『 東海道を歩く ー 平 塚 宿  』

藤沢宿から間の宿・茅ヶ崎に向かう途中に、大山道の道標を兼ねた不動明王が祀られていた。 
茅ヶ崎駅に入る通りの角に、江戸から十四番目の茅ヶ崎一里塚があった。 
平塚宿は、藤沢宿と大磯宿にはさまれ、宿場の経営は苦しかったようで、公役負担を軽減するため、
八幡村の一部を加宿とし、平塚新宿とした。





藤沢宿から間の宿・茅ヶ崎へ

伊勢山橋 平成19年8月17日10時38分、小田急江の島線藤沢本町駅が右に見える陸橋を越えると、藤沢宿は終りである。 右手に緑豊富な小高い山が見えるが、この山は伊勢山で、その一部が伊勢山公園になっている。 太陽が上るにつれて暑さが激しくなり、たまらない。 海に近いほうが湿気は多いのか?、蒸し暑いのである。 今日の予定は平塚までだが、こんな調子ではもつだろうかと心配である。 
引地橋 湘南高校交差点を過ぎると、鵠沼(つげぬま)神明である。  伊勢山が終りになるところに、引地川が流れているので、 川に架かる引地橋を渡った (右写真) 
橋を渡ると、羽島地区で、スーパーのそうてつローゼンを越えると、引地坂と呼ばれる上り坂になった。 上って行くと、道はカーブし、右側に、大きな何連かのタンクが見えてきた。 メルシャンワインの工場である。 
おしゃれ地蔵 坂の途中の左側の道端に、おしゃれ地蔵と地元で呼んでいる小さな祠があった。 かたわらの説明には、 女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉を 塗ってお礼を する と、伝えられているものだが、実際は地蔵ではなく、道祖神(双体道祖神)だろう。 と、記されていた (右写真)
四ッ谷交差点 メルシャンの工場正門前には石仏が祀られていた。 坂もここで終り、平坦になった。  羽島交差点は左の道を行く。 その先の三叉路は、右折は、県道43号で、厚木、用田方面へ、旧東海道は44号で、そこから少し歩くと、四ッ谷信号交差点にでた (右写真)
左右の道は国道1号線で、右折して行くと、新湘南バイパス藤沢ICの入口にでる。 
広い国道を横切り、向こう側に渡ると、正面にある新聞販売店の左側に狭い道がある。 
四谷不動 江戸時代の大山道であるが、国道との間の狭い土地に、石の道標と祠が建っている。 
祠の中には、大山道の道標を兼ねた不動明王が祀られていた (右写真) 
この道標は、延宝四年(1676)、江戸横山町の講中が、東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられたもので、大山不動尊の下の正面に、 「 大山道 」 、両側面には、 「 これより大山みち 」 と、刻まれている。 片足をぶらんと下げ、眼をひん剥いてこっちを睨んで座っている不動明王は、四谷不動と呼ばれている、とあった。 
大山鳥居 祠の外にある道標が初代で、万冶四年(1661)に江戸浅草蔵前の講中によって建てられた。  江戸時代に入ると、江戸の町人達の間に大山詣が盛んになり、落語にも登場するほどの人気で、ここ四谷辻には、多くの茶屋が立ち並び、参詣客を誘い込んでいたのである。 狭い大山道に、天狗のお面が付いた大山への鳥居が建っている (右写真) 
大山道を歩いてみることにした。 鳥居をくぐり、車が一台だけ通れる道を歩いて行くと、
大山追分の地蔵 右側に大庭トンネルが見える大きな道に出た。 道を横切った先には、先程と同じような狭い道が続いていて、少し先の三叉路の正面に、地蔵が祀られていた (右写真) 
二股に分かれた道は、右は大山道で、左側の道は東海道に通じているようである。 
祠の左側には、「 市野道 地蔵も花も 笑ひけり 」という句碑があった。 
暑く喉が渇くので、ペットボトルのお茶を飲みながら、市野なのか布野なのかと迷いつつ、句碑を眺めていると、突然、声をかけられた。 大山道はこのあたりには多くあるといい、
この暑さでは熱中症になるので、歩くのはやめた方がよい、と忠告された。 名古屋からと
松並木 いうと、この時期に何故??という反応である。  ここで、大山道の探索は断念する。 
四谷交差点まで引きかえし、国道1号を進み、羽鳥交番前交差点にでる。 交差点を左折すると、JR辻堂駅であるが、直進すると、小さいながら松並木が現われた (右写真)
松の木の下を通る歩道は、松を保護するため、凸凹している。 
庚申供養塔 右側に一里塚跡の木柱があった。 江戸から十四里目の一里塚で、左に榎、右には松が植えられていた、という。  その先の二ッ家稲荷神社の境内に、寛文十年(1670)建立の庚申供養塔があった。 現在の地名は二ツ谷だが、二つ家だったのが変化したといい、江戸時代には、二軒茶屋の立場があったところである (右写真)
時計を見ると十二時を指していた。 暑いこともあり、道の左側に長崎ちゃんぽんの看板
を出したリンガーハットがあったので、中に入り、ちゃんぽん定食を頼んで、四十分程の
鎌倉街道の道標 休憩となった。  食事時にいただいた濡れナプキンを持ち、再出発。 歩いて行くと、大山口交差点の両脇に、道標があった。 道より小高いところにある道標の一つは、寛保二?の年号と下が土に埋まっているが常光明…の字と読めたが・・・ (右写真) 
東海道分間延絵図には、二ツ谷木橋を渡るとすぐ左側に、寛保二壬戌之三月の供養塔の 記述があるので、それだろう。 道標の常光明…は、鎌倉街道の別名、常光明真言道
松並木 が刻まれているようである。  道の右側にあるのは、奉巡礼西国坂東秩父供養塔である。 是より大山道と描かれた道標で、享和三年(1803)に建てられたものだが、小生はその存在は、確認せずに先を急いだ。  茅ヶ崎市に入ると、道の北側は小和田で、その先の北西は菱沼である。  このあたりの松並木は、背が高く立派である (右写真)
それにしても暑い。 先程の店でせしめた氷をタオルに巻いて首筋に巻いたが、しずくが
明治天皇小休止碑 ぽたぽた落ち、あっという間になくなってしまった。  東小和田交差点の手前二十メートル右側の民家の前に明治天皇の小休止碑があった (右写真)
道は南西に向って、続いている。 上正寺交差点の南側は、代官町、本宿町と付いているが、本宿町は鎌倉に向う道脇にあったので、江戸時代には宿場になっていたのだろうか?  小和田のバス停近くで、左の路地を入ると、右にカーブする突き当たりに、地蔵堂
馬頭観音 があり、その向かいには馬頭観音があった (右写真)
昔はここは東海道だったのかもしれない。  道路の整備で道が直線になったときに路地として残ったと推定したが間違いか? その先の信号交差点の左手前に千手院があり、右側には広徳寺がある。  このあたりから道は右にカーブしやや上り道になる。  北側の地名も、小和田から松林に変った。 
松並木 藤沢宿と平塚宿との距離は十三キロ強と長かったので、間(あい)の宿として、三つの立場があったが、残りの二つは、菱沼(牡丹餅)と南湖(南郷)である。  菱沼バス停の先で、道は左にカーブし、このあたりから、再び、松並木が現れた (右写真)
松林中学校交差点を越えると、本村である。  さて菱沼の立場だが、牡丹餅(ぼたんもち)を名物とした茶屋があったので、いつしか牡丹餅茶屋が立場の呼び名となった、とある。 
松並木案内板 この茶屋はどこにあったのだろうか?? 茅ヶ崎高校のバス停付近にあったという説があるが、菱沼とあることを考えると松林地区にあったとするのが無難だろう。   
それはともかく、茅ヶ崎高校前には東海道の松並木の案内板があった (右写真)
それによると、国道1号線の黒松の中には、二メートル二十センチの高さのものがあり、
海前寺山門 四百年を経てる、とあった。 広重の藤沢宿松並木の絵は南湖ではないか ?? 
更に歩いて行くと、本村交差点の手前の右奥に、海前寺が見えた (右写真)
入っていくと、海前禅寺と書かれた石柱がある山門の両脇に、仁王立ちした石仏があり、その左側に大きな灯篭がある。 徳川二代将軍秀忠の菩提のため、慶安四年(1651)
堀長門守寄進 久留米藩二十一万石の二代目藩主、有馬忠頼が奉納したもの、とあった。 
山門をくぐって境内に入ると、本堂の左右に、供養燈篭が建っていた。  左側のずんぐり太い燈篭は、堀長門守が宝暦十一年(1761)に、第九代将軍家重の供養のため、建立したと、傍らの案内にあった (右写真) 
堀長門守とは信濃国須坂藩1万石の藩主のことだろうか?
小笠原長逵寄進 右側の燈籠は、播磨国安志藩第二代目小笠原長逵が同じ年に建立したもの (右写真)
安志藩は、豊前中津藩主の小笠原長邑が六歳で没したため、無嗣改易となるところを名家ということで、当時五歳だった弟の長興に播磨安志1万石の名跡がゆるされたことから、誕生した藩である。 長逵はその子であるが、家名が維持できた将軍に感謝し、供養燈籠を建てたのだろう。 
神社が下にみえた 旧東海道は高台にあり、北側は低いため、右側を見ながら歩くと、尾根沿いの道のようである。 右下の八王子神社を見下ろすと、まさにその感を強くした (右写真) 
街道を歩くと、右側にサティがあり、このあたりから道はなだらかになった。 車の往来は激しいが、歩道を覆うように松並木が続いているので、暑さもいくらかしのぎやすかった。  
元町に差し掛ると、道はゆるい下り坂となった。  その先の一里塚交差点の左側には、
茅ヶ崎一里塚 石垣が築かれ、何本かの木が植えられているところがある。 これは、江戸から十四番目の茅ヶ崎一里塚を復元したものである (右写真) 
ここからJR茅ヶ崎駅へ通じる道には、一里塚通りという名称が付けられている。 また、駅に近いからか、一里塚あたりから、人が急に多くなったが、このまま東海道を歩いた。 
駅交差点を過ぎた右側に、樹木が茂った一画があり、その中に三基の灯篭があった。 
寛永寺燈篭 傍らの説明によると、徳川家菩提寺の上野寛永寺は戦災に遭い、その復興を援助した人達に、全国の大名が歴代将軍へ奉納した供養燈篭を贈った、とある (右写真) 
先程訪れた海前寺の燈篭も、同じ理由で、あそこにあるのだろう。  
その先にひときわ目立つ高い松の木があるが、周囲のビルと比較すると十五メートルはありそうである。 その先左側に郵便局があり、そのあたりから緩い坂道になる。 
茅ヶ崎駅 時計を見ると、十四時三十二分、このまま歩いていけば、十七時までには平塚に着ける、と思ったが、余りに暑い。 その上、終了後、名古屋まで帰らなければならない。 
(注) 後日調べたら、当日の東京の気温は37℃で、今年一番の暑さだったのである。 
しばし考えたが、ここで終了することにし、茅ヶ崎駅に行った (右写真) 
小田原行きの電車が来たので小田原へいったが、身体が汗まみれで気持が悪い。
次の電車で熱海まで行き、駅前の温泉浴場でひと風呂浴びて、やっとほっとした。 
入浴後、熱海駅から新幹線で名古屋に帰り、旅を終えた。 



後半に続く( 平 塚 宿 )







かうんたぁ。