『 東海道を歩く ー 御 油 宿  』


安藤広重による御油宿の絵は、太った招き女が小柄な男を強引に宿に引っ込もうとしている場面である。 
隣の赤坂宿とも近く、旅籠の数が多いので、旅籠の客引きが盛んだったようで、このような光景がよく見られたのであろう。





吉田宿から国府へ

三叉路 平成19年2月8日、吉田宿でうなぎを食べたり、吉田城址を訪れたりしたら、もう2時。 なんとか御油宿まで行こうと思う。  吉田宿の京側入口、上伝馬町交差点を北上する。 ゆるい下りになっているので、坂下町という名が付いた。  百メートル程歩くと三叉路に出た。 右折すると、吉田藩の舟寄せ場があった関屋、東海道は左折する (右写真)
正面には豊川の堤防が少し見えた。 左折すると、田町である。 坂下町と田町は、
明治十一年に湊町と改称されたので、現在はない。 右側に、湊町神明社の鳥居が
湊町神明社 あるので、入っていった。 江戸時代には、田町神明社とよばれ、幕府より五石を拝領した神社で、白鳳元年の創建と、伝えられる。 祭神は天照皇大御神、相殿は豊受姫大神で、御衣祭りは、伊勢神宮の神御衣祭りの御料として、白絹や赤引糸を奉納したことに起源をもつ、といい、伊勢神宮とも関係が深い神社である (右写真)
拝殿の左側に、国学者の平田篤胤に書いてもらった、神代文字の カムナガラ を刻んだ額が
築島弁天社 掲げられている。  右側に、池があり、橋を渡ると、築島弁天社の社殿があり、その前に、蓬莱島の石碑があり、境内には、常夜燈と芭蕉の句碑がある (右写真)
芭蕉句碑は、昭和七年に建立された旅寝塚と呼ばれるもので、芳野紀行で、芭蕉と越人は、貞享四年(1687)十一月十日、渥美の保美に社国を訪れる途次、吉田宿の旅籠で一夜を過ごした際、詠まれた句である。 
三叉路    「   寒けれど    二人旅寝ぞ    たのもしき     」 
なお、この湊公園の一角に、豊橋大空襲殉死者の碑がある。 再び、街道を進むと、信号交差点にでるので、東海道は、ここで右折し、船町に入る (右写真)
池田輝政が、城下町を整備拡張した際、四ツ家の地名を船町に改め、浅井長政の一族、浅井与次右衛門を庄屋に任じたと、伝えられている。 
豊川 そのまま歩いていくと、水を湛えて濤々と流れている大きな川に出た (右写真)
豊川で、川に架かる橋は豊橋である。 江戸時代には、橋の右下あたりに吉田湊があり、伊勢に向かう旅人を乗せた舟が出て行った、という。  池田輝政により最初に架かられた橋は、現在の橋の七十メートル程下流にあった、といわれ、大橋百廿間(約220m)といわれた大きな木橋で、吉田大橋と呼ばれていた。 東海道に架かる大きな橋 は、武蔵の六郷、三河の吉田、
矢矧、近江の勢多であるが、矢矧橋に次ぐ長い橋で、その管理や修復は幕府が自ら行って
豊橋 いたが、台風の被害などで、明治弐年(1869)までに、合計三十三回も修復が行われている。 明治十一年(1878)に、現在の位置に橋が架けられた際、豊橋(とよばし)と名を変えた。 大正五年(1916)に、木橋から鉄橋になったが、昭和六十年に、上下四車線の橋が完成し、今日に至っている (右写真)
豊橋を渡り終えたら、すぐに左折し、豊川沿いの堤防の道を歩く。 東海道は、ここから
豊川稲荷遥拝所石碑 三河国府の手前まで、国道1号線にほぼ平行して、かなり長い区間が残っている。 
このあたりは下地である。 少し歩くと、下の道の家の前に、石碑が見えたので、なんだろうと思い、堤防を降りて、その場所に近づいた。 左の石碑は、豊川稲荷遥拝所とあるので、旅を急ぐ人は、ここで、豊川稲荷の方向に拝んだのだろう (右写真)
右側の碑は、左面に左御油道、 正面に維持安政二・・・・と年月が刻まれている。 
聖眼寺 ここからは、堤防の下の道を歩いた。 少し歩くと、右側に、聖眼寺があった。  山門前に、親鸞聖人の御旧跡の石柱と、寺内に、芭蕉塚有 宝暦四甲戌(西暦1754年)二月十二日 東都花傘宣来 の古い小さな標石が建っていた (右写真)
山門を入ると、大きな何故かゆったりしたお堂が見えた。  この寺は、松葉塚という芭蕉の句碑があることから人気がある。 境内の一角の松におおわれたところに、大小二つ の句碑が、並んで建っていた。  左側の石碑は、尖頭型のぽちゃっとした小さな自然石に、
松葉塚  「  松葉を焚いて  手ぬくひあふる  寒さ哉  」  という句が刻まれている。 
なお、松葉は、ご、と読む。 あふるは、あぶるのことである (右写真)
松尾芭蕉が、貞享四年(1687)の冬、愛弟子の杜国の身を案じて、渥美郡保美の里を訪れる途中、当寺を訪れて、一句詠んだもので、芭蕉没後五十年を記念して建てたものだが、戦災にあったとかで、文字がはっきり分からなかった。  右側の碑は、上部に、 「 こを焼いて  手拭あふる  寒さ哉 」 と、芭蕉翁の文字、下部の飾りは、亀形 で、かなり大きなものだった。 これは、明和六年、植田古帆、大木巴牛が発起人と なり、芭蕉の墓のある義仲寺から墓の
下地一里塚跡 土を譲り受けて、塚を再建したもので、芭蕉翁の文字は白隠禅師、また、句は尾張の横井世有の筆による。  二つの句碑には同じ句が刻まれているが、文字の並びが若干異なっていた。  街道に戻ると、古い家が散在していた。  下地交差点の手前に、江戸から七十四番目の下地一里塚跡の標柱があったが、車道側を正面にしているので、歩道からは見えないのである (右写真)
東京からの距離が反対方向を向いているので、業者が立てるときに間違えたと思う。
みそ醸造元 このあたりの建物は、平行している豊川の堤防よりかなり低いところにある。 それでも、道路から出来るだけ高くしてあるのは、水害に備えてものだろう。 少し歩くと、道は右にカーブし、豊川とは別れていった。 カーブの右側にある屋敷は、みそ屋と思われるが、古い家と白い土蔵、そして、川側に、黒塗りの倉が並んでいた (右写真)
横須賀町交差点を過ぎると、うどん屋の前に、松並木の名残と思われる松が一本だけ
1本松 立っている。 以前は二本だったようで、根元の切り株は新しい。 残る一本は、なんとか頑張って生きていって欲しいものである (右写真)
瓜郷(うりごう)町に入ると、道右側に、史跡境界の標柱と案内が立っていた。  史跡境界とは何かなあ?!と思っていたが、どうやら、国の指定史跡地として、指定した範囲を表示したもので、遺跡だったと推定範囲の二十分の一以下のようだった。 そこから、右に百メートル
瓜郷遺跡 ほど入ると、瓜郷遺跡の大きな石碑がある公園にでた (右写真)
遺跡は、弥生時代中期(今から二千年前)から後期にかけての住居跡で、復元された竪穴式住居があった。  遺跡は、豊川の沖積地の中でもやや高い自然堤防の上にあり、当時は海岸に近く、遺跡の北には、湿地が広がっていた、と推測される。  戦時中の食料増産のため、江川の改修工事の際、偶然みつけられ、昭和二十二年から二十七年にかけて、五回、発掘調査が
鹿菅橋 行われ、昭和二十八年十一月、国指定史跡になった。 出土したものは、瓜郷式細頸壺や瓜郷式土器、磨製石斧などで、豊橋市美術博物館に保管されている。  街道に戻り、歩き出すとすぐに、小さな川を渡るが、これは江川である。  昔、渡しがあったところといわれ、橋の名を鹿菅橋(しかすかはし)と、いう (右写真)
平安時代の東海道は、豊川(当時は飽海川)を渡るため、志香須賀の渡しがあり、
小坂井町と豊橋市の境界 清少納言の枕草紙に、 渡しはしかすかの渡し こりずまの渡し みづはしの渡し と、書かれるほど有名で、赤染衛門などの歌人が、歌枕に詠んでいる (詳細は巻末参照)
その先の左側に、かなり大規模な施設の豊橋魚市場があった。 ここが、豊橋市のはずれで、少し歩くと、標識は小坂井町になり、豊橋市とはおさらばである (右写真)
前方に堤防が見えてきたと思ったら、歩道がなくなった。 橋へと続く道を上って行くが、
豊川放水路 歩道帯がないので、少しこわい。 その上は、豊川放水路である (右写真)
豊川は、古は飽海川(あくみがわ)、江戸時代に吉田川になり、明治以降はとよがわになった。 上流からの距離が七十七キロと短いため、大雨が降ると、洪水が起きやすかった。 江戸時代に、川下の吉田宿を洪水から守るため、霞堤と呼ばれる、不連続の堤防が造られたが、その後も災害は起きた。 明治に入り、豊川放水路の計画が起案され、昭和四十年に
高橋 やっと完成。  豊川放水路に架かる橋は高橋、この橋も車道のみで、歩道帯はない。  少し上流にある小坂井大橋を渡れば、安全なのかもしれないが、東海道を歩こうと決意し、車が続く橋の隅を、車を避けるようにして歩いた (右写真)
車も対抗車がなければ、ゆとりのあるスペースを開けてくれた。  実際の時間は短かったのだろうが、すごく長いように感じ、かなりの神経を使ってしまった。 橋を渡り終える
子だが橋碑 と、下り坂で、下って行くと、右側にニチレイ豊橋物流センターがある。 門の先に、数本の松が植えられた場所があり、子だが橋と、書かれた石碑が建っている (右写真)
傍らの説明によると、 今から千年前には、神社の春の大祭の初日、この街道を最初に通った若い女性を生贄として捧げるという、人身御供の習慣があった、 と、いう。   
ある年の祭の初日、 贄(いけにえ)狩りの人が橋を見ていると、最初の若い女性が通りかかった。 これで決まりと思ったが、女性は、祭りを楽しみに帰ってきたわが子だった。 
こんな惨いことはないと、狩り人は苦しみ迷ったが、最後には、 子だが仕方なし と、決心
菟足神社入口 し、神への生贄にしてしまった。 それから後、この橋を子だが橋と、呼ぶようになった、と、伝えられる。 工場前に、川とは思えない小さな川があるが、以前は、もっと大きな川だったようで、そこに、子だが橋石碑が建っていた、という。  才ノ木南交差点で、国道247号(小坂井バイパス)を越えると、右手に、菟足神社が見える (右写真)
菟足(うたり)神社は、延喜式神名帳に載っている式内社で、祭神の菟上足尼命は、大和朝廷
菟足神社 に貢献した武勇に秀でた葛城襲津彦の四世孫にあたる人物である。 才の木交差点を渡り、五十メートル先の右側の石の鳥居が、参道の入口である (右写真)
穂国(東三河の前名)の国造を務めた菟上足尼命は、雄略天皇時代に、平井の柏木浜に祀られたが、天武天皇白鳳十五年に、この地に遷座された、とある。 また、 秦の始皇帝が、蓬莱島を求めて、派遣した徐福一行は、熊野に上陸し、当地に移り住んだ という、徐福伝説も
菟足神社本殿 残る神社で、中世には、菟足八幡社と呼ばれた (右写真ー本殿)
古くから開けたことは、間違いないようで、境内の隣には、貝塚があった。  贄を奉げる風習はあったようで、今昔物語や宇治拾遺物語に、  三河の国守、大江定基が出家し、寂照という名になり、三河の風まつりを見たところ、猪を生け捕り、生きたままさばく様子をみて、早くこの国を去りたい、と思うようになった 、と書かれている。 
小坂井駅付近 子だが橋伝説の神社はここで、現在は、十二羽の雀を生け贄として神に捧げている、
という。 境地は広く、社叢も繁っていて、これまで訪れた神社と違う、神秘が残る神社だった。  街道に戻り、東海道を歩く。 JR飯田線の踏切を渡るところで、左側を見ると小坂井駅があった。  踏切を過ぎ、しばらく行くと、道がカーブするところに、大きな松があり、常夜燈と祠があった (右写真)
その先の左側の寺院前にも、秋葉山や山王権現など、三つの常夜燈と祠が祀られていた。 
馬頭観音 民家の庭の中に馬頭観音が祀られているのを見つける。  文久三・・・・と、あるので、幕末(西暦1863年)のものである (右写真)
やがて、宿地区(江戸時代には宿村)に入る。 吉田宿と御油宿との中間にあたるので、江戸時代には、茶屋があったところである。  一キロほど歩くと、道の左に、東部テニスコートの駐車場があり、道の脇に、伊奈立場茶屋加藤家跡と、書かれた貧弱な標柱があったが、ここが、茶屋本陣、加藤家の跡である。 加藤家は、良香散という腹薬を売って
茶屋本陣加藤家の跡 いることで有名だった。 駐車場の中の左側に、金網に囲まれた一角があり、説明板と当時の井戸跡と芭蕉と烏巣句碑が建っていた (右写真)
    「    かくさぬそ   宿は菜汁に   唐が羅し   」( 芭 蕉 )
芭蕉が加藤家に泊まった時詠んだ句である。 
    「    ももの花    さかひしまらぬ かきね哉   」( 烏 巣 )
烏巣は加藤家の生まれで、京都で医者を営んでいたが、芭蕉と親交があった。  今は、
一里塚跡 地名に茶屋を残すのみである。  その先の迦具土神社は、建物も鳥居もあたらしい?? 少し歩くと右側に太鼓屋があり、太鼓屋の前に一里塚跡の標柱が建っていた。 伊奈一里塚で、江戸から七十五番目である (右写真)
太鼓を造る店は全国的にも多くない。 今度は、速須佐之男神社が現れた。  この先にある佐奈川の佐奈橋を渡ると、小田淵で豊川市に入った。 
冷泉為村の歌碑 名鉄名古屋本線小田渕駅の近くは、古い民家が残る。 右側に少し入ったところに、
冷泉為村の 散り残る 花もやあると 桜村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ 、という 歌碑があった。 江戸時代の冷泉家の当主で、冷泉家中興の祖という。 一度だけ江戸に行った際、当地桜町で詠んだものである (右写真)
白川に架かる五六橋を渡り、更に小さな川、西古瀬川を西古瀬橋で渡ると、左右には
工事中 工場が建ち並んでいた。 その先は工事中のため、道路を横断することができなかった (右写真)
右側の信号交差点まで行き、道を渡り左折して、さっきの道の向こう側に出た。  この道は少し歩くと、国道に出た。 しばらくの間国道を歩く。 白鳥こ線橋東交差点を過ぎると、国府(こう)の町に入る。  

(ご参考) 志香須賀(しかすか)の渡し

律令制のもとで、道路が整備され 、駅制がしかれた。 三河国には、鳥捕(岡崎市矢昨町) 、山綱(岡崎市山綱町)と渡津(小坂井町)の三駅が置かれた。 駅には、馬が配置され、中央や地方の役人が公用で往来する時に、駅鈴が与えられ、これを持った者のみが利用できた。 古代の交通は、多くの困難をともなったが、 特に、橋のない大きな川は難所で、 豊川(当時は飽海川)の志香須賀の渡しもその一つであった。 東国への旅行者は、渡津(わたんづ)駅から船で、対岸の飽海、関屋、城海津、坂津あたりへ上陸し、高師山を経て 遠江国(静岡県) 猪鼻駅(新居町)へ向かった。 当時の豊川河口は川幅が広く、 波風が強い難所で、増水や強風で何日も川辺で待たされた、という。  いま、 渡津駅があった位置は明らかではないが、 豊川の流路の変化によって位置も変わっただろうが、平井から篠東附近の間に位置していた、と推定され、 柏木浜も、志香須賀の渡しの渡船場の位置を示す一つの地点として意義がある。   (小坂井町教育委員会が柏木浜跡に設置した案内板から)
この場所は、現在の豊川から三キロ程離れている。 

(ご参考) 菟足神社(うたりじんじゃ)

菟足神社は、延喜式内の古い神社で、社叢も繁り境内も広大である 。 ここには、国指定文化財の弁慶が書いたと伝えられる古い大般若心経五百八十五巻が残されているが、最近の研究により、僧、研意智によるものであることが分かった。 祭神は、雄略天皇の代、穂国造であった菟上足尼命(うなかみちくねのみこと)で、武勇に秀でた葛城襲津彦の四世孫にあたる。 平井の柏木浜に祀られていたのを、天武天皇白鳳十五年四月十一日に、現在地へ遷座したもので、中世には菟足八幡宮とも呼ばれていたが、現在も、本殿横に、境内社の八幡宮がある。 
今昔物語や宇治拾遺物語に、 三河の国守・大江定基が出家し、寂照という名になり、三河の風まつりを見たところ、猪を生け捕りし、生きたままさばく様子をみて、早くこの国を去りたい、と思うようになった 、と書かれているが、前述した子だが橋に登場する神社は実はこの神社のことであり、我が子といのししとの違いはあるが、贄(いけにえ)を奉げる点は一致している。  菟足神社では、現在、十二羽の雀を生け贄として神に捧げている。  また、 秦の始皇帝が蓬莱島を求めて派遣した徐福一行は、熊野に上陸し、当地に移り住んだ、 という徐福伝説も残っているなど、かなり謎の多い神社である。 


後半に続く( 御 油 宿)







かうんたぁ。