『 中山道を歩く  (31) - 守山宿・草津追分  』





(67) 守山宿 

近江鉄道八日市線の武佐駅から守山宿を経由し、草津宿まで歩く。  武佐駅の周囲は武佐宿の枡形跡で、この辺りが武佐宿の西見付跡である。 
中山道は武佐駅を過ぎると当りのT字路を左折し、近江鉄道の踏切を 渡る。 ここから西宿町になる。 右手の奥に寛弘八年(1011)創建の若宮神社が ある。 本殿は一間社流造りで西宿地区の鎮守である。 
隣の広大な空き地は伊庭貞剛(いばていごう)邸跡である。 屋敷は中山道沿いに 長屋門を構え、広大な屋敷だったが、今は街道に面し楠の巨木を残すのみである。

 * 「 伊庭家は近江守護佐々木家の流れを汲む名家で、 貞剛は弘化四年(1847)にここで生まれ、尊王攘夷に奔走し、維新後は裁判所判事 を経て、住友財閥に入社し、明治二十七年(1894)四国の別子銅山精錬所に於ける 亜硫酸ガスによる煙害問題の解決に尽力し、住友家中興の祖といわれた。  」  

先に進むと右側に火伏の愛宕信仰である小さな献燈と鎮火霊璽(ちんかれいじ) がある。 
突当りを右折し、すぐの西宿町交差点を左折して国号8号を進む。 
国道8号は歩道が設置されていない。 その状態は野洲で国道と別れるまで続く。  
六百メートル歩いて六枚橋交差点で国道と分かれ、左折し六枚橋を渡る。 
六枚橋は寛永二十年(1643)、時の領主が架けた橋が六枚の板橋であったところ に由来する。 
橋を渡ると千僧供町(せんぞくちょう)で、中山道は一本目を右折する。  ここには南無妙法蓮華経題目碑がある。 
直進すると左手に曹洞宗大岩山冷泉禅寺がある。 千僧供の地名は、その昔、 この寺に千人の僧を集めて悪疫退散の祈祷を行ったところに由来する。 

近江鉄道(武佐枡形跡)      西宿町交差点      六枚橋
近江鉄道(武佐枡形跡)
西宿町交差点
六枚橋


冷泉寺には寄らず、題目碑を右折すると左側の六枚橋バス停の手前に 「住蓮房 安楽房 御墓 是より三丁」の道標がある。 これは住蓮坊古墳への道標 であるが、今は道がないようである。 
焼肉味楽亭の手前に小公園があり、園内に涸れてしまった住蓮坊首洗い池が あり、傍らに「住蓮房首洗池」の石碑が立っている。 住蓮坊がこの 池のほとりで斬首され、その首を洗った池である。  

 * 「 建永元年(1206)、後鳥羽上皇が熊野詣の留守中に上皇の 寵愛を受けていた女官、松虫と鈴虫の姉妹が念仏法会に参加し、住蓮坊と安楽坊 に深く帰依し、出家して剃髪してしまった。 これを知った上皇は怒りのあまり、 然上人の弟子だった二人の坊を死罪とし、法然上人は四国の讃岐に、親鸞は越後 に流罪としました。 住蓮坊はこの池のほとりで、安楽坊は京の鴨川六条河原で 斬首された。 松虫、鈴虫の姉妹は両坊の処刑を知ると東山鹿ケ谷で自害して 果てた。 法然上人は四年後赦免になると、京に戻り住蓮山安楽寺 を建立し、両坊の墓と姉妹の供養塔を立て、菩提を弔った。  これを承元の法難という。 」  

旧道は再び国道8号に合流するが、最初の交叉点を左折すると右側に 住蓮坊古墳がある。 円墳の塚の上に江戸時代に作られた住蓮坊、安楽坊の墓が ある。 
国道8号に架かる千僧供橋で白鳥川を渡ると馬淵町になり、信号交差点の右手に 八幡社がある。 参道口に「高札所跡」の標石があるが、真淵村の高札場跡である。 

 * 「 源義家が奥州遠征の途次、愛馬が熱病を患い、 この地で水を飲ませるとたちまち平癒したところから、ここに応神天皇の霊を 勧請し、武運長久を祈願しました。 後に、この地の守護職で馬淵氏と称した 佐々木広綱が社殿を建立した。本殿は元亀二年(1571)織田信長の兵火で焼失し、 現在の総丹塗り桧皮葺きの本殿は文禄五年(1596)に再建されたもので、国の 重要文化財に指定されている。 」 

旧中山道は八幡神社前から右斜めの道へ入って行く。 馬淵町集落を過ぎ、 途中茅葺屋根の民家が一軒のみ建つ田園地帯を進み、「東横関町交差点」から 七百メートル歩くと日野川(旧横関川)の土手に出る。 「横関川渡し」の跡で、 往時はここから対岸まで舟渡しであった。 

 * 「 文化三年(1806)幕府が作成した「中山道分間延絵図」には 「平常渡し場、小水之節ハ舟二艘ツナギ合セ舟橋トシテ往来ヲ通ス」と注記されて いることから、平常旅人はこの川を舟で渡り、水量が減ると川に杭を打って止めた 二艘の舟の上に板を渡して作った舟橋を渡っていたことになる。  日野川のこの場所に、橋が架かったのは明治8年(1875)のことで、明治19年 (1886)には無賃通行となり、明治二十六年(1893)に新調されたが、道路は中山道 から国道8号となり、その新道として昭和十二年(1937)に近代的な横関橋が この上流に架橋され、ここに架けられた橋は二年程後に撤去された。 現在も、 ここから日野川をはさむ両側には、かつての中山道の道筋が旧道として残って いる。 」  

現在は川を渡る橋が無いので、三百メートルほど上流の国道8号線 の横関橋へ迂回し、日野川を渡り、右側の小さな道に入ると、道は左にカーブし、 西横関の集落に入った。 これが旧中山道であるが、十分ほど歩くと、また、 国道と一緒になった。  西横関町交差点の一角に「是よりいせみち」「ミ津 くち道」の道標がある。 ここは東海道の水口宿を経由して行く伊勢街道の追分 である。 なお、津は変体仮名になっていた。 
善光寺川を渡ると、道はやや登り坂になり、斜め左に入って行く道がある。  ここからは急坂になった。 一帯は鏡(かがみ)集落で、 東山道時代には「鏡の里」 として、八十六の宿駅(うまや)の一つになっていたというところである。  旧道沿いに旅籠屋跡の標板が三ヶ所立っている。 その一つは集落の入口に 「江戸時代鏡の宿(中山道) 旅籠亀屋跡」の標板があり、下には道祖神が祀られ ている。 

西横関交差点      いせみち道標      旅籠亀屋跡
西横関交差点
いせみち道標
旅籠亀屋跡


徳川幕府が制定した中山道の宿場にはなれなかったが、守山と武佐の間が 三里半と長かったので、 間(あい)の宿として 立場茶屋が置かれた。  なお、 地元でいただいた資料では 「 本陣、脇本陣が置かれ、特に紀州侯の定宿で、 将軍家の御名代をはじめ、多くの武士や旅人の休憩、泊の宿場であった。 」  とある。 
鏡集落には丹塗りの壁と煙出しの屋根の付いた家がある。 これは近江地方 独特のものである。 
右側の新聞配達店前に「旅篭富田屋跡」の標板がある。  国道に合流する手前右側の鏡東草の根ハウスの敷地内に前掛けを掛けた小さな 石仏群が祀られている。 
中山道は鏡口交差点にでて、国道8号に合流する。 合流点には愛宕山常夜燈、 愛宕大神、そして「↑鏡神社 義経元服池 0.7km」の案内標識が立って いる。  

鏡集落      石仏群      鏡口交差点
丹塗りの家
小さな石仏群
鏡口交差点


鏡宿には本陣や脇本陣、旅籠などの建物は残っていないものの、 元旅籠などを表示した標板が立てられている。  鏡口交差点を横断すると右側に旅篭吉田屋跡の標板がある。 
次いで右側に天台真盛宗月鏡山真照寺がある。  

 * 「 この寺には、額田王(ぬかたのおおきみ)の父・鏡王の墓 がある。 鏡王は鏡神社の神官で、万葉集女流歌人額田王を育てた。 壬申の 乱で天武天皇側につき戦死し、この寺に葬られた。 

その向かいの「鏡口」バス停の脇に吉野家跡、その先右側空地に桝屋跡。 桝屋跡のすぐ先左側に大願寺があり、寺の標柱の後ろに「徳化学校跡」の案内 板が立っている。 

 * 「 学校制度ができ明治八年十一月二十二日、大願寺徳化 学校が開かれ 鏡村、横関村の子供が教育を受けられるようになったのち、明治 十一年鏡神社の東隣に専用の校舎を新築し移転した。      平成二十年十二月 鏡の里保存会  」 

徳化学校跡の向かい側に鏡郵便局取扱所跡の案内板が立っている。  

 * 「 明治七年(1874)に設立され、同十九年(1866)鏡郵便局と 改称され、同四十三年(1910)に廃止されました。 」   

少し進むと右側の広場奥に「源義経宿泊の館跡」の石碑がある。 

 *  説明板 「義経宿泊の館」  
「 沢弥伝と称し、駅長(うまやのおさ)を勤め、屋号を白木屋と呼んでいた。  (承安四年(1174)鞍馬寺を脱出した)牛若丸(源義経)はこの白木屋に投宿した。  義経元服の際使用した盥は代々秘蔵して居たが現在では鏡神社宮司林氏が保存 している。 
西隣は所謂本陣で 元祖を林惣右衛門則之と称し、新羅三郎義光の後裔である。  その前方国道を隔てて脇本陣白井弥惣兵衛である。 
     鏡景勝会建立     」   

林惣右衛門則之が勤めた本陣は紀伊徳川家の定宿で、皇女和宮も当本陣にて 休息している。 
本来、宿場以外の宿泊施設は御法度でしたが、間の宿の鏡は堂々と旅人を宿泊 させたため守山宿や武佐宿から道中奉行へ異議の申立が行われていました。 
先の右側に「旅篭加賀屋跡」の標板がある。 
右側の公園に「徳化学校跡」標石があるが、前述の大願寺に開かれた徳化学校が 明治十一年(1878)ここに移転し、後に鏡小学校となりました。
坂の頂上近くの右側、鏡神社の参道の左側に大きな根(切り株)があったので、 これはなにかと思ったら、源義経が元服したとき帽子をかけたといわれる 烏帽子掛松であった。   明治六年の台風で倒れたため、株上二.七メートルを 残し、その上に仮屋根をつけて保存されているもので、謡曲に源義経に まつわる烏帽子折(えぼしおり)というのがある。  

 *  「 承安四年(1174)三月三日 鏡の宿で元服した牛若丸は、 この松に烏帽子を掛け、鏡神社へ参拝し源九郎義経と名乗りをあげ、源氏の 再興と武運長久を祈願しました。  この松は明治六年(1873)十月三日の台風により折損したため、幹の部分を残して 保存されています。 」  

鏡神社は陶芸や金工を業とする天日槍の従人の末裔が、 天日槍を祖神として祀ったことに始まり、その後、この地を支配した近江源氏 の佐々木氏一族の鏡氏が護持したと伝えられる神社である。
石段を上ると朱塗りの鳥居がある。 扁額の上に唐破風の屋根を持つ珍しい 造りで、さらに笠木は瓦葺きになっている。 
現在の本殿は室町時代に再建された三間社流造りで、屋根はこけら葺きの貴重な 建築様式は国の重要文化財である。  神社の主祭神は天日槍で、相殿神は 天津彦根命と天目一箇神である。 

 *  「鏡神社由緒」  
「 当神社の創始年代は不詳であるが、主祭神天日槍尊は日本書紀による新羅國 の王子にして垂仁天皇三年の御世(BC31)来朝し多くの技術集団(陶物師、医師、 薬師、弓削師、鏡作師、鋳物師など)を供に近江の国へ入り集落を成し、吾国を 育み文化を広めた祖神を祀る古社である。 天日槍は持ち来る神宝の日鏡を この地に納めたことから「鏡」の地名が生まれ、書記にも「近江鏡の谷の陶人は 即天日槍の従人なり」と記されている。 鏡山の麓は渡来集団に関わる地名も 多く須恵器を焼いた古窯址群も広く現存する。 延喜の御世には大誉会に鏡餅を 献上した火鑽の里であり、鏡路は鏡山と共に万葉の歌枕として百五十余首詠まれ、 宮廷巫女の歌人額田王や鏡王女に所縁の地である。 現社殿は室町時代に再建 された三間社流れ造りにして屋根は「こけら葺き」の貴重な建築様式は国の 重要文化財である。 
承安四年(1174)牛若丸こと源氏の遮那王は京都鞍馬 から奥州への旅路、この鏡の宿に泊り境内宮山の岩清水を盥(たらい)に汲み 自ら烏帽子をつけ元服した。 鏡神社へ参拝した十六歳の若者は「吾こそは 源九郎義経なり」と名乗りをあげ源氏の最高と武運長久を祈願した武将元服の 地である。 以後岩清水は源義経元服池と称し現在も清水を湛えている。  義経公を偲ぶ「とがらい祭り」は十一月二の午夕刻に男児を主役に斎行される。  大正六年、当地宮城一帯における特別大演習を大正天皇御統監のみぎり鏡神社 宮山に行幸あそばされ、御親拝の栄に浴す。 以後宮山を御幸山と称し、 自然公園として管理される。 飛地境内の鏡山は山頂に近江の総社龍王宮を 祀り七月十日を例祭とする。 」  

真照寺      烏帽子掛松      鏡神社社殿
真照寺
烏帽子掛松
鏡神社社殿


「東関紀行」の作者は「鏡の宿に至りぬれば、昔なゝの翁のよりあひつゝ、 老をいとひて詠みける歌の中に 「  鏡山  いざ立ちよりて  みてゆかむ   年経ぬる身は  老いやしぬると  」 といへるは、この山の事にやとおぼえて、 宿もからまほしくおぼえけれども、猶おくざまにとふべき所ありてうちす ぎぬ。 」 と記し、 「  立ちよらで  けふはすぎなむ   鏡山   しらぬ翁の  かげは見ずとも  」 と詠んでいる。 鏡山は別名、竜王山と いう標高三百八十四メートルの山で、古来から都の貴人に名をはせ、多くの歌が 詠われている。 
(注) 東関紀行作者が挙げた歌は古今集にある句で、大伴黒主の作といわ れる。 
坂の上の国道沿いの道の駅・竜王かがみの里は、一服するにはよい場所である。 
道の駅の向かいに義経元服の池があり、池の奥には「九郎判官源義経元服之池」 の石碑がある。  裏山の湧き水がしみ出してきているもので、 水道が普及するまでは地元の飲料水として使用された池で、旅人もここで立ち 止まり喉を潤していっただろう。 

 *  「 鞍馬寺を脱け出した牛若丸は鏡宿の沢弥伝館に投宿 しました。 すると平氏の追手が稚児姿の牛若丸を捜していると聞き、 ならばと元服を決意しました。 そこで鏡宿の烏帽子屋五郎大夫に源氏の左 折れの烏帽子を仕立てさせ、鏡池の石清水を使って前髪を落とし、己の姿を 池の水に映したといいます。 鏡神社は義経が元服に使用した源義経元服の盥 (たらい)を所蔵しています。  」   

 *  説明板「義経元服の池」  
「  父は尾張の露と消え 母は平家に捕へられ 兄は伊豆に流されて おのれ 一人は鞍馬山と歌へれし不遇の児 牛若丸は遮那王と称して鞍馬山に仏道修業 していたが 十一歳の時母の訓戒により祖先の系図に感じ平家を滅ぼし父の遺志 を達せんと堅い決意を抱いた。 それより後は昼は書を読み文を習ひ夜は僧正谷 にて一心に武術に励み 時の来るのを待っていた。 京都の天満宮に日参して 源氏の再興を祈ったのもこの頃の事であった。 時に奥州と京都を往還する 金売商人吉次に語ひ承安四年三月三日の暁(昭和四十一年より七百九十二年前) 住み慣れた鞍馬山に別れを告げ機を見て兄頼朝に謁せんと、憂き旅の東下りの 途につき、吉次、下総の深栖陵助頼重等と共にその夜鏡の宿につき、吉次の常宿 白木屋に投宿することになった。 牛若丸つらつら考へるに道中安全を期する には元服し東男に粧ふに若くはないと、吉次、陵助と語り元服に際して烏帽子親 として五郎太夫三番の左折りにして烏帽子を進めた。 其の夜この池の清淨水を 汲み取り、前髪を落飾し源九郎義経と名乗った。 時に年十六歳 これが元服池 の由来である。 かくて烏帽子を戴き源氏の武運長久を鏡神社に祈った。  当地こそ武人としての義経出生の地である。   
     鏡神社勝会建立      」  

近くには西光寺跡があり、ここには国の重要文化財指定の宝きょう印塔や石灯籠 が残っている。  

 *  「 西光寺は西暦818年伝教大師(最澄)が夢のお告げで 建立した寺である。 嵯峨天皇の勅願寺で、僧房三百といわれ、源頼朝も往還の時、たびたび 宿泊している。  また、足利尊氏が後醍醐天皇に帰順を表明した場所でもある。  しかし、信長の兵火により廃寺になってしまった。  」  

道の駅で一休みした後、旅を続ける。 元服池の向いに「旅篭桃花屋跡」の 標板がある。 ここが鏡宿の西外れである。 
  坂を下り始めるとすぐ左側に狭い道があるので、それに入る。  これが中山道の出町旧道の東口で、蒲生郡竜王町から野洲市になる。  ここには道祖神が祀られ、この道祖神は村口にあって悪霊の侵入を見張っている。  左側の奥民家のある中に小公園があり、公爵近衛文麿書の明治天皇聖蹟碑が建って いる。 明治十一年(1878)北陸巡幸の帰途ここで休息されました。  

道の駅      義経元服の池      明治天皇聖蹟碑
道の駅・竜王かがみの里
義経元服の池
明治天皇聖蹟碑


左側に愛宕大神碑があり、更に進むと左側の祠内に道祖神が祀られている。  旧出町村の西口である。 
旧道が国道8号に合流する所のGS跡を過ぎると(株)キョウエイ手前に 「平宗盛胴塚→」の案内板が立っているので、ここから左に細い草道を百メートル 進むと「平宗盛卿終焉之地」と刻まれた石碑と二躰の石仏が立ち、後ろには 小さな塚がある。 この地で平宗盛父子の首がはねられ、父子の胴を葬った 宗盛塚である。 

 *  「 源義経は、平家最後の総大将・平宗盛(たいらのむね もり、平清盛の三男)を壇ノ浦で破り、宗盛と息子の清宗を捕虜として鎌倉に 向かったが、兄の頼朝は勝手に朝廷から官位を受けた義経に鎌倉の地を踏ませ ず、腰越で追い返された。 父子は頼朝の引見後、再び京に護送される途中、 頼朝の命により、ここで斬首され父子の首だけを京都に運び、京の六条河原に 晒されました。 義経は父子の情を想い、二人の胴を一緒に埋葬しました。  ゆえにここは平家終焉の地といわれます。 宗盛は享年三十九歳、清宗十七歳 でした。 」 

国道に戻り国道8号線左(南)側の歩道を歩く。 左下の埋立地は首洗い池跡で、 平宗盛父子の首を洗った池跡である。 続いてある池は、あまりにも平宗盛父子 が哀れと思い、蛙が泣かなくなったところから蛙不鳴池(かわずなかずいけ) と呼ばれている。 
大篠原北交差点からは国道右(北)側の歩道に移る。  国道の右側は田畑が連なり、その先に見える三つの小高い丘は向山古墳群で ある。 光善寺川橋で渡ると下り坂になる。 右側の土手下に「大篠原の一里塚跡」の標識があり、 江戸より百二十六里目である。 戦前までは大きな松が一本残されていたと ある。 
国道を下って行くと左側に東池が見えてくる。 東池の奥に見える大きな屋根 は浄勝寺である。 

 *  「 東池にはハスの葉が群生している。 浄土宗東方山 浄勝寺は文禄三年(1594)の開基で、本堂は街道に背を向けている。  」 

中山道は東池の西端の浄勝寺前交差点から右斜めの大篠原旧道に入る。 

 *  「 大篠原集落は東山道時代は宿駅として栄えたが、 鎌倉時代に入ると宿駅は鏡村に移った。 江戸時代の大篠原村は立場となり、 旅人や近江商人の往来で賑わった。 」  

左側に道祖神が安置された祠があるが、かっての大篠原村の 境に祀られた塞神である。 大篠原旧道は西池の手前で国道8号線に合流する。  国道に合流すると左側に篠原堤と呼ばれる 長い堤防が現れる。 堤の上に上ると大きな西池が二つ並んでいるのが見られる。  少し進んだ左側バス停に西池の説明板がある。   

 *  説明板「篠原堤と西池」   
「 西池は大篠原最大の用水池で、昔、雄略天皇の御代(413年頃) 近江国に 四十八個の池を掘らせた時の一つと言われている。 下にある約九十町歩の田畑 の灌漑用に昔から大きな役目を果たしている。 この西池の長い堤が、源平盛衰記 に出てくる篠原堤であるとの説もあるが定かでない。 さかなの養殖用や 淡水真珠の養殖用に使われたことがある。
     野洲市大篠原自治会 大篠原郷土史会   」   

宗盛塚      蛙不鳴池      東池
宗盛塚
蛙不鳴池
東池


小堤交差点を過ぎると左側に明応年間(1492〜1501)の中興の浄土真宗本願寺派 の正蓮寺がある。 このあたりは小堤集落である。 
集落を進むと左側に「大笹原神社」石標が立っている。 大笹原神社は国道の大 篠原交叉点を横断し、光善寺川を渡ると左側にある。 

 *  「 寛和二年(986)に越知諸実が社領を寄進し社殿を造営した と伝えられる神社で、本殿は室町時代の応永二十一年(1414)岩倉城主馬淵定信が 再建したもので、三間四方に一間の向拝を付けた入母屋造り桧皮葺きである。  特に彫刻が優美で東山文化の粋といわれ、国宝に指定されている。  本殿右手にある寄倍(よるべ)の池は水深が深い底なし沼で、 昔、この辺りが干ばつに見舞われ、二基の神輿を沈めて祈願したところ、 いかなる日照りが続いても池の水は涸れることなく絶えず満水になったといわれる 。    」  

大笹原神社の石柱を過ぎると小堤バス停前で、右の狭い道に入って行くのが 中山道の小堤旧道である。 ここまでの国道には歩道がなく、道に細く線が引いて あるだけなので、本当に恐かった。 
用水を渡り、紅殻塗りの塀を横目で見ながら緩い上り坂を進む。 旧道に入って四分、家棟川(やのむねがわ)手前のポケットパークに愛宕山の石碑と 寛政六年(1794)建立の金毘羅大権現常夜燈が二基建っている。 
小生がここを訪れたのは平成十六年(2004)。 この時は新家棟川は天井川として、 鉄道の土手のように聳え、その下がアーチ形トンネル(家棟隧道)になっていた。  

 *  「 家棟川の上流の山は風化の進んだ花崗岩質の地質なため、 出水時には大量の土砂が流れ出し、家棟川は河床が周辺地盤より高い天井川を 形成していた。 ここを通行する住民や旅人は一旦堤防に上がり、川を 渡り、再び堤防下に下りるという大変な苦労をしていた。 大正六年(1917) 天井川の下に家棟隧道が開削された。 その後、平成七年(1995)より河川工事が 進められ、川床を最大10m掘り下げ、平成十九年(2007)に平地河川化が完了し 、家棟川に家棟川新橋が架けられました。  」  

小堤集落      大笹原神社石標      家棟隧道
小堤集落
大笹原神社石標
家棟隧道


小生は家棟隧道(トンネル)をくぐって篠原神社参道口に出たが、今は新家棟川を 渡ると右側に篠原神社参道口があり、「村社篠原神社」の石標とその奥に 鳥居がある。 

 *  「 篠原神社は餅の宮とも呼ばれ、鏡餅の神が祭られている。  藤原秀郷の二男田原二郎千時が平将門平定 の軍功により栗田野洲二郡を賜った際に社殿を建立したとされる。  この辺りは鏡餅発祥の地といわれ、篠原餅は立場名物であった。  」  

本殿は応永三十二年(1425)建立の一間社隅木入り春日造りで、 国の重要文化財に指定されている。 
社叢が鬱蒼と茂って、境内は静かなので、汗をひくまで休憩をした。
篠原神社の参道口を過ぎると旧辻村に入る。 村名はこの地が野洲郡から甲賀郡に 出る辻であったところに由来する。  
信号交差点を越すと右側に子安地蔵堂がある。  

 *  「 元は比叡山天台系嘉祥寺に安置されていた地蔵菩薩像で、 平安時代末期(十二世紀)造立の極彩色等身大の半跏趺坐(はんかふざ)像で 秘仏である。 安産祈願の子安地蔵として近隣の信仰篤く、毎年一月と八月の縁日 に開扉され、遠方から多くの参拝者が訪れる。 」 

街道はJR東海道新幹線に接近すると、左側一帯が桜生(さくらばさま)史跡 公園で、園内に国史跡「大岩山古墳群」のうち、六世紀を中心とする 三古墳(甲山古墳、円山古墳、天王山古墳)が自由に見学できる。 
JR東海道新幹線高架に沿って進むと左側に甲山古墳があり、 スロープを上り詰めると甲山古墳の石室内が公開されている。 

 *  「 甲山古墳は標高百十メートルの丘陵先端に造られた六世紀 前半の円墳で、直径約三十メートル、高さ十メートル、西に開口する横穴式石室が ある。 石室の床には玉石が敷き詰められ、中央に熊本県宇土半島の凝灰岩で 造られた家形石棺を安置している。 なお、発掘調査によって装身具、鉄製の 武具、馬具等が出土している。 」  

小堤集落      大笹原神社石標      桜生史跡公園
小堤集落
大笹原神社石標
桜生史跡公園


桜生史跡公園の東南、国道を越えた先にある野洲市歴史民俗博物館には 銅鐸博物館がつくっている。 案内によると 「 桜生は銅鐸の里と呼ばれてい ます。 大岩山古墳群からは明治十四年(1881)に国内最大の高さ134.7cmの 大型銅鐸をはじめ合計十四基の銅鐸が発見され、昭和三十七年(1962)には JR東海道新幹線建設工事現場から新たに十基の銅鐸が出土するなどこの辺りは わが国有数の銅鐸出土地として知られています。 この中には近畿地方だけでは なく、東海地方で作られたものもある。 」 とあるので立ち寄ることにした。  入場料は二百円と安い。

 *  「  当地で発見された銅鐸がすべて展示されていたが、よく見ると全て模造品 (レプリカ)で、本物はないようだった。  、 明治時代のものは銅鐸が持つ価値が分からなかったので、売られてしまい、 かなりの数が海外に流出しているようである。  国内では上野の国立博物館 に所蔵されているのが多い。 銅鐸についての基礎知識を得るにはよいが、 現物を見ようすると当てがはずれるというのが見ての感想である。  」  

街道に戻って少し歩くと桜生公民館の手前の三叉路に日吉神社の案内が あったので、左折して国道の下をくぐると右側に宝樹寺があり、その先の左手 に日吉神社がある。 

 *  説明板「日吉神社」国の重要文化財 昭和十九年九月五日指定  
「  日吉神社の歴史は明らかでないが、少なくとも鎌倉時代には造営 されたと考えられる。 祭神は大山咋(おおやまぐい)である。  現在の本殿は 鎌倉時代後期に建てられたもので、形式は一間社の流造。  小規模な本殿であるが 、室内は板扉で内陣(神をまつる部屋)と外陣を区別し、正面に格子戸を建てる。  簡素で一般的形式の本殿であるが、たたずまいの美しい優れた建築である。  
   昭和六十三年三月  滋賀県教育委員会    」  

歴史民俗博物館      日吉神社鳥居      日吉神社社殿
歴史民俗博物館
日吉神社鳥居
日吉神社社殿


街道に戻ると左側の桜生公民館入口の庇の上に銅鐸のレプリカが 乗っていて、傍にあった立て看板には「中山道銅鐸の里桜生」と書かれていた。 
中の池川を越えると右側に地蔵堂があり、傍らには石塔がある。 
集落は続く中に幾つかの案内板(道標)が立つ先、右側に藍染用の瓶が逆さに 並べている家がある。 伝統工芸の「ジャパンブルー」といわれる本藍染 を滋賀県内ではただ一軒だけ伝えている本藍染紺九(こんく)である。   この辺りはかって藍染が盛んでした。 ここ森家は明治三年(1870)に創業し、 紺九の屋号で今日まで本藍染の伝統を守り続けている。 三代目は人間国宝 でした。 
その先の交叉点手前の左側に中之池地蔵堂があり、堂内の祠に中之池地蔵尊が 祀られている。 街道を進むと左側に「稲荷神社」の標石と大きな山燈籠が 左右にあり、奥に石造鳥居がある。 
街道から少し入り、国道8号を越えた野洲中学 の隣に小篠原稲荷神社がある。 二千坪という広い境内である。 

 *  説明板「小篠原稲荷神社」  
「 御祭神は宇迦之御魂神ほか八柱の神(五穀豊穣、商売繁盛の神) 
ご由緒 天暦二年(948)の創立と伝える。 京都の伏見稲荷大社より勧請。 当 神社はもと志礼(しれ)の地(今のお旅所 現在地より南西へ約五百米)にあり、 この地には元禄十六年(1703)に遷座された。 これより先、延宝七年(1679)には 時の領主伊達政宗公(仙台藩主)より約二千坪の土地が寄進せられた。 」 

国道に面した鳥居をくぐると、正面に拝殿があり、右側に社務所と泉水、その 奥に末社薬弘稲荷、左側には末社の愛宕神社がある。 拝殿の奥に柵と神門で 囲まれた中に三つの社があり、中央が稲荷神社の本殿、右側が末社の若宮神社、 そして左が末社の古宮神社である。 」 

本殿は一間社流造りで小篠原村の氏神である。 末社の古宮神社の本殿が 国重要文化財である。 

 *  説明板「稲荷神社境内社古宮神社本殿」  
「 一間社流造り、こけら葺。 室町時代
古宮神社の草創は鎌倉時代で、本殿はもとは近くの福林寺境内にあった十二所 神社の建物を大正三年に稲荷神社の境内に移築されたものである。 本殿は 組物や頭貫の木鼻、向拝の蟇股などの意匠よりみて、室町時代の建立と考え られる。 昭和十七年の解体修理によって、覆屋の中に荒廃していたものが、 現在のような端正な姿に復原整備された。 
この建物は中規模な一間社で、 頭貫に禅宗様建築の細部である木鼻をつけ、母屋正面の鴨居うえ欄間や向拝 の蟇股に唐草文様の彫刻を入れるなど意匠に優れた本殿である。   
      平成六年三月   滋賀県教育委員会    」  

本藍染森家      稲荷神社鳥居      小篠原稲荷神社社殿
本藍染森家
稲荷神社鳥居
小篠原稲荷神社社殿


三上山の山岳信仰である、天御影命(あまのみかげのみこと)を祀った三上神社 にも行きたかったが、 離れているので断念。  街道に戻る。 
次いで右側に「小篠原村庄屋苗村邸跡」の石碑があり、その先に養専寺がある。  文明九年(1477)の開基の浄土真宗本願寺派の寺で境内には大イチョウが聳えて いる。 その先の右側に慶長年間創業の茅葺き屋根の暁酒造がある。 
中山道は新幹線高架をくぐると交叉点で左折する。 車両進入禁止の標識がある 一方通行の道を進む。 住宅の立ち並ぶ道を道なりに進むと、五叉路に出た。  大きな道が交差している左側に、野洲病院があった。  大きな道を渡り、 野洲小学校の裏手を通ると、野洲小学校の前に外和木(そとわぎ)の標(しるべ)が あり、常夜燈風の道標がある。 「中山道野洲」と刻まれ、「守山宿← →武佐 宿」のプレートが組み込まれている。 
その先の先の逆Y字路が朝鮮人街道の追分で、鳥居本宿の追分で分かれた 朝鮮人街道が、彦根、近江八幡を経由して、約四十キロ先のここで合流した訳 である。 

 *  「 この追分にあった享保四年(1719)建立の追分道標は この先の蓮照寺の境内に移設されている。 前述の外和木は朝鮮人街道との追分の地名が小篠原字外和木 ということである。 写真は振り返って写したもの。  京都方面からは、中山道は右側、小学校の裏の道で、朝鮮人街道は左の道 (小学校の前を通る)である。  」  

小篠原から行畑(ゆきはた)に入ると、 信号交差点手前の左側にふれあい広場があり、背競地蔵堂と書いたお堂の中には 二体の石佛が祀られている。 

 *  「 左の大きい地像尊は阿弥陀如来立像で、背の低い 像が背くらべ地蔵である。 共に鎌倉期の造立で野洲町指定文化財で、 東山道が通っていた時代から街道を歩く旅人をお守りしてきた地蔵尊である。  子を持つ親たちは我が子も地蔵さんの背くらいになれば一人前と背比べをさせる ようになり、いつしか背くらべ地蔵と呼ばれるようになりました。 」  

朝鮮人街道の追分      背競地蔵堂      背くらべ地蔵
朝鮮人街道の追分
背競地蔵堂
背くらべ地蔵


街道は交叉点を直進するが、左折すると左側に行事神社がある。   

 *  「 神亀元年(724)御上神社の神託を受けた三上宿禰(すくね) が勧請したところから、三上別宮とも称されました。  本殿は一間社流造りで中畑、行合(現在の行畑)二ケ村の総鎮守で、 鳥居をくぐると魔除けの勧請縄と呼ばれる独特な注連縄が吊り下がって いる。 」  

(追記) 後日調べたところ、道切りという習俗で、全国では少なくなったが、 滋賀県の湖東、湖南、奈良県の一部、千葉県房総地方に残る。  道切りとは、村に悪霊が入ってこないように村の境界に縄を張り、 あるいは境を守る標として、道祖神、御幣、蛇やむかでの藁細工を置いた。 この地方では勧請縄あるいは勧請吊りと称し、注連縄とは違い、太くて長い藁縄 に杉、榊などの葉を組み込んだ縄を吊るすもので、神社により、形状や吊るす ものが違うようである。   

交差点を渡ると行畑商店街となり、左側に延暦二十四年(805)の開基の茅葺の 浄土宗佛牙山唯心寺があり、山門前に「釋尊身御舎利」の石碑が立っている。 
唯心寺の先の突当り、丸万を枡形状に進むと、右側に浄土真宗本願寺派清流山 蓮照寺がある。 寛永元年(1624)の開基で、本尊は阿弥陀如来である。 

行事神社      唯心寺      蓮照寺
行事神社
唯心寺
蓮照寺


蓮照寺の境内は広くはないが、手入れが行き届いており、道標二つと 領界石は草花に囲まれるように 建っていた。  また、鬼瓦や石仏が目立たないところに置かれていた。  道標と領界石は他から移設されたものである。 

 *  「左 八まんみち」「右 中山道」とあるのは 朝鮮人街道追分道標で、前述の逆Y字路に立っていたものをここに移設した。 
「従是北淀藩領」は領界石で、 「自是錦織寺迄四十五町」とあるのは錦織寺道標 で、錦織寺(きんしょくじ)は約五キロ北の中主(ちょうず)町木部(きべ)にある 浄土真宗木辺派の本山である。 

蓮照寺を過ぎると左側に行畑愛宕地蔵堂がある。 
行畑から野洲に入ると野洲本町商店街の看板が掲がる街道には玉の春という銘柄 の醸造元宇野勝酒造や古い家が残っていた。 

道標二つと領界石      地蔵堂      宇野勝酒造
道標二つと領界石
行畑愛宕地蔵堂
宇野勝酒造


東海道本線のガードをくぐり緩い上り坂を進むと、右側に明暦三年(1657)開基 の黄檗宗百足山十輪院がある。 

 *  「 往時、日が暮れると野洲川を渡る旅人の為に、境内の 天明五年(1785)建立の常夜燈に火を灯していました。 この為、八石八斗が除地 でした。 」  

本堂脇に芭蕉句碑「 野洲川や  身ハ安からぬ  さらしうす」 がある。 
野洲晒(さらし)は麻布を白くさらす工程に布晒があり、冬の川の中に据えた臼に 布を入れ、杵で突く作業で過酷な重労働でした。  
十輪院の向かいには夥しい数の石仏石塔が集められ整然と安置されている。 
野洲川東詰交差点を過ぎると、野洲川にでた。  近江では最も大きい川で、 奥は甲賀、信楽そして東海道水口、土山、その先の鈴鹿山中に発している。 

 *  「 野洲川はその昔、河口に八つの洲があり八洲川と呼ばれ、 これが転じて野洲川となりました。 通常は仮橋、増水時は舟渡し、朝鮮通信使 通行の際は仮土橋が架橋されました。 」  

川に架かる野洲川橋を渡っていく。  振り返ると、東海道本線と新幹線の 鉄橋の先に、 近江富士と呼ばれる三上山が見えた。 標高は四百三十二米と 高くはないが、俵藤太秀郷の「百足退治」の伝説がある山で、 古来、信仰の対象 とされてきた山だが、近畿の山歩きをする人には人気のある山である。 

 *  「 紫式部は 「 打ち出でて  三上の山を詠れば  雪 こそなけれ  富士のあけぼの 」と詠んでいる。   又、三上山は平将門を討取った俵藤太(藤原秀郷)のムカデ退治で知られ、 百足山とも呼ばれました。 」   

十輪院      石仏石塔群      三上山と野洲川
十輪院
石仏石塔群
三上山と野洲川


野洲橋を渡ると守山市吉身(よしみ)になる。 江戸時代に守山が宿場に指定される と、吉身はその西の今宿とともに、守山本宿の加宿として宿場の役割を分担 した。  京からの東下がりの場合、初日は守山泊りが一般的だったというから、 初日は三十数キロを歩き、守山宿に泊まった訳だが、京や浪速に入る客で混雑 する草津宿(東海道と合流する)を避けたいと思うのは人情、守山が宿場に追加 されたのもそのあたりの事情だろう。 
街道を進むと右側に「式内馬路石邊(うまじいそべ)神社」の標石があるので寄る ことにした。 
参道は奥に続いていて、本殿までは三百四十メートルの距離である、徒歩五分。
本殿は三間社流造りで、文久元年(1862)の建立である。 社名の馬路はこの地に 宿駅が置かれていたことに由来する。  

 *  「 馬路石邊神社は白鳳三年(663)創建されたいう神社で、 延喜式神名帳ににある式内社である。 祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと) と大己貴命(おおなこちのみこと)馬道郷を拠点とする古代の豪族石辺君氏を 氏神として祭っている。  戌年に創建されたことによるのか、神の使いは白犬 である。  荘園時代には馬路郷田中荘(今の吉身、守山 、金森など)の総鎮守となっていたので、 田中大明神と称されるようになった。  元亀、天正の頃、戦火により燃失。 現在の建物は江戸末期の文久元年(1862)の 建立である。  」  

街道に戻り、吉身三丁目交叉点を過ぎると 吉身小学校南交差点手前の左側に 「益須(やす)寺跡」と「中山道」の説明板がある。  

 *  説明板「益須寺跡 中山道」  
「 益須寺は「日本書記」持統天皇七年(692)十一月の条に「奈良の都から僧二人 を遣わして、近江国益須郡の醴泉(れいせんを飲ませた飲ませた。」ことや翌八年 には「醴(こさけ)の泉が近江の益須郡の都賀山から湧き、病人が益須寺に宿泊して 治療した」、「泉の水が病気に効果があったので水田四町、布六十端を寺に献上 した。・・・・」という生地に見られる寺院である。 益須寺の位置については、 江ぢ時代から検討されてきたが、昭和四十年以降の発掘調査で、七世紀後半の 瓦が吉見町の上野(野神)を中心として周辺で多量に出土することから、現在では この交叉点の東側約百メートルあたりで、二百メートル四方の範囲が有力である。  瓦は奈良県法隆寺式の素弁蓮華文や複弁蓮華文などの軒丸瓦や唐草文、重弧文 の軒平瓦や布目のある瓦がある。 
中山道はもと東山道と呼ばれた古い道を織田信長や豊臣秀吉が修理した後、 徳川家康が整備したもので、正徳六年(1717)までは中仙道と表記していたが、以後 中山道と記述された。 起点の江戸日本橋から守山宿まで中山道は六十七宿で あった。 この交差点あたりは吉身村で守山宿の加宿の東端にあたり、松並木が あったが、昭和三十年代に伐採された。 平成六年、道路改良工事に伴って 中山道の両側を発掘調査したが、中山道の幅は現在の道幅とほぼ同じと推定され、 その両側には水田が広がっていた事がわかっている。  
    平成七年四月    守山市           」  

神社入口      神社社殿      益須寺の瓦
馬路石邊神社入口
馬路石邊神社社殿
出土した益須寺の瓦


「吉身小南交差点」を越えたすぐ先の変則五叉路で旧中山道は水路(伊勢戸川) を渡りやや右カーブする。 
この水路の手前右側に中山道の標柱と吉身の説明板と高札場跡の説明板が立っている。   

 *  説明板「吉身(吉水郷)」  
「 この辺り一帯を吉身という。 古くは吉水郷(よしみずごう)と称し、ゆたかな 森林ときれいな水に恵まれた天下の景勝地であった。 元暦元年(1184)九月に 発行された「近江国注進(ちゅうしん)風土記」には近江国景勝地八十個所の一つ としてこの地が紹介されている。 南側は都賀山の森と醴泉(こさけのいずみ)が 湧く数々の池があり、東に有名な益須寺があった。 そして、この街道は中山道 である。 古えの東山道にあたり、都から東国への幹線道として時代を映し出して きた。 鎌倉時代に、大津・勢多・野路に次いで守山が重要な駅路(宿駅)となり、 江戸時代に江戸の日本橋から数えて六十七番目の宿場に指定されたとき、 吉身はその西の今宿とともに守山本宿の加宿として宿場の役割を分担した。  ここは吉身加宿の高札が立っていた所である。 本宿と加宿の境には川が流されて その標とした。 流れるこの川を伊勢戸川(伊勢殿川)という。 野洲川の伏流と 湧水を戴く宮城川の支流として水量多く冷たく清らかで、川の水は旅人の飲料水 としても重宝がられ、宿場の防火用水としての役目も果たしてきた。 里中に しては珍しく流れが早く周囲の環境に恵まれて多種類のさかなたちを育み、同時に 「ゲンジボタル」の発生の川としても親しまれてきた。 昭和三十年代後半以降 約四十年の水質悪化の時代を経て、近年吉身の川が再び往時の清らかさを取り 戻しはじめた。 その証としてゲンジボタルがその佳麗な姿を見せてきたことを 啓示とし、地元自治会が「川をいつもきれいに」する動きを始めた。 時あたか も守山市が市制三十周年を迎え、その記念事業としてあらためて川の環境を整え、 いつもきれいな水が流れる川を維持しつつ、「ホタルが住みよい吉身」のまち づ<りを目ざしている。   
  平成十三年(2001)早春   吉身中町自治会 「水とホタル推進 委員会」   

 *  説明板「中山道高札場跡、稲妻型道路」  
「 帆柱観音で名高い慈眼寺から北東側へ約100mの地点は、中山道から石部道 (伊勢道)が分岐する。 遠見遮断のため道が屈曲する広い場所で、かつて徳川 幕府が政策などを徹底させるための法度や掟書などを木札に記して掲げた高札場 が設けられていた。 中山道を行き交う人々にとっては重要な場所であった。  また、吉身は江戸時代、守山宿の加宿であり、美戸津川(守山川)から高札場 までの街道は本町と同じように「稲妻型道路」となっていた。 街道に面する民家 は直線的に並列せず、一戸毎に段違いの屋敷割になっている。 宿場の治安維持 を図るための工夫と考えられているが、全国的にもこのような道路が残るところ は大変珍しい。 現在は道路整備によって見にくくなっているが、一部は観察 することができる。     平成十三年 守山市教育委員会   」  

水路(伊勢戸川)      変則五叉路      益須寺の瓦
水路(伊勢戸川)
変則五叉路
高札場跡説明板


ここから百メートル程先の左手にある慈眼寺までの街道に面する民家は、 直線的に並列せず、一戸毎に段違いにする屋敷割りをした(稲妻型道路」になっていたと あるが、 現在ではあまり分からなくなってしまっている。 
左側に慈眼寺の寺標があり、各面に「帆柱観世音 慈眼寺」「本はし羅可んせおん」 「薬師如来」と刻まれている。 慈眼寺は天台宗の寺で、本尊は伝教大師の作 と伝えられ、秘仏とされていて、通称、帆柱観音の名で親しまれる。  本堂には薬師如来坐像や日光、月光菩薩坐像が安置されている。 

 *  「 慈眼寺は延暦ニ十三年(804)の創建で、本尊は帆柱観音と 呼ばれる十一面観世音菩薩立像(秘仏)である。 縁起によれば、傳教大師最澄が 桓武天皇の勅命で唐の国に留学、修行しての帰途日本海で、大時化に遭遇すると 突然観世音菩薩が現れ、風波を鎮め危難から救った。 大師は折れた帆柱で 三尺三寸の観音像を自ら彫り、弘仁元年(810)水難をはじめ全ての交通安全の 守り仏として中山道に沿う吉身の地に安置しました。  元亀二年(1571) 織田信長の兵火で本堂は焼失したが、村人たちがご本尊を 地中に埋めて守ったという。 現在の本堂は里人が中心になって平成二十一年 (2009)に再建したものである。  」  

吉身西交差点の先から守山市守山になる。 かっての守山本宿である。  以前は枡形があったようである。 吉身加宿と守山本宿の境には、 野洲川の伏流水である伊勢戸川が流されている。 水量も多く冷たく清らかだった ので、川の水が旅人の飲み水として重宝がられた。 なお、上記の川の名は 吉身自治会によるもので、市教育委員会の看板は三戸津川となっていた。 
橋を渡ると守山本宿で、壱千五拾参間とあるから宿場は千九百メートルほどの 長さだったようである。 街路灯の支柱に「中山道守山宿」と書かれた将棋の駒の 形をした行灯(あんどん)がついている。 

稲妻型の町並み      慈眼寺      守山宿行灯
稲妻型の町並み
慈眼寺
守山宿行灯


橋を渡ると左にカーブするのが枡形の跡なのだろう。 その左側に 小児科病院があり、三叉路の角に「すぐいしべ道」「高野郷新善光寺道二十五町」 の石柱が立っている。 これは栗東町にある新善光寺と石部への道標である。  すぐとは真直ぐの意である。 

 *  「 この道標は中山道より石部道(伊勢道)として分岐する 場所にあり、旅人にとって 重要なものだった。 その途中に平重盛(清盛の嫡男) の一族高野宗定が善光寺如来の分身を授かり創建した新善光寺がある。  新善光寺は寺で、長野善光寺と同じ御利益があるところから善男善女で賑わった。 」  

左側に第七十五代総理大臣宇野宗佑の実家である銘酒栄爵の蔵元宇野本家酒造 がある。 小生が訪問したころは営業していたが、平成二十二年(2010)守山市が 宇野家を譲り受け、「守山宿町屋うの家」として公開している。 
すぐ先の右奥に守山天満宮がある。 
当初は天徳三年(959)東門院の境内に鎮座 、祭神の神像は菅原道真の肖像と寛平六年(894)に公自ら刻んだ木像彫刻で ある。 
裏に回ると、源内塚というのがあり、 「 平治の乱(1159)に敗れた 源義朝が落ちのびてきた際、 この地の土豪・源内兵衛真弘が源氏の落ち武者とみて 捕らえようとして、逆討ちにあった。  里人はそれを哀れみ、葬ったのが源内首塚 といわれる。 」 と説明が あり、その脇には、薬師堂が建っていた。  
街道に戻ると鳥居前に説明板が立っている。 

 *  説明板「稲妻型屋敷割りの道」  
「 中山道守山宿は街道筋の距離が、文化十四年の記録では千五十三間、内民家の ある町並が五百六十九間という長い街村であった。 宿場の西端には市神社があり、 その向かいには高札場があった。 この高札場から東に約四十米には宿場の防火、 生活用水となった井戸跡がある。 街道筋の特色は、このあたりの道が最も幅広く、 高所にあることと道路に沿った民家の敷地が、一戸毎に段違いとなっていることで ある。 段違いの長さは一定ではないが、およそ二〜三尺で、間ロの幅には規定 されていないことがわかる。 この屋敷の並び方がいつごろから行われたかを知る 史料はないが、守山宿が守山市(いち)と関連して商業的機能と宿場を兼ねたことで、 問屋、庄屋、本陣、市屋敷などを管理するため、あるいは怪しい人物が隠れても 反対側から容易に発見できるなど、治安維持のための町づくりであった。
   守山市教育委員会     」    

石部道道標      守山宿町屋うの家      守山天満宮
石部道道標
守山宿町屋うの家
守山天満宮


守山市教育委員会の案内板の地図には天満宮から古井戸までの区間は斜線に囲まれ 、 本陣や問屋場跡付近と表示されていて、江戸時代には本町(中町)であったことが 分かった。 
道の左側の民家の前に「旅籠甲山跡」の説明板があった。

 *   「 ここには中世東山道時代に旅籠甲山があった。  元信濃武士だった主人が 旧主の妻子に加勢して仇の望月秋長を討たせ、恩返しをしたいう謡曲の「望月」 の舞台になったといわれる。 」 

訪れた時には「甲屋之址」の石碑と建物があったが、謡曲望月は架空の創作との ことから石碑は撤去され、現在はこの場所に本陣(小宮山九右衛門)があったと 推定されているとして、「本陣推定地」の碑が立っている。 

 *  説明板「本陣推定地」  
「 この場所は本陣(小宮山九右衛門)があったと推定されている場所です。  文久元年(1861)十月二十二日、十四代将軍家茂に降嫁される皇女和宮親子内親王 が御所から江戸城へ向かう旅程で、この本陣に宿泊されています。 この場所は 昭和四十年まで特定郵便局兼局長宅でしたが、平成十六年(2004)に取り壊されま した。 」 

小宮山九右衛門は本陣の他、問屋を兼ね、建坪は百七十坪で門構玄関付でし た。 その他の本陣や脇本陣であるが、 宇野衛門本陣は東町にあり、建坪百九十七坪で門構玄関付でした。 また、 小宮山脇本陣は西町にあり、建坪六十八坪で門構無しでした。 
本陣の並びに井戸跡がある。 防火井戸として活躍しました。 

 *  説明板「井戸跡」  
「 この井戸は、天保四年(1833)の宿場絵図に記載され、それ以前から存在した もので、他にもあったとされるが、現存しているのはこれ一基だけである。  守山宿は野洲川の旧河道がつくった自然堤防という微高地のため、用水路がなく、 宿場の防火や生活用水に使用されたと思われます。 平成二年の市教育委員会と の合同調査では、井戸は漆喰の枠が六段積み重ねられ、さらに数段が土砂の流入で 埋まっていることがわかりました。 上部の石組は一辺90cmで四角形に組んで いて、盤石は、後世にのせたようです。 この石組はもともと西に20m程行った 所のコの字型になっている所にありましたが、平成十八年から平成二十一年の 側溝工事に伴い、中山道守山宿歴史文化保存会・中山道ろくはち会・中央商店街 がこの地に移転保存したものです。 守山宿の往時の生活を知る貴重な遺産 です。   
     平成二十二年四月 中山道守山宿歴史文化保存会    」  

街道に「町家ふれあい館 筆忠」「中山道ろくはち会」の看板を掲げた家があった。 

旅籠甲山跡      井戸跡      町家ふれあい館 筆忠
旅籠甲山跡(現本陣推定地)
井戸跡>
町家ふれあい館 筆忠


二百メートルほど行くと、三叉路になり、中山道は左に曲がっていく感じに なる。 ここは木浜(このはま)道追分で、高さ一メートル五十五センチ、 一辺三十センチの四角の石柱の道標が建っている。 高札場があったところで、 その近くに市神社があった場所でもある。 

 *  「左 錦織寺四十五町 こ乃者満ミち(このはまみち)」 「右 中山道 并美濃路」、 他の一面には「 江州大津西念寺京大阪大津講中建之 」 と、刻まれていて、 約四キロ離れた野洲郡中主町にある真宗木辺派総本山・錦織寺への参道の道標 として二百年以上も前の延亨元年(1774)甲子霜月に建てられたものである。  こ乃者満ミち(このはまみち)は琵琶湖の津として賑わっていた木浜湊へ通じる 道筋である。 

左に折れると、すぐの右側に「「田村将軍護持本尊 観音霊場比叡山東門院」の石柱が立っている。 ここは近江三十三ヶ所の二番札所、 比叡山東門院守山寺である。 

 *  「 明治天皇は中山道巡幸で、明治十一年十月十二日、 恵那宿より来られ、 当寺で休憩の上、草津宿へ向かわれた。 又、十月二十一日、東京への帰路にも、 当寺で休憩し、野洲の辻町に向かっている。 寺の脇には、それを記念した 「明治天皇聖蹟」の石碑が建っている。 石碑は明治百年を記念して昭和四十五 年に建立されたものである。 」  

木浜道追分      追分道標      明治天皇聖蹟碑
木浜道追分
追分道標
明治天皇聖蹟碑


守山寺の仁王門は東門院最古の建物で、仁王像は坂上田村麻呂が東征の際、 戦勝祈願し、 見事勝利を収めたところから門出仁王と呼ばれている。 

 *  「 守山寺は「近江国興地志略」に「桓武天皇、叡山御建立 の節、当寺へも御行あって、我が山を守護したてまつる所なればとて、地を守山 といひ、寺を守山寺と号す」とあり、守山の地名のもとになった寺である。  また、延暦十三年(794)、傳教大師最澄が延暦寺を開いたとき、東方の鬼門を守る ために建立されたと伝えられる寺で、一般的に「守山観音」とよばれるのは千手 観音と十一面観音の両像を本尊にするからである。 十一面観音立像は「東門院 縁起」に「 弘仁元年(810)、琵琶湖の中に光を放つところがあり、網を投げて これを引き、十一面観音尊像を得たり」 とある観音で、田村将軍(坂上田村麻呂) が蝦夷征伐に向かった際に持参した護持本尊でもある。
坂上田村麻呂は戦勝後、本堂を建立寄進したと伝えられるが、織田信長の兵火 で燃えてしまった。 」   

仁王門をくぐると正面に本堂がある。  織田信長の兵火後、再建された建物は明治天皇や江戸時代の朝鮮通信使が宿泊した ことからも、かなり大きな寺だったと思われるが、昭和六十一年末の火災で本堂 などの多くの建物を燃失しまった。 本堂は平成に入り、建てられたもので ある。 
不動堂には興郷大師の作といわれる火災から免れた木造不動明王坐像(国重要 文化財)が祀られている。 
なお、鎌倉時代の建立の石造五重塔は国の重要文化財、石造宝塔、石造宝篋印塔は 国重要美術品指定である。 

 *  「 昔は、境内に流れる三津川のほとりに柳があり、源氏蛍 が多くて、 国の重要文化財に指定される石造り五重塔を青白く浮かび上がらせていたというが、 蛍が飛ぶ姿を想像することはできなかった。 」   

門出仁王      守山寺本堂      不動堂
門出仁王
守山寺本堂
不動堂


守山宿は京を立った東下りの旅人の最初の宿泊地で「京立ち守山泊まり」といわれ 賑わいました。 
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によれば、守山宿の家数415軒、宿内人口 1700人(男837人 女863人)、本陣2、脇本陣1、旅籠30軒、宿並は本町、西町、 仲町、東町で構成され、宿長は十一町五十三間(約1.3q)でした。  
明治天皇聖蹟碑の隣、右側に門前茶屋かたたやがあるが、これは旅籠堅田屋跡で ある。 小生が訪れた時はなかったが、平成二十一年に当時の梁や柱、土壁、 格子、虫籠窓、階段箪笥などを残しながら、最新の技術で耐震性、機能性を高め、 門前茶屋かたたやが誕生したという。 
守山銀座交差点を直進する。 左折すると六百五十メートル先に JR東海道本線守山駅がある。 
守山銀座交差点を越すとすぐ、土橋(どばし)と書いたコンクリートの橋がある。  土橋は本宿の守山宿と加宿の今宿(いまじゅく)の間に架かっていた橋で、 江戸時代には全長二十間(約30数m)、巾二間(3.6m)もあった。 

 *  「 徳川幕府は防衛上橋を架けさせなかったが、瀬田の唐橋と この橋は例外だったようで、板橋の上に土を乗せたことから、この名がついた。  瀬田の唐橋の古材を使用して架け替えられる公儀御普請の橋だった。 」  

安藤広重の守山宿の絵は、今宿側から川を隔てた本宿側の家並みと春爛漫の桜、 そして、 遠くに三上山を描いたものだが、当時の川には屋形船が浮かび、 両岸には宿屋、茶屋が建ちならび、おおいに賑わっていたようである。  

 *  「 境川(吉川)を土橋で渡る。 実際には吉川(境川、守山川) は宿並に交差して流れており、宿並に沿って流れていないから、この構図は広重 一流のデフォルメといえる。 」  

境川(吉川)は旧野洲郡守山本宿と旧栗田郡今宿村の境で、守山宿の京方(西)の 入口である。 

旅籠堅田屋跡      土橋      広重の守山宿
(左)旅籠堅田屋跡
土橋
広重の守山宿





中山道の終点・草津追分 

境川を土橋で渡ると、守山宿の加宿である今宿村に入る。 
右側に延久三年(1071)創建の樹下(じゅげ)神社が鎮座している。  祭神は稲田姫命(くしなだひめ)で、その先の大宝神社は本社に当たる。 
境内の両側に沢山の常夜塔が並んでいるが、その中に大きなものがある。  当地の旅商人だった伊勢屋佐七が天保弐年(1831)、土橋界隈を往来する 旅人の安全と宿内平穏を祈念して建立した伊勢屋佐七の常夜燈である。 

 *  「 竿石には大神宮、金毘羅大権現、台石には天下泰平、 宿内安全と刻まれ、商売していた地名や一緒に建立した人の名なども書かれて いる。 元は土橋の袂にあったが、河川の氾濫などにより痛んでいたのを 明治二年に修理し、ここに移設された。 守山市の有形文化財である。 」  

樹下神社参道      常夜燈      樹下神社
樹下神社参道
常夜燈
樹下神社


右側に延徳元年(1489)開基の真宗興正派広大山超勝寺がある。 
、 今宿の町並には重厚な白壁連子格子の旧商家を残している。 
少し先の左側には具足山本像寺という日蓮宗の寺院がある。 応長元年 (1311)の開基で、本尊は十界曼荼羅である。 
本堂前の築山には寺の草創の由緒を伝える「石造題目塔」があり、 貞治六年( 1367)の銘がある。  墓地にも大永四年(1524)の銘の石造題目塔がある。 
全国を旅して二千以上の奇石・珍石を収集した江戸時代の鉱物学者・木内石亭の 墓碑は本堂左前にある。 

旧商家      本像寺      石造題目塔
旧商家
本像寺
石造題目塔


今宿町交差点を左折し、「楓三道」の案内のある勝部交叉点を右折し、少し行く と左側に勝部神社がある。 昭和十六年までは栗太郡物部村だったので、 物部神社と称されていた神社である。  

 *  説明板「勝部神社由緒」  
「 孝徳天皇の大化五年(649)八月十三日、物部宿禰広国は、当時勝部村一帯の 土地を領有し、その祖神物部布津神を祀り、物部郷の総社とし、これを物部大明神 と称しました。 「三代実録」には陽成天皇元慶六年十月従五位下の神位階が 授けられた物部布津社は当社である。 中世武家時代に入り、武家をはじめ一般 の崇敬も一層高まって参りました。 近江守護職佐々木氏は深く当社を信仰し、 出陣の旗竿は決まって当社竹林の竹を使用され、明応六年佐々木高頼氏は 、大願成就祈願のため御本殿を造営されました。 元亀年間には織田信長公が 野洲・栗太二郡の起請文六十通を当社に納められ、文禄三年八月豊臣秀次公は 神田の寄付と御本殿の修理を行いました。   」 

本殿の間口は一間三尺、奥行二間一尺で、一棟の中に二神殿が置かれ、 屋根は檜皮葺き、前流れを長くした三間社流造で、国の重要文化財に 指定されている。 
街道に戻る。  この道(県道2号)は車が多くないのでのんびり歩ける。 左側に今宿の一里塚がある。 南だけの片側しか残っていないが、 滋賀県内で唯一残る一里塚で、江戸から百二十八番目である(滋賀県指定史跡)。 
塚の上の榎(えのき)は枯れたが、ひこばえから生じた二代目の木が空にむかって 大きく枝を伸ばしていた。 
ここから草津宿までは、約一里、四キロの距離である。 
焔魔堂町交差点を越すと左側に「住蓮房母公墓」の標石があり、市村家の敷地内 に墓がある。 

 *  「 住蓮房の母、朝子は我が子が捕えられた悲しみで盲目と なり、一目逢いたいと京から馬淵を目指しました。 ところがこの地まで来ると すでに首を打たれたと聞き、最早この世に生きながらえる望みなしといい、 当地焔魔堂村の尼ケ池に入水しました。 母公の法名は住然といいます。  市村家は住蓮房の首を打った刀を所蔵していましたが、延宝五年(1677) 大宝神社 に奉納しました。  」   

県道145号の交叉点を越すと右側に「五道山十王寺」「焔魔法王小野篁御作」 の石碑が立っている浄土宗鎮西派五道山十王寺がある。 

勝部神社      今宿一里塚      十王寺
勝部神社
今宿一里塚
十王寺


十王寺は小野篁の開基である。 門は閉まっていたが、引き戸を引くと中に 入ることができた。
境内の閻魔堂に小野篁が造った閻魔像が安置されている。 

 *  「 この閻魔堂は閻魔堂村(現、焔魔堂町)の地名由来になって いる。  小野篁(たかむら)は平安時代前期の官人、学者、歌人で、 遣隋使で知られた小野妹子の子孫である。 小野篁は夜毎井戸を通って地獄に降り、 閻魔大王の元で裁きの補佐をしたという伝説がある。 五道は人間が修行の結果、 善悪の行いによって行き着く五つの場所をあらわしている。 その途中には十の 関所があり十人の王がいます。 これを十王といい、そのひとりが閻魔大王 である。 」  

十王寺の向いの諏訪神社の街道沿いに領界石「従是南淀藩領」がある。  元は今宿村と閻魔堂村の境にあったもので、閻魔堂村は山城淀藩領でした。 
十王寺の先で用水路を渡るが、そこに「古高俊太郎先生誕生地」の石碑が立って いる。 古高俊太郎は京都で新撰組に切られた尊皇攘夷の志士である。 
用水を越えると左側に閻魔堂村境の男女双体道祖神が祀られている。  
二町交叉点を過ぎると守山市二町町から栗東市綣(へそ)になる。 

 *  「 綣はお腹のヘソではなく、糸を丸めるの意で、はた織機 にかけるために、縒りあわせた麻糸のことをへそという。   」  

 

左側に森が見えてきて、幼児達が遊んでいた。  公園のようになっているが、 大宝神社の境内である。 
左側の用水路に沿って進み、脇の鳥居をくぐって大宝公園に入って進むと 左側に松尾芭蕉が元禄三年、北陸方面に旅をした帰りにここで足を留め、 惜春の情を詠んだ 「  へそむらの  まだ麦青し  春のくれ  」 句碑 がある。 

 *  「 へそむらは綣村と書き、元禄三年(1690)に綣村立場で 詠んだ句で、「この辺りの麦はまだ青い、寒かったのだろうか、もうまもなく春も 暮れようとしているのに」  の意である。  」  

十王寺閻魔堂      大宝公園      芭蕉句碑
十王寺閻魔堂
大宝公園
芭蕉句碑


参道を左に進むと大宝元年(701)創建の大宝神社がある。 祭神は素戔嗚尊で、 この地の産土神である。 

 *  「 大宝神社(だいほう)は素盞鳴尊である牛頭天王を祭神と し、近江国守護佐々木氏、そして足利将軍や徳川家の庇護を受けて隆盛し、 江戸時代以降は氏子が五十余村にもおよんだ”と言われる神社で、 社域が今でも約二万七千uにおよぶ神社で、 明治までは、大宝天王宮とか 今宮応天大神宮と呼ばれていた。  」 
本殿は三間社流造りで弘安元年(1278)の再建である。 
境内にあった木造狛犬は重要文化財指定であるが、現在は京都国立博物館に 保管されている。 
境内社の追来(おうき)神社本殿は弘安六年(1283)の棟札が残っていて、 鎌倉時代中期の建築で、国の重要文化財に指定されている。 
なお、神社の入口脇には、大宝村道路元標の碑が建っている。 
街道を挟んだ向かいに時宗の大宝山佛眼寺があり、参道口の地蔵堂には 綿被(わたかぶ)り地蔵が安置されている。  寒中に川の中を流れてきた地蔵を拾い上げ「さぞ寒かっただろう」と頭から綿 を被せて祀ったといわれる。 

大宝神社四脚門      大宝神社本殿      道路元標
大宝神社四脚門
大宝神社本殿
道路元標


再び、歩き始める。 綣(へそ)の集落はけっこう広い。  大宝小学校を過ぎると栗東駅西口交差点があり、左折すると正面が JRの栗東駅である。 中の井川を百々川橋で渡り、花園交差点で琵琶湖に通じる 浜街道(県道31号)を横断する。 花園交差点 を過ぎると、左側にJRの高架が 大きく弧を描くようにして近寄ってきた。 JR草津線である。 葉山川を渡ると、 草津市に入った。 
葉山川橋交差点の先は東海道本線と草津線の敷設により、中山道は分断されて いるので、線路に沿って進む。 車道はやがて高架になるが、そちらには上がら ず、左側を歩き、左側の線路をくぐるトンネル(渋川隧道)を探して、入って行く。  二つ目のトンネルは極端に低いのだが、自転車に乗ったまま器用に走っていく のには驚いた。 この隧道でJR東海道本線及びJR草津線をくぐり抜ける。 
線路の反対側に出るとすぐ右折し、 JR草津線に沿ったグレーチング敷きの 細い側道を進む。 これが旧中山道で、以降、JR線に沿って進む。 
線路沿いの細道を進むと旧渋川村に入る。  往時はこの辺りに梅木和中散を商う出店があり、賑わったというが、今はその 痕跡はない。  県道2号を高架でくぐると左側に伊砂砂(いささ)神社がある。 

 *  「 平安の昔に疫病平癒の為に大将軍を祭り、渋川大将軍社 と称し、渋川村の産土神であった。 明治の神仏分離後の明治二年(1869)に 祭神五神の内、石長比売命(いわながひめ)、寒川比古命(さむかわひこ)、 寒川比売命(さむかわひめ)の頭文字を取っていささ(伊砂砂)神社と改称された。 」   

本殿は応仁二年(1468)の建立で、一間社流造檜皮葺きで、国の重要文化財 に指定されている。 当社には伝統芸能古式花踊りが伝わっている。 

 *  「 応仁三年(1469) 旱魃のため、村人が雨乞いの祈願を 行ったところ、御神助により雨が降り、幸い豊作にななった。 このため神前に 御礼の踊りを奉納して祝ったのが始まりという。 」   

街道に沿う伊砂砂神社の平積石垣は自然石の珍しい平積みで錬倉時代の作と 伝えられる。 
伊佐々川を伊佐々川橋で渡る。 この川は伊砂砂神社の参拝者が体を清め、 手を洗い、口をそそいだ御手洗川(みたらしがわ)であった。 
信号交差点を越えると右側に明応二年(1493)開基の真宗大谷派秀月山行圓寺があり、 並びの奥に真宗興正派大放山光明寺がある。 

 *  「 貞永元年(1232) 天台宗の道場として創建されたが、 蓮如上人の教化により浄土真宗に改宗しました。 その先の左側の家屋内に 地蔵大菩薩を安置した祠が祀られている。」  

渋川隧道      伊砂砂神社社殿      光明寺
渋川隧道
伊砂砂神社社殿
光明寺


大路交差点を越すと正面にきたなかアーケードが現れる。 
手前の交差点左側の中央分離帯に手作りの一里塚跡標識がある。  草津の一里塚跡で、大路井の一里塚とも呼ばれた。 塚木はエノキで、 江戸より百二十九里目の一里塚で、そして中山道最後の一里塚である。 
北中町商店街には八百屋、酒屋、洋品店などの店があった。 きたなかアーケード を進み、途中を左折すると左側に浄土宗三光山覚善寺がある。 
寺の前の道は明治に造られた東海道の新道で、門前には、明治十九年(1886) に建てられた 「 右東海道 」、「 左中山道 」 と刻まれた大きな石柱の道標 がある。 

 *  「 新東海道は明治になり、草津川(砂川)の下にトンネルが 掘られ出来たもので、それ以降、東海道は新道に変わり、新追分もできたので ある。 」  

更に進むと、左側に貞観五年(863)創建の女体権現、小汐井(おしおい)神社 (水天宮)がある。 中山道第一の宮として旅人からも篤い信仰を受けました。 近隣の氏子 からは安産の神として今も篤く信仰されている。 

きたなかアーケード      覚善寺と道標      小汐井神社
きたなかアーケード
覚善寺と道標
小汐井神社


アーケード道に戻って進むと正面に草津川隧道が口を開けていますが、 くぐりません。 
草津川は往時から天井川で、通行の人々は土手を上り、草津川を越えました。  緩い上り坂の右側に草津川の川越しの安全を見守ってきた地蔵尊が祀られている。 その先のY字路を左に進み、上り坂は土手道に出る。  ここに架かる橋は渡らず、土手道をUターンする。 土手道を進み途中から 右の砂利道を下って河川敷の中央に進む。  

 *  「 天井川の草津川は平成十四年(2002)に廃川となりました。  河川敷は現在草津川跡地公園になっている。 
江戸時代の草津川は通常、水量が少ない為、仮橋が架けられていた。  広重は草津追分として、この仮橋を画面の手前に描いている。  廃川になった草津川の中央にこの仮橋が復元されている。 」  

仮橋を渡り、対岸の砂利の上り坂を進み、土手道に合流する。  途中に「草津川渡し」説明板があり、「通常水なしで、徒歩渡し。 水嵩により、 三〜三十二文の橋銭を払っていた。 当時は少し東側で渡っていた。」 と記 されている。 
土手道をわずかに進み、右手の階段を下りる。 階段を下り切ると突当りが 草津追分で、左側が草津川隧道の西口である。 ここが中山道の終点である。 
追分の突当りに文化十三年(1816)の建立火袋付石造道標があり、「右 東海道いせ みち」「左 中仙道美のぢ」と刻まれている。 
また、手前の左側には延命地蔵尊 (追分地蔵尊)があり、並びに縮小版の高札場が復元されている。  草津川の堤防が決壊する恐れがある場合は高札場は立木神社に移動したという。 
これより京三条大橋までは東海道と同じ道であるので、中山道固有の道はここで終わる。 

草津川      草津追分      火袋付石造道標
草津川
草津追分
火袋付石造道標



(所要時間) 
武佐宿→(1時間)→住蓮坊首洗池→(1時間30分)→鏡神社(鏡立場)→(1時間) →蓮照寺→(50分)→守山宿
→(30分)→大宝神社→(1時間30分)→草津宿 


守山宿   滋賀県守山市吉身  JR東海道本線守山駅下車。 
草津宿   滋賀県草津市草津  JR東海道本線草津駅下車。 



(32)草津宿・大津宿・三条大橋                         旅の目次に戻る



かうんたぁ。