『 東海道を歩く ー 川 崎 宿  』

品川宿と神奈川宿の間が長いため、両宿場の負担が大きいことから誕生したのが、川崎宿で、
元和九年(1623)のことである。  それでも、六郷の渡しを控えていることや厄除けで知られる
川崎大師があることから、旅人だけでなく、多くの参拝客で賑わいを見せた。 
品川宿から川崎宿までは寂しいところがあったようで、鈴が森付近では追剥が出ると警戒された。






品川宿から川崎宿

青物横丁交差点 平成19年10月15日(月)、大学の学生寮OB会が東京で開催されたのを利用して、品川宿から川崎宿まで、9、8kmの距離を歩く予定である。  前回終わった京浜急行青物横丁駅まで行き、街道の青物横丁交差点まで戻る (右写真)
青物横丁は、近郊の農家が、青物(野菜類)を運んで来て、市場が開かれたので、
その名が付いた。 この交差点は、池上街道の分岐点で、ここから、現在の大井町駅
品川寺門前 付近を経て、八景坂から新井宿、そして、池上に至る、池上本門寺への参詣道であった。  その先の街道の右側にある山門の前の常夜燈は、下から亀が支えているデザインで、門の前の提灯には、品川寺(ほんせんじ)と、書かれていた (右写真)
大同年間(806〜810)に、弘法大師空海が開山した、と伝わる寺で、長禄年間(1457〜1459)に、太田道灌が創建し、承応年間(1652〜1654)、弘尊上人の中興により、品川観音として信仰を集めるようになった、といわれる寺である。 
六街道の地蔵菩薩 山門を入った左側に、大きな地蔵菩薩が鎭坐していた (右写真)
江戸に出入りする六街道に安置された江戸六地蔵の一つで、中山道では巣鴨、日光街道では千住、東海道ではここなど、六ケ所におかれた。 境内には、樹齢六百年という大イチョウがあるが、幹回りが5.35mで、樹高は25mもある古木である。 その下に、道しるべ、道祖神と刻まれた石柱 があり、その右に小さなものと大きな庚申塔が
海雲寺 建っていた。 道の右側に、平蔵地蔵が祀られている海雲寺がある (右写真)
言い伝えでは、「 昔、鈴ヶ森刑場の番人をしていた乞食(非人)が三人いたが、そのひとりの平蔵が財布を拾い、持ち主を探してこれを返したが、礼金を受け取らなかった。 これを知った残りの二人の乞食は、これを怒り、平蔵を小屋から追い出して、
平蔵地蔵 凍死させてしまった。 財布を返してもらった仙台藩士は、これを知り、平蔵の遺体を引き取り、供養するために地蔵を造った。 」 と、いうものである (右写真)
平蔵地蔵は、写真の右側にある石仏であるが、以前は街道にあったが、道路の拡張で取り除かれるのを、この寺の住職が、この話を後世に伝えたいと、この寺に移した。 
力石 常夜燈の前に、力石と刻まれた石がある (右写真)
脇の案内板によると、「 当時は、この門前近くに、漁師や親船から積荷を小舟に移す沖取りという沖仲止がいて、この石を何回持ち上げられるかなどを競っていた。 力尽きて放りだし、大地に落ちたときのドスンという鈍い音は、騒音のなかった当時、静かさを破る心地よい響きだった。 」 と、ある。 
海晏寺 100m先の横町には、海晏(かいあん)寺への道標が建っている。 
ここを右折し、国道を渡った駅の反対側に、海晏寺がある (右写真)
この寺は、鎌倉時代に北条時頼が創建した寺で、昔は、街道のあたり一帯までが境内だった、という大きな寺だったのである。 ご本尊は、門前の海でとれた大きなサメの腹から出た、と伝えられる聖観音である。 
松平春嶽の墓地 寺の右側奥には、幕末に活躍した松平春嶽の墓がある (右写真)
松平春嶽は、文政十一年(1828)に、田安斉匡(なりまさ)の八男として、江戸に生まれ、越前松平家の養子になり、福井藩第十六代目の藩主になった。 幕末の動乱期の中で、積極的に開国の必要性を説き、岩倉具視らと計り、薩摩、長州と維新を進めた人物である。 寺には、岩倉具視、由利公正など、明治の元勲の墓があり、北条時頼、北条
日本橋講、和合講と書かれた石柱 時宗などの供養塔も残っている。  街道に戻ると、その先の古い家に、日本橋講、和合講と書かれた石柱があり、格子の前のコンクリートの上に、貼り付けられていた (右写真)
立場茶屋の釜屋があったというのは、このあたりなのだろうか?? 
東大井1丁目に入ると、昔の大井村、御林町(おはやしまち)で、俗に、鮫頭(サメヅ)と
呼ばれていた所で、江戸時代には、猟師(漁師)町で、将軍家に新鮮な魚介類を献上する
鮫頭商店街 御菜肴八ヶ浦のひとつになっていた。  商店街も鮫頭商店街に変った  (右写真)
交差点の左手に、鮫洲公園があるが、交差点を右折し、京急鮫洲駅方面に向かい、ミニストップで左折して進むと、右側に、八幡神社がある。  昔は、御林八幡宮と称せられていた神社で、品川沖でとれた鮫の腹から正観音像が出て、これを本尊にしたのが前述の海晏寺で、その鮫の頭を祀ったのが、この神社だと、伝えられている。 祭神は
鮫頭八幡神社 誉田別尊、気長足姫尊祀などで、創祀の時期ははっきりしないが、寛文年間(1661〜1672)の御林町誕生のころと思われ、村の鎮守社として祀られてきた (右写真)
社殿は、昭和四十七年(1972)に建直されているが、その前の狛犬は、町内猟師中と彫られた漁師の寄進によるもので、嘉永弐年(1849)に造立、常夜燈は、安政三年
左側の池 (1856)に造られている。  左側の池の中には、弁天社(厳島神社)と水神社(漁呉玉神社)があり、池のほとりに、出世稲荷神社と浅間大神が祀られていた (右写真)
街道に戻り、進むと、S字にカーブする道のアーチ中央に、SAMEZUと表示されていて、その先の右手に嶺雲寺があった。 少し歩くと、花海道入口の石柱が立っていた。 勝島運河、花海道とあるが、路地の先を見ると、集合住宅が建っているのが見えた。 
たけのこせんべい 右にカーブすると、仲町稲荷神社があり、その先に、たけのこせんべいという店があった。 暖簾には立会川とあったので、町名が変わったことを知った  (右写真)
鮫洲から800mほどの距離だった。 その先に、浜川橋があった。 橋のたもとの案内板には、「 立会川が海に注ぐこのあたりの地名から名付けられた橋で、またの名を涙橋という。 この先に、慶安四年(1651)、 仕置き場(鈴ヶ森刑場)が設けられ、処刑される
涙橋 罪人は裸馬に乗せられて、江戸から護送されてきた。 その時、親族らはひそかに見送り にきて、この橋で共に涙を流しながら、別れたことから、涙橋とも呼ばれた。 」 と、あった。  橋が架けられたのは、家康が江戸入府の慶長五年(1600)頃と思われ、現在の橋は、昭和九年(1934)に架け替えられた (右写真)
大経寺 立会川を渡ると、右奥に、天祖(諏訪)神社があり、そこから、500m程歩くと、右側に幼稚園を営んでいる浜川神社のモダンなビルが現れ、とても神社とは思えない建物だった。 少し歩くと、これも、寺とは思えない建物の大経寺があった (右写真)
江戸時代には、大経寺から第一京浜に合流するあたり一帯が、仕置き場として設置された鈴ヶ森刑場だった。 敷地面積は、間口四十間(74m)、奥行九間(16.2m)で、明治
鈴ヶ森刑場跡 三年(1870)に廃止されるまでに、丸橋忠弥や八百屋お七、白井権八、ねずみ小僧、天一坊などが処刑された場所で、みせしめのために人通りの多い街道沿いに置かれた、という。  第一京浜に合流する三角形の土地には、いくつもの供養塔が建ち、火焙りや磔に使用した台石、首洗い井戸などがある (右写真)
髭題目碑 その中で、特に大きい供養塔は、京都の谷口法悦という日蓮宗徒が、京都から江戸北方 の千住にかけての刑場に、受刑者供養のため建てた供養塔の1つで、髭題目碑といわれるもので、歌舞伎の舞台にも登場する (右写真)
江戸時代の鈴ヶ森は、刑場があり、追剥がでる程の淋しいところであったが、その先の第一京浜が合流してきているところに出ると、そうした過去はとても想像できない。 
道路には自動車が列をなし、首都高はコンクリートの塊を剥き出しにして、立ってい
品川水族館 た。 国道の左手には、南北にしながわ区民公園が続いている。  国道に合流し少し進むと、鈴ヶ森入口交差点の左側に、品川水族館に入って行く入口がある。 ここも、区民公園の一角で、水を引き入れた日本庭園になっている。  水族館好きの小生は、寄り道をすることにした。 どのような生き物が飼育されているのだろうか?
(1300円、10時〜17時、火休) 
イルカショー 東京湾の生き物の展示、ちょうどイルカのショーが行なわれていて、芸を行なうと、小さな子の声援と拍手が聞えてきた (右写真)
その後、水槽の魚をさぁーと見て、見学を終えたので、アシカのショーやペンギンは見なかった。 東海道を歩くのが目的なのだから、やむをえないだろう。 
併設されているドルフィンというレストランで、品川丼(980円)を食べる。 あさりとのりと
京急大森海岸駅前 あなごの入ったもので、品川丼である。 少し無理があるような気がするが・・ 
右手に京急大森海岸駅。 ここは海苔の産地だったが、埋め立てですっかり姿を消したが、江戸湾で取れるキスなどの魚を出す江戸前天ぷらの店が残っていた (右写真)
ここから2つ目の信号、平和島口交差点を越えると、左に入る一方通行の細い道が
あるが、これが旧東海道である。  左に大森スポーツセンター、その先の右側に
美原不動尊、 美原は、昔の地名が南原、中原、北原だったことから、三原と 呼ばれて
梅屋敷駅入口交差点 いたが、その後、 美原になったようである。 環七を越えると、美原通り交差点があり、商店街になっている。 橋を渡ると大森警察署前交差点に出て、第一京浜と、また、合流した。 この間、九百メートルほどである。 ここから川崎宿までは第一京浜をたんたんと歩くことになる。  八百メートル程歩くと、梅屋敷駅入口交差点に出た (右写真)
梅屋敷とはなんだろうと思いながら歩くと、その先の右側に、梅屋敷公園と書かれて門が
梅屋敷公園 あり、その前に、明治天皇行在所梅屋敷 の石柱が建っていた (右写真)
ここは、江戸時代の道中常備薬であった和中散を販売していた久三郎が、庭園に梅の名木を集め、休み茶屋を開いたところ、蒲田の梅屋敷として有名になり、広重の浮世絵にも描かれたという、梅の名所だったところである。 
和中散は、近江国栗太郡六地蔵村の梅木が草創の地で、梅木の和中散として、全国
里程標 に流布したが、江戸の大森と蒲田に三軒の店があったので、競争が激しかったようで
ある。  梅屋敷は、第二次世界大戦までは残っていたようであるが、梅屋敷と思える
ものは一つもなくなったが、里程標が復元されていて、 距日本橋三里十八丁 蒲田村 
山本屋 と、書かれていた (右写真)
道の反対側にある大田区体育館は、少し変ったデザインの建物だった。  少し歩くと、東蒲田二丁目交差点で、その先で夫婦橋を渡る。 その先にある京急蒲田駅は、高架
羽田空港線の踏切 化工事で、この付近の交通が変則的になっていた。 その先に、国道を横切る形の踏切があり、電車が国道を横切っていった。 京急蒲田駅から羽田飛行場まで行く羽田空港線で、正月の箱根駅伝のテレビ中継でしばしば登場する踏切である (右写真)
工事が終わると、羽田空港線も高架化されるので、この踏切もなくなり、正月の風物詩の一つが消える。 踏切を越えると、環状八号線であるが、ここも工事で、右側の道は
京急雑色駅前 閉鎖されていたので、反対側に渡り、第一京浜を黙々歩き続ける。  蒲田消防署を過ぎると、仲六郷、そして、東六郷で、カーデーラーがいくつかある。  やがて、京急雑色駅の前にきた。 この間、二キロ程だろうか? (右写真)
道の左側に、雑色アーケードがあり、ジャンボサガンという大きなビルがあった。 
東六郷三丁目交差点を過ぎると、左に入ったところに六郷神社がある。 
六郷神社正面 六郷神社は、天喜五年(1057)、源頼義、義家親子が石清水八幡の分霊を勧請し創建、鎌倉幕府を開いた源頼朝が、梶原景時に命じて、建久弐年(1191)、社殿を造営した。 その時、梶原景時は、鳥居前にある太鼓橋を、寄進した、と伝えられている (右写真)
頼朝が寄進したという大きな手水石は境内にあった。 また、徳川家康が、天正十九年(1591)、十八石を寄進するなど、江戸幕府との関わりも深く、葵紋の使用も許されて
狛犬 いる。 祭神は応神天皇(誉田別命)、本殿は、享保四年(1719)の造営で、三間社流れ造り、拝殿と幣殿は昭和六十二年の造営で、総檜権現造である。  江戸時代には六郷八幡宮として親しまれ、参拝する人も多かったが、明治九年(1876)に、現在の六郷神社と改称した。 境内にあった、一対の狛犬は、独特な風貌がおもしろい。 六郷中町寄進したもので、貞享弐年(1685)の作で、区内で一番古い狛犬である (右写真)
説明板によると、「 当初の東海道は、神社の正面にあり松並木が続いていた。 
六郷橋の標柱 元和九年(1623)に神社の西方に付け替えられ、神社との間に、脇街道ができた。 」 と、ある。 江戸名所図会では、付け替えられた道の両側に、八幡塚村の家があり、鳥居の先に、高札場と一里塚が描かれている。 六郷八幡宮は、八幡塚村を初め、六郷各村の総鎮守だったのである。 境内には、六郷橋の標柱も保存されていた (右写真)
正面の鳥居の外を左に回り、先程入った国道の鳥居のところに戻る。  先程の図会から
すると、鳥居の先あたりに、高札場と一里塚があったことになるが、跡形もなかった。 
六郷土手交差点 国道を歩いて行くと、六郷北詰交差点で、車道は上り坂に、道の右側に宝珠院、左手に観乗寺がある。 歩道をそのまま進むと、六郷土手交差点にでて、東海道は、左右の道路を横切り、その先で行き止まりになるので、見えている階段を昇る (右写真)
多摩川には新六郷橋が架かっていた。 徳川家康は、慶長五年(1600)、東海道の多摩川を越える六郷に橋を架けさせた。 その後、何度か橋は架け直されたが、貞享元年
六郷橋緑地 の橋が貞享五年/元禄元年(1688)に洪水で流失以後、橋は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられたのである。 江戸側の渡し場はどこにあったのか? (右写真)
江戸幕府が崩壊後の明治七年(1874)、鈴木左内が有料の木橋を架けたが、四年後に、流失、明治十六年(1883)に架橋組合を作って、有料橋を架け、六郷橋と名付けたが、明治四十三年(1883)に流失、六郷神社 にあった橋の標柱はその時架けられた
新六郷橋 仮橋で、これも、また、大正弐年(1913)に流されている。 大正十四年(1925)に、二連アーチ式の近代的な橋が誕生したが、昭和五十四年に使命を終えた。 現在の橋は昭和五十四年に工事に着工後、平成九年(1997)まで工事が続いた、とある (右写真)
それはともかく、下を見ると、六郷橋緑地がずーと続き、なかなか川の水は見えてこない。 普通県境は川の真ん中が多いのだが、県境の表示も見えてこない。 
六郷橋緑地 川が見えるようになった河川敷に、浮浪者の家がずらっと並んでいる。 かなりしっかりしたもので、多摩川の洪水でも逃げなかった理由が分るような気がした (右写真)
小生は、新六郷橋で、多摩川を渡るが、江戸時代の旅人は、六郷の渡しで、十三文を払い、橋から30m下流から渡し舟に乗ったようである。 渡しは、当初、江戸の町人が請け負ったが、宝永六年(1709)三月、川崎宿が請け負うことになり、これによる収入が宿場の財政を大きく支えた、とある。 橋を渡り終えると、川崎宿である。 


(ご 参 考) 梅屋敷と和中散売薬所跡
梅屋敷公園にある、大田区教育委員会の説明板には、
「 和中散は、食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬 としてつくられ、旅人に珍重された。 元禄から正徳にかけて (1688〜1716)、和中散売薬所は、大森村中原、谷戸、南原に三店が開業した。  このうち、南原にあった店が、のちに北蒲田村の忠左衛門 に譲られ、この地に移転したという。  文政年間(1818〜1830)の初め、忠左衛門の子、久三郎の 代に、庭園に梅の名木を集めて、休み茶屋を開いた。  亀戸の梅林とともに梅の名所として有名になり、広重の 浮世絵にも描かれた。 」 と、書かれていた。 


後半に続く( 川 崎 宿 )







かうんたぁ。