『 東海道を歩く ー 沼 津 宿  』


三島宿を出ると流れている川が境川で、ここが伊豆国と駿河国の国境である。 
沼津宿に向かう途中の玉井寺と宝池寺には、江戸から二十九番目の伏見一里塚がある。 
また、長沢八幡宮には、奥州からかけつけた源義経と兄頼朝が対面した時の石が残っていた。 
沼津は水野家の城下町と同時に宿場町であったが、戦災に遭い、当時のものは残っていない。




三島宿から沼津宿

境川橋 平成19年6月3日(日)、今日は三島宿から沼津宿を経て原宿まで歩く予定である。 
10時52分、三島宿の西の追分といわれる秋葉神社から三十メートルほどの境川橋に到着した。  道の下に小さな川が流れているのが境川で、ここが伊豆国と駿河国の国境で、現在は三島市と駿東郡清水町との境になっている (右写真) 
橋の中ほどに案内板があり、千貫樋(せんがんとい)とある。 これはなんじゃろう?? 
千貫樋 境川の上流を見ると、大きなコンクリート製の樋が川を横切って架かっていた。 
よく見ると千貫という文字が見え、どうやらこれが千貫樋のようである (右写真) 
天文二十四年(1555)、今川、武田、北条三家の和睦が成立した時、北条氏康の娘が今川氏真へ嫁ぐときの引出物として、北条氏康が、楽寿園の小浜池から長堤を築き、池の水を今川領だった駿河に引くために造ったもので、清水町の耕地百五十町歩が恩恵を受けた。 
常夜燈と新宿道標 関東大震災で木樋が壊れ、今はコンクリート製に改造されている(巻末参照)
二百メートルほど歩くと、右側に松が二本植えられたところに、常夜燈が建っているが、 弘化三年(1846)に建立されたもので、正面に、 常夜燈 中内村 とあり、両側には、秋葉大権現と富士浅間宮 という、二つの火防の神様が刻まれていた (右写真)
最初は筋向いの東海道の十字路にあったが、他に移されていたのをここに移したものである。 
玉井寺の一里塚 夢舞台東海道 新宿 向かい宿 の道標も建っていて、沼津宿まで一里とあった。  ここから一キロ程歩くと、右側に築山のようなものが見えてきた (右写真)
近づいていくと、玉井寺と宝池寺が向かい合って建っていて、両方とも臨済宗のお寺である。  先程見えた茂みは玉井寺側で、土盛りされたところに一里塚の標柱が立っていた。 江戸から二十九番目の伏見一里塚である。 わりと原形が保たれていた。 道の反対の宝池寺の
宝池寺の一里塚 一里塚も同じ時期に作られたのだが、形が崩れてしまったので、昭和六十年(1985)に改修した、とあった。 玉井寺の建物は新しく、駐車場など整備されていたが、江戸時代には宝池寺側に立場があり、人夫が駕篭などを停めて休憩できる場所だったようである (右写真-宝池寺と新しい一里塚)
玉井寺山門の近くに、三界萬霊等と白隠の遺墨を刻んだ石碑がある。 

白隠遺墨の碑 白隠は、臨済宗中興の祖と称される江戸時代中期の高僧で、 駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠 と、いわれたとあり、この寺に彼の遺墨が数点残されているという。 石碑は、雄渾にして気迫ある筆太の筆跡で書かれていた (右写真)
お寺を出て少し歩くと、八幡交差点にでる。 国道1号線と交差しているが、国道を越えて進むと、法泉寺があり、その先の民家の塀の花壇のようなところに、長沢学校跡と書かれた木標
八幡神社 があった。 その先の右側に、対面石と書かれた大きな看板と鳥居があるところが、長沢八幡宮ともいわれる八幡神社である (右写真)
東海道名所図会に、「  頼朝、義経初対顔地 ー 黄瀬川の東長沢村八幡宮の社地なり 」  と、書かれたところで、 治承四年(1180)の富士川の戦いの前に、奥州からかけつけた
対面石 義経と兄頼朝が初めて会ったところである。 桜並木の参道を歩いて行くと、社(やしろ)があり、その左手奥に、向かい合った石が二つあったが、それが対面石だった (右写真)
このあたりはお寺が多く、この近くに秀源寺、そして東光寺があった。  八幡神社を出て進むと、松並木が現れ、松の気の下に、夢舞台東海道 長沢松並木 の道標があった。 この少しだけ残っている松並木を長沢の松並木というのらしい。 少し歩くと、緩やかな上りになり、黄瀬川
智方神社 に架かる橋が見えてきた。 その手前にある小さな神社は 、江戸時代の道中案内記に、 明神あり と、記されている神社だが、智方神社である (右写真)
建武弐年、侍女の宮入南の方(藤原保藤の娘)は、しいられた後醍醐天皇の皇子、護良親王の首を持って、都に報告しようと、ここまで来たが、黄瀬川を渡るのが困難となり、首をこの地
黄瀬川橋 に葬り、祠を建てたのが智方神社の始まり、という。  智方神社の先で、道は右にカーブし、そのまま黄瀬川にかかる橋を渡る (右写真) 
橋の上から富士山を探したが、雲がかかり、姿は見られなかった。  橋の反対側はかなり急な坂なので、車が勢いをつけて向ってくるので怖い!!、と思った。 橋を渡ると、沼津市で、一応二車線だが、道巾が狭まり、歩道もなくなってしまった。 
潮音寺 交通量は少なくないので、神経を使って歩いた。 しばらく行くと、右側に臨済宗妙心寺派の東海山潮音寺がある。 本尊の聖観世音は、恵心僧都の作といわれるが、それよりも、亀鶴山観音寺から移された亀鶴観音の方が有名である (右写真)
観音寺は、明治に廃寺になった寺で、黄瀬川近くにあった。  亀鶴姫は、白拍子で、大磯の虎御前と並び称された美女だったらしい。 曽我兄弟が工藤祐経の寝所に討ち入ったとき、祐経と
鶴亀姫の石碑 同衾していたといい、東海道名所図会に、 「 白拍子亀鶴は 建久の頃の風流女にして、富士の牧狩の狩場の屋形に来り 工藤祐経と同席に臥したる事、曽我物語に見えたり 」 と、いう記述がある。  境内入ってすぐ左の亀鶴姫の石碑のところが、亀鶴の墓といわれる (右写真)
境内には、南無妙法蓮華経の石碑他馬頭観音、大日如来など古い石仏群もあった。 
きせがわ病院前 潮音寺を過ぎるとすぐ県道380号(旧国道1号線)に合流するので、ここを左折したが、き せがわ病院前には先程訪れた伏見一里塚への矢印の石柱があった (右写真) 
道幅が広くなるが車の通行が多い道である。 しばらくの間、この道を歩く。  下石田バス停の先には眼鏡市場があり、その先の道の反対には大岡南小、その先には 西友があり、左側にはルネサンストーアというスポーツクラブがある。 スポーツクラブの先の草むらに埋まりながら、
歴史マップ 歴史マップ沼津市大岡という看板があった (右写真) 
説明を読むと、潮音寺のあたりは木津川村で、潮音寺より西に従是西沼津領という傍示杭を示す石柱が建てられた、とある。 この石柱は今でもあるのだろうか?? 
また、西の小さな川は久保川で、その両脇は久保の松並木があった、とあった。 
メガネパリミキ前 この看板あたりも松並木だったようだが、今はその片鱗すらなかった。  ここには、 駿府への矢印のついた道標もあったが、この先のメガネパリミキ前で、左側の細い道に入るのが、東海道である (右写真)
道の左側は堤になっているので、階段を上ってみると、狩野川が流れていたが、かなり広い川巾である。 堤から下に降り、街道を歩くと、左側に小さな社(やしろ)があった。 
平作地蔵尊 この小さな社は、日本三大敵討ちの一つに数えられ、浄瑠璃・伊賀越道中双六に出てくる、平作ゆかりの地蔵尊である (右写真)
伊賀越道中双六とは、荒木又右衛門が義兄弟になった渡辺数馬のため、伊賀上野の鍵屋の辻で、仇の河合又五郎一行に決闘に臨み、見事本懐を遂げる話を戯曲化したもので、平作地蔵はそれに纏わるものである (詳細は巻末参照) 
それはともかく、このあたりが、江戸時代の沼津宿入口である。 

(ご参考) 千貫樋(せんがんとい)

説明板によると、「 この樋の長さは42.7m、深さ45cmで、天文二十四年(1555)、今川、武田、北条三家の和睦が成立した時、北条氏康の娘が今川氏真へ嫁ぐときの引出物として、氏康が楽寿園の小浜池から長堤を築き、その水を今川領である駿河に疎通させるために造った。 関東大震災で木樋が壊れ、今のコンクリート製に改造された。  名の由来については、架設が巧みで銭千貫に値するとか、建設費が銭千貫かかったなど、 諸説がある 」  と、あったが、この疎水により現清水町内の耕地150町歩が多大な恩恵を受けたと いうから、北条家と今川家の和睦は庶民のためになった訳である。 


沼津(ぬまづ) 宿

一里塚跡 沼津宿の入口と思える平作地蔵の社に到着したが、先客に若き女性がいて、地蔵が史実に基づくものなのか、気になっている様子だった (平作地蔵については巻末参照)
その先の右側の小公園に、夢舞台東海道 一里塚跡 の道標が建っていた (右写真)
その奥にある形が崩れてしまいかなり小さくなってしまった塚が、江戸から三十番目の 一里塚で、細い榎(えのき)は枯れた後に植えなおしたものである。  伏見一里塚からの
玉砥石 距離が合わないが、沼津宿になるのでその手前につくられたのだろうと説明にあった。 また、もう1つの一里塚は狩野川縁にあったようだが、現存しない。 この塚の上に、古墳時代に玉石を磨いたとされる玉砥石が2つ置かれていた (右写真)
承平年間(931〜938)に編纂された和名類聚抄に、駿河国駿河郡に玉造郷の名があり、香貫地区(ここより南)一帯で、玉が生産されたという説がある。 その説からすると、
日枝神社参道 砥石が東海道の日枝神社参道脇にあるのは不思議で、何時からあるのかは分らない、と書かれていたが、静岡県内では、この二つしか発見されていないという貴重品のようである。  なお、日枝神社は小公園の先にある (右写真) 
一里塚から街道に戻り、先を行くと、また県道380号線に合流した。 
少し歩いくと三枚橋東交差点で、その先の国道414号線との三園交差点で、三枚橋
川郭通り 歩道橋を渡り、向こう側に出ると、右側の八木橋パーキングの脇に、三枚橋のモニュメントがあった。   その先の歩道橋を渡り、道の左側にでると、東海道川郭通りの石柱があり、煉瓦色のタイルを敷き詰めた道があった (右写真)
江戸時代の川郭町は、川曲輪とも書き、志多(した)町と上土(かち)町との間に挟まれた狭い町で、東側は狩野川に接し、背後は沼津城の外郭に接していた。 
五十三次浮世絵 右の絵は、医一雄斎国輝が描いた末広五十三次沼津宿で、これには富士山を背景に、沼津城の三重櫓、二重櫓や、長州征伐のため、上洛する幕府軍の姿が描かれている。 
沼津藩の初代藩主は大久保治右衛門忠佐で、三枚橋城の跡地に沼津城を築いたが、嫡子が死亡していた為、忠佐の死去により、わずか十二年で断絶した。 その後、天領(幕府領)となり、城も壊されたが、安永六年(1777)、水野忠友に沼津藩二万石として城地を与えられ、城跡に、
川郭通り案内板 また、城が築づかれることになった。 それが浮世絵の沼津城で、狩野川に隣接し、天守に相当する三層の櫓の本丸、その北西に二の丸三ノ丸が造られ、二の丸に御殿を置いた姿である。 なお、水野家はその後加増を受け、水野家五万石の大名として、幕末まで八代続いた。  道は川に突き当たり、右にカーブしていくと、右側に川郭通り案内板がある (右写真) 
沼津城は、明治五年の廃城令により破壊され、沼津兵学校の敷地となったが、道路の拡張など
狩野川川岸 で、敷地は削られ城跡は残っていないが、この上のあゆみ橋の先にある中央公園には、沼津城本丸址の碑が建っている。  阿見屋という店の横を上ると、狩野川の川岸に出た (右写真)
狩野川に沿って歩き、御成橋に出たら右折して、通横町の信号交差点で左に曲がり、県道159号線を進むと、左側は魚町、そして仲町になる。 魚町は魚を商う商人たちが集まっていた。 
浅間神社 江戸時代の終わりごろ、魚町も仲町も食品雑貨品や船具を扱う商人が増え、魚商は宮町や下河原に移っていった、とある。 左側に永代橋が見える信号交差点を右折すると、県道160号線になる。  新町、下本町を過ぎると浅間町で、交差点の右側に浅間神社があった (右写真) 
丸子神社も合祀されているようで、鳥居に両社の名前が並んで刻まれていた。 
東方寺 何時建てられたものか分らないが道標があり、千本浜海水浴場道、左沼津公園、とある。 交差点を越えた左側に東方寺があった (右写真) 
時計を見ると13時35分、三島から歩いてきたが、食事をしていないことに気がついた。  リックにコンビニで買ったパンも入っていたが、寺の手前に中華店ののれんを見て入ることにした。  餃子定食を頼むと餃子とラーメンと半ライスが出てきたので、 ボリュームは充分だった
乗運寺山門 が、味は今ひとつだった。 それでも、三十分ほど休憩でき、水分も取れたのでこれで十分満足である。  外に出ると、右側には千本山乗運寺の山門が見えた (右写真) 
乗運寺は浄土宗京都知恩院の末寺で、増誉上人(長円)による開基で、三枚橋城主松平康親や沼津城主水野忠友の菩提寺である。  「 合戦によって荒れ果てたこの地に、旅の僧の長円がやって来て、土地の人々が塩害に苦しんでいる姿を見て、松苗を植え続けたという。 
牧水の墓 人々は天文六年(1537)、長円の行為と徳を称えるため、草庵を建てた。 初めは成鳴寺といったが、その後、乗運寺と変わった。 」 と、寺に伝えられる。 
しかし、この寺は有名にしたのは、長円や沼津城主水野忠友等ではなく、旅を愛した漂泊の詩人、若山牧水の墓である (右写真)
漂泊の歌人、若山牧水はいろいろなところを旅していたが、終の棲家にしたのは温暖な気候の
出口町見附 沼津で、ここで亡くなったのである。 街道に戻り直進すると、右側の歩道に出口町見附の案内板があるが、ここは沼津宿の西の出口である見附があったところである。 沼津宿には本陣が脇本陣がそして旅籠があったのだが、それらが何処にあったか確認もしないまま、宿場の終わりまできてしまった  (右写真)
大正弐年(1913)の出口町から出た出火で、三百町歩、千四百六十八戸の家を焼失させ、これを契機に道路改修に着手し、大正四年(1915)に完成させたが、昭和二十年に、軍事都市化
した沼津市は八度の空襲に遭い、町のほとんどが焼き尽くされた。  このような歴史を経験して
は、江戸時代の古い建物が残っていないのは当然だろう。

(ご参考) 平作地蔵
この地に残る平作地蔵尊は、浄瑠璃・伊賀越道中双六に出てくる、渡辺数馬と関連する伝説とあるが、そもそも伊賀越道中双六とはなにか?? 
もともとの話は、寛永十一年、荒木又右衛門が義兄弟になった渡辺数馬のため、伊賀上野の鍵屋の辻で、江戸に向った仇の河合又五郎一行に決闘に臨み、見事本懐を遂げる話である。 それを戯曲化したのが伊賀越道中 双六であるが、その前段の第六段に、沼津の場というのがある。 話を簡潔に書いてみると、 
『 渡辺数馬は兄の仇の河合又五郎を捜しまわっていた。 沼津で茶屋を営む平作の娘は、渡辺数馬の妻だった。 平作は、二十数年前に生き別れた子の十兵衛の人足をして自宅に泊めるが、又五郎の行方を知っている ことを知り、慌てて家が出た息子を追いかけ、「死にゆく仏の供養として聞かせてくれ」と言いながら、自害して十兵衛から又五郎の行方を聞き出す。 十兵衛は20年前に生き別れた 平作の息子であった。 平作の自害を蔭で見ていた娘は、又五郎の行方を数馬に伝え、数馬は本懐を遂げる。 』
という話である。 その平作を供養したものらしいが、沼津の段は戯曲家の作り話と思えるので平作という人物がいたかどうかは、疑問である。 


平成19年(2007)    6 月


(13)原宿へ                                           旅の目次に戻る







かうんたぁ。