『 東海道を歩く ー 小田原宿  』

大磯宿の隣は旧東小磯村で、大磯中学校があるあたりから松並木になっているが、明治以降、
このあたりは別荘地や避暑地として、伊藤博文、西園寺公望、吉田茂など、多くの有名人を集めた。 
国府本郷は、相模国の国府が置かれたところ、二宮は、江戸時代には間の宿だった。 
小田原宿は、東海道の江戸防衛の要としての城下町であるとともに、箱根越えと箱根関所を
控えていた宿場町であった。 





大磯宿から間の宿・二宮

大磯駅 平成20年4月4日、今日は大磯駅から小田原宿まで歩く予定である。 
名古屋駅から大磯に一番早く着く新幹線に乗ったのだが、大磯駅に到着したのは10時であった。 JR東海の営業方針でのぞみを増発しているため、午前中は小田原駅に停まる電車が少ないからである (右写真ー大礒駅)
駅を出て、右手にある道を下ると、鴫立庵の前に出たので、右折して国道1号線を歩く。 
松並木 少し歩くと、前回終わった上方見附の案内板に出た。 江戸時代には大磯宿の加宿になっていた東小磯村である。 左側に大磯中学校があるあたりから松並木になり、そこには、東海道の松並木とこゆるぎ海岸の案内板があった (右写真)
大磯は海辺の町だったが、江戸時代には宿場町として栄え、明治以降は別荘地や避暑地として多くの有名人を集めた。 左側の大きな松の下の小高い歩道を歩いて行くと、古河の保養所などがあり、その一つが旧西園寺公望邸であるが、どれなのか、確認できなかった。 
滄浪閣 道の反対には、宇賀神社があるが、このあたりが東小磯村の境と思われる。  大磯宿はここで終り、旧西小磯村になるが、大磯宿から次の小田原宿までは15.6kmと比較的長い距離である。  その先の滄浪閣前交差点の左側にあるのが、明治の元勲、伊藤博文の旧邸だった滄浪閣(そうろうかく)である (右写真)
西武鉄道の所有になっていたが、西武グループの整理に伴い、大磯町が買い取る交渉
供養碑 をしたが、まとまらず、個人企業に売却されたので、今後の行方が心配である。 江戸時代の東海道は、大磯宿を過ぎると、おおむね三間(約5.4m)の道幅であったようである。 滄浪閣から五百メートル程歩くと、左側に八坂神社がある。 その先の交差点の右側に、右大磯と書かれた道標を兼ねた、西国三十三所順社講供養碑があった (右写真)
八坂神社から二百メートルくらいか? 傍らに、小さな道祖神が祀られていた。 
城山公園前交差点 更に歩いて行くと、血洗川という少し物騒な名の川に架かる切り通し橋を渡る。 右側の小高い山が城山と呼ばれる城跡があるので、先程の川の名はこれと関わりあるのかも知れない。  切り通しの先に城山公園前交差点がある (右写真)
国道の左側にあるのが旧吉田茂邸である。 明治以降、大磯には伊藤博文をはじめ多くの要人たちが別荘と構えた。 吉田茂もその一人で、この別荘に貴賓客をよく招いていた。 
茶室如庵 その後、西武鉄道に売却され、大磯プリンスホテル別邸として使用されていたが、西武グループの資産整理に伴い、売却の方針が示され、現在は閉鎖されている。 
東海道は国道一号と分かれ、右側に大きく折れ曲がって行く。 交差点を右折すると、神奈川県立城山公園があり、その中には、日本庭園と茶室があった (右写真)
県立大磯城山公園は、三井財閥の別荘、城山荘の跡で、茶室、城山庵は、三井家の
横穴古墳群 草庵式茶室であった国宝の如庵にちなんで建てられたようだが、本物は愛知県犬山市の名鉄グランドホテルの脇に移設され残っている。 
城山公園は、西小磯と国府本郷との境に位置し、その一角に大磯町郷土資料館がある。 このあたりは太古から人が住んでいたいたようで、横穴古墳群があった (右写真)
街道に戻ると、すぐに三差路になり、東海道は狭い道を直進するが、六所神社の道標
橋を渡る も立っていた。 右折する道の一キロ先には、五社の神が集まって祭事を行なう神揃山がある。 東海道を進み、橋を渡ると、国府山宝前寺があり、中丸の集落に入った。 宝前寺は、江戸時代の東海道分間絵地図に記載されている古い寺、手前の橋は板橋だったようであるが、最近建てられたと思える橋が架かっていた (右写真)
大磯宿より一里(約4km)離れたところに位置する中丸は、江戸時代のーには立場茶屋が 
道祖神碑 あり、荷馬の休息所だった。 中丸ふれあい館を過ぎると、左側の民家の前に、道祖神碑の両脇に石仏が祀られていた。  かっては、大磯城山公園からこのあたりの道の左右に道祖神が多くあったようだが、今回歩いたところでは、この場所だけだった (右写真)
その先で、左側に国道が接近してくる。  東海道と国道の間にある土塁の中に、江戸から十七里の国府本郷の一里塚跡の案内板があり、江戸時代の一里塚は、手前二百メートルの
国府新宿交差点 両側にあり、塚の上には榎が植えられていた、とある。 その先の国道の左手に、大磯警察署があり、その先に国府新宿交差点がある (右写真)
大磯には相模国の国府が置かれた時期があり、その国府は、この北部にあったようである。 
(注) 大化改新の前には、相模国は相武と師長の二国に分かれていた。 相武は今の海老名、大和のあたり、師長は平塚、大磯のあたりとされるが、この二つの国が合併して相模国となった。  相模国の国府は海老名におかれたが、元慶弐年(878)に大住郡に移り、平安時代末に
この地(国府本郷)に移ってきたものと考えられている。  国府の置かれた場所や時期については諸説があるが、 
 相模国の国府、国分寺、国分尼寺に興味にある方は、  友人のページ「国府物語」 をご覧ください。

六所神社の鳥居 国府新宿交差点から再び国道1号線に合流し、三百メートルほど歩く。  二つ目の信号交差点の右側に、六所神社の石柱と鳥居があった (右写真)
六所神社は、崇神天皇の時代の創建と伝えられる古社で、相模国の総社だった。 稲田姫命、須佐之男命、大己貴命を祀る神社で、この地は柳田郷だったことから柳田大明神と称した時期もあったが、養老弐年(718)、この地を相模国八郡の神祗の中心とする旨の宣下が
六所神社 下されたことから、一之宮から四之宮、平塚八幡宮、それに柳田大明神の六社を合祀し、国府六所宮と称されるようになった、と伝えられる。   参道を三百メートル程歩き、東海道線のガードをくぐった先に神社があった。 
本殿は、小田原北条氏四代目の北条氏政が修復寄進したものといわれる (右写真)
五月五日が例大祭で、この祭りを国府祭という。 この祭には、近郷五社の御輿
道祖神碑 (宮本村一ノ宮、山西村二ノ宮、三の宮村三ノ宮、四の宮村四ノ宮、平塚新宿八幡)が、国府本郷村にある神揃山、通称、高天原というところで、神事を行う。 この祭事は、養老年間に始まったとされ、治承4年(1180)には頼朝の参詣もあった、と伝えられる。 少し歩いた右側に、国府福祉館があり、お稲荷様が祀られていて、道祖神碑があった (右写真)
その先に、こよるぎハイツ入口の交差点があり、その先の右手に 蓮花院がある。 
寄らずに歩いて行くと、右側に高い松の木があり、その下に、二宮町の標識があった。 
神社から六百メートルほどだった。 

間の宿・二宮

塩海橋 二宮町に入り、七百メートル歩くと、塩海橋交差点があり、その先の小さな橋が塩海橋である。 橋の手前に、塩海の名残りと書いた木柱があった。 相模国風土記では、塩海は古此所にて塩を製造す、とある。 名残りという意味は説明がないので分らぬが、海水が宇田川を遡ってきているということか?! (右写真)
橋を渡ると、二宮交差点で左側には西湖二宮ICがあり、その先は西湘バイパスである。 
松並木 ここは横断歩道橋を渡り、向こう側にでた。 二宮名物落花生の看板を出した店を見ながら通りぬけ、秦野道バス停を過ぎると、二宮駅入口交差点にでた。 この間、五百メートルくらい。  二宮駅前を過ぎて、五百メートル程いくと、江戸時代の山西村に入る。 
内原交差点付近に、数は少ないが、松並木が残っていた (右写真)
藤田電機を過ぎると、梅沢交差点があった。  二宮は江戸時代、大磯宿と小田原宿の
梅沢交差点 距離が比較的長いことから作られた間の宿である。 梅沢の立場とも呼ばれた小規模な宿で、江戸から進むと急な下り坂、押切坂を手前に控え、籠や馬を止め、一息入れたといわれている。 といっても、古い家は一軒も見なれなかった (右写真)
その先の吾妻神社入口交差点の手前にある国道の標識には、日本橋まで74km、二宮町山西とあった。 そのまま歩くと、また、吾妻神社入口交差点があった。 二つとも同じ名の
吾妻神社入口交差点 交差点である。 この交差点には、右へ行く狭い道があり、これが旧東海道である (右写真)
三差路の角に、旧東海道の名残りという道標が建っている。  ここで、国道1号線と別れ、斜め右の旧道に入るが、入るとすぐ右に、吾妻神社の鳥居と県下名勝四十五佳選記念碑がある。 吾妻神社は、JR東海道線を越えた吾妻山にあるが、古事記の話を思い出し、上ってみようという気になった。 
吾妻神社参道 東海道線を陸橋で越えると、道の向こうに鳥居があり、石段を上ると、コンクリートの道、また、石段があり、その先は、七曲がりのような参道が続いていた (右写真)
距離はそれほどではないが、傾斜がある道なので、けっこう厳しく、樹木に覆われているので、相模湾は一部でちらと見えるだけだった。 石段を上ると、鳥居が現れ、その奥に社殿が見えた。 案内板には、 「  吾妻神社は、梅沢の大神で、第十二代景行天皇時代に始まり、主神は、弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)で、日本武尊(やまとたけるのみこと)を配祀とする。 
吾妻神社 源頼朝は、鎌倉幕府を創設すると、吾妻山と山麓の田畑と塩田を寄進した。 弟橘媛命のご神体は、木彫りの千手観音で、現在は藤巻寺に安置されている。 」  と、あった。 
弟橘媛命は、穂積氏忍山宿禰(ほづみのうじのおしやまのすくね)の娘で、日本武尊との間に稚武彦王(わかたけひこのみこ)をもうけた、と伝えられる神様である (右写真ー吾妻神社)
古事記では、日本武尊の東征に同行し、走水(はしりみず)の海(浦賀水道)に至った時、
庚申塔と二体の石仏 海は荒れ狂い、先に進むことが不可能になった時、弟橘媛が海に身を投じると波が穏やかになり、船を進めることができた。 彼女が付けていた櫛は、七日後にこの海岸に流れ着いた、と書かれている (古事記ー巻末参照)
境内には、三猿が彫られた庚申塔と首のない二体の石仏も祀られていた (右写真)
十二時十五分だったので、境内の椅子に腰をかけて、小田原駅で買ってきた駅弁を食べた。 
吾妻山頂上 すると、人の声がして、頂上にある桜が素晴らしいと、告げて立ち去った。 食事は十五分で終わったので、どんなところだろうかと、頂上に向った。 すると、神社の静寂とは打って変わり、多くの花見客がいて、子供は走り周っていた。 南には、満開の黄色のレンギョウと桜が咲き乱れ、その先に相模湾の青さが目に染みた (右写真)
富士山は見られなかったが、箱根連山から伊豆半島など、三百六十度の展望が見られた。 
梅沢橋 街道に戻ったのは、十三時を過ぎていた。 道は右にカーブしながら下って行く。 右側に、ヤマニ醤油株式会社があり、手造り醤油とある。 その先で、左にカーブするところに、小さな梅沢橋があるが、橋の下の川は、暗渠になっている (右写真)
右に入ったところに、相模三番観音堂の小さなお堂があり、「  いくたびも まいりておがむ 観世音 心のあかを すすぐ梅川 」 と、書かれていた。 お堂の脇に、石仏(碑)群があった。 
等覚院 双体道祖神もあったが、道の整備でここに集められたような気がした。 
橋を渡ると上り坂となり、右にカーブする。 坂の途中の右側に等覚院があった (右写真)
別名藤巻寺といわれるのは、元和八年(1622)徳川家光が上洛の際、ここに寄って藤の花を見たという故事による。 境内の藤棚には、それほど大きな藤ではないが、樹齢四百年の藤とあった。   その先の山西交差点で再び、国道に合流する。 
石仏群 火見櫓の下に、道祖神と天社神の石碑と双体道祖神と石仏群があった (右写真)
これも周囲から集められたものだろう。 ここから国道を歩く。 その先、押切坂上バス停の先で、三差路になり、左側の狭い道が東海道である。 国道に架かる 川匂歩道橋には、川匂神社入口の交差点があった。 川匂神社は、垂任天皇の頃、この地を支配した磯長(しなが)国造が創建したと伝えられる相模国二の宮で、延喜式内社である。 神社は、ここから一キロ程
二宮一里塚跡 上った山側にあるようなので、パスした。  国道と東海道との間に、江戸から十八番目の二宮一里塚跡の石碑と四角形の説明石がある (右写真)
国道の傾斜は緩いが、左側の旧東海道は上りで、押切坂という坂が実感できた。 押切坂の頂上付近の左側の民家の一角に、松屋本陣跡の標柱があり、傍らの説明板には、二宮は間の宿として、大友屋、蔦屋、釜成屋など、多くの茶屋や商店が軒を並べ、梅沢立場と
双体道祖神呼ばれて、大変賑わっていたが、その中で中心的な存在だったのが、和田氏が営む松屋茶屋本陣で、諸大名、官家、幕府役人が利用した、 とある。 
その先の下り坂になる右側の草むらに、双体道祖神が祀られていた (右写真)
坂の頂上からの下りは急坂で、かっては、左手に相模湾の広がる快適な道であったようだが、今は家が建ち並んで、視野を妨げていた。 そのまま坂を下ると、国道1号線と合流し、その先で押切橋を渡ると、小田原市である。 

(ご参考) 弟橘比売の入水
『古事記』
そこより入り幸(いでま)して、走水(はしりみづ)の海を渡りましし時に、その渡の神浪を興し、船を廻(もとお)して、え進み渡りまさざりき。 しかして、その后(きさき)、名は弟橘比売(おとたちばなひめ)の命の白(まう)したまひしく、
「妾(あれ)御子に易(かわ)りて海の中に入らむ。 御子は、遺はさえし政(まつりごと)遂げ、覆(かへりこと)(まう)したまふべし 」 
海に入りまさむとする時に、菅畳(すがたたみ)八重・皮畳(かはたたみ)八重・きぬ畳八重もちて波の上に敷きて、その上に下(お)り坐(いま)しき。 ここに、その暴浪(あらなみ)おのづからに伏(な)ぎて、御船え進みき。 
しかして、その后の歌ひたまひしく、 
 「 さねさし 相武(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火(ほ)(なか)に立ちて 問ひし君はも 」
かれ、七日(なぬか)の後に、その后の御櫛海辺(うみへ)に依(よ)りき。 すなはち、その櫛を取りて、御陵(みはか)を作りて、治め置きき。 

(注)媛の辞世の歌は、相模の野に燃え立つ火の中で、わたしの心配をしてくださった貴方 という意味で、相模の国造にだまされ、火攻めにあった時のことを言っている。 

吾妻神社の由来によると、 「 日本武尊が、三浦半島の走水から上総国に船で渡る時、突然荒波に遭い、妃の弟橘媛命が身代わりになって海に身を投げ、波浪を静めた。 後に、今の梅沢の海岸に妃の櫛が流れ着き、その櫛を埋めて御陵を造ったところから、この地を埋沢と呼び、現在は梅沢町内の氏神になっている。 」 、とある。 
また、日本武尊が、東国から帰る途中に足柄の坂本を通り、媛を忘れられない武尊は、吾妻はや(我が妻よ)と嘆いた。 日本の東部をあずまと呼ぶのは、この故事にちなむという。 
なお、古事記では、上記と同じ、足柄の坂本(神奈川県の足柄山)となっているが、日本書紀には、碓日嶺(碓氷峠)となっている。


後半に続く( 小田原宿 )







かうんたぁ。