『 東海道を歩く ー 興 津 宿   』


由比宿を過ぎると、東海道の難所と一つ、さった峠が待ち構えている。 最初は海岸を行く
道だったが、波にさらわれるなど、事故が多いので、山を越える道が開かれたという。 
さった峠から見た富士山は、駿河湾の前景として、すばらしかった。 
興津宿はさった峠越えを控える宿場として栄えた。 明治時代に入ると、明治の元勲の
西園寺公望の別邸が造られるなど、避暑地として賑わった。





由比宿から興津宿(その1ー間の宿・倉沢まで)

町屋原 平成19年4月29日、午後1時、これからさった峠に向かう。  朝早く出てきたお陰で、蒲原宿と由比宿を終えることができたので、久しぶりに順調である (右写真)
由比川に最近建て替えられた橋を渡ると、由比宿も終りになる。 その先の北田集落の道の両脇に由比桜えび通りと表示されていて、飲食店はどの店も桜えびのメニューを掲げている。  昼時とあってどの店もお客が列をつくって入るのを待っていた。 昼飯を早めにすませたのは、
稲葉家 正解だと思った。 これも順調な理由?!  左側の家は稲葉家で、案内板にはせがい造りと下り懸魚(げぎょ)の家とある。  せがい造りは、平軒桁へ腕木を足してたるきを置く、出し粱という、軒下の長い屋根を支える建築技法で、全国各地に内容は違うが、この工法は使用されている (右写真)
なお、せがいとは、船の櫓(やぐら)を出す部分をせがいというが、それに似ていることが語源のようである。 下り懸魚は、彫刻などを施したものを平軒桁に貼り付けて、 風雨から守るもので
ある。 きょうしんばしを渡ると、町屋原集落である。 ここを町屋原と称するのは、古代に
豊積神社 おいて、物々交換の市場が営まれたところだったから、とある。  右側の鳥居の奥にある、式内社の豊積(とよつみ)神社の由来書には、延喜式神名帳に、駿河国廬原郡豊積社として記名されていて、第四十代天武天皇の白鳳年間ここに五穀の神・豊受姫を祀る豊積神社が創建された、と伝えている (右写真)
東海道名所図会に、 鳥居より社前まで桜多し、祭神は木花開耶姫命。 天武天皇御宇勧請、其後大同元年(806)坂上田村将軍東夷征伐の祈願として再興  と、書かれているが、今は
由比駅の近く 社殿も小さく、境内も狭くなった。 坂上田村麻呂の戦勝を祝ったのが始めというお太鼓祭りは有名である。 少し歩いて行くと、 由比駅の手前の左側に大きな案内板があり、道上に大きな桜えびのイラストが入った商店街の看板があった (右写真)
なお、JRで来て、由比宿だけを見学するのなら、由比駅からより蒲原駅からの方がずーと短い。  由比駅を過ぎると、やがて道はゆるやかな上り坂になる。 道端にさくらえびが干して
歩道橋からの風景 ある。  浜辺は、東名高速道路が走っているため狭くなり、遠望がきかないが、昔は、塩釜(海水を煮詰めて塩をとる釜)が多くあった所である。  やがて、道は右からきた県道396号線(旧国道1号線)と合流してしまう。  右側の横断歩道橋を渡って、県道の右側へでる (右写真ー歩道橋からさった峠方面)
歩道橋を降りると、その先に右に入る狭い道があるので、そちらに入ると、寺尾という
集落だが、昔、南方寺という真言宗の寺があったことから地名になった、といわれる。 
寺尾澤橋 東海道は、海に沿って続いていたのだが、度々の津波に遭い、天和元年(1682)にこの高台に移ったのである。 少し歩くと寺尾澤橋、平成に造られたのに木目調の欄干なのはうれしい。 背負い篭を背負ったお婆さんが、鋤(?)を片手に、坂をゆっくり登っていく姿は、時間がしばらく止まったという感じがした (右写真)
その先の中の沢2号橋を渡る。 この辺りの道幅は東海道当時のままで、連子格子戸の古い
谷口法悦の題目塔 家が多く残っている。  右側の海上山讃徳寺は、地元の長者、河西六郎右衛門が、寛文九年(1669)、自邸を提供して開基した日蓮宗のお寺で、境内には谷口法悦が元禄四年に建立した大きな題目塔が建っている (右写真)
ハイカーの数が増えてきた。  五名から六名のグループが多いが、朝、興津駅を出てさった峠を越えてきた人達だろう。 
小池邸 少し歩くと、右側の家の前で、数名の女性が休憩をとっていた (右写真)
国の有形文化財に指定されている旧小池邸である。 甲州武田家家臣が当地に移住し、寺尾村の名主になり、代々小池文左右衛門を名乗ったという家で、この建物は明治期に建てられたものである。 
小池邸内部 町が買い取り、休憩所として公開されているので、自由に入ることができた。 
たたきの柱に明治政府が慶応年間に出した太政官令が掲示されていた。 
右側の一室に伊豆で見かける吊るし雛のようなものが飾られていた (右写真)
樹木が手入れされた庭には水琴窟があり、見学者が耳をあてて聴き入っていた。 
あまりゆっくり出来ないので、さっと見て出発する。 
東倉沢から海の方角 道の左側あるなまこ壁の家は、あかりの博物館(有料)になっているが、パスして進むと、先程と同じような新しい橋があり、秋葉山の石柱が建っていた。  東倉沢の集落に入ると、右側の岩山と左側の海がかなり接近している (右写真ー海側)
東海道が開設された当時は現在の東海道本線あたりに街道があったようであるが、 たびたびの津波により小生が今歩いている道に変更になったのである。 狭い道に、二階建ての古い家
二又 がひしめいていた。 坂は少し急になったが、そのまま歩くと、 二又にでた。 左の道は下って国道へ、右の道は更に急になって上っていく (右写真)
上っていく道が東海道で、高くなったことで、少し展望がひらけてきた。 この辺りは、海に接近しているので、左下に、東海道本線と国道1号線、そして、海を埋め立てて出来た高速道路
はじめての富士山 が走っているのが見える。 振り返ると、木の間越しに富士山が見えた。 
今日歩きだしてはじめての富士山である (右写真) 
狭い道の右側に何台もの車が駐車していた。 左にさった峠、2kmという標識があった。  なお、自動車でさった峠の近くまで行くことは可能だが、すれ違いができないので、できるだけさけた方がよいだろう。 
くらさわや 一台通るのがやっとという狭い道を行くと、左側に磯料理と桜えび料理を看板にしているくらさわやという店があり、窓からの景色も売り物で、駐車していた車はこの店のお客のものだった。 店前には多くの人がたむろして、順番を待っていた (右写真)
少し歩くと、右側の崖の上に、八坂神社、まさに、山裾の旧道である。 
藤沢権現 その先の権現橋には、天狗のタイルがあり、中峯神社の由緒書があった (右写真)
中峯神社は、その先の高台にあるのだが、神社の創建が何時かは安政の津波で資料がなくなったので分らないが、昔は富士浅間大菩薩と呼ばれた、とあるので古い。  安政年間、藤八という村人が亡くなった後、天狗となって、倉沢の火防守護神となったといわれ、藤沢権現として祀られてきた。 明治維新後、社殿が東西の倉沢の中間に あるため、現社名になった、と書かれていた。 権現橋は藤沢権現によるのである。 
鞍佐里神社 橋を渡ると、西倉沢集落で、古い町並みが残っている。 道の右側の鳥居をくぐり、傾斜のある石段を登っていくと、崖の上に、鞍佐里(くらさり)神社がある (右写真)
日本武尊が東征の途中で焼き討ちの野火に遭い、自らの鞍下(あんか)に居して神明に念ず、其鞍敵の火矢により焼け破れ尽くしたことから、鞍去の名があり、後に倉沢に 転訛した、と伝えられる。 鞍佐里神社は、日本武尊が野火にあったさった峠の雲風か、山中あたりに建てられ
鞍佐里神社蟇股 ていたものを後年に現在地に遍座したもので、拝殿の蟇股には、日本武尊のその様子が見事に彫刻されていた (右写真) 
神社のある崖と街道の狭い道の反対にある家並みの先は傾斜になっているので、大雨が降るとがけ崩れの心配があるし、海岸の方は高潮の危険もあったので、江戸時代には神仏にすがるという気持は強かっただろう。 ここからは、駿河湾を前景にした富士山が一望でき、また、
下には東海道を歩く旅人が見下ろせた。 
川島家 寺澤橋を過ぎると、西倉沢で、さった峠の東坂登り口に当る間(あい)の宿で、江戸時代には十軒ばかりの休み茶屋があった。  左側の連子格子の家は、大名などが休憩する倉沢間宿本陣(茶屋本陣)だった川島家である。 川島家は、慶長年間から天保年間、凡そ二百三十年間、代々、川島勘兵衛を名乗り、間の宿の貫目改所の中心をなし、西倉沢村名主を務めたという家柄である (右上写真)
小さな橋を越えたところの左側にある倉がある連子格子の家は、明治天皇が休憩した脇本
望嶽亭 陣、柏屋だったところである。  少し歩くと三叉路出るが、道の左側の角に、藤屋がある。 さった峠への東口の麓にある藤屋が、望嶽亭と呼ばれたのは富士の眺めが良いためで、江戸〜明治時代にかけては脇本陣や茶亭として多くの文人墨客で賑わったようである (右写真)
案内していただいた女主人の話では、「 一番奥の建物は二百年以上も前の もので、幕末、官軍に追われた山岡鉄舟がこの部屋の床から下に抜ける道を利用し、舟で清水に逃れた。 」 
鉄舟脱出の部屋の窓 ということだった。 この後、鉄舟は清水次郎長の助けを得て、西郷隆盛と会見、江戸無血開城への道が開かれることになる。 まさに日本の歴史を変えた家である。  案内いただいた部屋には、関連の資料が展示されていたが、それより窓の形がよく、そこからの景色が大変印象に残った (右写真)
ここから、さった峠への本格的な上りが始まる。 


由比宿から興津宿(その2−さった峠への道)

三叉路 三叉路の右側の道は車が一台なんとか通れる程の狭さで、急である (右写真)
車はほとんど通らないが、バイクにはかっこうのコースとあって、どんどん登って行く。 
道路標識には、さった峠1.3kmとあり、ここからさった峠への本格的な登りが始まる。 標識の先に、夢舞台東海道 倉沢の道標があった。 道の右側には、西倉沢一里塚の石柱と説明板があり、江戸より四十番目の一里塚で、榎が植えられていたと、あった。 上りは先ほどの
伊豆半島が見える 道とは違い、正にハイキングのコースである。 しかし、快晴で、空気が乾燥しているので、それ程苦にならない。  富士山を背にして登っているが、振り返る度に何故か大きくなっていくような気がする。  駿河湾は青々と光り、その先に霞で囲まれた伊豆半島が見える (右写真) 
よく見ると、休日なのに働いておられる人がいる。 
ビワの袋かけ作業中で、1枝にある多くの花から1つだけを残し袋をかぶせていた。 
富士山 左側は海に面した急勾配なので、どのような作業するのか、気になった。 
少し歩いたところに、ここから三百メートル先、一番の展望と表示があったので、道から少しはずれるが、行ってみた。 眼下には自動車が走り、駿河湾と富士山のバランスがよい。  ザックをおろして何枚かの写真を撮った (右写真)
江戸初期までの東海道は、さった峠の崖下の海岸に波の寄せ返す間合いを見て、
JRや国道1号線 岩伝いに駆け抜ける道のため、親知らず子知らずの難所といわれた。 
安政の大地震で地面が隆起して現在の地形になったようで、地震のお陰で、JRや国道1号線が通れるのである (右写真ー下部部分)
東海道は、明暦元年(1655)に朝鮮使節を迎えるため、さった山の山腹を経て、外洞(そとぼら)へ至る道が造られた。 大名行列が通るため、道幅は四メートルあった。 
夢舞台東海道の道標 東海道の難所とされたこの道は、農道として舗装され、両側は収穫用のモノレールが設置されるミカン畑やビワ畑に変った。 小生は、その中をのんびり歩いていった。 といっても、一里塚から、急激な登り坂が何回かあったが・・・  登り坂がようやく終わると、夢舞台東海道 さった峠の道標があった (右写真)
隣には、昔の石の道標と新しいのが並んで建っている。 小さな道標の正面に、さつたぢぞう
さった地蔵道の道標 ミち(地蔵道)、右側に、これより四町とあり、永享元年建立のものである。 大きいのは、まん中で折れていて、字が磨耗して判読しずらいが、新しい道標と内容は同じのような気がした (右写真)
さった峠のさったとは、ぼさつさったを意味し、それを省略したもので、鎌倉時代に、 漁師の網に掛かって海中から引き上げられたさった地蔵を山上に祀ったことから、これまでの岩城山からさった山になった、という。 少し歩くと、二又になるが、左側の駐車場へ下り、そこのトイレを利用した。 
駐車場展望台からの眺望 展望台の眼下には、交通の大動脈が四つ、国道1号線、東名高速道路、東海道本線、東海道新幹線が地表から舞い上がるように駿河湾から富士山に向かって伸びている (右写真)
しばしの間、撮影に夢中になった。 少し休憩した後、東海自然歩道の案内にそって左の小道に入った。 夏みかん百円の無人売店があったが、すでに売り切れていた。 下の売店は二百円だったから、ここのは安い。 この先はまさに山際の断崖にある細い道である。 百五十メートル
山の神石碑 ほど歩くと、右側の少し小高いところに展望台があるが、江戸時代、山塊が海に接するこの
あたりからの眺望は、東に富士の高嶺、南に伊豆の岬、西に三保の松原、眼下にはアワビを取る海女の姿が楽しめた、とある。  展望台を降りた海側に、山の神の石碑がある (右写真)
蜀山人の逸話が残っている。  享保元年(1801)、蜀山人こと大田南畝が東海道の旅で、峠にあった茶屋で休息をした とき、小さな祠が目に止まり、亭主に尋ねたところ、山の神と返事を
さった峠石碑 した。 蜀山人は、それを聞いて、即興で、 「 山の神 さった峠の風景は 三行半に かきもつくさじ 」  という狂歌を詠んだ。  ここから二百三十メートルほど歩くと、少しひらけたところに出る。 
黒い大理石に茶色の石が張られた東海道さった峠の石碑があった (右写真)
これまで、さった峠の文字は数ヶ所あったが、由比町と興津町(合併で静岡市清水区)の境であるここが、が、さった峠なのだろうか?  四阿(あずまや)もあり、小休止ができる。 その近くに
さった峠清水市指定眺望地点石碑 牛房坂の道標があったが、そちらへ向う道は草に覆われていたが、古戦場へ向かう方角だった。 そちらに向わず、海沿いに約五分、三百二十メートル歩くと、さった峠清水市指定眺望地点 、と書いた石碑があったが、旧清水市は、夢舞台東海道 さった峠という道標も建てていた (右写真)
旧清水市と由比町の二つが、さった峠の道標をそれぞれ建てて、こちらが一番と自慢している感じは、子供の喧嘩のようでおかしかった。 


後半に続く( 興 津 宿)







かうんたぁ。