『 東海道を歩く ー 三 島 宿  』

三島を象徴するのが三島大社で、その門前町として発展した。 
箱根関所と箱根越えを済ませると三島宿があり、旅人は難関を突破したと、羽目を外したといわれる。
その相手をしたのが三島女郎衆で、農夫節と併せて、全国的に有名になった。 
 




箱根宿から箱根峠

芦ノ湖 箱根は、東海道で 唯一 国立公園に指定されているだけに、美しい景観を醸し出している。 特に、芦ノ湖は、周りの風景を湖面に映し、優雅である。 この湖は、標高七百二十五メートルに位置する周囲二十一キロ、最深部は四十三メートル五十センチの湖である (右写真)
冨士火山帯の陥没火口湖(カルデラ湖)で、湖底には、今でも、杉の大木が立ったままの姿で沈んでいるし、古代集落の跡も、そのまま残されている、という。 
駅伝碑 とはいえ、東海道を歩くものにとっては、江戸時代の旧跡は関所までの松並木がかろうじて残るだけで、もの足りない。 箱根宿だった場所は、バスターミナルと海賊船の発着場になったし、箱根宿南交差点には、大きな駅伝碑があり、現在の箱根観光を象徴している (右写真)
平成20年2月29日9時40分、箱根宿南交差点から三島宿に向って歩き始める。 
国道1号は多少上りになるが、駒形神社の表示板がある交差点で、東海道は右折してしまう。 
山神 お陰で車による事故の心配はしないで済んだ。 この交差点の左角に、山神が祀られている小さな祠があった。 また、祠の左側には、天正十八年の関白道の道標があったが、これは、小田原攻めの際、豊臣秀吉が通った道なのだろうか? (右写真)
東海道は、右折し、対向二車線の道に入っていくと、左手の杉木立の奥に、駒形神社が見えてくる。 
駒形神社鳥居 入口には、箱根七福神の赤い幟があり、毘沙門天 駒形神社の案内板が立っている。 鳥居のあたりに、犬神明神の案内板があった (右写真)
それによると、 「 元和四年(1618)、箱根宿が創設されたとき、付近には、狼がたくさんいて、建設中の宿の人々を悩ませた。 そこで、唐犬二匹を手に入れて、狼を退治させ、やっと、
庚申供養塔 宿場が完成した。 しかし、二匹の犬も傷ついて、死んでしまった。 人々は宿場を完成させてくれた二匹の犬をここに埋め、犬神明神として祀った。 」 、と書かれていた。 
江戸時代には、日本狼がまだ生存していたのですねえ!! 
石段の右側に、庚申供養塔が建てられていた (右写真)
石段を登ると、蓑笠明神が祀られている。 蓑笠とは変な名であるが、商売の神、恵比寿を
駒形神社 祀っていて、お参りの日に蓑笠を被ることから、という。 その先に、先程の犬神明神の小さな社があった。 毘沙門天は右手にあり、駒形神社は一番奥にあった。 この神社は、駒形大神とも呼ばれ、天御中主大神(あめのみなかのぬしのおおかみ)、大山祇神、素戔鳴命を祭神とした、宿場の鎮守社である。 (右写真)
箱根神社の社外の末社として、荒湯駒形権現と称していたこともあり、創祀は不明だが、 かなり古いと思われる、とあった。 杉林の中にあるので、雪が多く残っていた。 
芦川石仏群 街道に戻ると、道は三差路で、そこには、芦ノ湖西岸歩道の大きな案内板が建っていて、右折すると、ふれあいの森を経て、湖岸を湖尻まで行く道で、約四時間のコース、とあった。 
東海道は、正面の舗装された狭い道で、入っていくと、民家の反対側の山際に、多数の石仏と石柱が建っていた (右写真)
これは、芦川の石仏、石塔群と、呼ばれるものである。 その先の左側に、箱根旧
箱根旧街道案内板 街道の案内板と史跡箱根旧街道の石柱が建っていて、案内板には、この地点から箱根峠まで、約五百メートルにわたり、石畳が現存する、とあった (右写真)
その奥に建つ南無観世音菩薩の石碑は、苔むして、字がかろうじて読めるものである。 その先の家までは、敷石が置かれていて、歩きやすかったが、その家を過ぎると、昔のままの石畳みの道に変った。 向坂の石標があり、また、向坂と風越坂の案内があった。 
向坂 風越坂の案内には、当時、石畳が敷かれたのは坂道だけで、集落の中や平坦な場所には敷かれなかった、とあったが、肝腎の風越坂の場所の記述がない。 推察するに、さっき歩いてきた道のどれか一部なのだろう。 石畳を上り始め、杉が茂って日が当らないところにくると、石畳の上に雪が積もり、溶けないでいることが分った (右写真)
犬を連れて上から下りてきた人は、この上ずーとそうですよ!、といって、下に降りて
赤石坂 いった。 楽に上れると思っていたのに、誤算である。 滑らないように、足場を確認しながら歩く。 その先では、国道の下をくぐり、反対側に出る。 赤石坂と表示はあるが、雪の量は先程より増えたようで、所々に、石が頭を出す程度である (右写真)
茂っている笹の葉が枯れて地表に落ちている。 笹の枯葉を歩いたら、あまり滑らなかったので、それを見つけながら、上った。 続いて、釜石坂の表示があった。 杉の木が多く残っ
挟石坂 ている割に明るいので、雪は溶けて少ないのだが、溶けたのが氷に変り、滑るので、かえって危険であった。 少し歩くと、また、雪道になり、その先に階段が見えてきた。 階段を上ると、右側に挟石坂の石碑があり、国道1号線に出た  (右写真)
挟石坂(はさみいし坂)の案内板には、箱根峠に行く坂で、当時の浮世絵を見ると、伊豆国を分ける標柱とゴロゴロした石、それに、カヤしか描かれていない荒涼した峠だった、とあった。 
国道 時計を見ると、十時二十分なので、上るのに四十分もかかったことになる。 予定では二十分なので、雪と氷で倍を要した計算になる。 国道を右折すると、道の駅箱根峠があるが、眺望はあまり良くない。 国道を三島に向って進む。 道の左側を進むと、箱根新道に入ってしまうので、手前で右側に移動する  (右写真)
その先では、左から箱根新道からの車が合流してくる。 歩道が狭いし、車が多いので
箱根峠交差点 歩いていて、気をつけなければならない。 右にカーブする左側に、箱根くらかけゴルフ場の看板がある。 箱根エコパーキング500mの標識のあるところで、左側に渡り直した。 芦ノ湖スカイライン入口を過ぎると、箱根峠のバス停があり、箱根峠交差点の手前に、箱根峠標高846mの標示板があった (右写真)
雪道を歩くハプニングはあったが、とりあえず、箱根峠に到着したのである。 なお、江戸時代の東海道の峠は、ここより高い、鞍掛ゴルフ場へ向う道の途中にあったようである。 
箱根峠交差点 静岡県と函南町の標識があり、ここが神奈川県と静岡県の県境である。 昔は相模国と伊豆国の国境だった訳で、日本橋を出発した旅人は、武蔵、相模と歩き、箱根峠で、三つ目の伊豆国に入った訳である。 峠といっても、見晴らしが良い訳でもなく、振り向くと、出光のガソリンスタンドの先に、駒ケ岳がなんとか見えるだけだった (右写真)

箱根峠から山中城址

喫茶箱根路 交差点に、喫茶箱根路食事と書かれた看板の家があり、ラーメンの赤い幟が出て いた。 寒かったこともあり、衝動的に入り、気がついた時には、ラーメンを注文していた (右写真)
まだ十時三十二分だったが・・・ この店には、二十分程いた。 その間に、トイレも済ませたが、身体が冷えたせいで、お腹の調子が今一である。 
箱根旧街道入口 店を出ると、道の反対にあるのが、先程の標識にあったエコパーキングのようで、大型の車が数台停まっていた。 
箱根旧街道の門札があるところをくぐり、東海道の旅の再開である (右写真)
箱根の坂は、箱根峠までの江戸側を東坂、京都側を西坂と呼んでいたようであるが、
新箱根八里記念碑 これから歩く西坂は、開設当時、ほぼ一直線の下り道で、あまりの急坂だったため、雨の日には、人も馬も滑って転んだため、その後、改修され、道幅も広くなり、歩きやすくなった、と伝えられる。 けったいな門をくぐり、タイル敷きの道を歩くと、右側に、芸術作品のようなものが現れ、新箱根八里記念碑(峠の地蔵) と、あった (右写真)
黒柳徹子など八人の女性の揮毫により、新石碑が誕生した、とあり、未来への道標となろう
箱根旧街道入口の道標 、現代の一里塚である、と説明していたが、どうみても、国土交通省の税金の無駄使い以外のものではない。 共同トイレの先を下ると、タイルの道は終わり、箱根関所跡2.5km、箱根旧街道入口の道標が建っていた (右写真)
指示された道は、芦ノ湖カントリークラブへ通じる舗装された立派な道であるが、車はほとんど通らない。  五百メートルほど歩くと、ゴルフをしている人が、遠目に見えるようになったら、
ばらが平 左側に旧箱根街道の案内板があり、三島宿までのルートと所要時間が表示されていた。 また、このあたりは、いばらが生い茂っているので、付近の草原を茨ヶ平という、と書かれていた。 江戸中期の東海道巡覽記にも、 ばらが平、いにしえよりいばらの多くありし故に名とするよし 、とあるので、頷ける (右写真)
箱根関所跡3km、三島宿11km、の標識、また、是より江戸二十五里、是より京都百里の
兜石案内板 道標が、雪の中に埋まっていた。 坂を下ると、休憩施設があり、兜石案内板があり、その前には、いつ作られたものか、雪だるまが鎮座していた (右写真)
道に沿ったところに、 夢舞台東海道 兜石 の道標があり、次の宿場の方向と距離が表示されていた。 夢舞台東海道の道標は、静岡県が設置しているもので、この先、愛知県に入るまで、しばしば目に触れることになる。 案内板の奥に入って行くと、箱根七里記念碑、北斗闌干
八ツ手観音 井上靖 と書かれた石碑が一つだけ建っていた。 夢舞台東海道の道標まで戻ると、道の右側に、石仏が祀られている。 八ツ手観音だろうか? (右写真)
この坂は甲石(かぶといし)坂というようであるが、案内板にある兜石はここにはなかった。 坂を下り始めると、道の両脇は笹竹で、雪の重みによるものと思うが、道路側に倒れかけており、道に一部であるか、雪が残っていた。 南西に面しているからか、東坂よりは少なかったとはいえ、涸れた笹は、滑りやすいので、注意して下りた。 
兜石跡碑 笹原の道が終り、杉林に入ると、雪はなくなり、荒れてはいるが、石畳になった。 左側の笹のあるところに、函南町指定史跡・兜石跡の小さな石碑が建っていた (右写真)
秀吉が小田原攻めの時に兜を置いて休んだという兜石(かぶといし)があったところである。 このあたりは、石畳の石がかなり残っている。 雑木林に入り少し進むと、道は荒れていて、
国道1号線 少し急な下りになった。 車の音が気になりだしたら、国道1号線に出てしまった。  ここに、山中城跡、三島宿(箱根旧街道迂回路)の道標があるので、指示に従い、国道の歩道を下ると、左に急カーブするところにでた (右写真)
そこには、接待茶屋のバス停があり、その先の右側に、小道があったので、中に入る と、史跡箱根旧街道の石柱と大きな看板が建っていた。  箱根八里の山越えは、旅人達にとって、
接待茶屋の道標 困難な道で、特に、晩秋から早春にかけての峠付近は、雪の日が多く、危険な道だったので、旅人や馬子達の避難場所が必要だった。 ここには、夢舞台東海道 接待茶屋の道標が建っているが、その施設があったところである (右写真)
施行平(せぎょうだいら)に、本格的に接待小屋が設けられたのは、文政七年(1824)のことで、江戸の豪商、加勢屋與兵衛(よへい)が私財五十両を投じ、是を基金として、馬に飼葉を、また、
接待茶屋 他の茶店が閉店する冬場には旅人に粥(かゆ)と焚き火を無料で提供した もので、明治維新まで続いた、とある。  明治十二年(1879)に再開されたものを、鈴木家が引き継ぎ、昭和四十五年(1970)に、店が閉じられの九十年の永きにわたり守り続けてきた。 その建物も、平成五年(1992)の国道拡幅工事により、取り壊されてしまった (右写真)
接待小屋は、まさに、ボランティアの先駆者である (詳細は巻末参照)
徳川有徳公遺跡碑 箱根旧街道の大きな看板の先の こんもりとした上に、苔が生えた石があるが、江戸から二十六里目の山中新田一里塚ではないだろうか? 一里塚の表示はないので、確認できなかったが・・・  少し先には、徳川有徳公遺跡碑が建っていた (右写真)
これは、富士屋ホテルのコック長を務めた鈴木源内が昭和十年(1935)に建立したもの
兜石 である。 有徳公とは徳川吉宗のことで、謚名の有徳院から来ている。 
道の右側には、巨大な石の兜(甲)石があった (右写真)
豊臣秀吉が小田原攻めの時、彼の兜を置いた石といわれ、最初は、先程の兜石跡の石碑があったところにあったのだが、 昭和初期の国道工事の際、接待茶屋のあたりに移され、平成の国道工事で、ここに移されたのである。  静かな林の中の道を進むと、三差路になるが、
明治天皇御小休阯碑 道標に沿って左の道を進むと、左手の笹の奥に、昭和三年(1928)建立の明治天皇御小休阯碑が建っている。  明治天皇が、明治元年(1868)に上京なさった時、休憩をおとりになった場所で、当時はビンカの茶屋と呼ばれた甘酒茶屋があった。  ビンカとは、イヌツゲのこの地方の呼び名で、茶屋の脇に植えてあった、という (右写真)
街道に戻り、石原坂を下る。  石畳の道であるが、その上に、落葉が積もって石畳には見えない道だった。  坂が急になると、落葉も少なくなり、石がゴロゴロむき出しになった。 
念仏石 しばらく行と、右側に、ふれあいの森と、刻まれた大きな記念碑がある。 両脇の木は、雑木から杉に変った。  気を付けないと、見落とすが、右側に、念仏石と呼ばれる、大きな三角形の石が突き出していて、その前に、南無阿弥陀仏 宗閑寺 と、刻まれた、小さな石碑が建っている (右写真)
突き出ている石を土地の人は念仏石と呼ぶ。 宗閑寺とある石碑は、行き倒れの旅人

新五郎久保 を宗閑寺で供養して、石碑を建てたもの。と思われる、 と、説明板にあった。 道が平坦になると、道の左側が開け、奥に箱根の山々が、国道が眼下に見える (右写真)
右側に、仮設トイレと街道の案内地図があり、山中城跡まで一.三キロの標識があった。    左から国道1号から入ってきた細道を横切ると、大枯木坂の石畳道になる。 
大枯木坂 このあたりは、山中農場の一角なのだろう。 杉林の中を少し上ると、視野が開ける枯れ野に出た。 鞍掛山から十国峠にかけての風景だろうか? (右写真)
しかしながら、富士山のある西方は視野が妨げられて見ることは出来なかった。 それでも、これまで歩いたなかで、一番解放感に浸れる道だった。 この区間は短く、下り坂になると、民家の庭のようなところにでた。 民家の前を歩き、国道に出た。 
小枯木坂 横断歩道を渡り、国道の左側に出て、坂を下ると、右にカーブするところに、農場前のバス停があり、その先に、三島市の標識があった。 カーブを曲がったところの左側に、下に降りて行く階段がある。 下りていくと、杉が林立する林の中に石畳があった。 少し歩いたら、東海道夢舞台 山中新田 願合寺地区石畳 の道標があった (右写真)
この緩やかな坂道は、小枯木坂と思うのだが、願合寺地区となっていた。 入口の大看板に、
一本杉石橋 一本杉石橋が当時のままの姿で発掘された、とあったが、石畳に大きな石を横に並べた形であった (右写真ー振り返って写したものだが、横に並んだ大きな石)
この石畳は、昭和四十七年に、道の中間部分の二百五十五メートルを修復整備していた。 平成七年に、残りの四百六十六メートルを掘り起こしたところ、その内の百八十八メートルには、江戸時代の石が残っていたので、そのまま復元整備した。 
杉林 その他の二百七十八メートルは、石が少ないか、残っていなかったが、石の足りない部分は、根府川産の安山岩で補填し、この部分も石畳にした、とある。  石畳み道と杉並木の組み合わせは江戸情緒を感じさせ、なかなか良いものである。 元箱根の杉並木程、雄大ではないが、ひとけのない静かな杉木立の間を歩く喜びを感じた (右写真)
その先、左側に現れる道は、函南原生林に入る道だろう。 道を直進すると、正面の
雲助徳利墓 小高いところに、国道が見えてきた。 その手前の右側に、墓石に徳利の絵が描かれている墓があり、盃と徳利が浮き出している下に、久四郎と彫られている (右写真)
傍らの案内によると、雲助徳利墓と呼ばれる墓で、彼は、松谷久四郎と名乗り、一説では、西国大名の剣術指南だったが、大酒飲みのため、酒がもとで事件を起こし、国外追放となり、箱根で雲助の仲間入りをした。 剣術の腕前に優れ、読み書きができるので、雲助仲間から
三界万霊塔と六字名号碑 親分以上に慕われるようになったが、酒が因で命を縮め、亡くなった。 彼の死後、雲助仲間が彼を偲んで、この墓を建てた、と書かれていた。 国道に向って上っていくと、山中城跡歩道橋があり、その足元に、史跡箱根旧街道の石柱と天保九年(1838)の三界万霊塔と延宝八年(1680)の六字名号碑が建っていた (右写真)
その奥の竹林の土手下には、中段に八基の石碑や供養塔があるが、この地にあった阿弥陀堂の名残り、という。 歩道橋を渡ると、山中城址に到着である。 

(ご参考) 接待茶屋

箱根山中における接待の歴史は古いが、創始は、江戸中期の箱根山金剛院別当が、箱根山を往来する者の苦難を救うため、人や馬に粥や飼葉、焚火を無料で施した、と伝えられる。 この接待所も一時途絶え、ついで、文政七年(1824)、江戸の豪商、加勢屋與兵衛が再興したが、これも明治維新と共に、中断してしまった。 やがて、明治十二年(1879)、八石性理教会によって、接待茶屋を再スタートしたが、教会の衰退とともに、鈴木家に引き継がれ、利喜三郎、とめ、力之助、万太郎、ときらの三代により、接待は続けられた。 昭和四十五年(1970)に茶釜を降し、接待所の歴史に終止符を打つまで、約九十年、箱根山を往来する人馬の救済にあったのである。
 (以下略)
(三島市教育委員会の案内板より)
 

山中城址

山中城阯の石柱 山中城跡歩道橋を渡ると、東海道夢舞台 山中城跡の道標があり、向かいに、石段と鳥居があり、鳥居の左にも、山中城阯の石柱が建っていた (右写真)
山中城は、永禄年間(1558〜1570)に、北条氏康によって築城された城で、東海道を取り込む形で造られていた。 鳥居を入った右側には、貞享四年(1687)の庚申塔と地蔵があり、石段を登っていくと、神社があった。 正面の駒形諏訪神社は、元々あった駒形神社に、鎌倉時代
山中城阯の神社 の旧東海道の元山中にあった諏訪神社を合祀したもので、城の守護神として祀られたもので、右側には、八坂神社があった  (右写真)
左側には、県天然記念物のアカガシの老木がある。 この木は、樹齢約五百〜六百年で、根廻り九.六メートル、高さ二十五メートルの巨木である。 後には、三島市天然記念物の矢立の杉があり、高さは三十一メートル五十センチ、樹齢五百年の古木である。 
山中城本丸跡 その先に進むと、山中城の本丸だったところに出た。 本丸は、標高五百七十八メートル、面積は千七百四十平米で、天守櫓と共に、城の中心で、堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南に兵糧庫と接していた (右写真)
山中城は、北条氏が秀吉の小田原攻めに備えてつくった堅固な城である。 戦国時代共通の山城だが、石垣を使わずに土塁と空堀で防備を固めた築城方法は珍しい。 
二の丸櫓台跡 本丸を出ると、橋があり、その周りは深い空堀と高い土塁で、守られていた。 橋を渡ったところが二の丸である。 現在は、広い広場になっているが、一組のカップルと一匹の犬がいた。 この素晴らしい陽だまりを独り占めするかの様である。 その奥に、二の丸櫓台があった (右写真)
櫓は残っていないが、正面に見える樹の間から、雪を被った富士山が見えた。 今日

西の丸跡 始めてみた冨士である。 堀にかかる橋を渡って西の丸と西櫓に行く。 西の丸は、三千四百平米の広大な曲輪で、山中城の西方防衛の拠点であったが、建物は、掘立て小屋程度のものしかなかったようである。 西端の見張台は、全て盛土を積み上げたものである。 また、西の丸を守る堀は、西の丸畝堀といい、五本の畝によって区画され、畝の高さは約二メートル、更に、西の丸曲輪には約九メートルの高さがあった、という。 
雪を被った富士山 現在は、芝が植えられているが、当時はローム層の土がむき出しになっていたので、上ろうとしても滑りやすかったことだろう。 西の丸から障子堀を越えて突き出しているのが、角馬出といわれる、西櫓である。 ここからの眺望は素晴らしく、雪を被った富士山が目の前に大きく見えた (右写真)
写真を撮っていると、通りかかった女性が、火口が中央に来てるので、バランスが良い
田尻の池 ですね!!、と声を掛けてきた。 安永の噴火で出来たこぶのようなものがないので、バランスが良いといった。 彼女はツアーできたようで、まだ時間があるといっていたが、その他の人達はすでに立ち去っていた。 彼女は私も仲間と勘違いしたようだった。 そこから急な坂道を下ると、田尻の池があった (右写真)
三の丸堀の脇を指示通り下ると、駐車場に出た。 三の丸跡に寄らなかったので、掃除
芝切地蔵堂 をしていた人に、三の丸の跡を伺うと、宗閑寺という寺院になっているといい、道を教えてくれた。 いわれた道を行くと、小高いところに、芝切地蔵堂が建っていた (右写真)
山中新田で泊まった旅人が急な病で亡くなった際、自分を地蔵尊として祭り、芝塚を積んで、故郷の常陸が見えるようにして欲しい、と言い残した、という。 村人は、いわれた通り、地蔵尊を祭り、あわせて、小麦饅頭を作り、参拝にきた人に接待したところ、大好評で有名に
宗閑寺 なった。 江戸時代には、沼津方面から七月十九日の祭に多くの参拝者が訪れ、当日販売する小麦饅頭の儲けで、山中集落の一年の費用が賄えた、と案内にあった。 お堂の脇には、芝塚が造られていた。 境内には、石仏群があった。 石段を下りて、道を進むと、左側に公民館があり、その隣が宗閑寺である (右写真)
この寺は、静岡市の華陽院の末寺で、当時の華陽院住職、了的上人が、間宮豊前守康俊の
間宮兄弟の墓 女、お久の方の心情をあわれと思い 山中城の三の丸跡に、宗閑寺を建立した、と伝えられる。 三の丸での戦いは、大激戦で死体が折り重なった、と言われる。 
境内には、間宮康俊と弟同監物とその一族の小さな墓が三基あった (右写真)
また、北条方の山中城主、松田右兵衛太夫康長と箕輪城主、多米出羽守平長定の墓、そして、豊臣方の先鋒、一柳伊豆守直末の墓碑が、敵味方並んで建っていた。 
駐車場まで戻り、国道を越えて反対側にいくと、山中城の岱崎出丸、すり鉢曲輪と御馬場
跡などがある。 昼飯を食べたり、富士山の写真を撮ったのも含め、城にいた時間は一時間
二十分にもなっていた。 城の堀の構造などをしっかり見ると、けっこう時間がかかる。

(ご参考) 山中城攻防戦

天正十八年(1590)、豊臣秀吉は、小田原城攻略の鍵は山中城と韮山城にあるとして、甥の豊臣秀次を大将に、丹羽長秀、堀秀政、山内一豊などの部隊三万五千人で山中城を攻めさせた。 城を守る北条軍は、城将の松田秀稙以下、たったの四千人とあっては勝ち目はない。  三月二十九日の朝、豊臣軍は、中村一氏を先陣に、岱崎出丸から攻撃を開始。 北条軍の守将、間宮好高も激しく抵抗したが、力尽きて好高以下一族は腹を切って死に、岱崎出丸は陥落した。 勢いのついた豊臣軍は、総勢で、三の丸、そして、二の丸を落としたが、最後の本丸では、本丸を守る城兵二百余名が奮戦したので、豊臣軍は、一旦は引き上げた。 その後、城兵が一息をついている頃を見計らって、豊臣軍全軍が、一斉に攻撃したので、城将の松田秀稙以下主だった武将はみな戦死し、夕刻には山中城は落城してしまった。 

続 く( 三 島 宿 )







かうんたぁ。