『 東海道を歩く ー 袋 井 宿  』


掛川宿から袋井宿の間には、多くの松並木が残っていた。
袋井は昔、袋で囲まれたような形をしていたことから、名が付いたといわれる。 
袋井宿は、東海道創設から十五年後に出来た新宿だった。




掛川宿から袋井宿

二瀬川交差点 平成19年3月28日、掛川宿では、宿場の雰囲気は味わえなかったが、掛川城では城主になった気分になった。  掛川宿のはずれの逆川橋を渡り、袋井宿に向かう。  逆川橋を渡るとすぐに、信号交差点の二瀬川交差点に出る。  ここは、江戸時代、東海道と秋葉街道(塩街道)との追分だった (右写真)
秋葉街道は、火伏せの神様の秋葉山に行く道であるが、それと同時に遠州相良などの塩を信濃国飯田や塩尻に運ぶ道であった。 
(ご参考)秋葉街道については、 秋葉街道 ( 森町宿〜掛川宿追分)をご覧下さい。 
数軒の古い家 東海道は、交差点を左折して、国道1号を行く。  ここには日本橋から二百三十キロの標識があった。  道の右側に数軒の古い家があるが、その一軒に、○○織物の看板があった (右写真)
江戸時代の掛川の名物は、鎌倉時代から作られ、江戸時代には袴などの生地に使われた、葛布(くずふ)である。 今でも、数軒の織元が残るが、反物の需要が少ないので、 インテリア小物などに分野を広げて、行き残りをかけている感がある。  風に乗ってお茶を煎る香りがしてきた。 隣は、茶製造とあるので、そこから洩れてきているのだろうか? 
大池橋 そういえば、十九首でも同じ香りがしていたが、掛川には 焙煎作業を行う茶製造業者が多いのである。  五百メートル程歩くと、倉真川に架かる大池橋がある。 江戸時代には、長さ二十九間(約52m)、巾三間一尺(約5.7m)余りの土橋だった (右写真)
東海道を東から来て、この橋を渡ると、正面に青銅製の鳥居と両側に常夜燈が建てられていて、秋葉街道の入口であることを示していた、という。 
大池橋交差点 橋を渡ると、大池橋信号交差点で、道は、四つに分かれている (右写真)
右前方の道を少し入ったところには、秋葉神社の末社があり、秋葉通りと呼ばれているが、秋葉山はここから九里(約35km)余りのところにあり、境内に秋葉山権現の社が祀られている大登山秋葉(しゅうよう)寺という曹洞宗の寺である。  戦国の頃、武田信玄に寺院が焼かれたとき、観音堂だけは棟の上から水が流れていて、燃失を免れたことから、火伏せの神として
庶民の信仰を集めるようになった。 
秋葉神社 赤い鳥居の奥に瓦屋根の拝殿(?)があり、その先に小さな社があった (右写真) 
前述の常夜燈は明和六年(1769)に、鳥居は安永九年(1780)に建てられたが、嘉永七年(1854)の大地震で倒壊、その後、鳥居も木造に建替えられた、とある。  小屋には、正一位秋葉神社の神額が保管されていたが、 脇に掲示された写真から判断すると、嘉永地震後建立された木造の鳥居に取り付けられていたものだろう?  鳥居の横には、 秋葉神社道、明治二十二年一月とある大きな道標と、右あきは道、大池村とある小さな道標があった。 
夢街道東海道の道標 大池橋交差点に戻り、左折して川に沿った道を行く。 
この道は、旧東海道で、この先、袋井までのほとんどの区間で残っている。 
左折してすぐの所に、夢舞台東海道の道標があり、掛川宿の西境まで十三町、袋井宿まで一里三十五町と表示されていた (右写真)
左に芭蕉天神の小さな石柱が建っていた。 
鳥居町交差点 間もなく、鳥居町信号交差点があり、道の向こうにガードが見えた (右写真)
天竜浜名湖鉄道(旧JR二股線)のガードで、くぐると土手の左側に西掛川駅が見えた。 
しばらく道なりに進む。 道の両脇には家が立ち並ぶが古い家は見当たらない。 
白山神社と屋台置場を右に見て進むと、宗心寺というかなり大きな寺があった。 
その先、少し行ったところには津島神社があったが、川に取り囲まれた土地柄なので、
大池一里塚跡 神社が多いのかも知れないと思った。  しばらく歩くと、左側に一乗山蓮祐寺という古い寺があり、その前に夢舞台東海道の道標があり、大池一里塚跡とあった (右写真) 
松並木が見えてきた。 左側の社宅のような建物のあたりから、道は右にカーブし少し上りになり、松並木が終わると歩道がなくなった。 歩道がないのに、車は多く走るので、怖い。 
逆川の菜の花 三叉路の左には橋が架かり、逆川が流れている。 
川縁には菜の花が咲いていたので、写していたら、二人の女の子がこんにちわと言いながら通り過ぎていった (右写真) 
最近は物騒なせいか、不審な顔をして無口なまま通るのが多いのだが、こうしたことは
大変うれしい!! 
醸造元柴田酒店 土手を降り、街道に戻り、再び、歩きだした。 右側の細沢公会堂の先で、道は左にカーブしていく。  右側に高い煙突が見え、近づくと銘酒曽代鶴とあり、醸造元柴田酒店とあったが、廃業してしまったのか、しーんと静まり返っていた (右写真) 
やがて沢田I.C南の信号交差点に出る。  正面の国道1号線の高架をくぐると、沢田I.C北の信号交差点があるので、ここを左折。 
県道253号線の標識 歩道はあるが、右側は田畑が広がる道である。 少し行くと、右に入る道があり、県道253号線の標識がある (右写真)
両側が民家になり、右側に原川公会堂(公民館)があった。 現在は領家集落である。  交差点を越えると、東名東名高速のガードをくぐると、岡津集落で、家が少なくなった。 左側の白い建物には、掛川聖書バプテスト教会と書かれていた。 
仲道寺 松の木が数本ある ところで、道は右にカーブし、垂木川に架かる善光寺橋を渡る。  少し下ると、右手に善光寺如来の石柱があり、石段を登ると仲道寺があった (右写真)
案内では、ここには善光寺如来が祀られ、坂上田村麿の守り本尊と伝えられる阿弥陀如来が納められている、とあった。  左側のお堂に、善光寺如来の石柱があったので、このお堂に祀られていると思い覗いたが、御簾の扉は閉じられていた。  その先には松並木が広がって
原川松並木 いる。 松並木の両脇は畑で、両側見通しがとてもよく、左側の遙かに、国道1号、右彼方に、東名高速が見える。 松の下で座って、持参したお弁当を食べた (右写真) 
風が強く、弁当を包んでいた紙が飛ばされていった。  しばし休憩の後、また歩き始める。  松並木のはずれに、「従是北和田岡村」と書かれた道標があった。  この辺りは、旧原川村で、掛川宿から一里十八町(約6km)、袋井宿から三十三町(約3.6km)の位置にあったので、
金西寺(あい)の宿になっていた。  少し先の左側に古いお寺があったので、入ると境内には多くの石仏石碑があった。  南泉山金西寺という寺で、本尊の薬師瑠璃光如来は霊験あらたかとある (右写真)
元禄時代に見つかった、とあるが、原川薬師と呼ばれた金西寺阿弥陀仏には、 それに供える薬師餅を売る茶屋や酒屋などが軒を連ねていた、とあり、文化文政頃の集落の戸数は、
同心橋 四十六軒を数えたという。 道が右にカーブすると、国道1号に合流した。 
地下道をくぐって、道路の反対側に出て右折し、原野谷川に架かる同心橋を渡ると、袋井市になった (右写真)
左に降りる道があるので、下っていくと右側に、名栗花茣蓙公園があったので中に入ると、
道標と常夜燈 従是西 東海道 御本躰可垂三尺坊大権現 と、刻まれた大きな道標と常夜燈があった。 可垂三尺坊大権現とは、この北西にある秋葉総本殿 萬松山可睡斎のことである (右写真)
可睡斎は、応永年間(西暦1394年)頃、大路一遵が、久野城主、久野宗隆の援助を受けて開いた、と伝えている曹洞宗の寺である。  明治六年に、秋葉山から三尺坊大権現の御真躰を遷座し、日本唯一の御真躰をお祀する火防霊場として、秋葉総本殿三尺坊大権現鎮座道場と呼ばれるようになった 、と寺の趣意書にはある。 
名栗集落 隣の秋葉常夜燈は櫓の形をしている珍しいものだった。 
これから袋井まで旧東海道がほとんど残っている。 
少し行くと、名栗のバス停があり、前方には松並木が見える (右写真) 
名栗は花茣蓙が名物だった。 十辺舎一九の道中膝栗毛に、
「 掛川城下を西に一里十丁 原川薬師は参拝し 軒を連ねた通りを過ぎ 瀬川を渡れば
花ござを売る 早名栗 松並木を西に見て 立場茶屋に着く 名代の甘酒に舌鼓 (一部省略) 
名物の花ござを売る店が軒を連ね 上り下りの旅人が珍しいと買って行く  」
と、ある (右写真ー花ござを売る風景)
その先から、松並木が本格的に始まった。 
松並木 先程までの松並木と違い、土塁の上に立っていて、松の木が大変大きい (右写真)
歩道は右側だけにあるだけなので、左側から写真を撮る際は車道に出ないと駄目。 
また、工場地帯になっていて、時々排水路の関係で、歩道が途切れるので、注意しながら歩く。  大和ハウスの工場を過ぎたところで、右側の道端に、大きな赤鳥居が忽然と現れた。 松並木の入口からここまで、結構距離があった。 
富士浅間神社赤鳥居 赤鳥居は、北方にある富士浅間神社の鳥居である (右写真)
江戸時代には、参道が、ここから真直ぐ本殿まで続いていたが、鳥居と本殿の間に、国道や高速道路が建設され、工場もできて、赤い鳥居だけが取り残されてしまった、という訳である。 延亨三年(1746)の東海道巡覧記に、 右浅間道有。 むかしは鳥居有。
今ハ松木有。 鳥居松と云  と、あるので、延亨三年当時は、この鳥居はなかったので、
富士浅間神社参道石段 その後、再建されたものと思われる。 
鳥居縄手、浅間神社本殿まで八百メートルの表示板があったので、立ち寄ることにして歩いて行くと、国道との交差点に、コンビニがあったので、飲み物を補充した。 その先の高速道路のガードをくぐり、神社の石段を登る (右写真)
富士浅間神社は、大同年間(806〜810)、坂上田村麻呂が、富士浅間神社より分霊を
富士浅間神社本殿 移したのに始まる。 本殿は、天正十八年(1590)の棟札があり、桃山中期の三間(縦横とも4.1m)流造り、檜皮葺きで、国の重要文化財に指定されている (右写真)
裏に回って本殿じっくり見た後、赤い鳥居まで戻り、再び街道を歩き始める。 
松並木が続く道は狭く、蛇行している。  七百メートルほど歩くと、左手奥に妙日寺がある。 正慶元年(1332)に開山した日蓮宗の古刹で、日蓮の父の法名を寺名とし、境内は
久津部一里塚跡 一族の貫名氏の邸宅跡といわれる。 また、日蓮の両親を顕彰する妙日尊儀、妙連尊儀供養塔は、柳生但馬守の寄進と伝えられている。  その先の袋井東小学校の敷地内に、久津部(くつべ)一里塚の復元ミニチュアがあった (右写真)
また、道の反対の民家の前には久津部一里塚跡の石柱があった。  久津部一里塚は、江戸から丁度六十里にあたり、明治時代までは老松が生えていた、とある。 
秋葉山常夜燈 右側に大きな秋葉山常夜燈が建っていた。 東海道や中山道の宿場の中には火災で全焼という出来事が頻繁に起きていたので、秋葉神社を分祀したり、秋葉山常夜燈を建てたりして、宿場を守ろうとしたのである (右写真)
そうした常夜燈が、今でも各地に数多く残されている。  少し歩くと、右に行く道の脇に、小さな八幡入口道標があった。  その先には、あぶら山寺みちと書かれた道標が、地面に埋まるような形で建っていた。 油山寺(同市村松)はこの北方にある寺で、重要文化財 指定の山門と三重塔がある寺である。 
七ツ森神社 信号交差点を渡ると、松並木が再び始まり、しばらく行くと、右側に、和食めん処サガミがあり、その先に、七ツ森神社がある。 言い伝えでは、桓武天皇の頃、日坂に出没する怪鳥を退治するために派遣された七人の武士が、返り討ちにあい、この地の田圃の中に葬られたという (右写真)
昔は七つの塚があったが、塚はひとつも現存しない。  三叉路の右側に松並木の案内板があり、その近くに「従是油山道」の道標がある。 
松並木の案内板 文化十一年(1828)に再建されたものといい、この道を油山道という。  また、道の向かいの民家の花壇に、三尺坊大権現の大きな道標があった (右写真)
松並木は途絶え、しばらく行くと、夢舞台東海道の西新屋の道標があり、その先で、県道413号線に合流してしまう。  袋井宿は目と鼻の先である。

 

袋井(ふくろい) 宿

新屋の秋葉常夜燈 新屋交差点を渡り、左へ少し行くと、夢舞台東海道の東新屋の道標がある。  白畑ふとん店の前の細い道に入る。  三叉路に新屋秋葉常夜燈が建っていた (右写真) 
袋井市には、石で造った燈籠形と木造の屋形の常夜燈が、併せて、十四基残っているというが、新屋の常夜燈は、木造屋形であるが、彫刻が施された立派なものだった。 
道を斜めに進むと、市役所前に出た。 ここにも、夢舞台東海道 市役所前の道標があり、信号を右折(七十メートル)と、あった。 
袋井宿標柱、天橋の橋柱 橋の手前を右に曲がると、袋井宿の説明板とこれより袋井宿の石柱、そして、天橋の橋柱だったと思えるものが、置かれていた (右写真)
袋井宿は、江戸、京のどちらから数えても、二十七番目の宿場で、ちょうど、五十三次のまん中に当たる。  宿場の成立は、他の宿場より十五年も遅かった。 袋井は昔、袋で囲まれたような形をしていた。 その中に田圃がひろがり、それを潤すため井戸を掘ったことから袋井の名が生まれた、という。  また、宿場は大小の河川に囲まれていたので、周りに二メートル程の
東海道どまん中茶屋 土塁を築いて、防水対策をしていたようである。 袋井宿の東の入口は、土橋の天橋(阿麻橋)だった。 現在の天橋は、道が二つに分かれているが、江戸時代には右側の道はなく、一直線で渡って行き、橋の先の土塁(土手)の向こうに、高札場があった。  現在の東海道どまん中茶屋があるあたりだろうか? (右写真)
どまん中茶屋は、初代広重が描いた、東海道五十三次袋井出茶屋ノ図をモチーフにした建物
袋井出茶屋ノ図 で、最近作られたものである。 江戸時代の茶屋は小屋かけにするのが普通だが、常設茶屋がない所では、出茶屋と呼ばれる茶屋が臨時開業していた (右写真)
袋井宿の浮世絵には、榎の木の根元に、木の杭で囲んだ土盛りを築き、その上にむしろを敷き、その上をよしず張りの屋根が覆っている。 榎の枝に吊り下げたやかんを地面に置いたへっついに薪を入れて、燃やして湯を沸かすという風景が描かれている。 
現代版の茶屋は、土塁を模した上に、木が植えられ、出茶屋の復元したものがあるが、
枡形跡 使用しているのは、その奥の立派な建物なので、出茶屋とはいえない。  おばさんに
休んでらっしゃい、と声を掛けられ、茶屋の中で、地元の方々による湯茶のもてなしがあったので、二十分以上のんびりしてしまった。  街道に戻ると、道は右にカーブしている。 江戸時代には、枡形があったところで、その先、右に曲がっていたのだが、枡形があったという形跡は感じられなかった (右写真)
袋井宿は、新町から西境の中川まで五町十五間(約570m)しかなく、東海道の宿場では
白髭神社 一番短い。 その中に、百九十五軒が建ち、八百四十三人の人が住んでいた。 宿内には本陣が三軒、旅籠が五十軒あったというが、宿場の面影はほとんどない。  その先、右側の小路を入ると、突き当たりに、猿田彦神を祀る白髭神社がある (右写真)
そのまま進むと、右側に、袋井宿東本陣公園があった。  袋井宿の本陣は、全て、東海道の北側にあったといい、その場所から、東、中、西本陣と呼ばれた。 東本陣は、
東本陣公園 壱番御本陣と呼び、田代八郎左衛門が営み、併せて、問屋も勤めた。 本陣の敷地は、千六十八坪、建坪は二百九十坪ほどだった、という。  現在の公園は、本陣の家族が住む居住部分にあたると、説明があったが、更地なのでピンとこなかった (右写真)
その先に、静橋北交差点があるが、江戸時代の左右の道は狭い小路だった。 
袋井宿場公園 右側に進むと、観福寺があるが、宿場の真中にあったので、へそ寺という愛称で呼ばれ、寛永八年(1631)に可睡斎の等膳和尚を招き、活峰和尚が開山した寺である。 
交差点の左側には、袋井宿場公園がある。 この公園は、東海道どまん中ふくろい を提唱する市が創ったもので、昔ながらの宿場をイメージして作られている (右写真) 
交差点を越えると、本町で、江戸時代には、右側に、中(大田)本陣があったところである。 
御幸橋 その先の民家の駐車場に、問屋跡の木柱が建っていた。  少し先の右側に、東海道の案内板が建っていたが、このあたりに西本陣があった、という。 宿場公園からここまで、二百メートル位の距離だった。  宇刈川(中川)には、常夜燈をイメージしたデザインの御幸橋(中川橋)が架かっている (右写真)
橋の手前に本町宿場公園があるが、江戸時代には、枡形になっていて、袋井宿の京方
本町宿場公園 (西)の入口になっていたところである。 この公園は、当時を偲ばせる高札場や土塁、従是袋井宿と記された棒鼻などを再現していた (右写真)
秋葉常夜燈もレプリカと思っていたが、脇の案内板によると、東海道の北側にあったものだった。  また、南側の約五十メートルの円信寺跡には、寛政十二年(1800)に建立された常夜燈が残っている。  橋を渡ると、袋井宿は終わりになる。 
本町宿場公園 時計を見ると、これから見附宿に行くことが出来るが、青春切符なので、名古屋に帰るのが、かなり遅くなるので、あきらめた。 今日は、掛川城の見学とどまん中茶屋での長居がきいた。  静橋北交差点まで戻り、交差点を右折し、静橋を渡る。 
橋の上には見事な彫刻があった (右写真) 
それを眺めながら、袋井駅に行き、名古屋に帰った。


平成19年(2007)   3 月


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かうんたぁ。