水口宿から石部宿へ向う途中に、大沙川トンネルがあるが、その左側に、地元では、弘法杉と
呼ばれている大杉と弘法大師錫杖跡の碑がある。
京から下る場合、京発ち石部泊まり、といわれたようで、京を発った旅人は、石部宿に泊まるものが
多かったので、宿場はなかなか繁栄していた、という。
平成19年3月6日、水口宿から石部宿まで歩く予定できたが、水口神社、大岡寺、水口城などを見たので、水口宿で予定以上の時間を使ってしまった。
また、食事が出来るところがあるだろうと、多寡をくくって用意しないできたが、商店街が休日で開いている店がない。
やっと見つけたパン屋で惣菜パンなど三個を買い、その内二つを食べて、なんとかなり、これで一安心。
水口宿の西見付跡の角にあるヒマワリ薬局で左折し、東海道は真っ直ぐ行く。
左側に、造酒屋の美冨久酒造があり、店前に壜が置かれていた。
黒い(?)板壁と白い漆喰と取り合わせが美しかった (右写真)
その先にあった民家はアルミ板(?)で囲われているが、かっては、藁葺き屋根と思える家があった。
少し歩くと、左側の麦畑の向こうに、丸い小さな山が連なり、松並木があるところに
出た。 安藤広重の東海道五十三次の水口宿の浮世絵には、山が遠くに連なり、街道の脇で、干瓢を剥く女と干す女が描かれている (右写真)
水口藩の三代目藩主が、下野国壬生藩から転封になった時、名物の干瓢を持参したので、水口の名物になった、という。
小生が育った栃木県でも、干瓢を職業としては栽培しているのは、下野市周辺(宇都宮南部)しかない。
その干瓢が、これだけ離れたところの名物になって
いたことに驚いた。 ここから横田の渡しまでは、一直線の道が続く。
この辺りは、江戸時代、北脇畷(縄手)と呼ばれた。 畷とは、田んぼの中を貫く一本道のことである。
古代の道(伊勢大路)が曲がりくねっていたのを、東海道開設時に整備し、見通しの良い道にし、道の両脇の土手に松並木を植えたのである (右写真)
現在の松は、大きさから見ると、当時のものには思えないが、やや黄緑に変色し始めて
いる麦の葉と松の緑がバランス良く、大変心地よい気持にさせた。
ここから二キロ位は自然が残る道を歩く。
道端に、小さな石仏が祀られていて、花が供されていた (右写真)
一ヶ所だけと思っていたら、更に、二人並んだ石像ともう一体の石仏。
その先には、長屋のように長い社に沢山の石仏が祀られていた。
交差点の先、左側に北脇公民館があり、このあたりは一つの集落を形成していた。
柏木小学校の前には松並木が残っている。
柏木公民館前に、消防士が梯子を上る姿を形作った箱状のものがあったので、近づいた。
浮世絵師が絵を描くからくり人形の入った櫓であった。 窓から中をのぞくと、人形が動き出す仕組みである (右写真)
ここまで歩いてきくる間に、車以外に人の姿に会わなかった。
家の数が増えてきた。 先程の集落より多そうである。
左側に小川が流れている。
交差点の右側に、 従是山村天神道 と、刻まれた道標がある (右写真)
泉公民館の前には、日吉神社御旅所の石柱がある。
道の右側に、国宝延命地蔵尊泉福寺の石柱が建っているので、入っていった。
道の途中の三叉路の左角に、淨品○と刻まれた道標があるが、土に埋まっている
ので、
読めない。 淨品寺だと思うが・・・
その先の泉福寺は、最澄の開基と伝えられる天台宗の寺院で、本尊の木造地蔵菩薩坐像は国の重要文化財に指定されている。 境内に年老いた大樹が茂っていた。
東海道に戻ったが、泉集落は古い家も多いが、家が皆大きかった (右写真)
松並木が続いている。
松並木の先に橋が見えてきた (右写真)
橋の手前に東海道の案内標木があるので、ここで左折し、泉川に架かる舞込橋を渡ると、右側に、日吉神社御旅所の石柱が、また、あった。
道は、その先で右にカーブする。 空を見上げると、不気味な雲が現れた。 晴れたと思ったら、曇るという変な天候に変った。 曲がったところに築山があり、木が一本植えられて
いる。 これは、再現された泉の一里塚で、榎が植えられている (右写真)
泉の一里塚は、実際は、今より野洲川寄りにあったようである。 その先で、
小さな川を渡り、左にカーブをすると、冠木門のようなものが見えてきた。
車道を横断し、冠木門に近づくと、その先に巨大な常夜燈があり、その先には大きな川が流れている。 この川は野洲川で、このあたりでは横田川と呼ばれていたが、伊勢や東国に向かう旅人は、この川を渡らなければ
ならなかった。 室町時代には、横田河橋が架けられていたが、江戸時代に入ると、防衛上の見地から、通年の架橋を認めなかったのである。 通常時は、舟渡しであった。 ここは、江戸時代の横田の渡しの跡である (右写真)
幕府は、東海道の十三渡しの一つとして、直接管理し、泉村に命じて賃銭を徴収させて、
渡しの維持に当らせた。 三月から九月までは、四隻の船による舟渡し、寒さが厳しくなる十月から二月は、流れ部分に土橋を架けて通行させた。
江戸参勤交代をはじめ、夜中に及ぶ往来が頻繁で、川を渡る途中での事故もあった。
文政五年(1822)、村民達の寄付で、建立されたのが、夜に灯がともる巨大な常夜燈である (右写真)
燈籠は、高さ十メートル五十センチ、笠石は二メートル七十センチ四方、囲いは七メートル三十センチの玉垣で築かれている。
渡船から見上げた旅人は、その大きさに驚いたことだろう。
明治に入り、明治二十四年(1891)、常夜燈の右側河岸に、石垣を組み、木橋が架けられた。 説明文の前に、当時の石組の一部が残っていた (右写真)
昭和四年に下流に橋は移された、とあり、ここからは、川を渡れないので、一キロ下流の横田橋に向かう。
泉西交差点に入ると、国道1号線は左から来て右に上って行く。
ここから湖南市である。 東海道を歩くため、直進し、左折し、横田橋を渡る。
横田橋は前述したように昭和四年に横田の渡しの下流に移されたが、この橋は昭和二十七年、国道1号敷設の際架けられたものである (右写真)
歩行者用の橋を渡ると、旧甲西町三雲、今回の合併で、湖南市になった。
左側の側道を下り、左折して、三雲駅前に出ると、東海道の対岸跡は、道を左折する。 数百メートル歩く
と、道の左側、先程の渡し場跡の対面に、常夜燈が建っていた。 常夜燈と書かれた下には、屋号のような図案があり、その下に東講中と刻まれていた (右写真)
そこからは川越しに、国道の横断歩道橋が見えた。
野洲川は、上流から名前を変えながら流れていき、最後に、野洲川になるようである。 水の量は多くないが、川巾は広い。
世の無常を書いた方丈記の作者、鴨長明は、
「 横田川 石部川原の 蓬生に 秋風さむみ みやこ恋しも 」
と、詠んでいる。
ここで小休止し、買ってきたパンの残り一個を食べ、冷えたお茶を飲んだ。
気温が下がってきたようで、脱いていたブレカーをあわてて着た。
右側の踏切の遮断機が降り、草津線の電車が通り過ぎていった (右写真)
踏切の先の左側の小山の上に、天保義民の碑があり、遠目に見えたが、上って行く
のが億劫になり、ここで済ましたことにした。
三雲駅前まで戻ると、右側に、微妙大師萬里小路藤房卿御墓所、左側に、妙感寺従是二十二丁、と書かれた石柱があった。 萬里小路(藤原)藤房は、鎌倉時代末期の公卿で、元弘の乱の謀議が露見したため、後醍醐天皇の笠置山脱出に従ったが、その後、出家し、臨済宗妙心寺派大本山、妙心寺の二代目住職になったたという人物である (右写真)
微妙大師の諡号は、昭和天皇によるものである。
ここから西南にある妙感寺は、藤房が晩年に過ごしたところである。
東海道は直進で、道は線路沿いに続いている。 このあたりは、旧田川村で、江戸時代は、立場であった。
駐在所前の民家に、明治天皇聖蹟の碑が建っていた (右写真)
ここを過ぎると、道は右へ左へと曲がり出す。 荒川という小さな川を渡ると、ここからは湖南市吉永である。
荒川橋を渡った左側の道に、 雲照山妙感寺 従是十四丁 と、書かれた、 妙感寺、立志神社、田川ふどう道 の道標が建っていた (右写真)
立志神社は、江戸時代の東海道名所図会に、 垂仁天皇の頃、大和国より 天照大神が伊勢へ遷坐の時 この地に四年間鎭座し、瑞雲緋の如くたなびきしより、 緋雲宮と称し、 のち日雲とし、また 後世三雲 と訛れるなるべし 、とある神社である。
倭姫命(やまとひめのみこと)が、伊勢へ落ち着くまで、天照大神を奉斎して、大和から近江、美濃、伊賀などの各地を廻った際、
仮宮になった社の一つだろう。 妙感寺は、前述の萬里小路藤房が開山した寺で、元亀元年(1570)、織田信長による焼き討ちに遭い、焼失したが、万治年間(1660年ごろ)に再興された。
青少年自然道場の先には、三雲城の城石が残っている、という。
そのまま進むと、道は左にカーブする (右写真)
短い時間だったが、三上山が見えた。 JRの踏切を渡り、すぐに右折すると、道の右側に、
東海道の木標があった。
さっきまで、車一台分の狭い道だったが、対向二車線の道である。 と、思ったのも束の間。
車一台分のスペースの道に変った。 しかし、そんなことお構いなく、どんどん車が入ってくる。
両側に、緑で塗られた歩道帯があるのだが、これを利用して、すれ違って行く車がいる (右写真)
小生が歩いて行く前で、スピードを出したまますれ違う交通マナーのなさは目にあまる!!
道の両脇には家が続くが、古そうな家はない。
左に、吉見神社の石柱、その先には、小さな社に二体の石仏が祀られていた。
その先に、トンネルがある。 近づくと、大沙と書かれたタイルがはられている。 このトンネルの上にあるのは川、川が道路より上にあり、人も車も川の下のトンネルをくぐって、向こう側に行くのである (右写真)
これを天井川といい、滋賀県東部に多い。
運ばれた土砂が堆積して、川底が上がり、
川が、家や田畑よりも高くなったのだが、川の氾濫を防ぐため、土手を高く築き直して
行った結果、川の方が、このように高いところを流れるようになったのである。
江戸時代までは、土手を登って、川を渡り、向こう岸の土手を下って行ったが、明治以後は、トンネルを造り、その下をくぐるようになった。 大沙(砂)川トンネルは、その一つである。
トンネルをくぐると、左側に、弘法大師錫杖跡の碑がある。
その左上の大杉が、トンネル上の土手に立っている (右写真)
地元では弘法杉と呼んでいるようで、樹高二十六メートル、周囲六メートル、樹齢七百
五十年という堂々とした杉の古木である。 弘法大師が、当地を通過したとき、植えたとも、
食事をした後、杉箸を挿しておいたのが、芽を出した、ともいわれる。 最初は、二本並立していたが、安永弐年(1773)の地震で、一樹は倒れた、と伝えられる。 左にカーブする右側の家は古いのかは分からないが、漆喰の白が印象的だった (右写真)
やがて、三叉路になり、右折する車を優先させるような表示がある。
こういうことを見ると、滋賀県警が一車線しかない道を一方通行にせず、歩道まで使って走ることを奨励している
ように思えてくる。
要するに、渋滞する国道1号のバイパスに東海道が利用されて
いるのである。 道は右にカーブする。 夏見地区は古そうな家が多い。
盛福寺を過ぎ、天満宮、覚蓮寺の石柱を右に見て通り過ぎる。
すると、また、トンネルが現れた。 天井川の由良谷川トンネルである (右写真)
トンネルをくぐると、針地区に入る。 左側の山には、タケイ種苗会社の研究農場が
広がっているのが見える。 このあたりは、街道情緒を感じさせる家並みになっている。
左側に、創業文化二年という、北島酒造があった (右写真)
店内で湧く鈴鹿山系の伏流水を使って酒は仕込まれている、という。
この先で家棟川を渡るが、橋の先に、両宮常夜燈が建っていた。
時間はまだ三時過ぎだが、琵琶湖を越えて吹き付ける風が、冷たく寒い。
無理をすることもあるまいと、石部まで行くのを辞めて、JR甲西駅に行く (右写真)
今日は、水口宿をゆっくり探訪し、甲西駅まで歩いた。
プラットホームで電車がくるまでの時間は吹きさらしで身体が冷えた。 帰りは草津に出て、米原経由で帰ったが、彦根から関ヶ原は雪だった。 道理で寒いと思った。 名古屋には六時に到着できた。
青春18切符を利用しての旅だった。