『 東海道を歩く ー 蒲 原 宿  』


吉原宿から富士川を渡るあたりは、富士山が右手に大きく見えて、美しい。 
蒲原宿は東海道の宿場の中では昔の建物が多く残るところである。
また、安藤広重の東海道五十三次蒲原雪之図は記念切手になり有名になった。





吉原宿から蒲原宿(その1)

四軒橋 平成19年6月4日(月)、JR原駅から吉原宿を経て、富士川駅まで歩く予定である。 すでに、原宿から吉原宿を歩き終えたが、時計を見ると15時14分。  昼飯に時間をとられたせいか、思ったより遅いのは気になったが、吉原宿西木戸跡の道標を過ぎると、小川が流れていて、四軒橋を渡ると、国道139号線の錦町北交差点に出た (右写真)
右手に、冨士市役所を見ながら、錦町交差点に出て、交差点を渡ると、間の宿 本市場へ
吉田写真館 の道標があった。 交差点を反対側(右側)に渡ると、駐車場のようなものがあるが、この冨士車両中古車センターとその先の吉田写真館の間の狭い道に入る (右写真)
この道をしばらく歩くと、右手に、山神社の木立が見え、道の左側に磯八幡宮があった。 神社には、道祖神と書かれた石碑があったが、東海道で、道祖神と書かれた石碑は、初めてではないだろうか?? 
高島交差点 少し歩くと、右側に、元気寿司があり、その先には、五叉路の高島交差点があった。 この交差点は、歩いてきた道と県道396号と353号が交差している。  東海道は対面に渡り、県道396号を西に向かう (右写真)
右手に、愛宕神社があり、そこを過ぎると、潤井川橋が見えてくる。  橋の一つ手前の道
富安橋 を右折し、細い道を歩くと、奥に、赤茶色の大きなビルが見える十字路に出る。 ここには小さいが、東海道の標識があるので、左折すると、小さな橋に出た (右写真)
さっき見えた潤井川橋の隣に平行している橋で、以前は三度橋という名だったが、今は富安橋である。  橋からさっき見えた右側の赤茶色のビルを確認すると、市立中央病院だった。  そのまま右カーブ左カーブと続く道を行くと、カーブを曲がった右側に、袂の塞神と
鶴芝碑 いう道祖神があった。 その先の塔の木交差点を直進し、総合庁舎北交差点に出る。 本市場は、江戸時代に東海道の間の宿だったところである。 交差点を渡り、総合庁舎とフィレンセを見ながら歩くと、左側の民家の一角に、鶴芝碑があった (右写真)
江戸時代の文化三年(1820)に、鶴の茶屋に建てられたもので、当時は、ここから眺めた冨士の中腹が一羽の鶴が舞うように見えたので、京都の蘆州(ろしゅう)という画家が鶴を
本市場南交差点 描き、江戸の亀田鵬斉(ほうさい)という学者が詩文を添えて碑にしたものである。  道は左にややカーブ、その先に、太い道路の分離帯があり、渡れなくなっていた (右写真)
しかたがないので、右側の本市場南交差点に回り、対面に続く細い道を行くと、交差点に出た。 やや歪んだような交差点で、左右から斜めに交差する大きな道路と交差する。 交差点を反対
本市場南交差点 側に渡り、狭い道に入ったところに、冨士市が建てた間宿本市場の道標があった (右写真)
正面には、赤白の製紙工場の煙突が見えたが、見慣れたせいか、白い煙が気にならなくなった。 富士第一小学校、富士西図書館の前を通過すると、アーケードのある富士本町銀座商店街に出た。 時計を見ると十六時二十三分である。 後一時間も歩けば、富士川駅までいけると思ったが、その後、車で名古屋まで帰ることを思うとどうかな??、という気になってきた。 
富士本町銀座 帰りに温泉に寄って、一風呂浴びてから帰る、という欲求が強くなり、東海道はアーケードを越えて直進だが、富士駅に向かって左折した (右写真)
商店街は、富士駅までずーと続いていた。  十六時三十一分、富士駅に到着し、今日の原駅からの歩きは終わった。 

吉原宿から蒲原宿(その2)

蒲原宿から西は、先行して平成19年4月に、また、原駅から富士本町銀座までは、上述の通り、平成19年6月に歩き終えたが、富士川を渡る十キロにも満たない区間が残ってしまった。 梅雨に入り、富士山の姿は見えなくなり、秋に入っても、冨士市のホームページでは十分に拝めない様子だった。 どうせ歩くなら、富士山が雪で美しい冬になるのを待った。 

富安橋の石仏 平成20年2月21日(木)、早朝に車で自宅を出て、国道1号を走り、豊橋市のJR二川駅に車を停め、JRの在来線で富士駅に到着し、前回歩いた富安橋までバスで行った。 
九時十五分、今日は富安橋からスタートである。 富安橋の橋際の左側を見ると、白いよだれ懸けをした小さな石仏が祀られていた (右写真)
地蔵尊と思われるが、前回、見つけられなかったものである。  その先の左側には、 明治四十年の南無妙法蓮華経御宝塔が祀られていた。 そのまま、右カーブ、左カーブと進むと、
蓼原の単体道祖神 カーブを曲がった右側の家の一角に、笏を持った大きな石像が祀られている。 蓼原の単体道祖神とあるが、一般的には袂の塞神と呼ばれるものだろう (右写真)
このまま歩き、塔の木交差点を直進するが、横断中、右手に見えた富士山は雲がかからず全貌が見えて美しい。 その先も家のあいまから、ちらと見える。 前回が雲を被った富士だった
間宿本市場の石碑 ので、この日を選んでよかった、と思った。 右手の山神神社の前を通り 過ぎると、総合庁舎北交差点に出る。 交差点を越えると、左側の県冨士総合庁舎の先にあるフィレンセの前に、旧東海道 間宿 本市場の石碑があり、本市場は、吉原宿と蒲原宿の間宿として、東の柏原と共に、茶屋が賑わっていた、とある (右写真)
本市場の名物は白酒、葱雑炊、肥後ずいきなどだったことが書かれていたが、当時の地図
鶴芝碑 では、山の神はフィレンセの一角に祀られていたことになる。 その先左側の民家の 一角に、鶴芝碑があることは、前回述べた通りである (右写真)
その先は、太い道路の分離帯で、通らないようにと注意があるので、横断歩道があるところに迂回し、反対側にまわる。 狭い道を進むと、右手に法源寺が見える。 そのまま進むと、左右の大きな道に出るが、この信号交差点では、右側の古い家の手前まで
一里塚跡 歩き、その前の横断歩道を歩いて、道の反対に出て、左側の狭い道に入る。 道の角に、間宿本市場の道標があることを確認し、少し歩くと、左右に、富士緑道という小道があるが、そのまま直進すると、王子製紙の巨大な煙突からの真白い煙が見える。 道が右にカーブするところの花壇の中に、旧東海道本市場の一里塚跡の小さな石碑があった (右写真)
その前には、冨士市が立てた案内があるので、見落とすことはない筈だが、前回、気が
金正寺 付かなかった。 その先の左手は王子製紙の工場、右側は富士第一小学校、王子製紙の施設が続くが、その先の民家の紅梅とピンクの梅の花が美しかった。 その先は、前回終了した富士本町銀座のアーケードである。 東海道はアーケードを越えて直進する。 少し歩くと、右側に、栄立寺があり、道をはさんで、金正寺があった (右写真)
山門前に、金正禅寺という石柱があるので、山門をくぐったが、寺の建物は新しかった。 
札の辻跡 とはいえ、山門前の左側にある、不許葷酒入山門寺と書かれた石碑には、天保十年の銘があったので、古い寺なのだろう。  その先の富士ホワイトホテルは真白で、隣のNTTも白い建物である。 その先に小川があり、橋を渡ると、左側の道脇に、札の辻跡の標柱があり、左手に、猿田彦大神の石塔が祀られていた (右写真)
ここから北西の方角にある実相寺は、かつては、西の比叡山、東の実相寺とまでいわれた
小さな社 名刹で、実相寺から三キロ以上ある、この高札場まで寺域だった、という。 その先の左側に、小さな社があり、その一角に、道祖神が祀られていた (右写真)
道が右にカーブしたところの右側には、秋葉山常夜燈が建っていた。 交差点を越えて進むと、右手に県道が見え、右側にすき家があった。 まだ、十時半前であったが、早朝に出たのと、この先、食事処がないかも知れないと思い、ハンバーグを乗せたカレーを頼む。 
天白神社 四百八十円だったが、肉も入っていて、うまかった。 十五分程で食事は終り、十時三十六分、再び歩き始める。 東海道は、すぐに県道に合流するが、この角には、冨士市が建てた道標があり、反対から歩いてきた場合は、役にたつのではないか、と思った。 合流した道の右側に、天白神社があった (右写真)
太古の柚木村は、草深いところだったが、長さ一寸八分の米が三粒降ったので、一社を
身延線柚の木駅付近 設けて、天白神社と名付けた。 天正十三年に本社を造営、慶長十八年、寛永十九年、寛文六年に修復した、と、神社の石碑にあった。 境内には、馬頭観音と、宝暦十二年の銘がある石盤があった。 鳥居の先には、JR身延線の高架が見えた。 身延線柚の木駅は左にあり、身延線の高架をくぐり終えた時、右側に、富士山が見えた (右写真)
右手の静岡県富士自動車学校から富士山が電線もなく、正面に見えた。 その先の橋下交差
左東海道道標 点は六差路であるが、ここはやや左にカーブする正面の道を行く。 すると、次の信号交差点の右側にある狭い道に、冨士市が建てた、道標と常夜燈の案内がある。 秋葉山常夜燈は、慶応元年(1865)の建立で、総高は一メートル四十三センチとあり、その傍に左東海道の道標があった、とある (右写真)
道標には、左東海道とあったので、県道をそのまま歩いたが、ファミリーマートと夢庵を過ぎ、
細い道 四丁河原交差点で、この道ではない、と思い、先程の道標まで戻り、右側の細い道に入った。 それにしても、左東海道の道標の向きはおかしく、歩く人を混乱させているのではないだろうか?? この道に入り、一時停止の交差点を越えると、小川が流れている橋を渡った交差点では、左の道を行く (右写真)
県道を左に見ながら、歩いていくと、左手に夢庵が見え、すぐに、横断歩道橋があるところで、
明治天皇御小休所阯 さっきの県道と合流した。 この後は、県道をそのまま歩く。 
五百メートルほど歩くと、左側に明治天皇御小休所阯の石柱が建っていた (右写真)
隣の小さな石碑は、その時の経緯を記したもののようであるが、残念ながら、読み取れない。 右手にこんもりとした森が見える。 どうやら、水神の森のようである。 
江戸時代の富士川は、船渡しで、両岸の岩淵村と岩本村を結んでいた。 水神の森は、
水神社 富士川渡船場の下船居にあり、船場と呼ばれていたところで、この森には、航海の安全を祈願し、水神社が祀られた (右写真)
境内に入ると、鳥居の右側に、富士山道、富士川渡船場跡の石碑があり、参道には、古い常夜燈が建っている。 参道を進むと、赤と白に塗られたコンクリート造りの社殿が現れた。 古い朽ちたような神社を想像していたので、興ざめである。 境内の左側には、文政三年の
馬頭観音と常夜燈 両舟場と書かれた馬頭観音が祀られていて、その手前の常夜燈には、岩本村六番船方講中と刻まれ、その下に、多くの名前が書かれている (右写真)
渡船業務は、最初は京都側の岩淵村がを担当していたが、交通量の増大に伴い、寛永十年(1633)以降は、岩本村も三分の一を分担するようになった。 東岸の渡船場は、松岡地内の一番出しから川下二十町の間で、上船居、中船居、下船居の三ヶ所があり、川瀬の状態で使い分け、そこから、上、中、下の往還が通じていた、と説明にあった。 
水神社 富士川に向って歩き始めると、冨士市が建てた道標の東方向に、護所神社と雁堤とある。 水神社まで歩いてきた途中、右手に見えていた土手が気になっていた。 雁堤とは何かという興味があり、神社の手前まで戻り、土手に向って歩いていった。 土手に上ると、散歩道になっていて、正面には、箱根連山が一望できた (右写真)
左手に富士山の雄大な風景があるので、写真に撮っておこうと、移動しながら、写して
富士山 いると、前方からきた散歩客から、声がかかったので、雁堤について聞いてみた。 彼の話によると、雁堤はかりがねつつみと呼ぶのだそうで、実相寺の上にある岩本山公園から見ると、雁が連なって飛んでいるように見えるとのこと。 行って確かめたらというので、四百メートル程歩いたが、実相寺まではかなりの距離があることに気がついた。 蒲原宿まで歩くのが目的なので、そこで富士山を写して、引き返した (右写真)
角倉了以の石碑 これから、いよいよ、富士川を渡る。 江戸時代の舟渡りに用いた船には、定渡船、高瀬船、助役船があり、通常の定渡船には、人を三十人、牛馬を四疋乗せ、船頭が五人ついた、という。  橋を渡ったところで、河原降り、川に沿って上流に上ると、その上のの車道に、常夜燈と富士川を開削した角倉了以の石碑がある (右写真)
東海道名所図会にも記されているが、富士川は、岩が多く、溶岩の露頭は、地盤堅固で、
富士川橋 舟が通るのに適さなかったが、江戸時代の豪商で土木事業家だった、角倉了以は、石を砕き川底をならして高瀬舟が通れるようにした、という。   常夜燈の前の横断歩道を渡り,正面の坂道を登る。 右へ左へとうねりながら,少しずつ道は広くなっていく。 さっき渡った橋の上に出る (右写真)
この交差点で、右へ曲がり、少し登ると、右手に清源院があるが、ここは左へ。 その先
小休本陣常盤邸 の民家の塀前に、秋葉山常夜燈が建っていた。 道は右へ、そして、左に曲がると、右側に、高さ十メートルの大きな槙が生え、黒塗りの塀のある屋敷が現れた。 
門の下の方に、小休本陣常盤邸と書かれた教育委員会の案内があった (右写真)
東海道の間宿 岩淵には、渡船準備のため、大名が一時休止できる施設として、小休本陣と脇本陣が各一軒設けられた。 常盤家は、岩渕村富士川渡船の名主で、小休本陣を務めた家
新豊院の山門 で、現在の建物は、安政の大地震後、に建てられたもの、という。 建物の脇に、秋葉山常夜燈が建っていた。 用水の側溝の蓋には、東海道ルネサンスと書いていた。 この先の交差点を直進する。 その先の右側に、赤いエプロンをした大きな地蔵尊があり、その先に新豊院の山門が見えた (右写真)
この寺は、鎌倉時代の創建で、山門は江戸時代のもの、という。 右側には、また、
岩淵一里塚 秋葉山常夜燈があった。 その先は突き当たり、右にカーブしている。 
この角に、江戸から三十七番目の岩淵の一里塚が榎の大木とともに残っているが、右側の榎の木は、今まで見たものよりも巨大である (右写真)
左側の榎の木は、昭和四十二年に枯死したので、四十五年に植えられたものである。 その下には、小さな石仏と東海道夢舞台 富士川町岩淵の道標があり、案内板には、
左側の榎の木 ここが岩渕村と中之郷村の境で、岩淵名産の栗の粉餅を売る茶屋が並んでいた、とあった。 その奥には、富士山が見えた (右写真)
道に沿って進むと、右手に富士川町役場があり、隣は富士川第一小学校である。 小学校の先は左にカーブする。  その先、道なりに進むと、富士川駅前の十字路に出てしまう。 東海道線の富士川駅は、もとは岩渕駅といっていたが、前の道は、県道396号(旧国道1号線)
東海道入口 で、初期の東海道は、この道に沿って通っていたが、度重なる水害のため、山裾を迂回するように新たに道が造られ、宝永四年(1707)十二月から三ヶ月かけて現在の場所に移った、という。 東海道に入るところが分りづらい。 小学校を過ぎたら、左側の秋葉山常夜燈の先の信号のない小さな交差点で右折する (右写真)
赤い消火器がある家の先を目印にするが、気をつけないと、駅前交差点まで行ってしまう。 
三叉路 小生は、念のため、地元の人に確認をした。 道はその先で左にカーブし、中部電力の営業所の前を通り過ぎると、新町本町防災倉庫の前に、秋葉常夜燈があった。 その先の三叉路を右行けば東海道であるが、宗済寺に寄るため、左折した (右写真ー振り返って写したもの)
先程、道を尋ねた人から聞いた寺で、左折した先の交差点を右折すると、等覚寺、道の反対
笠被り地蔵尊 は、さくら台幼稚園で、かわいいちび達が手を振ってくれた。 その先に、宗済寺があったので、石段を上ると、山門の脇に、数体の石仏が祀られていた。 山門をくぐると、正面に本堂があるが、その左に、延命閣というお堂があり、延命福地地蔵菩薩という一メートル五十五センチの大きな石造りの地蔵さんが祀られている (右写真)
寛政九年(1797)、中之郷村の名主が、夭折した愛児の追善供養のため、信州の石工に
梅越しの富士 由比川上流の石で造らせ、寄進したもので、山門右側に安置され、前を通る東海道に向っていたので、旅人達に評判になり、笠被り地蔵尊の名声は高まった。 昭和五十年頃、現在地に移され、覆堂で保護した、と案内にあった。 梅林の矢印に従い、墓地を上ると、頂上付近に梅林があり、梅越しに、富士山が一望できた (右写真)
しばし眺めた後、下に降りたが、傾斜が急で、年寄りの墓参りは難儀と思った。 
高速道路をくぐる 寺の先に東海道は残っていないようなので、引き返し、先程の交差点で、右の道を上ると、東名高速道路のガードがある (右写真)
その手前に、夢舞台東海道の道標があり、中の郷 蒲原宿二十三町(2.5q)とある。  東名高速道路の下をくぐると、二又に分かれるが、正面に、野田山東京三田講と薬師如来の石碑がある。 石碑の前で道が二又に分かれるが、高速に沿った、左の道
秋葉常夜燈 を進む。 やがて道は右にカーブして小さな川を渡る。  川を渡ったところで、また、二又になるが、左の道を行く。 ツル家という和洋菓子屋があり、その先、五十メートル程歩くと、右側に安政三年の銘のある秋葉常夜燈が建っている (右写真)
その先の右側に、宇多利神社の石柱と常夜燈があるが、右手には神社は見えなかった。 このあたりは、萬里というところで、少し歩くと、左側から道が合流し、また、道が二つに分かれる。 左側の道に蒲原の表示があり、右側の道は、この先、行止り、とあるが、東海道は、
新幹線をくぐる 右側の狭い道である。 車は新幹線のところで、行けなくなるが、新幹線の下に大人がくぐれるトンネルがあり、そこをくぐり、反対側にでる (右写真)
二百メートル進むと、左にややカーブし、左側の道が合流するが、この道は、さっき左に分かれた道である。 左の道には、大きな秋葉常夜燈があり、その横に、 聳岳雄飛 と、書かれた石碑があるが、昭和四十五年の区画事業を記念したもので、常夜燈もその時、移された
明治天皇御駐輦之趾 のだろう。 この辺りの東海道は、小さな道が左右に分岐するが、そのまま直進する。 やがて、右側の古い家の前に、明治天皇御駐輦之趾之石碑が建っている。 これは、明治十一年に、明治天皇が御巡幸の際、ここで休憩して富士山を眺めた、というものである (右写真)
道が左にカーブすると、登り坂で、今度は右に曲がる。 右の山裾の少し高く、目立たな
高速道路の先に富士山 いところに、三基の石仏が祀られている。 道は左にカーブして、高速道の横に出る。 高速道路の東側を見ると、富士山が見えた (右写真)
この先、由比までは山陰に入り、富士は見られなくなる。 高速道路に沿って、百メートルほど行くと、高速を渡る橋があり、静岡市の表示が出ている。 以前は、蒲原町の表示だったが、合併で変ってしまった。 橋を渡って、先に進むと、道は下り坂となる。 
北条新三郎の墓 坂はかなりの急坂である。 道端に野生と思える、水仙が群がっていた。 左側に、大きな石碑が林立する寺は光蓮寺であるが、寺前に案内板がないので、通り過ぎる。 下りきったところで、道を右折すると、小川がある。 橋を渡ると、右側に、北条新三郎の墓の案内板がある。 その表示に従い、山道を少し登ると、小さな墓があった (右写真)
北条新三郎は、蒲原城主であったが、永禄十二年(1569)十二月、武田軍の攻撃に遭い、
一里塚跡の祠 蒲原城は落城し、城主は城を抜け出し、常楽寺まで逃れたが、寺に火をつけて、自害した、 と伝えられる。 その供養のため、碑が作られた。 常楽寺はこのあたりにあったことは間違いないが、位置は定かでない、とあった。 東海道に戻り、少し行くと、道の左側にある渡辺さんの家の一角に、一里塚跡の祠があった (右写真)
江戸から三十八番目の蒲原一里塚は、元禄十二年の大津波で、蒲原宿が流失し、
山側に移転したのに伴って、この場所に移されたのである。 平成十九年四月に蒲原宿
東の木戸跡 を訪れたとき、この手前で、探索を終ったので、見つけられなかったのである。 ここから先は、既に歩いた道。 坂を下りた所が諏訪町で、右側の小高いところに諏訪神社がある。  その先の右側角地に、江戸側の入口、東の木戸跡の小さな石柱と東海道夢舞台 蒲原宿東の木戸跡の道標があり、ここから蒲原宿である (右写真)
蒲原宿は、既に歩いているので、このまま東蒲原駅まで歩き、十四時五十分、今日の旅を終えた。 今日は富安橋からの旅だったので、途中、富士川で富士山の撮影にたっぷり 時間をかけ
られ、満足した。 

後半に続く( 蒲 原 宿 )







かうんたぁ。