『 東海道を歩く ー 神奈川宿  』

昔の東海道は、海に沿って延びていて、神奈川宿も東海道有数の景勝地である、袖ヶ浦のそばを通っていた。 
安政五年(1858)の日米修好通商条約締結後、神奈川宿は横浜に近いため、多くの寺院が、各国の宿舎として、強制的に割当られたようである。





川崎大師

川崎大師駅 平成19年10月16日(火)、東京にいた当時も、川崎大師にお参りをしたことがなかったので、折角の機会と思い、神奈川宿へ向う前に、寄ることにした。 昨晩泊まった東京のホテルから、京急川崎大師駅に到着したのは、八時三十分過ぎだった (右写真)
駅を出ると、左手に大師に向う参道があり、両側は、御土産を売る商店がずらりと並んでいた。 途中にあった馬頭観音堂には、江戸時代、お参りにきた人を乗せた馬を
仲見世商店街 繋いでおくと、どんな暴れ馬でもおとなしく待っていた、と書いてあった。  その先の川崎大師入口の表示のある交差点を右折すると、大師仲見世とあり、その通りには、何故か、せき止め飴を売る店が両側に並んでいた。 時間が早いので、店員の呼び声はないが、人通りが多くなると、凄いのではないか、と思った (右写真)
その先に、大きな山門が見えてきた。 川崎大師の大山門(遍照門)である。 明治三十
大山門(遍照門) 四年に建立された当時は、総檜造りであったが、昭和二十年の戦災で焼け、昭和(1977)に再建されたものである。 なかなか豪華にできているが、コンクリート製で、四方の四天王像は、京都東寺の国宝四天王を模刻し、鋳造したものであった (右写真)
川崎大師の正式名称は、金剛山金乗院平間寺(へいけんじ) である。 真言宗智山派の大本山で、高尾山薬王院、成田山新勝寺とともに、関東三本山のひとつである。 
四天王像 山門に鎮座している像は当時のレプリカといえ、迫力のあるものだった (右写真)
川崎大師の由来記には、『 八百八十年程前の崇徳天皇の時代、尾張国出身の武士だった平間兼乗(ひらまかねのり)が、無実の罪により国を追われ、諸国を流浪したあげく、この地に住みつき、漁師になった。 平間は、弘法大師を崇信していたが、四十二歳の厄年に当たり、 日夜厄除けの祈願をつづけていたところ、ある夜、ひとりの高僧が、夢まくらに立ち、「 むかし唐にいたとき、わが像を刻み、海上に放したことがあった。
本堂 いまだ有縁の人を得ていない。 いま、なんじが速かに網にして、これを供養して、功徳を諸人に及ぼえれば、汝の災厄が変じて福徳となり、もろもろの願いもまた満足すべし。 」と、告げた。   平間は海に出て、光り輝いている場所に網を投じると、一体の木像が引き揚げられ、大師の尊い像だった。 』 と、ある (右写真ー本堂)
平間はこの像を祀るため、ささやかな草庵を結び、供養をしていたところ、諸国遊化
本堂 の旅をしていた高野山の尊賢(そんけん)上人が、当地にきて、弘法大師のお像に接し、大治三年(1128)、平間兼乗と力をあわせて、ここに、一寺を建立し、平間寺と名付け、御本尊を厄除弘法大師と称した。 それが、大本山川崎大師平間寺である (右写真)
古い歴史の寺なので、古いものが多いだろうと訪れたのだが、予想に反した。 戦災の時、で全てが灰になったといい、現在ある建物は、昭和三十年以降に再建されたものな
道標 のである。 境内には、宝暦六年に田安家が寄進した宝しょう印塔や東京太神楽曲芸協会が建立したまり塚があった。 また、市の文化財に指定されている道標もあった。 
寛文三年(1663)に造られたもので、碑の正面右側に、大師河原、中央に従是弘法大師江之道、左側に災厄消除と、雄勁な書体で書かれていた (右写真)
六郷の渡しの万年屋付近を通る大師道脇にあったのだが、道路拡張の際、ここに移され たのである。 成田山新勝寺より勧請し、明治二十三年(1890)に創建された不動堂
不動門 の門(不動門)は、現在の大山門ができるまで、約三十年間、大山門として利用された。 福島県の寺にあったものを譲り受けて、戦災で焼けてしまった大山門の代わりに移築したのである。 総檜、銅板葺き、二層楼門造りで、見るからに堂々しており、現在の大山門より小生には価値あるように思えるのだが・・・ (右写真)
念願の川崎大師にお参りできたことに満足し、京急で前回終わった八丁畷駅に向かった。 

川崎宿 から神奈川宿

馬嶋病院 京急八丁畷駅に到着したのは九時三十二分。 早速、前回終わった、小川町停留所の前にある馬嶋病院まで戻った。 このあたりに、川崎宿の西の見附の上手土居があった、といわれ、幕末に起きた生麦事件後は、外国人を警護するため、第一関門が設けられた。 土居とは切石を積んでもので、宿場を入る旅人を監視していた (右写真)
東海道は、この先、平坦で真直ぐ続く一本道の八丁畷となる。 
芭蕉句碑 畷(なわて)とは、田圃や 畑の中をまっすぐに続く道のことであるが、川崎宿を出ると、人家がなくなり、道の両側に麦畑が拡がっていて、川崎宿から隣の市場村まで、八町(約870m)続いたことから、この名が付いた。 
一キロ程先の右側の少し小高くなったところに、芭蕉の句碑があった (右写真)
芭蕉は、元禄七年(1694)五月十一日(現在の六月下旬)、江戸深川の庵をたち、故郷の伊賀への帰途、送ってくれた門人達と、八丁畷にあったよしず張りの腰掛茶屋で休憩
した。 その時、別れを惜しみ、翁の旅を見送りて と題し、各人が俳句を詠みあった。 
 「  刈りこみし  麦の匂いや  宿の内    利牛  」
 「  麦畑や    出ぬけても猶 麦の中  野坡  」
 「  浦風や    むらがる蝿の はなれぎは  岱水  」
芭蕉は弟子達に
芭蕉句碑  「  麦の穂を  たよりにつかむ  別れかな  芭蕉  」 という句を返し、旅立ったが、その年の十月に大阪で亡くなったので、弟子達との別れの句になった。 
芭蕉の死後、百三十年ほど経った文化十三年(1830)に、俳人の一種が建立した句碑で、最初は上手土居にあったのをここに移転したのである (右写真)
20m程歩くと、京浜急行の八丁畷駅があり、その右側の踏切を渡ると、左側に、昭和
慰霊碑 九年に建てられた慰霊塔等があった。  この周辺から、江戸時代のものと思われる人骨が多く出土した。 江戸時代には、大火、洪水、飢饉や疫病の発生により、頻繁に大量の死者がでたようで、川崎宿ではそれをまとめて宿はずれのこの地に埋葬したものらしい。   それを慰霊するために、建立されたようである (右写真)
市場上町の交差点を過ぎると、横浜市鶴見区になる。 少し歩くと、右側に熊野神社が
熊野神社 ある。  弘仁年間に、紀州熊野神社から勧請したと伝えられ、徳川家康が入国に際し、武運を祈ったされる神社で、最初は旧市場村八本松にあったが、天保年間に東海道沿いに移され、明治五年に現在地に移った、という (右写真)
芭蕉句碑から、ここまで、七百〜八百メートル程であたか?   神社の前の交差点を左に入り、京急鶴見市場駅前に行くと、手前の右側を少し行ったところに、専念寺という
市場一里塚跡 お寺がある。 ここには、紫式部の持念仏と伝えられる市場観音と富士山から飛んできた夜光石やイボ地蔵が祀られているのだが、門が閉められていて、入ることができなかった。  街道に戻り、300m程歩くと、市場橋バス停のそばの左側に、社が祀られていて、その前に、市場村一里塚とある石碑が建っていた (右写真)
江戸から五番目の一里塚で、道の両側にあったのだが、今は左側の土盛りされている
双体道祖神 ところに、中町稲荷が祀られているが、これが一里塚の名残である。 右側は床屋になっていた。 江戸時代には、京急鶴見市場駅付近は海が間近にあったので、 漁業や製塩業で生計を立てる人が多く、天文年間(1532〜1554)には、海産物の市場が開かれるようになったため、市場村という地名になった、と一里塚の案内板にあった。 
その先の民家の一角には、双体道祖神が祀られていた (右写真)
更に、馬頭観音を祀った小さな祠の脇には小さな地蔵さんが鎮座していた。 
鶴見川橋 また、下町稲荷の社もあった。 これらは皆、民家の一角を削ったようにして祀られているので、信仰心の強い土地柄なのだろう。 右側の光明山金剛寺 を横目に見ながら通り過ぎると、少し上りになり、鶴見川橋が見えてきた (右写真)
一里塚跡からここまでは五百メートル程の距離だろうか?  鶴見川に架かる鶴見川橋は、アーチ形の立派な橋で、歩道の巾もきちんと取られていた。 橋を渡ると、少し下り
鶴見橋関門旧跡 になるが、左側の植栽の中に、旧東海道鶴見橋の木柱に、武州橘樹郡鶴見村三家と書かれていた。 その脇には、鶴見橋関門旧跡の石碑があった (右写真)
幕府は、万延元年(1860年)四月、横浜の外国人保護する目的で、横浜に入る者を取締るため、この橋に関門を設けた。 さらに、文久弐年(1862)八月に起きた生麦事件後には、外国人保護を強化するため、この橋に川崎から五番目の関門番所を設けた。 
寺尾稲荷道道標 50m程歩くと、鶴見上町交差点で、道を越えた右側の鶴見図書館の前に、馬上安全 寺尾稲荷道の大きな道標があり、従是廿五丁とある (右写真)
江戸時代、ここは、寺尾稲荷(現馬場稲荷)へ向う道の分岐点で、寛永二年(1705)にこのように大きな道標が建てられた。 その後、壊されても、二度建て替えられた、という。  この稲荷は、馬術上達や馬上安全に非常にご利益があるとして、祈願をかける者
鶴見神社 が絶えることなく、江戸からの参詣者も多かった。 また、この道は、馬場を通り、菊名に抜ける寺尾道や末吉橋を渡り、川崎へ向う小杉道に繋がる重要な道だった。 
駅東口入口交差点まで行くと、自動車が増え、両脇には、マンションのビルが連なっていた。 交差点を越えて、少し歩くと、右側に鶴見神社の参道入口がある (右写真)
鶴見神社の由緒書によると、 「 往古から杉山大明神と称し、境内地約五千坪を有する
鶴見神社社殿 社であった。 その創建は、約千四百年前の推古天皇の御代と伝えられ、続日本後記承和五年(約千百八十年前)二月の項に、 武蔵国都筑郡杉山の社、霊験あるを以って官幣を之に預らしむ、 とある。 』 としており、武州で一番古い神社のようで、一村一社合祀令により、周囲の神社が統合された際、現在の名前になった (右写真ー拝殿)
社殿は、明治四十四年(1911)に火災で全焼したが、大正四年(1915)に再建された
寺尾稲荷道道標 のが、現在の建物である。 境内には、寺尾稲荷道道標が保存されていた (右写真)
先程見たのは複製で、ここにある道標が本物だ、と傍らの説明板にある。 江戸時代、道標は東海道筋の三家稲荷に設置されていたが、神社合祀を行なったとき、三家稲荷も神社の境内に移され、道標も移ってきた、という訳である。 この道標は、三度目のもので、文化十一年(1828)に建立された、という説明もあった。 東海道は、鶴見神社の
京浜急行鶴見駅前 参道入口で、くの字に曲がっているので、そこを 左折すると、右側にJR鶴見駅、そして京浜急行鶴見駅に突き当たる。 このあたりが、旧鶴見村の中心地である (右写真)
川崎宿から神奈川宿は、二里十八町(9.7km) の距離、中間にあたる鶴見に立場があり、旅人相手の茶屋が並んでいた。 江戸名所図会には、鶴見村最大の志からき茶屋の絵が描かれていて、 「 生麦は河崎と神奈川の間の宿にて立場なり。 此地しがらき
屋といへる水茶屋は、享保年間廊を開きしより梅干をひさぎ梅漬の生姜を商う。 往来
鶴見銀座 の人ここに休はざるものなく今時の繁昌な々めならず。 」 と記述されていて、竹の皮に包んだ梅干しが名物だった、というが、その跡がどこだったのか、分らない程、変ってしまっている。  京急鶴見駅では、道に沿って、左側に進み、線路の高架をくぐると、駅の左側に出たが、この道は車もほとんどなく、人影もまばらである (右写真)
鶴見銀座と表示されていて、飲食店や商店もあるが、その間にアパートなども出来て、
JR鶴見線 このままでは、早晩商店街はなくなるだろうと、思えた。  両側を見ながらそのまま進むと、その先の交差点で、第一京浜(国道15号線)に出た。 東海道は国道を横切り、向かいの細い道に入ると、前方にJR鶴見線のガードが見えてきた (右写真)
それをくぐると生麦五丁目で、右手には国道駅がある。  このあたりから道のにおいが変わってくる。 両側に天婦羅屋があると思ったら、その先には魚屋が並んで商って
魚河岸通り いたので、このにおいだったのだなあ?!と思った。 やがて道の両脇が全て魚屋になってしまうまだ早いので、買い物客はまばであったが、魚河岸通りと呼ばれるところである。 江戸時代、左側の海から揚がったばかりの蛤、蛸、イカばどを売っていたところで、今でも、三百メートルほどの間に、八十軒もの魚屋が並んでいる (右写真)
活気に溢れているし、魚介類が新鮮で安いので、散歩気分で訪れるのもいいのでは、
道念稲荷神社 と思った。 二百メートル程歩くと、道の右奥に慶岸寺があり、その手前に、子育て地蔵堂があった。  生麦四丁目に入り、五百メートル程歩くと、右側に道念稲荷の石碑があり、その先の鳥居の前には、左右にお地蔵様が祀られていた。 鳥居をくぐって進むと、道念稲荷神社の社殿があった (右写真)
この神社で、毎年六月第一日曜日に行われる、 蛇も蚊も祭り は、数百年前から伝わ
生麦事件碑 るもので、横浜市の無形民俗文化財に指定されている。 神社から街道は大きく、右にカーブすると、魚屋は見られなくなり、住宅街になった。  その先、三百メートル程行くと、右側の住宅前のフェンスに、生麦事件の現場というパネルがあった。  今まで、生麦事件は、生麦事件碑のある所で起きた、と思っていたので、新発見である (右写真)
生麦三丁目に入り、県道六号と交差する交差点まできた。 ラーメンショップさつまっ子
神明社 チェーンの看板が目に入った。 急にラーメンが食べたくなって、まだ十一時十五分と、 昼食には早いのに入ってしまった。 食事は三十分足らずで終了し、また、旅を続ける。  県道を横断して、少し先を右に入ったところに、神明社があるが、先程の道念稲荷と同様、「蛇も蚊も」に由来するお祭りが残っている (右写真)
生麦が農漁村だった三百年前に始まった悪疫祓い豊漁祈願の行事で、氏神祭神の
すさのうの尊(みこと)にちなみ、大蛇によってこの疫病を退散させようと考え、萱(かや)で
蛇も蚊も 長さ八間胴回り二尺の大蛇をつくり、これを担ぎ、「蛇も蚊も出たけ 日和(ひより)の雨け 出たけ 出たけ」と大声に唱えながら、町内を練り歩き、最後にこの蛇体を海に流す行事である。 本宮(道念稲荷)が雄蛇、原(神明社)が雌蛇で、両蛇が絡み合った後、海にながしていたようだが、現在は個別に実施していると、説明板にあった (右写真)
江戸時代の分間延絵図には、字原町立場と書かれて、その右側に神明社がある。 
川崎宿から一里六町、神奈川宿から一里十二町にあった立場であるが、このあたりに
キリンビアビレッジ 茶屋の跡の表示はないようで、今は原西自治会の名に、原の地名が残るだけである。  街道の右側は住宅地だが、左側は横浜に向って麒麟麦酒の工場が続いていて、工場がきれるとキリンビアビレッジがあった。 レストランもあり、ビールも飲める、また、事前に申し込めば工場見学も出来る (右写真)
食事はしたばかりなので、先に進む。 第一京浜に合流すると、すぐの左側に、ある
生麦事件碑 のは、生麦事件の石碑で、明治十六年に、鶴見の住人、黒川荘三が建てた (右写真)
殺されたリチャードソンは事件の起きたところから逃れてきて、ここで亡くなった、といわれる。  幕末の文久弐年(1862)、薩摩藩主、島津久光の行列の前を横切ったイギリス人三人に、薩摩藩士が斬りつけ、二人はけがを負いながらも逃げ帰ったが、一人はその場で切り殺されたという事件 で、このことが契機となり、翌年の薩英戦争へと発展した、といわれるが、日本と欧米の文化の違いから起きた悲劇である。  ここから神奈川
生麦事件碑 宿までは、第一京浜(国道15号線)を歩き続けなければならない。 滝坂のバス停を過ぎると、子安地区である。 会社で海外物流の仕事をしていた時、子安や大黒埠頭には、何度が来たところだが、当時と違い、このあたりも住宅化が進み、マンションが沢山建っていたのには驚いた (右写真)
江戸時代には、街道の左側は海だったと思うのだが、かなり沖まで埋め立てられて、
その面影を追うのは不可能である。 ここまで来ると、神奈川宿はもうすぐである。 



後半に続く( 神 奈 川 宿 )







かうんたぁ。