には、勢多橋龍宮秀郷社があり、祭神は瀬田川の龍宮様と俵藤太秀郷である。 俵藤太が竜神の頼みにより 大ムカデを平らげたという伝記による神様であろう。 
大江匡房は、「 むかで射し 昔語りと 旅人の いいつき渡る 勢田の長橋  」 、と詠んでいる。 
瀬田の唐橋は琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川に架かる。 奈良時代にはあった橋で、
瀬田の唐橋 鎌倉時代に付け替えられた時に、唐様のデザインを取り入れたため、唐橋と呼ばれれるようになった。  現在の橋は、大正十三年(1924)にかけられたコンクリートの橋で、 大小三十四本の擬宝珠があり、川中の島で、二つの橋になっている (右写真)
古代から、東国から京に入る関所の役割を果たし、軍事、交通の要衝であったため、
唐橋を制する者は天下を制す、とまでいわれ、壬申の乱を始め、承久の乱、建武の戦いなど、
石山商店街 幾多の戦いがこの橋を中心に繰り広げられ、そのたびに、橋は破壊と再建を繰り返してきた。 
橋を渡った先の交差点の先には、石山商店街の表示があるが、商店街らしくない。 
道の左に二軒古い家があり、その隣の建物は中国風である (右写真)
京阪唐橋前駅手前の小路の角に、地主之守大神、方位之守大神 逆縁之縁切地蔵大菩薩 
蓮如上人御影休息所と書かれて石碑が建っていた。 
鳥居川御小休所石碑 線路を越えると、鳥居川町の交差点に出る。 
ここを右折するのが、東海道だが、交差点の右側の家の一角に、明治天皇鳥居川御小休所の石碑がある (右写真)
四年前に中山道を歩き、ここを通った時は白壁の塀に黒い門があり、その前に石碑が建っていたが、家が建て替えられて、狭い一 角に押し込められて、時の流れを感じた。
鎮守の森 ここで御霊神社へ寄り道する。 交差点を左折し、車が一台しかと通れない狭い道に入ると、鎮守の森の案内板がある。 この道 は直進すると、地蔵寺の前を通り、京阪石山寺駅に出る。 この案内板には、聖域だった本殿の背後の一段小高くなったところ に、永年大切に守られていた鎮守の森である、と書かれていた (右写真)
この森の奥には、晴嵐小学校があるが、ここには、近江国分寺跡の石碑が立っている。 日本紀略に、 「 延暦四年(785)、近 江国分寺が焼失し、弘仁十一年(820)、定額国昌寺を以て、
御霊神社 国分寺とした。 」 、とあり、その寺の跡といわれている。 その先に、御霊神社の石柱と鳥居があり、小高いところに本殿が あった (右写真)
中の鳥居に、大友宮とあるが、壬申の乱で亡くなった大友皇子が祭神なのである。 天智天皇の子の大友皇子は、父の死後の壬申 の乱で、叔父の大海人皇子との戦いに敗れ、この先の長等で自刃した。 明治になり、天皇に列せられ、弘文天皇という諱がおく られた悲劇の皇子で、御陵は三井寺の先の御陵町に造られている。 この後、街道に戻り、大津宿に向かった。


後半に続く( 大 津 宿)







かうんたぁ。