『 東海道を歩く ー 保土ヶ谷宿  』

保土ヶ谷宿は、慶長六年の東海道開道と同時に出来た宿場である。 
江戸を出て最初の難所といわれた、急坂の権太坂を控えていたので、大変賑わった、という。




神奈川宿から保土ヶ谷宿

上台橋 平成19年10月16日(火)、川崎大師をお参りして、八丁畷から神奈川宿へ向かい、神奈川宿でお寺を巡ったが、 上台橋を渡ると、神奈川宿は終わった (右写真)
神奈川宿から保土ヶ谷宿までは4.9kmと、東海道の宿場間では最短の距離であるが、時計を見ると、15時22分なので、 保土ヶ谷宿に入る頃にはかなり薄暗くなるのでは、と少し心配である。  上台橋ができたのは、開発が進んだ昭和五年のことで、
上台橋 切り通しの道路ができるとともに、その上に架けられた橋である。 道は下るに比例して、マンションは減り、 専門学校などがあるビルに変り、道も平坦になった (右写真)
平行して広いみちがあるが、狭い道をそのまま進むと、高速道路神奈川2号三ッ沢線の高架が見えてきた。  高架の下を道なりに進むと、その先の右側には広場があり、 その奥に法華宗学陽山勧行寺(かんぎょうじ)があった。 三ツ沢豊顕寺三世日養をもって
勧行寺 開山とする寺であるが、天然理心流開祖の近藤内蔵之助長裕の墓がある (右写真)
天然理心流は、近藤長裕が寛政年間に創始した、剣術、居合術、柔術、棒術、気合術等を取り入れた総合武術で、 幕末期には、天然理心流四代目宗家の近藤勇と、門弟の土方歳三、沖田総司、井上源三郎らが、 京都において新選組を結成したことでも
宮谷小学校入口交差点 知られている。  勧行寺を出ると、道の左側に軽井沢自治会館という看板があり、このあたりは軽井沢という地名であることを知った。  完全な住宅地で、建物は最近建てられたと思えるものが多かった。  やがて、環状1号の太い道にぶつかる (右写真)
交差点にはの表示があり、横断歩道を渡ってそのまま進んだのは間違いだった。  小学校を過ぎたところで、変と気付き、商店で教えられて引きかえした。 
浅間神社参道の入口 ここでは一旦横断歩道を渡ってから、浅間下交差点に向かって少し左に進み、それから途中右にある細い道に入るのが正しい。  その道を進むと、右側に浅間神社参道の入口がある (右写真)
石段上って行くと、神社の由来には、「 承暦四年(1080)の創建で、源頼朝が平家の
討伐と戦勝奉泰のため、武蔵国橘樹郡芝生村に富士山の形状をした山地を卜として、

浅間神社 社殿を修築した。 」 と、あり、かなり古い時代からあったのである。 これまでに何回も火災に遭ったので、残念ながら、 古いものは残っていなかった。 鳥居の先の赤い建物は、昭和五十八年以降に再建されたもので、二階建て浅間造りと、あった (右写真)
江戸時代には、富士講が盛んで、江戸の各地に土を盛り、富士山を造って、祀ったが、
この神社では、富士山まで続く穴があるので、有名だった。 
赤い祠と木っ端天狗 境内の説明に、横穴古墳群とあるのがそれの正体である。 考古学では、古墳には丘を築くのと横穴を掘るのと二種類があり、 この地区は横穴古墳が多くあったところとある。 富士山まで続く穴とは、古墳の横穴だったのである。  それより、赤い祠の両脇に、木っ端天狗が鎮座していたのか、どういう訳が、気になった (右写真)
街道に戻り、歩き始める。 浅間町三丁目自治会館を過ぎると、左に浅間町三丁目
八王子道との追分 山車の格納所があった。 右側の坂に見えるのは、立正寺で、更に進むと、保土ヶ谷区に入った。  商店街のアーケードが遠く見える交差点の右角に、追分の道標が建っていた。 最近建てられたと思えるものだが、追分の右側に八王子道、左に旧東海道と、書かれていた (右写真)
八王子道は、帷子川に沿って伸び、町田、八王子と続く道で、安政六年(1859)の横浜
開港後、八王子方面から絹が運ばれるようになり、絹の道と呼ばれたのである。 
松原商店街 交差点をそのまま進むと、洪福寺松原商店街に出た。 ビニールの天幕があったり、脇にトラックを止めていたりして、ごちゃごちゃした雰囲気で、戦後の秋葉原を思い出した。 この商店街は安さが売り物で、休日には人でごったがえすというが、平日の15時半過ぎだったが、買物客がけっこう多かった  (右写真)
国道16号線を越えると、普通の商店街になった。 保土ヶ谷宿の江戸側の入口である。 

保土ヶ谷(ほどがや) 宿 (その1)

江戸方見附跡 商店街を進むと、左側の駐車場の一角に、歴史の道 江戸方見附跡と書かれた案内板があった。 東海道分間延絵図によれば、芝生の追分から国道16号線を越え、天王町にいたるところに、江戸側の見附があったされる。 土盛りされた土塁の上に、竹木で矢来を組んだ構造の土居が築かれて、旅人の監視にあたっていた (右写真)
保土ヶ谷宿は、ここから外川神社付近の上方見附までの十九町(約2km)が宿内で、
橘樹神社 本陣が一軒、脇本陣が三軒、旅籠が六十七軒あり、家数は五百五十八軒、二千九百八十二人の人が暮らしていた。 信号交差点の右側に、橘樹神社がある (右写真)
かって牛頭天王社といわれた神社で、境内には、力石三個と延宝六年霜月に江戸より寄進された石盥(たらい)盤が置かれている。 更に奥に、県内最古といわれる、寛文九年(1669)の青面金剛を祀った祠がある。 道に戻り、先に進むと、帷子(かたびら)川に
相鉄線天王町駅前 出たので、そこに架かる橋を渡ると、相鉄線天王町駅の高架が見えてきた (右写真)
そのまま商店街を進み、その先の相鉄線天王町駅の下をくぐると、駅前に帷子公園がある。  道路の車止は、ちょんまげと裃(かみしも)をデザインしたものが並んでいるが、これは旧東海道を示すものらしい。 天王町駅から公園を歩いて道路に出られるように、歩道が付けられていたが、歩道の一角に、妙なものがあった。 宿場行燈らしき
帷子橋のモニュメント ものと橋桁をイメージしたものを四つ並べたモニュメントである (右写真の下部)
これはなんじゃ!! 説明によると、江戸時代にはこのあたりに帷子川が流れ、東海道 はそれに架かる帷子橋(新町橋)を渡って宿場に入ったようである。  そういわれば、安藤広重の東海道 五十三次の保土ヶ谷宿にも、橋を渡る姿が描かれていた。 
当時の帷子川は、天王駅の 西方で、北から南に向きを変え、駅前に向って流れ、
江戸名所図会・帷子橋 駅前の東で、北に向きを変えて、そこから東に流れていた。 即ち、逆コの字のように曲がって流れている上、今井川の水も合流するため、度々大水に遭った。 その対策のため、昭和三十一年(1956)、川の流れを天王駅の南側から北側に付けかえ、直線になるように変えたのである (右写真は、江戸名所図会・帷子橋)
天王町駅からJR保土ヶ谷駅までは、約1kmで、二車線の道がほぼ真直ぐ続いている。  空がどんより曇っているせいか、夕方になったように、薄暗い。 
古い家 左に市民プラザ、右に岩間郵便局、その先は大門交差点で、その先の右側には香衆院や天徳禅院などの寺院がある。 その先に交差点の右奥には、遍照寺と右にカーブしていく道が見えた。 街路樹も植えられ、小きれいな町並みで、比較的古い家が何軒かあったが、東海道の面影はまったくなかった (右写真)
昔の相州街道への分岐点は、どれなのか確認できないまま歩き終えた。 帷子会館
JR保土ヶ谷駅 を過ぎると、JR保土ヶ谷駅が近くなる。 正面に、ごちゃごちゃした商店街が見えてきたが、この商店街を通る道が、実は東海道なのである。 小生は、二日前にこの先の商店街から藤沢駅までを歩き終えているので、今日はここで終了である。 交差点を左折して、JR保土ヶ谷駅へ行き、時計を見ると、15時50分だった (右写真)
今日の旅は、川崎大師の参拝に始まり、神奈川宿を経由し、ここまできた。 
時間が早かったので、横浜の中華街で御土産を買って、新幹線で名古屋に帰った。 
 

保土ヶ谷(ほどがや) 宿 (その2)

JR保土ヶ谷駅前 平成19年10月14日(日)、名古屋駅発七時過ぎののぞみに乗り、新横浜から保土ヶ谷駅まできた。 今日は、ここから藤沢駅まで歩く計画である (右写真-保土ヶ谷駅)
大学の学生寮OB会が東京で開催されたのを利用して、二泊三日で品川宿〜藤沢宿の未訪問区間を歩き終える予定である。 第一日目にここを選んだのは、江戸を出て最初の難所といわれ急坂の権太坂があり、正月の大学駅伝で、権太坂で精力を使い果た
法被姿 して、息をたえだえにして、戸塚中継所に入る選手の姿を見ると、先にすました方がいいかな、と思ったのである。 駅を降り、横断歩道を渡り、道の向こう側に行くと、保土ヶ谷宿と書いた法被を着た人が並んでください、と声を掛けてきたので、その手を見ると、通行手形発行最後尾のプラカードを持っていた (右写真)
偶然、保土ヶ谷宿場まつりが行なわれる日に訪問したという訳で、通行手形を購入する
祭本部 と、商店街から色々なサービスが受けられるという企画であった。  まだ、九時四十五分なのに、かなり長い列が出来ていた。  これから東海道を歩くので、と告げて、先を急ぐ。  お祭りで歩道に本陣と書かれた本部が置かれたり、催し場の入口になったりして、スペースが取られた上、荷物を運んでいた車も駐車して、混乱していた (右写真)
東海道だったこの道は、ここから急に狭くなり、路上駐車も多くなるので、平常でも歩き
高札場跡 にくいところのようである。 その先の左側には、高札場や助郷役所などを説明した看板がある。  少し歩くと、右側の蕎麦屋だった家の前に、高札場跡の木柱があったが、道の反対にある保土ヶ谷税務署入口の案内柱や郵便公社の赤い看板などあって、気をつけないと、見落としそうである (右写真)
更に歩いていくと、交差点があったが、左右の道は車が一台通れる程の狭い道で
金沢横町 ある。 この四つ角は、金沢、浦賀往還への追分で、金沢横町とよばれていたところで、金沢・浦賀往還は、金沢文庫、鎌倉方面に行く街道で、円海山、杉田、富岡などの信仰や鎌倉や江の島といった観光地があった (右写真)
交差点の左側には、四つの石製道標が建っていた。 石柱には右から、 円海山之道 天明三年(1783)建立、左面に、かなさわかまくら通りぬけ、と刻まれているが、円海山
横町道標 は峯のお灸が有名だった。 次は、かなざわ かまくら道 天和弐年(1682)建立、左面に、ぐめうし道、とある。 その次は、杉田道 文化十一年(1814)建立、正面に、 「 程ヶ谷の 枝道曲がれ 梅の花  其爪 」 と、刻まれている。 最後は、冨岡山芋大明神社の道 弘仁弐年(1845)建立の道標である (右写真)
芋大明神とは、富岡の長谷寺のことで、ほうそうの守り神として信仰された、という。 
東海道線の踏切 その時、スピカーより、 「 ただいまから、全ての車両の通行を禁止します。 駐車している車は、ただちに移動ください。 」 という放送が流れた。 祭りの最中は、歩行者天国になるようである。 この放送をきに、また、歩き始めた。 少し歩くと、東海道線の踏切があり、目の前を電車が通り過ぎた (右写真)
踏切を渡ると、すぐ国道1号線に合流、旧東海道は、その角を右折して国道を進む。 
軽部家 保土ヶ谷宿は、慶長六年の東海道開道と同時に出来た宿場で、江戸を出て最初の難所といわれた、急坂の権太坂を控えていたので、大変賑わった、といわれるが、T字交差点の正面にあるのが、保土ヶ谷宿本陣だった軽部家である (右写真)
小田原北条氏の家臣、苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部氏が、この宿場の問屋、本陣、名主を代々勤めた。 明治以降、軽部と姓を改めたが、今も子孫が住んで
脇本陣藤屋跡 おられる。 近くの案内板には、建物は建て替えられているが、宿場時代の通用門は残されている、とあったが、門は閉まっているので、内部がどのようになっているのか、分らない。 国道をそのまま進むと、道の左側に、赤いトタン屋根で、外側は赤ちゃけてしまっている家があり、その前に、脇本陣藤屋跡と書かれた、案内柱があった (右写真)
保土ヶ谷橋のバス停を過ぎると、右側の保土ヶ谷消防署本陣出張所の隅に、脇本陣
脇本陣水屋跡 水屋跡の標柱があった。 それには、天保年間の水屋(与右衛門)の建坪は、百二十八坪(約423u)、間口八間(14.5m)、奥行十六間(約29m)、部屋数十四で、玄関門構付きだった、とあるので、かなり立派のものだったのだろう (右写真)
その脇の案内板には、宿場に、本陣は一軒、脇本陣は三軒あったが、経営は苦しかったとある。 なお、もう一軒の脇本陣の大金子屋は、前述の脇本陣藤屋の道の反対側
脇本陣水屋跡 にあったようである。  すこし歩くと、連子格子の古い建物があった(右写真)
旅籠本金子屋跡とあり、建坪や部屋数では、先程の脇本陣の水屋よりは、一回り小さい。 現在の建物は明治二年に建てられたとあるので、旅籠として建てられたのかどうかは分らないが、大変立派なものである。 旅籠は、寛政十二年(1800)に三十七軒だったのが、天保十三年(1842)には、六十九軒に増えているところを見ると、幕末には
外川神社交差点 、旅人の往来が増えたことが分る。 この付近、マンションの林立する中で、このように、古い建物が残っているのは、東海道を歩いているものにとって、貴重に感じられた。  やがて、左手に高台が迫り、今井川が見えてきた。 交差点の左側に今井川を渡る橋があり、橋の左側に外川神社が見えた (右写真)
東海道は、慶安元年(1648)に、ルートの変更が行なわれ、変更後、外川神社の前あた
外川神社 りに、京方の見附の土居が造られた、とある。 また、東海道分間延絵図には、 見附の手前に道祖神が祀られているが、現在は、外川神社の境内にある (右写真)
(注)外川神社の由来には、神社の創祀は明治二年とあるので、それが事実なら、京方の見附が外川神社の前にあった、という保土ヶ谷区の説明は嘘ということになる。 
このあたりの地形は江戸から現代にかけて大きく変っただろうと思われるので、そんな詮索は野暮というものだろうか? 保土ヶ谷宿はここで終わる。 


平成19年(2007)  10月


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かうんたぁ。