『 中山道を歩く  (25) - 鵜沼宿・加納宿  』





(52)鵜沼宿(うぬましゅく)

太田宿の西の枡形が終わり、虚空蔵堂を過ぎると街道の右側(北)に太田小学校がある。  太田小学校のフェンス際に「尾張藩太田代官所跡」の説明板がある。  ここは尾張藩の代官所の跡である。 

 * 説明板 「尾張藩太田代官所跡」  
「 尾張藩は天明年間(1781〜89)になると藩政改革として領内の要所地を一括支配 する所付(ところづけ)代官を配置しました。 太田代官所は天明2年(1782)に設置され、 当初の代官は井田忠右衛門でした。慶応4年(1868)、太田代官所は北地総管所と改名 され、田宮如雲(じょうん)が総管に任命されました。  このとき一緒に勤めていたのが坪内逍遥の父平右衛門です。  
     美濃加茂市商工観光課    」  

太田代官所は天明二年(1782)に設置され、恵那から鵜沼までの尾張領五万四千石を 支配しました。 その先の木曾に入ると福島代官所の支配になるので、今の行政区画では 東濃と呼ばれるところのほぼ全部である。 隣の加納藩とほぼ同じ石高だったので、 代官所の力はすごかったわけである。 
小学校の校舎に逍遙の資料を集めた教室「山椿の部屋」がある。 また、学校の北側に ある小公園には坪内逍遙の顕彰碑が建っていて、「坪内逍遥生誕の地」の説明板には 大正八年に夫婦そろって生まれ故郷を訪れ、虚空蔵堂のムクの木の根元で撮影した 写真が掲載されていた。 

 * 説明板 「坪内逍遥生誕の地」  
「 坪内逍遥は安政六年(1859)、尾張藩大田代官所の手代であった平之進(平右衛門とも いう)の十人兄妹の末子としてこの地に誕生した。 逍遥の幼年時代は幕末動乱期の まっただ中にあり、剣術の稽古や兵法の訓練にあけくれ、学問のできる雰囲気で なかったが、彼は母や兄から絵草子、百人一首、漢書を習い、文学的素養を身に つけた。 明治二年父の引退にともない、太田を離れた逍遥は名古屋に移り住み風雅な 中京文化の感化をうけた。 十八才にして上京し、明治十六年東京大学を卒業するや、 「小説神髄」、「当世書生気質」を発刊し、明治新文壇の先達となった。 さらに 早稲田大学教授として演劇、歌舞伎、児童劇、近代文学の指導と研究にあたり近代 日本文学の基を築いた。 逍遥の明治四十二年から二十年間にわたる「シェークスピア 全集」の完訳は代表的な偉業である。 
     平成六年三月     美濃加茂市教育委員会     」  

太田小学校      坪内逍遙顕彰碑      説明板
太田小学校
坪内逍遙顕彰碑
晩年の坪内逍遥


すぐ先の左側に坪内逍遥ゆかりの妙見堂の標識があり、 日蓮宗太田教会の境内には髭文字南無妙法蓮華経題目碑がある。 
中山道は太田小学校の校庭の南側の道を西に向い、国道に出るとすぐにその角を左へ、 深田村の鎮守深田神社や臨済宗妙心寺派河北山芳春寺(ほうしゅんじ)を経て、 木曽川の堤防に出る。 なお、深田神社の社殿左側に深田の石造庚申像がある。  寛文十年(1670)建立の青面金剛像で、美濃加茂市指定有形文化財である。 
国道に平行して、木曽川の堤防上に日本ラインロマンティック街道という名が付いた道 があり、歩行者、自転車専用道として整備されている。 この遊歩道は日本ラインと いわれる木曽川の景観や国道周辺が見下ろせ、 大変都合がよい。 

 * 「 明治二十七年(1894)、日本風景論を著した地理学者志賀重昂は、 大正三年(1914)五月、加茂郡教育会の講師に招かれた際、 犬山までの木曽川下りを楽しみ、その風景がヨーロッパのライン河に似ているとして、 この間の木曽川の河川美を日本ラインと命名しました。 」  

深田神社      石造庚申像      日本ライン
深田神社
石造庚申像
日本ライン


土手下の日本ライン漁協を過ぎると右側の深田スポット公園に兼松嘯風(かねまつ しょうふう)の句碑「 山間の  雪の中ゆく  筏かな 」がある。  嘯風は承応三年(1654)深田村に生まれ、美濃を代表する俳人でした。 
加茂川を跨ぐ。 加茂川は美濃加茂市と加茂郡坂祝(さかほぎ)町の境で、 この流域には大まや湊があり、鵜沼までの舟運がありました。  中山道は加茂川の渡り詰め辺りから斜め右に進んでいたが、今は道が消滅している。 
土手道を進み、一色大橋の交叉点を右折し、突当りのT字路(国道20号)を左折する。  ここで遊歩道がなくなるので、国道に下りて歩く。 ここで遊歩道がなくなるので、 国道に下りて歩く。 酒倉交差点を越すと右奥に三菱パジェロ生誕の地と大書きされた、 三菱自動車工業の工場があり、坂祝町に入る。  坂祝(さかほぎ)の地名は北方向に鎮座する式内社の坂祝神社に由来する。 
パジョロ製造工場の近くに取組一里塚があったのだが、今は木柱のみである。  勝山の一里塚とも呼ばれたが、江戸より九十九里目の一里塚である。  
 坂祝町取組歩道橋の手前を左折し、突当りの土手階段を上り、再び土手道に合流 する。 この土手道はロマンチック街道と命名され、快適な遊歩道になっている。  先に進むと右側の行幸公園にベンチや案内板とトイレがあり、 遊歩道の一角に行幸巌(みゆきいわ)碑がある。 行幸巌には昭和天皇などの皇族や 外国から来賓がここで日本ラインの景勝を愛でたとあり、ここが日本ラインで一番 見晴らしのよいところのようである。 

 * 碑文には 「日本ラインの景を知らずして河川の美を語るべからず といわれた如く、正にラインの名にそむかず奇勝千変万態、水、狂うかと見ればまた 油の如く渦をなして流れ、軽舟飛沫をあびて下る。 対岸に迫るは鳩吹山(はとふきやま)、ここ坂祝河畔は、ライン下り第一の佳景。 特に行幸巌からの眺望は古来幾多の名士嘆賞の地として名高い」 と刻まれている。 

散歩をしている人達とすれ違うことが多くなった。 犬を連れたり、乳母車を押して の若いカップルもいる。 
木曽川の景勝を楽しみながら進むと、右側の国道21号を越えた奥に臨済宗妙心寺 派の大祥山宝積寺(ほうしゃくじ)があり、参道口には南無観世音菩薩の幟がひる がえっている。 

 * 「 寺の創建は宝徳年間(1449〜51)で本尊は聖観音である。  取組の地名は桃太郎が鬼と取組し退治した所といい、 宝積寺は桃太郎が宝物を積んで帰ってきた所と伝わっている。  木曽川下流の対岸には桃太郎神社があり、この地には桃太郎伝説が残っている。 」 

取組交差点手前の右側、坂祝保育園入口の右側の石垣上に日本ラインの景勝が祠の中に 安置されている。 向かって右が元禄八年(1695)建立の観音菩薩立像、左が 文化十四年(1817)建立の地蔵菩薩立像である。 

行幸巌碑      日本ラインの景勝      菩薩像を祀る祠
行幸巌碑
日本ラインの景勝
菩薩像を祀る祠


勝山交差点には「右江戸善光寺 左せきかじ」と記された道標がある。 
関の孫六などの刃物で有名な関ヘの追分だが、その先に立派な道ができ、 今はメインルートではない。 また、遊歩道に戻り歩く。 
川の辺に、「勝山湊の跡」の木標がある。 関などの近隣の村から集められた年貢米や 人の輸送に使われた湊だが、川の流れが変わってしまい、今は陸地になっていた。 
遊歩道の脇には太田宿でも見た水神石碑や小さな祠もあり、水害から守ろうとする気持が 残されている。 
太田から歩いてきた土手道の日本ラインロマンティック街道は少し先で終了する。 
階段を降り、国道の向こうに出る。 
道の脇に「勝山神明神社御跡地」と刻まれた石碑がある。 

勝山道標      水神石碑      勝山神明神社御跡地
勝山道標
水神石碑
勝山神明神社跡


約二百メートルほど歩くと閉鎖されたボーリング場前の三叉路にでた。 右折すると 関に行く新道である。 小高い山の頂上に城のような建物が見え、国道に 「猿啄城展望台→0.1km」の道標がある。 

 * 「 猿啄(さるばみ)城の築城年代は不明であるが、応永十四年 (1407)の頃、西村豊前守善政が城主であった。 嘉吉元年(1441)善政が祖母の法要に 出かけた際、田原左衛門尉頼吉により城が略奪される。 天文十六年(1547) 家臣の多治見修理が城を略奪する。 永禄八年(1565)織田信長が東美濃の攻略を開始、 鵜沼城攻略を木下藤吉郎に任せ、猿啄城攻撃を丹羽長秀、先方、川尻鎮吉として攻撃し 落城さす。 戦勝の記念としてこの地を勝山と改称し、川尻鎮吉に猿啄城を与えた。  川尻鎮吉は勝山城に改称し、天正二年(1575)岩村城に移った際に、この城は廃城に なった。 」  

川は少し遠ざかっているが、道は曲線を描いて進んでいく。  勝山西交差点を過ぎるとすぐ先、右側に崖の中腹に上がって行く道が現れる。  上り口に岩谷観音駐車場があり、中山道の案内板が立っていて、この山道が岩屋観音道 の参道であると同時に旧中山道であることが分かった。  また、この辺りに立場があり、三角強飯(三角形の赤飯のおにぎり)が名物であったよう である。 
岩谷観音駐車場は岩屋観音堂への東口で、坂を上って行くと両側に 「聖岩谷観世音菩薩」の幟がはためいている。 
大きな石碑には「岩窟観世」と刻み込まれていた。 

 * 「 木曾路名所図会に「 勝山窟観音、木曾川の西傍にあり、 大巌の中に石像の観世音を安置し、傍より清泉流れ出づる。 このあたりの風色いち じるしくして岩石崔嵬たり。 他境にすぐれて奇絶の所なり。 」 とあるもので、 この坂を巌屋坂と言っていたようである。 
皇女和宮降嫁大通行の際、幅一尺五寸(約45cm)に拡幅されたといわれるが、 現在でも崖伝えの細い道なので、往時はかなり厳しい道だったことが想像できる。  」  
また、ここからの景観を岐蘇路安見絵図は 「岩窟の内に、くはんのんを安置す。 此辺、左りは木曾川流れ、川辺に岩多く、川向の山々好景也。又木曽川を薪を つみたる船多下る。 急なる故、船の下る事、飛かことく、是またよき見もの也。」  と記述している。 」  

登るほどに見晴らしは良くなり、木曽川の景観がパロラマで見えた。 水の色は冬 の色のため、やや黒い紺色をし冷たさを演出しているが、浅瀬にいくとスカイブルーに 変わり、飛沫の白がアクセントを付けている。 
金網越しに国道と木曽川を見ながら>坂を上ると「巌屋坂之碑」がある。 

巌屋坂      川辺に岩多く好景也      巌屋坂之碑
巌屋坂
川辺に岩多く好景也
巌屋坂之碑


坂を下りまた登ると崖の中腹に岩を掘った洞窟(岩屋)の中に岩窟観世音菩薩が安置されている。  小さな石仏の観世音推古天皇(在位592〜628)の世に勧請されたものと伝わっている。 
お堂の裏側に回ると沢山の石仏があった。 観音堂前の階段の脇や崖の下に奉納した金品を 記した江戸時代の石柱が並んでいる。 奉納した金品の中に京の飛脚問屋数軒連名で奉納一両 というのがあった。 職人の手間賃が何文という時代に、一両(現在の価額で六十万円)という のは破格である。 太田宿は地元だから当然として、名古屋や京阪方面からが多いのは以外 だった。 
岩屋観音から下り、次いで石段を下り切ると国道21号の歩道に合流する。  階段口は進行方向とは逆向きになっているので、Uターンし、すぐ先で右の旧道痕跡に入る。  これが中山道の難所の一つ、観音坂である。 旧道は桜並木になっているが、今は一部しか 残っていない。 このあたりが各務原市と坂祝町の境界のようである。 
国道21号の歩道を八百メートル程歩くと桜洞橋歩道橋があるので、 歩道橋を渡り、反対の左側、現在は閉店している「カフェテラスゆらぎ」の駐車場に入る。  駐車場入口に標識「気をつけてお帰り下さいこれより岐阜方面」があり、 この標識の下に案内標識「中山道左へ」が取り付けてある。 駐車場内奥の石段を 下りる。 
ここから中山道はうとう坂に入る。 

 * 「 現在は、国道が木曽川の縁を平気で走り去って行くが、江戸時代には ここから先は絶壁だった。 また、山を越えた方が距離が短いので、中山道はここから 山越えしていた。  明治二十二年に木曽川べりを通る現在の国道21号が鵜沼便道として 開通すると、人やものの流れが変わり、いつの間にか旧中山道はほんの一部を残し、 消滅してしまったのである。  各務原側からの道は比較的残っていたようであるが、 坂祝側の道はほとんどなくなっていた。 特に、高山本線のトンネル付近では鉄道と国道 によって寸断されていて通れる状況ではなかった。 今から十年程前、この森が生活環境 保全林「日本ラインうぬまの森」として整備されることになったとき、旧中山道を復元させ ようという動きにより復活されたので、うとふ峠を越えることができるようになった のである。 

岩谷観音堂      一両奉納石柱      カフェテラスゆらぎ
岩谷観音堂
一両奉納石柱
カフェテラスゆらぎ


駐車場横の階段を小さな川へ降りていくと、谷川が流れていて上に 国道が走る。 谷川に沿って小道があるので、国道とJR高山本線をトンネルでくぐって、 反対側に出る。 竹林になっているが、ここからが山道で、これが中山道最後の難所とも いわれた「うとう峠」に通じる山道である。  

 * 説明板 「うとう峠」  
「 中仙道は当初、木曽川に沿って鵜沼まで通じていたが、 急傾斜で危険だったので慶安四年(1651)うとう峠越えのうとう坂が開削されました。 うとう峠と鵜沼宿との間は十六町(約1.8q)の山坂で、長坂、天王坂、塞の神坂などの 険しい坂が続き、その総称として、うとう坂と呼ばれていたようである。  うとう峠の「うとう」とは、疎(うとい、うとむ、うとうなど)で、「不気味が悪い」、 不案内、よそよそしい、などの意味の意味が考えられる。 うとうとは疎(うとい、うとうなど)で「不気味が悪い」「不案内」などの意味が考え られる。 」 

峠道には排水施設が往時のまま残されている。 
これまでの国道の喧噪とは別世界の静かな道。 深い緑と鳥のさえずりが心地良い。  しかし、中山道で土の道を歩くのはこれが最後になる。 整備されている道なので どんどん歩く。 散策路になっているので枝分かれした道があるが、迷うことはない。  休憩所をすぎるとその先は短いが石畳の道になる。 

うとう坂東口      うとう坂道      石畳の道
うとう坂東口
うとう坂道
石畳の道


展望デッキへの分岐点を過ぎると左側に小田原宿喜右衛門菩提碑がある。  うとう峠で盗賊に殺された喜右衛門を弔うために鵜沼の村役人が建立した菩提碑で、 碑の右面「うぬまへ拾六丁」左面「太田へ壱里廿丁」と刻まれ道標を兼ねている。 
すぐ先の右側には「旧中山道うとう峠一里塚」の木標が石組みした台の上に立っていて、 背後にうとう峠の一里塚の北塚がある。 江戸日本橋より数えてちょうど百里目である。  

 * 説明板 「旧中山道うとう峠一里塚」 市指定史跡 
「 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利をおさめた徳川家康は、慶長六年に東海道各宿 に対し 伝馬制を敷き、宿駅制の準備に着手しました。 美濃を通る中山道では、慶長九年(1604) に大湫宿、同十一〜十二年に細久手宿が設けられ、さらに寛永十一年(1634)には加納宿、 元禄七年(1694)には伏見宿が新設され、美濃中山道十六宿体制が完成しました。  また、この間の寛永年間(1624〜1644)には大名の参勤交代制が敷かれ、各宿に問屋・本陣・ 助郷制が整備されています。 各務原地域を通る中山道は、慶安四年(1651)にそれまで 木曾川を越えて犬山膳師野から可児へ抜ける道筋から、鵜沼の山添いを通り、ここ 「うとう峠」を越えて太田宿へ至る道に付け替えられました。  (中略)  うとう峠の「一里塚」は、峠を西側にやや下ったところにあり、道の南北両側にそれ ぞれ「北塚」・「南塚」が残っています。 北塚は直径約10メートル・高さが約2メー トルで良く原形を保っているのに対し、南塚は太平洋戦争中に航空隊の兵舎建設に よって、南側の半分が壊されてしまいました。  かつて各務原地域には、ここ以外に各務原山の前・六軒東方・新加納村にも一里塚が ありましたが、現在ではすべて消滅しています。 一里塚は江戸時代の交通・宿駅制度を 考えるとともに、当時の旅人の苦労が偲ばれる重要な史跡であり、うとう峠の一里塚は、 そのわずかに残された貴重な歴史的財産と言えます。        
    平成六年二月吉日 各務原市教育委員会           」   

うとう峠の一里塚を過ぎると「日本ラインうぬまの森」の石碑と「うとう峠」の木標 が立っている。  うぬまの森は飛騨木曽川国定公園に指定されている。 

喜右衛門菩提碑      うとう峠一里塚北塚      うとう峠
喜右衛門菩提碑
うとう峠一里塚北塚
うとう峠


そのまま石畳風の歩道を進み、もりの本やさん前を過ぎると車道に出て、 左に進む。 ここがうとう峠西口である。  この分岐点にはうとう峠の一里塚跡の標識、うぬまの森前バス停がある。 
公園の施設があるが、寄らないでそのまま車道にでて、坂を下る。 
右側の広大な合戸池(かっこいけ)に沿って車道を下る。 左側は松並木になって いる。 

 * 「 合戸池は江戸時代から農業用水として利用されました。  明治二十四年(1891)の濃尾大地震で決壊し、下流域に甚大な被害をもたらしました。  現在は雨水調整池として機能しています。 」  

鵜沼台一丁目バス停先の三叉路を右に合戸池に沿って進む。 このあたりは鵜沼台で、 右側は崖になっていて、下には多くの住宅が建っている。 また、ここからは各務原市内 が一望できる。 

 * 「 鵜沼は各務原市の一部になっているが、高度成長時代に 名古屋や岐阜のベットタウンになった。 山の高台であるこのあたりも緑苑台として、 多くの住宅が建っている。 」 

右側の小さな祠に安置された地蔵尊を過ぎると、突当りのT字路を左折する。  急坂の天王坂を下ると右手の小さな林の中に南無観世音菩薩、奉納大乗妙典六十六部 日本廻国供養塔、馬頭観音像、小さな五輪塔等が並んでいるが、これは東見附の石仏群 といわれるものである。 住宅地のなかで、ここだけはタイムスリップしたかのようで ある。 

合戸池      大乗妙典六十六部供養塔      東見附の石仏群
合戸池
六十六部供養塔
東見附の石仏群


更に天王坂下ると正面に犬山城が遥かに遠望できる。 
英泉は鵜沼として木曽川の左岸段丘上に聳える犬山城と対岸の鵜沼宿を俯瞰で描いている。 

 * 「 天文六年(1537)、織田信康(信長の叔父)が犬山の丘上に犬山城を築城し、 天文十三年(1544) 信康は斉藤道三の美濃稲葉山城攻め(加納口の戦い)で戦死しました。  元和三年(1617)からは尾張藩の付家老成瀬家が城主となり幕末まで続きました。  犬山城は別名白帝城とも呼ばれました。 これは長江の丘上に建つ白帝城を詠んだ李白の詩に 因み、荻生徂徠が命名したものである。 この犬山城は現存する日本最古の木造天守閣で、 国宝に指定されている。 」   

天王坂を更に下ると三叉路になるので、右にカーブすると左側に小さな祠がある。 

 * 「 赤坂の地蔵堂で、その中にある赤いエプロンをした宝暦十三年(1763) 造立の地蔵尊像の右側には「右ハさいしょみち(在所道)」、 左側には「左ハ江戸せんこうし みち(善光寺道)」と刻まれていて、 道標を兼ねている石仏である。  このお地蔵さんは三度、交通事故に遭っていますが、不思議なことに祠が壊れても お地蔵さんだけは無事だったそうである。 」  

この地蔵堂の前が鵜沼宿東見付跡で、鵜沼宿に到着である。 
鵜沼宿は慶安四年(1651)のうとう峠の開通にともない、土田宿に代わり新設された 太田宿と共に新設された宿場である。 

 * 「 鵜沼は木曽川に面し、対岸は犬山、木曽川を利用した水運が 盛んで、川湊として栄えていた。 東山道の時代に驛(うまや)が置かれ、交通経済の 要衝であったが、江戸時代に開設された中山道は鵜沼から犬山を経由して土田宿に 通じるルートであった。 名古屋城から成瀬家の犬山城までは尾張藩により設置された 稲置街道で結ばれており、当時は犬山で中山道に通じていた。 」 

犬山城      英泉の鵜沼宿      赤坂の地蔵堂
犬山城
英泉の鵜沼宿
赤坂の地蔵堂


鵜沼宿の全長は東西840mで、中山道に沿って、東町(中町)、西町、羽場町があり、 道の真ん中を大安寺川から引いた用水が流れていた。  天保十四年(1843)の宿村大概帳には、家数68軒、宿内人口246人 (男119人、女127人)、本陣兼問屋1、脇本陣1、旅籠が25軒とあるので、鵜沼宿は 小規模の宿場だったのだろう。 
ここから東町である。 坂を少し下ると、右に入ったところに赤坂神社がある。  赤坂神社は寛永十二年(1635) の遷座で、往時は天王社と称し、天王坂の地名の由来になっている神社である。 
鵜沼宿は木曽川に面し、対岸は犬山で、尾張藩に属していた。  日本橋から100里30町(約396km)、京へ35里4町(約138km)、道幅は5mで、舗装されている ものの、江戸時代の家並図の地割がほぼ残っているといわれる。 
赤坂神社の参道口に宝暦六年(1756)建立の山燈籠が立っているが、江戸時代にはこの辺り に高札場があり、鵜沼宿の東の木戸があったといわれる。 
街道を進むと左から道が合流する。 五差路の手前の左側に「ここは中山道鵜沼宿  これよりうとう峠 左」の自然石の道標がある。  

赤坂神社      山燈籠      道標
赤坂神社
宝暦六年(1756)建立の山燈籠
道標


交差点を左に行くと名鉄新鵜沼駅である。 右奥が住宅地になっている ので、左右からの車や人の行き来は激しい。 
右側の信号機の下に目立たないが明治三十年(1897)建立の常夜燈があり、台座には 「村内安全」と刻まれている。 
中山道は直進する。 こちらの人の行き来はさほどではない。 しかも、両脇に歩道が あり、安心して歩ける。  
その先に坂祝バイパスを横断する鵜沼中山道交差点があるが、このバイパスは新道 である。 

 * 「 この交差点の手前右側に高札場が復元されている。 、 本来の位置は東の見付と天王社(現、赤坂神社)の間で南向きに設置されていた。 この高札場は中山道宿村大概帳の記録に基づいて復元されているが、 表示は読み易い楷書になっている。 
交差点手前の左側に「是より東尾州領」と刻まれた尾州領傍示石があり、 交差点を渡った左側には「是より西尾州領」と刻まれた尾州領傍示石がある。  中山道は鵜沼宿(尾張藩領)から各務村(幕府領)を経て、再び鵜沼村に入りました。  尾張藩はこの村境を明示するために「是より東尾州領」「是より西尾州領」の二本の 傍示石を境境に設置しましたが、中山道鵜沼宿再生整備に当たり、各傍示石はここに 移設された。  
(注)小生が中山道を歩いた時は、鵜沼宿再生整備中で、高札場も傍示石もなかった。 」    

鵜沼中山道交差点を渡った左側にある珈琲陣屋の辺りは問屋場跡である。 

 * 「 鵜沼宿には東町と西町に各々問屋場があり、ここ東町では 代々野口家が問屋を勤めました。 天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳には 「問屋場二ヵ所にて、一日代り継立て、問屋一人、年寄り一人、帳付け一人、 人馬指し二人相詰め、重き通行の節は一同罷り出て取り扱い来る」と記されていて、 西町の桜井家と一日交代で問屋業務を勤めました。  安政五年(1858)からは坂井家に代って、野口家が脇本陣も勤めました。 」  

大安寺川に架かる大安寺橋(旧八間橋)は欄干や木の常夜燈が江戸時代風に作られ、 宿場町の雰囲気を出すのに一役かっている。 なお、大安寺川はゲンジボタルの名所 である。 
橋の袂には橋を渡る手前に「太田町へ二里八丁」、橋を渡った先に「岐阜市へ四里 十丁」の道標がある。 橋を渡ると宿場の中心の西町に入る。 
ここからの宿並からは電柱が取り払われ、スッキリした景観になっている。 
大安橋を渡った右側にある武藤家住宅は平成十八年に市に寄贈され、中山道鵜沼宿町 家館になっている。 

 * 説明板「中山道鵜沼宿町家館」  
「 当館は江戸時代に絹屋という屋号で旅籠を、明治の初めから昭和三十年代まで 郵便局を営んでいた旧武藤家住宅です。 屋敷は中庭を囲むように主屋、東側の 附属屋、西側の離れの三棟からなります。 主屋は明治二十四年の濃尾震災で倒壊 し、その後再建されたものです。 附属屋は大正から昭和初期に建築されたものと 考えられ、養蚕小屋として利用されていました。 離れは建築部材から昭和初期に 建築されたものとみられ、太田宿から移築されたものと伝えられています。 三棟 とも、市指定文化財・景観重要建造物に指定されています。 」 

常夜燈      大安寺橋      道標
常夜燈
大安寺橋
旧武藤家住宅


町家館の道の反対にあるのは安積門(あずみもん)で、安積家より寄贈され、 平成二十一年にここに移築されたものである。 

 * 説明板「安積門(旧大垣城鉄門)」 
  「 当門は大垣城本丸の表口に建てられていた鉄門で、明冶九年に払い下げられた後、 安積家(各務原市蘇原野口町)の自邸の門として維持されてきたことから、「安積門」 と呼ばれています。 各務原市へ寄付され、平成二十一年に当地へ移築されました。 間口約七.五メートル、高さ四.五メートルあり、構造形式から高麗門と称されます。 高麗門とは左右二本の本柱上部に小振りな切妻造の屋根を架け、さらにその後方に 控柱を立て、本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、主に城門として 用いられてきました。 当門のもう一つの特徴は正面の木部を全て鉄板で覆い、 軒下を白漆喰で塗籠めている点で、これらは火矢による攻撃から門を守るためと考え られます。 当門と同様に高麗門に鉄板を張った遺構は名古屋城表二之門、大坂城 大手門(二之門)の二例が現存しています。  」   

その先に日本酒をつくっている造り酒屋がある。  「菊川」、「篝火」の菊川酒造である。 
菊川酒造の向いが鵜沼宿本陣跡で、その前に説明板が立っている。 

 * 説明板「鵜沼宿本陣跡」 
「 鵜沼宿の本陣は江戸時代を通じ、桜井家が勤めていました。 江戸時代初期、 この地に鵜沼宿が整備されて以来桜井家が本陣、問屋、庄屋の三役を兼ねていたと 伝えられています。 寛延二年(1749)十代将軍家治に輿入れした五十宮がここに宿泊 したのをはじめ、多くの姫君が華やかな入輿の行列をともなって宿泊、休憩したり しました。 文化六年(1809)伊能忠敬ら測量方も宿泊しています。 
「中山道宿村大概帳」天保十四年(1843)に「本陣凡そ建坪百七十四坪余り、門構え、 玄関付」と記されています。 御上段、二之間、三之間、広間、御膳間、御料理間、 勝手上段、納戸、台所などが配置され、御上段の北には築山や泉水が設けられて いたといわれています。 明治維新後、鵜沼第一小学校の前身の新々義校はここに 創設されました。  」   

安積門      菊川酒造      鵜沼宿本陣跡
安積門(旧大垣城鉄門)
菊川酒造
鵜沼宿本陣跡


本陣跡の碑の横には二軒の家が街道に並んで建ち、その先の奥まったところに 大きな家があり、ここまでが本陣跡である。 
その隣に髭文字南無妙法蓮華経題目碑がある。 
その隣にある脇にある建物は復元された脇本陣で、白壁塀の前に芭蕉句碑群がある。 

 * 説明板「脇本陣 坂井家」  
「 鵜沼宿の脇本陣は坂井家が代々これを勤め、安政年間に至って坂井家に代わり 野口家が勤めました。 坂井家の由緒は古く、貞享ニ〜五年(1685〜88)に松尾芭蕉が 当家に休泊し句を詠んだと伝えられています。 史料によれば、江戸時代中後期の 「鵜沼宿万代記」に脇本陣坂井半之右衛門と記され、「中山道分間延絵図」には 街道に南面する切妻屋根の主屋と表門が描かれています。 また「宿村大概帳」 天保十四年(1843)には脇本陣坂井家、門構玄関付き建坪七十五坪と記され、 その間取りが「鵜沼宿家並絵図」元治元年(1864)に詳細に描かれています。  なお、当施設は「鵜沼宿家並絵図」に描かれた幕末期の脇本陣坂井家を復元して います。 」   

復元され脇本陣坂井家の脇の少し凹ました所に白い壁を背景にして、 丸い柱の「芭蕉碑」と三つの句碑が立っている。 

題目碑      脇本陣跡      芭蕉句碑群
題目碑
脇本陣跡
芭蕉句碑群


貞享二年(1685)の野ざらし紀行の途中、松尾芭蕉は鵜沼を訪れ脇本陣坂井家に 滞在したと伝えられている。 
その後の貞享五年(1688)七月頃、芭蕉は再び脇本陣坂井家を訪れ、 次の句を詠んている。 (蝉の声碑)  
 「  汲溜の  水泡たつや  蝉の声  桃青  」
さらに同年八月頃、再度訪れ、脇本陣坂井家で菊の花を浮かべた菊花酒(きくかしゅ) のもてなしを受けた折に、主人の求めに応じて、楠の化石に即興の句を彫ったと 伝えられている。 (中央の棒状の細長い句碑)
「 宇留まの宿 坂井氏にやとして     
   ふく志る(河豚汁)も  喰へは喰せよ きく之酒   」  
その後、木曽路を通って信濃への更科紀行に旅立つ芭蕉は、美濃を離れる際に 木曽の秋の歌を詠み、美濃の俳人たちと別れを惜しんだといわれる。  
碑には「更科紀行首途の地」の文字が大きく刻み、  
その左側に 「  おくられつ  送りつ果ハ  木曽の秋  芭蕉   」  
の句がそれより小さく刻まれている。 
芭蕉句碑は明治十五年に犬山の某氏宅に移され、明治三十七年に薬師寺に奉納され た。 ここにある句碑は昭和四十年に芭蕉句碑を復元したものである。 
道の左にあるのが二宮神社の鳥居と石標である。 石段を登っていくと、二宮神社が 見えるが左下に鉄の枠で覆われた横穴式石室が見える。  拝殿は明治六年(1873)の 建立で、登録有形文化財に指定されている。 古代の墳墓(二ノ宮神社古墳)の上に 神社が建てられたもので、古墳の形は円墳、大きさは直径29m、およそ六〜七世紀 (西暦500〜600年)に造られた古墳と考えられる。 

蝉の声句碑      木曽の秋句碑      二宮神社
蝉の声句碑
木曽の秋句碑
二宮神社


二宮神社の道の反対に立派な家が四軒ある。 全てが文化庁登録有形文化財で、 各務原市の景観重要建造物である。 
一番手前の立派な日本家屋は元旅籠丸一屋の坂井氏の住居である。 

 * 説明板「坂井家住宅(丸一屋)」  
「 坂井家住宅は中山道鵜沼宿に面する住宅で、主屋は建築時の契約書が残って おり、明治二十七年(1894)の建築である。 中山道に向って門を構え、前面に 塀をめぐらしている。 主屋は門を入った正面に切妻造りの破風をつけ、式台 玄関を設けた格式高い造りである。 また、土蔵は敷地の南東にあり、二棟が 合体して一棟の姿になっている。 」  

隣は茗荷屋という屋号で旅籠を営んでいた梅田吉道家住宅である。  

 * 説明板「梅田吉道家住宅(茗荷屋)」  
「 梅田吉道家住宅は中山道鵜沼宿に面する住宅で、江戸時代は茗荷屋という 屋号で旅籠を営んでおり、現在の建物は約160年前に建てられ、濃尾震災にも耐えた とされている。 中山道鵜沼宿で唯一、江戸時代に遡る貴重な建物である。 主屋は 袖うだつを上げ、窓に縦格子を入れる。 また、主屋の東側に離れ、南側に土蔵を 配し、土蔵は大型の亀甲形に築いた基礎の上に建てられている。 」  

隣は梅田昭二家住宅で、主屋は本家(梅田吉道家)に次いで古く、明治元年(1866) の建築である。 

 * 説明板「梅田昭二家住宅」  
「 主屋は本家(梅田吉道家)に次いで古く、明治元年(1866)の建築とされる。  木造つし二階建の切妻造りで正面中央に入口を設け、向かって左側に鉄格子、 右側に木格子をいれる。 主屋の南側には、濃尾震災の翌年(明治二十五年(1892)に 建てられた離れがある。 木造二階建て切妻造りの建物で、土蔵、門、座敷を複合 する。 その座敷の一部は南側に張出し、西面と南面に腰高のガラス窓をいれ、 欄干廻らす。 」  

三棟目と四棟目の間に秋葉常夜燈があり、台石には家内安全と刻まれている。  

 * 「 天保四年(1833) 師走二十八日、西町の藪下半兵衛方で餅つきを 行ったところ、竃(へっつい)の火が風にあおられて舞い上がり大火となり、 旅籠二十四軒が全焼してしまった。 以来、鵜沼宿では師走の二十八日には餅をつか なくなったといいます。 復興後、ここに火防を祈願して秋葉常夜燈が祀られま した。  」   

四軒目が旧旅籠若竹屋跡(安田家住宅)である。  

 * 説明板「安田家住宅(若竹屋)」  
「 かって安田家は旅籠屋を営み、若竹屋と号した。 主屋は昭和五年(1930)の 建物で、木造つし二階建ての切妻造り、間口六間、奥行き五間半の規模で、東側に 土間を設け、西側に八畳四室を田の字型に並べている。 正面は庇をつけ、一、二階 に格子を入れる。 安田家住宅は比較的新しいが、軒の高さや表構えを周辺に揃え、 中山道鵜沼宿のまちなみを今に伝えている。  」  

道の反対、右側には鵜沼西町交流館がある。 鵜沼宿の景観重要建造物の保存 改修に伴って建設された多目的ホールである。 
伊木山通り、八木山通りの信号交差点を渡ると左側に「中山道鵜沼宿」と刻まれた 石碑が立っていて、少し上りになる。   緩い上り坂を進むと右側に献灯、そして狛犬を配した小さな社がある。 
 右側に元禄十一年(1698)建立の南無観世音菩薩、三界萬霊塔、 馬頭観世音文字塔の三基が祀られている。 
並びに西の見附跡があり、 「鵜沼宿の見附は江戸時代の鵜沼宿家並絵図(中島家文書)に描かれています。  家並図と現在の地図を照らし合わせると、西の見附は概ねこの辺りと考え られます。 」と記されている。 
ここで鵜沼宿は終わる。 

登録有形文化財の家々      小社      石仏三基
登録有形文化財の家々
狛犬を配した小さな社
石仏三基





(53)加納宿(かのうしゅく)

脇の石段を上ると農業用の溜池の翠池(葭池)がある。 
更に上り坂を進むと右側に弘法大師像を安置する八木山弘法堂があり、境内には 文化四年(1807)建立の六十六部廻国供養塔など多くの石塔石仏が並んでいる。 
弘法堂を過ぎると鵜沼西町から鵜沼羽場町に入る。  少し歩くと左側の山裾に衣装塚古墳があり、隣に空安寺がある。 このあたりは 羽場集落で、古くから栄えた所らしく大小の古墳が散在するところである。 

 *  説明板「衣装塚(いしょうつか)古墳」  
「 衣装塚古墳は県内最大級の古墳といわれ、直径52m、高さ7mの円墳で、一部 欠けているが、北側は原型を留めている。 南西約300mのところにある坊の塚 古墳は前方後円墳であることから、この古墳も本来は前方後円墳であったのが削平 されて後円部が残された可能性がある。 」  

このあたりは各務原台地の東北部に位置するが、古墳が多いことから古代から 開かれた場所だったことが分かる。 
隣に浄土真宗大谷派光雲山空安寺がある。 甍(いらか)がみごとな立派な寺院である。  鵜沼宿の西木戸は空安寺の東側にあったといわれる。 京方面からの参勤交代の行列は この空安寺辺りで、隊列を立て直し、「したにー、したにー」と大声を上げて、恰好を 付けながら鵜沼宿内に入って行きました。 
街道を進み、信号交差点を越すと右がわに津島神社の拝殿を兼ねた皆楽座がある。 

 * 「 村芝居が上演された芝居小屋で回り舞台、囃子座仮、楽屋、 奈落を備えています。 皆楽座は明治二十四年(1891)の濃尾地震で倒壊し、明治三十一年 (1898)倒壊した資材を再利用し、再建されました。 拝殿の為、客席は無く、公演時は 舞台前面にむしろを敷いて見物席としました。 」 

衣裳塚古墳      空安寺      津島神社
衣裳塚古墳
空安寺
津島神社


右側に明治二十九年(1896)建立の愛宕神社常夜燈がある。 社殿は五百メートル先の 山中に鎮座している。 
このあたりから、急に車が多くなってきた。 消防署を過ぎると、左から国道21号が 現れて三差路になり、中山道は鵜沼羽場町交叉点で吸収されてしまった。 
おがせ町交差点左側のキッチンパートナーヤマワ前の祠内に 明治三十九年(1906)建立の三面六臂馬頭観音像が安置されている。  鵜沼宿に移設された「是より東尾州領」の傍示石はこの辺りにあったもので、ここから 西は天領(幕府領)でした。
山の前町交差点先で国道21号線は高架になる。 左側高架下の側道に入る。  左(南)に進めば百メートルで、名鉄苧ケ瀬駅である。 
右折して、約五百メートルほどの距離にある岐阜県新八景第一位に選ばれた 苧ケ瀬(おがせ)池に行ってみることにした。 

 *  傍らの案内板に「 桜が舞い、水蓮が池を敷きつめ、紅葉が あたりを染め、雪と霧で水墨画の世界をもかもしだす四季折々のおがせ池のたたず まいは、人の心をひきつける。 池は周囲約2キロ、池の中に浮かぶ社殿には、 この池の守り神・八大龍王が祭ってあり、多くの人々の信仰を集めている。  」 と あったが、 縁をコンクリートで固めた、農業用水に使われているため池のように思われた。 

池の周りを歩いて行くと、 八大竜王慈眼寺があり、さらに北に行くと、 八大白竜大 神神社があり、その先には薬王院がある。 

 *  「 薬王院はここから三キロ離れた大安寺川上流に ある大安寺の末寺である。 大安寺は美濃国守護・土岐頼益が開基し、墓所がある寺で、 苧ケ瀬池にまつわる龍女伝説が伝わるとある寺である。 」

山の前町交差点      苧ケ瀬池      八大竜王慈眼寺
山の前町交差点
苧ケ瀬池
八大竜王慈眼寺


もとの道を戻り、国道を歩く。  中山道はここから名鉄三柿野駅付近まで、国道に吸収されているので、 国道の側道を歩かなければならない。 
側道を進むと左手前に旅人道中安全碑があり、奥に槍ケ岳開祖の 播隆上人碑がある。 この碑は濃尾地震で折れてしまったといわれる。  この碑のあるところが山の前の一里塚の跡で、江戸より百二里目である。 
JR高山本線を越えると、再び国道21号に合流する。  各務ケ原駅前の各務原町交差点の辺りに江戸時代には鵜沼宿に移設された「是より西 尾州領」の傍示石があり、再び尾張藩領になる。 
三ツ池町3丁目交差点を越すと、ニトリ家具の前に二十軒バス停があるが、 この辺りに立場のニ十軒茶屋があった。 各務原台地 は水利が乏しいため、江戸時代は原野が広がる寂しいところだった。  その中に設けられた臨時の休憩所が立場である。 
三ツ池町交差点の手前右手に神明神社がある。 三ツ池町交差点を地下道で横断すると 右側に曹洞宗長楽寺があり、境内の祠内に三面六臂馬頭観音像が安置されている。 
三柿野駅前交差点から右側の側道に入り、跨線橋で名鉄各務原線を横断する。  第二次世界大戦前、陸軍がこの台地に各務原飛行場を開いたので、岐阜県や愛知県の 学生が戦時中、学徒動員で働かされたところである。 名鉄三柿野駅の右側は川崎重工 の岐阜工場、名鉄の線路を越えた左一面は航空自衛隊岐阜基地である。 
その先で再び国道21号に合流する。 三柿野町交差点を過ぎたところで 国道21号那賀バイパスが左にカーブして行くが、中山道は直進し、 蘇原(そはら)六軒町に入る。 
分岐点から二百メートルほどの交叉点の先左側に浄土真宗大谷派の佛國山竹林寺があり、 向いに「旧中山道六軒一里塚跡」の標柱が立っている。 江戸より百三里目である。 
二百メートル先の右手に名鉄六軒駅がある。  右側の六軒公民館前に火伏の神秋葉神社が祀られている。  右側の神明神社前を過ぎると右側に大学跡地の大きな各務原市民公園があり、その先に 新堀川に架かる那加橋を渡る。 
那賀栄町になり、名鉄新那加駅がある駅前を通り、西野町交差点の先の新加納町交叉点 の五又路を斜め右方向に入ると、新加納通りとなる。 
(注)八大竜王を過ぎたところで電池切れになり、新加納までは写真はない。  ここで充電して写真がとれるようになった。 

秋葉神社の並びに酒蔵の林本店があり、右側に日吉神社の参道がある。 

 *  「 大津の山王総本宮日吉大社の分祀で、この地の守り神として 崇められてきました。 昭和三十四年までは、境内一帯に樹齢数百年の桧、杉の大樹が 林立していましたが、未曾有の伊勢湾台風により倒木しました。 狛犬が狛蛙になって います。 境内には昭和四十七年頃まで瓢箪池があり多数の蝦蟇が生息し、 四月の例祭はがえろ祭りと通称され親しまれていました。 」 

すぐ先の左手奥に臨済宗泰瑞山法光寺があり、参道口に地蔵観音堂再建開創三百年 記念碑がある。 
右側に古い家があり、その先に直進する道と右にカーブする三叉路が見える。 
ここは新加納立場茶屋があったところで、古い家が残っているが、立場茶屋があった のは日吉幼稚園のあたりのようである。 
三叉路の中央に新加納立場茶屋の案内板がある。 

 * 説明板「中山道新加納立場」  
「 慶長五年(1600)関ヶ原の戦いに勝利をおさめた徳川家康は、全国的な封建支配体制 の確立を目指し、主要な街道整備事業を行った。 中山道は東海道の裏街道として 京都と江戸を結ぶ幹線道路となり、全長百三十四里(約536q)の間に六十七の宿場が 設けられた。 各務原市内には鵜沼宿が置かれていたが、鵜沼宿と加納宿の間は 四里十町(約17q)と距離が長いため立場(たてば)と呼ばれる小休所がここ新加納に 設けられました。 皇女和宮の降嫁の際にも休息所とされた新加納は正規の宿場では ないとは言え、長すぎる鵜沼宿と加納宿のちょうど中間に位置することや小規模 ながら旗本坪内氏の城下町であったところから、中山道の「間の宿」として 栄えました。
     平成元年度 各務原市     」   

三叉路に「新加納一里塚」の標柱があり、 江戸より百四里目である。 

日吉神社      新加納立場      三叉路
日吉神社
新加納立場跡
三叉路


江戸時代には三叉路の右側の道はなく、中山道は左の道を直進していて、 その先は右、左と直角に曲がる枡形になっていた。 
中山道には入ると突当りに今尾医院がある。 ここは高札場跡で新しい「高札場跡」の標石 と、「左 木曽路」 「右 京道」「南 かさ松」と記された道標があり、この新加納間の宿の枡形を中山道 は右折する。 ここで、左の道に入ると右側に大身旗本坪内氏の御典医を勤めた 今尾家屋敷(国登録有形文化財)が残っている。 今尾家の門上には鯱、塀の上には 七福神が乗っている。  屋敷の向いには慶応四年(1868) 今尾医院が建立した薬師堂がある。 
新加納村絵図では枡形の前後に小池屋、塚本屋など数軒の茶屋の名前が書かれている。  また、高札場の裏側(中山道から見ると奥)に少林禅寺や東光寺などの寺があり、 旗本坪内氏の屋敷もあったように描かれている。 
突き当たりに臨済宗妙心寺派龍慶山少林禅寺がある。 

 * 「  鎌倉時代の応長元年(1311)尾張国葉栗郡小網島村(現各務原市川島小網町)に 大きな伽藍をもつ寺院として開山するも、木曽川の氾濫に悩まされ続け、 正中二年(1325)には洪水により大きな被害を受け荒廃し、明応八年(1499) 再興され現在地に移りました。  永禄八年(1563)織田信長の美濃攻め(新加納の戦い)で焼失し、関ケ原の戦い の後、松倉城城主坪内氏が羽栗郡各務部を治める大身旗本となり新加納に陣屋を設け、 少林寺を菩提寺として再興しました。 境内の奥に坪内家歴代の墓所(各務原市指定史跡)があります。  坪内利定は織田信長の家臣で、木下藤吉郎の墨俣城(一夜城)の築城に際し、 松倉で材木を加工し木曽川に流し功績を挙げ、その後家康に仕え関ケ原の戦いで 戦功を挙げ美濃國羽栗郡、各務郡二十ケ村、五千五百三十三石を治める大身旗本となり 明治の世まで続きました。 」  

墓所の並びに東陽英朝禅師塔所(岐阜県史跡)がある。 

 * 東陽英朝(とうようえいちょう)は土岐持頼の子で、五歳で出家し、大徳寺や妙心寺の住持 を務めた高僧で、その後少林寺の再興に携わり、永正元年(1504)当山にて死去した。  七十七歳でした。 」  

新加納立場絵図      薬師堂      少林寺
新加納立場絵図
薬師堂
少林寺


右側に真宗大谷派遇光山善休寺があり、本尊は阿弥陀如来である。 

 * 石碑「真宗大谷派 遇光山 善休寺」
「 善休寺は天台宗の流れを汲む寺院であり、光暁坊と称していた。 貞永元年(1232) 頃親鸞聖人関東より御上洛の途次、葉栗郡門間の庄・木瀬(現在の岐南町三宅木瀬)の 草庵に滞在の折、当時天台宗光暁坊念願法師が当山への来駕を仰ぎ御化導を賜り、以後 浄土真宗となる。 なお、慶長時代(1596〜1615)に光暁坊より善休寺と改名し今日に 至る。 当山は織田信長にゆかりの深い本光院(京都市上京区七本松)の帰 依深く、筋塀(塀に三本筋入り)が許され、菊花紋入りの品を寄付され祈願所と定めら れる。 また、尾張徳川家が各務原の狩りの折、当山を宿所として以来信仰が篤く、 特別に葵の紋を賜る。      (以下略)         」  

道標まで戻り、中山道は右折し、左折する。 新加納は短い区間だったがひっそりと した町並が残っていた。 
ここから暫くは田舎の雰囲気を残したところを歩く。 以前歩いた人達は家並みが切れて いたという表現だったが、今は道の両側に家が繋がり、集落を造っていて、 新しい家が増えていることが分かった。 
新加納通り(県道181号)を進む。 濃川橋を渡り、東海北陸自動車道の下をくぐると、 各務原市から岐阜市になる。 高田橋駅傍の境川を高田橋で渡る。  この境川には笠松湊を経て桑名に出る舟運がありました。 今は川岸が桜の名所に なっている。 
左右にうねる街道を進み、高田3交叉点を越すと県道77号になる。  次の十字路では中山道は直進すればよいのだが、左折して二百メートル行くと 手力雄神社(てぢからおじんじゃ)があるので、寄り道をする。 

 * 「 江戸時代の木曾路名所図会に「比奈守神社・加納より高田と 新加納の間、長柄村にあり。今手力雄社といふ。 延喜式内なり」と書かれている神社 で、貞観二年(860)の創立と伝えられ、美濃国神名帳記載の「従五位下手力雄明神」に 当てられた由緒ある神社である。 
祭神の手力雄神は、天照大神が岩屋に隠れたの を怪力で大岩の戸をあけ、天照大神を下界に連れ戻したと伝えられる神である。 
この辺りは古来より軍略上重要な地点で、都に軍勢が上る際、東海道より東山道に入る には木曽川の渡河地点として、必ずここ長森を通るところから美濃側の防衛拠点として ここに手力雄神社が鎮座されました。 美濃國の戦略上の要所であるところから度々 戦火に見舞われ、慶長五年(1600)の関ケ原の戦いの際には、当神社を祈願所としていた 織田氏が西軍についたので徳川家康の攻撃を受け、御神体などごく一部を除き 全焼しました。 元禄年間(1615〜24)に本殿、拝殿などが再建され、更に延宝二年 (1674)に再建され、現在の社殿は平成二十年に新築されました。 」  

善休寺      手力雄神社      手力雄神社拝殿
善休寺
手力雄神社裏参道
手力雄神社社殿


広場で行われる「手力の火祭り」は岐阜県指定重要無形民俗文化財の春の祭礼として 毎年四月の第二土曜日に盛大に行われる。 火祭りがいつから始まったかは明らかでは ないが、明和年間(1764〜72)に一時中断し、文化二年(1805)に復活したといわれる 氏子が担ぐ九つの御輿が境内に入ると、高さ二十メートルの御神灯に次々と点火され、 爆竹が響き、滝花火が御輿を担ぐ裸男に降り注ぐという、迫力満点の祭である。  
街道に戻って進むとT字路に突き当たる。 蔵前分岐で古い家があった。 
中山道は右に進むが、左側に手力雄神社の鳥居とその前の左側に「手力雄神社石標」と 「左木曽路」と刻まれた道標がある。  ここが手力雄神社の表参道で五百メートル程の所に社殿がある。 

手力の火祭り標柱      蔵前分岐      手力雄神社鳥居
手力の火祭り標柱
蔵前分岐
手力雄神社鳥居


岐阜市内に入ったこともあり、車の通行は増えてきた。 三叉路を右折して進むと 右側に浄土真宗本願寺派市場山浄慶寺(じょうけいじ)がある。 

 * 説明板「市場山浄慶寺沿革」   
「 当山浄慶寺は、もとは天台宗の寺院でしたが、文明十八年(1486)五月本願寺第八世 蓮如上人に深く帰依した上人直弟子である正専坊が開基した浄土真宗本願寺派の寺院 です。 宗祖親鸞聖人の教えを蓮如上人は、広く民衆にわかるように御布教されま した。「いかなるものをも救う本願念仏の教え」に正専坊は、歓喜帰依し、浄土真宗に 転派しました。 本願寺第八世蓮如上人より名号等を賜り、文亀元年(1501)三月 本願寺第九世實如上人より新筆の六字名号を拝領、元和七年(1621)九月四日、十二世 准如上人より木仏・寺号を賜りました。 浄慶寺は中山道に面し、戦国時代には、 尾張清洲城の織田信長と斎藤義龍・龍興との合戦、天下分け目関ヶ原合戦の前哨戦・ 米野の戦い、江戸時代には朝鮮通信使節団、皇女和宮下向、幕末の騒乱など、 数多くの歴史上の出来事を数百年に渡り見つめてきました。 」   

先に進み長谷川鍼灸院先を右折する。 ここが切通陣屋口である。  信用金庫前に「中山道」の石碑と切通由来の説明板が立っている。  切通(きりとおし)とは北方にある金華山麓の岩戸一帯の滞留する雨水を境川に落とす ために行った工事から由来している。  また、江戸時代に切通陣屋があったところ である。 

 * 説明板「切通の由来」   
「  切通は境川北岸に位置し、地名の由来は岩戸南方一帯の滞溜水を 境川に落としていたことによると言う。 文治年間(1185)渋谷金王丸が長森庄の地頭 に任ぜられこの地に長森城を築いた。延元二年(1337)美濃国守護二代土岐頼遠が 土岐郡大富より長森に居を移し長森城を改修し美濃国を治め天下にその名を知らしめた。  江戸時代に入るやこの地は加納藩領となり以後幕府領、大垣藩預り地と変わり、 享保三年(1802)磐城平藩の所領となるに及び、この地に陣屋が設けられ幕末まで この地を治めた。 切通は古来東西交通の要路にあたり、江戸初期中山道が開通される や手力雄神社前から浄慶寺付近までは立場(休憩所)として茶屋・菓子屋・履物屋等 が設けられ、旅人の通行で賑わいを見せ各地の文物が伝来し文化の向上に大きく 寄与した。 」   

十分程行くと右側の祠内には三面六臂馬頭観音像が安置され、祠前に 「右江戸ミチ 左京ミチ」と刻まれた道標がある。 

 * 説明板「馬頭観世音菩薩」   
「 煩悩・濁悪の世にあってひたすら衆生の苦を救うことを本願とする観音です(広辞苑)  交通安全・赤ちゃんの夜泣き封じに霊験あらたか!!とか(古老談)      一九九七、八  」 

その隣に伊豆神社という小さな神社がある。 

 *  * 説明板「伊豆神社」   
「  当神社の創立年代は不詳であるが、御祭神は大山祗神の娘石長姫命で生命は岩の 如くゆるぎないようにと健康長壽をつかさどる神であり、全国主要神社でこの神を 主祭神とする神社は皆無である。 また天手力雄命(手力雄神社の御祭神)が男の荒神 であり、この神をおいさめするため往時の長森細畑字石長あたりに鎮座されていたの を水害等のため当地に遷されたと伝えられている。
     平成四年三月吉日 氏子中    」   

馬頭観音      道標      伊豆神社
馬頭観音
道標
伊豆神社


切通4交差点先の右側にゑ比寿神社があり、その先の右手に浄土真宗本願寺派 真宗寺があり、参道口には「親鸞聖人御舊跡」と刻まれた標柱が立っている。 
細畑五丁目に入ると右側に浄土真宗本願寺派恵日山誓賢寺があり、 左側の細畑バス停の所に秋葉神社が祀られている。 
国道156号線岐阜東バイパスを横断すると長森細野に入る。  この辺りの両側に雰囲気のある大きな旧家が並んでいる。 
交叉点を過ぎたすぐ先右側の家屋の屋根には「明治水」と書かれた古風な庵看板が 掲げられている。 その右隣は小木曽薬局で関係はあるのだろうか? 
畑・二ツ山バス停を過ぎると道の左右にあるのは細畑一里塚である。  明治になって取り壊されましたが、昭和二十七年(1952)復元されたもので、 江戸百五里目である。 

 * 説明板「細畑(ほそばた)一里塚」   
「  中山道は江戸時代の五街道の一つで、江戸と京都を結んでいた。 一里塚は一里 (約3.9km)ごとに設置され、旅人に安らぎを与えると共にみちのりの目安となる ように置かれたものである。 街道の両側に五間(約9m)四方に土を盛って築かれ、 多くはその上にエノキが植えられた。 細畑の一里塚は慶長九年(1604)、中山道の他 の一里塚とともにつくられた。 東方の鵜沼宿から三里十四町(約13.3km)西方の加納宿 まで三〇町(約3.3km)の位置にあり、中山道の風情を今に伝えている。 」  

南(左)塚の裏には街道に背を向けて秋葉神社が鎮座している。 

蔵が連なる      看板が屋根に      細畑一里塚
蔵が連なる
看板が屋根に残る
細畑一里塚


その先には二股に別れた場所(三叉路)があるが、ここが往還北追分(伊勢道の追分)で ある。 往還北追分の往還とは中山道などの五街道に繋がる脇街道のこと で、ここでは「幕府将軍献上の御鮨街道」とよばれた笠松街道を指す。 
三叉路の先端に小さなお堂があり、延命地蔵が祀られている。 
お堂の左脇の明治九年(1876)建立の道標には 「左 伊勢 名古屋ちかみち 笠松 一里 」、「 右 西京道 加納 八丁 」、 「 右 せき、上有知(こうずち) 郡上道 」、 「 右きそ道、左なご屋道 」と刻まれていて、左に行くと、川手を経て笠松街道 にでる近道である。 
追分先の左側に八幡神社があり、境内には御日陰の松標石がある。  大正天皇が行幸の際、夏陽の中この松の日陰で休憩しました。 残念ながらこの松 は失われている。  
領下往還南交差点を越すと領下集落で左側に立派な長屋門があり、門扉は豪壮な 造りになっている。 

延命地蔵尊      八幡神社      長屋門
延命地蔵尊
八幡神社
長屋門


東海道線の陸橋の下をくぐると加納宿の入口にあたり、高札場があったと伝えられる 名鉄茶所(ちゃじょ)駅前に出る。 
加納宿の長さは普通の宿の三倍の二十一町半(約2.4km)で、天保十四年(1843)の宿村 大概帳によると家数は805軒、宿内人口2728人 (男1296人 女1432人)、本陣1、脇本陣1、旅籠35軒と美濃十六宿最大の宿場で あった。  長良川の湊町、そして加納城の城下町として栄え、熱田(名古屋)への御鮨街道の追分を 控え、賑わったが、城下町のため、参勤交代の大名も旅人も城下町の堅苦しさから 宿泊するのを敬遠したようである。 
茶所駅の踏み切りを越えたところには「 右中山道 左岐阜道」の石碑がある。 
少し先の丁字路の左側の建物の前に、道標と鏡岩の石碑があり、「ぶたれ坊と茶所」 の説明板があり、鏡岩の顕彰碑には花が手向けられていた。 

 * 説明板「 ぶたれ坊と茶所」  
「 このぶたれ坊と茶所は江戸時代の相撲力士鏡岩浜之介にちなむものです。  伝えによると、二代目鏡岩は父の職業を継いで力士になりました が、土俵外での行いが悪かったことを改心して、寺を建て、ぶたれる為に等身大の 自分の木像を置いて、罪ほろぼしをした。 また、茶屋を設け て、旅人に振る舞ったそうです。 ここの少し北にある東西の通りは昔の中山道で 、加納宿として栄えていました。 江戸時代には多くの旅人が訪れたことでしょう。  現在では歴史的な町並みと地名等に当時の様子を伝えていますが、ここにあった 妙寿寺は廃寺となり、ぶたれ坊の像は岐阜駅南口に近い加納伏見町の妙見寺に移されて います。 」 

隣に建つ伊勢道道標には「江戸木曽路 東海道いせ路」と刻まれていた。 
街道の右側に新設された御鮨街道道標がある。 

 * 「  道標前の道は鮎鮨街道とか御鮨街道と呼ばれ、岐阜町で作られた長良川の鮎の なれ鮨を将軍家に献上するために運ばれた道で、尾張藩が名古屋の熱田と尾張領の 岐阜とを結ぶために整備した街道で、尾張街道、岐阜街道、名古屋街道とも 呼ばれました。 」 

ぶたれ坊      道標と鏡岩の石碑      伊勢道道標
ぶたれ坊
道標と鏡岩の石碑
伊勢道道標


加納宿は城下町特有の六曲りがあり、街道に沿って商家が軒を連ねていた。 交叉点角の団子屋を右折する。 一つ目の枡形である。 

 * 説明板「加納宿」  
「 加納城下町の建設は関ヶ原の合戦から半年後の慶長六年(1601)三月、十万石の領地 を与えられた奥平信昌が地元の有力者たちを指揮し、整備したことから始まります。  その後、寛永十一年(1634)には中山道の宿場に定められました。  城下町であり 宿場町でもある加納宿は二十一の町からできており、中山道に沿って軒が並ぶ細長い町 でした。  宿場の中心部では岐阜町から名古屋の熱田へ続く御鮨街道(岐阜街道・尾張 街道)と交わっており、交通の要となっていました。 」  

加納大橋で渡ると加納安良町(あらまち)に入る。   右側の立花屋薬局の向いを左折する。 二つ目の枡形である。  二つ先の四差路角に「右 岐阜 谷汲道」「左 西京道」と刻まれた道標の丸石が埋まって いる。 

 * 「 谷汲(たにぐみ)は西国三十三所観音霊場の満願寺第三十三番 札所の谷汲山華厳寺(けごんじ)への道で、 岐阜とあるのは岐阜道(別名、御鮨街道)。   加納は現在、岐阜市に属するが、江戸時代には岐阜とは別の町だった。 岐阜は 織田信長が斉藤龍興を追放して、稲葉山城を岐阜に改称した町である。  信長の孫、織田秀信が関ヶ原の合戦でやぶれたため、岐阜城は慶長六年(1601)に廃城 になったが、江戸時代には商人の町として繁盛し、加納宿を敬遠した旅人は岐阜に宿泊 する人で賑わったという。 」 

左折して進むと秋葉神社が地区の守り神として祀られている。 

加納大橋      丸石道標      秋葉神社
加納大橋
丸石道標
秋葉神社


広い道の県道14号(岐阜東通り)を横断して直進すると、加納柳町に入る。  突き当たりの道の曲り角(枡形)に「中山道加納宿東番所跡」の標柱と「中山道加納宿  右鵜沼宿」の道標が立っている。  加納城下への江戸(東)口で、今は東番所跡と表示があるだけ だが、江戸時代には旅人が城下に入るのを検問していた場所である。  加納宿には西と北にも番所があった。 
東番所跡を左折する。 三つ目の枡形で、突き当たりが浄土真宗本願寺派法性山善徳寺。 善徳寺は鎌倉時代前期の嘉禎(かてい)元年(1235)に親鸞聖人の教化を受け た門徒宗の流れをくむ寺である。 善徳寺前を右折する。 四つ目の枡形である。 

 * 「 右折した先の左側に「中山道加納宿加納柳町」の標柱が建って いて、側面に 「このあたりが加納宿の中でも、中山道が最もカギ状に曲がりくねった所です。  河渡方面(京方)は大通りを横切り、鵜沼方面(東方)は善徳寺前を直進し、安良町を経て、 加納宿東入口八幡町に続きます。 」 とある。 

その先で加納上本町通りを横断すると、右側に柳町秋葉三尺坊がある。 
信号のない道が斜めに交差する大通りを自動車に注意して渡ると加納新町で、左に 浄土真宗大谷派大會山専福寺(せんぷくじ)があり、山門脇に親鸞聖人御舊趾碑がある 浄土真宗の名刹である。 

 * 「 専福寺には戦国期を中心とした文書が多数残されています。  その内、織田信長朱印状、豊臣秀吉朱印状、池田輝政制礼状と伝えられる三通が岐阜市 重要文化財に指定されています。 美濃にも石山本願寺に組みする寺が多く、 この寺も例外ではない。 織田信長が、元亀三年(1572)の石山合戦に際し、石山本願寺 に加担することを禁じる内容の手紙を送ったが、それが織田信長朱印状です。  本寺と当時の政治権力との関係を考える上で貴重なものです。  「 同年の合戦では同寺の僧忍悟が戦死し、顕如より追悼の御書を給わった 」 と 伝えられます。 」  

次いで右側に加納新町の秋葉神社がある。 
次の左折道の手前の民家の壁に岐阜問屋跡の説明板が掲げられている。 

 * 説明板「岐阜問屋跡」  
「  加納新町の熊田家は、土岐家、斉藤家時代からこのあたりの有力者で、信長が 岐阜にあったころには加納の間屋役をつとめていました。 江戸時代に入ると、全国から 岐阜へ出入りする商人や農民の荷物運搬を引き受ける荷物問屋に力を注ぐようになり、 「岐阜問屋」と呼ばれるようになりました。 江戸時代、岐阜問屋は岐阜の名産品であり 、尾張藩が将軍家へ献上する「鮎鮨」の継ぎ立をしており、御用提燈を許されていました。  献上鮎鮨は岐阜町の御鮨所を出発し、岐阜問屋を経由し、当時、御鮨街道と呼ばれた 現在の加納八幡町から名古屋へ向う道を通り、笠松問屋まで届けられました。  岐阜問屋には特権が与えられていましたが、それは献上鮎鮨が手厚く保護されていた ことによるものでした。 
     平成十一年三月 岐阜市教育委員会   」   

東番所跡      善徳寺      専福寺
東番所跡
善徳寺
専福寺


四差路角の太田薬局の看板に「吉文字」とあったが、これは江戸時代の 屋号だろう。 交差点は狭い道なのに左右に行く車が多い。 
太田薬局の前に道標があり、その説明板がある。 中山道はここで左折する。  五つ目の枡形である。 

 * 「 この道標は江戸時代中期(1750年頃) 新町と南広江の交わる 四ッ辻東南隅にたてられ、中山道を往来する旅人の道案内を果たしてきました。 最初 は「左中山道」「右ぎふ道」の道標でしたが、明治初年に「左西京道」「右東京道」の 標識が追加されました。 この四ッ辻は中山道と岐阜道(鮎鮨街道)の分岐点で、 かっては交通の要衝でありました。 
  昭和五十九年三月  中山道加納宿文化保存会   」   

この突当りを右に進むと加納宿北番所があり ました。 右に行くのが岐阜道(ぎふみち)で、前述した通り、江戸時代には商人の町として 繁盛していた。 

 * 「 江戸時代に発行された旅の案内には岐阜町の名所をかなり詳しく 紹介されていたので、加納宿を訪れた旅人の多くが訪れたといわれる。 土岐源氏の 発祥の地とか、油売りから城取りをした 斎藤道三の逸話とか、織田信長が斉藤氏から 城を奪って岐阜にしたなど、いろいろな話が旅人の興味を惹きつけたことは想像に かたくない。 また、岐阜は長良川の河運が盛んで、取引量も多く、富める商人 が輩出する商いが賑わう町としても有名で、全国から多くの商人を集めた町でも あった。 」    

中山道は交差点を左折する。 それほど大きくない川、清水川があり、大正時代 までは「ガマ」と呼ばれる地下湧水が存在していた。 加納清水町の名もこの川の 清水からである。
清水川には広江橋が架かるが、橋の手前左奥に幟が立っている。 入って行くとお堂が あり、一部民家風になったお寺がある。 江戸時代に建立された水上殿水薬師寺 である。 

 * 「 慶長十七年(1612)夏、清水川で泳いでいた伊三郎という若者が 黄金の薬師像を拾い上げました。 これを慶んだ二代目藩主奥平忠政(亀姫の三男)と 亀姫は清水川の川中に二間四方の浮見堂を建て、この薬師像を安置しました。  以来水薬師、そして美濃の乳薬師と呼ばれ乳が良くでる仏として親しまれ、 例年七月二十、二十一日に清水川の灯籠流しが盛大に行われます。 」   

橋を渡った左側の民家の前に「高札場跡」の標柱と説明板がある。 

 * 説明看板には「加納宿では加納城大手門前の清水川沿いのこの場所 に高札場が設けられ、宿御高札場と呼ばれた。 この高札場が加納藩の中では一番大 きく、石積みの上に、高さ3.5m、巾6.5m、横2.2mもあるもので、正徳元年 (1711)から明治維新まで使用された。 」とあった。 

そういえば、茶所駅の手前にも、高札場があったようなので、加納藩は村毎に 高札を掲げたのだろう。 

中山道道標      水薬師寺      高札場跡
中山道道標
水薬師寺
高札場跡


正面の歩道橋手前を右折する。 六つ目の枡形で、これで加納城下六曲りは終了である。 ここは広小路の大通りで、加納城の北側にあたり、大手門があったところである。  大通りを渡るための陸橋登り口に「加納城大手門跡」と表示された大きな石碑が建って いる。 
東西に広がる大通り一帯は江戸時代、武士屋敷を形成していたとあり、明治維新後、 加納町役場があったらしい。 中山道は大通りの一つ手前の狭い道を右折するのだが、 折角なので、加納城祉に立ち寄る。 
城に行くには交差点の陸橋を渡らないといけない。 陸橋の上から左側に鉄筋コン クリートの高い建物の岐阜大学付属小学校・中学校が見える。 前を通ると守衛が 立ち、厳重な警戒である。 がらん人気のない校庭と広場が広がっていた。  ここは上級武士屋敷のあったといわれるところである。 
少し先に公民館、そして、加納小学校があった。 こちらは自然も多く、ゆったりし た感じであった。 特に煉瓦の校門がシックでよい。 

 * 「 岐阜は斎藤道三の国取り物語の舞台になった地で、 織田信長は斎藤氏の居城稲葉山(金華山)城を陥し、新たに岐阜城を築城し、 安土城に移るまで本拠地としました。  関ヶ原の戦い後、徳川家康は大坂豊臣方への備えとして、山城の岐阜城を廃し、 美濃国守護代、斎藤利永が築城した沓井城の跡地に、平城の加納城を築城し、 愛娘亀姫の夫、奥平信昌に十万石を与え城主にした。   縄張りは家康自ら行い、普請奉行は本多忠勝が勤めました。  建築資材は主に岐阜城の解体材が流用され、岐阜城の天守は加納城の二の丸御三階櫓 になりました。 荒田川から引き入れた内堀と外堀で囲まれた水城で、守りを 固めた城だったが、名古屋城が出来たことで城の重要性が低くなっていった。 明治維新の廃藩置県で、明治四年、加納城は廃城となり、翌明治五年〜六年に城は 取り壊された。 」 

加納城の本丸だったところは加納公園とテニスコート、グランドになり、 わずかに本丸の石垣を残すだけになっている。   
大手門跡の中山道まで戻り、街道を歩く。 この先の町名は加納本町といい、加納宿の 中心だった。 街道の左側にある「二文字屋」という鰻屋は元和六年(約380年前)に 旅籠を開業した老舗だが、戦災にあったため建物は残っていないが、 左甚五郎が泊まって彫ったという、餅をつくウサギの欄間は残っているという。  加納宿には旅籠が三十五軒あったが、その一軒である。  

 * 「 加納藩は奥平家が三代で途絶えた後、色々な大名 に変ったが、その度に石高を減らし、永井直陳が武蔵岩槻から転じてきた頃には三万石 になっていた。 その一方で、加納宿が開設され、また、加納傘などの特産品が加わり、 商人町的な要素の強い町に変貌していった。 加納宿が誕生したのも中山道が 開道して三十年以上も経った寛永十一年(1634)のことで、新宿である。 」 

二文字屋      加納城本丸跡      二文字屋
加納城大手門跡
加納城本丸跡
二文字屋


その先の右側の民家の前に「中山道加納宿当分本陣跡」の標柱がある。  とあり、左側に「明治天皇御小休所跡」と書かれている。 

 * 「 当分本陣とは聞き慣れない言葉であるが、幕末の文久 三年(1863)参勤交代の制が緩和され、江戸詰の大名の妻子の自由帰国を許可された。  大名妻子が一斉に国元に帰国した為、本陣と脇本陣だけではさばききれなくなったため、 臨時に増やした本陣が当分本陣である。 加納宿では三宅家と宮田家(宮田五左衛門)が 務めた。 当家は明治天皇巡幸の際、御小休所になりました。  」   

加納中通りを右折すると右側に慶長年間の創建の玉性院があり、張り子の大きな赤鬼が 立っていた。 大手門の大通りにも「交通安全」と書れたばかでかい鬼が立ち、 「つりこみ祭」の宣伝をしていたので通りかかった人に聞くと、「厄男を赤鬼にして、 御輿に乗せ、厄女をお福にしたて、御所車に乗せ、町内をねりあるき、厄払いをした後、 本堂で厄払いをする。」祭で、戦後から始まったというから、五十年程の歴史らしい。 
街道に戻り直進すると右側のモダンな民家(青木氏)の塀に 「皇女和宮御仮泊所跡 中山道加納宿本陣跡」の標柱と「皇女和宮の歌碑」の説明板 があり、門前に歌が記された茶色の石碑がある。 
加納宿本陣は松波藤右衛門が勤め、規模は間口十一間半、奥行十八間で、建坪は百七十 坪でした。 

 * 説明板 「皇女和宮の歌碑」  
「 仁孝天皇の皇女和宮(ちかこ)親子内親王は将軍徳川家茂との結婚のため、文久元年 (1861)十月二十日、京都桂御所を御出発、中山道を通行して江戸に向かわれた。  同年十月二十六日当地加納宿本陣の松波藤右衛門宅(現在地)に宿泊された。 その時、自分の心情を詠まれたという歌が伝えられている。
   遠ざかる 都としれば旅衣 一夜の宿も 立うかりけり     
この歌は「宮内庁書陵部所蔵の静寛院宮御詠草」に収められており和宮の直筆である。  
本年は中山道宿駅制度が設置されてから四百年記念に当り、幕末の日本の国難を救ったと 言われる公武合体のため、結婚された和宮の遺徳を偲んで、本歌碑を建立する。   
     平成十四年六月吉日       中山道加納宿文化保存会    」  

当分本陣跡      玉性院      加納宿本陣跡
当分本陣跡
玉性院
加納宿本陣跡


少し行った右側の松波医院の駐車場脇に「加納宿西問屋跡」の標柱がある。 

 * 「 西問屋は加納宿の問屋でした。 元々は三宅佐兵衛家が勤めて いましたが、万治元年(1658)に松波清左衛門家が加納宿問屋となり、西は河渡宿から 東は鵜沼宿までの人馬の継立て行いました。  」  

その先の右側に門を構えた屋敷があり、「中山道加納宿脇本陣跡」の標柱が立って いる。 加納宿脇本陣は延享二年(1745)より森孫作が勤め、規模は間口九間半、奥行 十四間、建坪百三十二坪でした。
脇本陣跡の角を右に入ると正面に加納天満宮がある。  境内には傘祖彰徳碑がある。  加納名産である和傘は寛永十六年(1639)松平光重が明石から移封された際に、 傘職人を伴ったことに始まり、下級武士の内職として広まったという。 

 * 「 加納天満宮は美濃国守護代斎藤利永が文安二年(1445)沓井城 (後の加納城)を築いた時、菅原道真を祭神とする天神社を城の守護神として祀ったのが 始まりと伝えられる古社である。 慶長六年(1601)奥平信昌が加納城の築城の際、 城郭内になるので、現在地に遷座しました。 歴代城主の信仰が篤く加納城の鎮護で、 加納藩の侍や宿場の庶民を始め、旅人にも尊敬を集めた神社でした。  戦災で唯一焼け残った拝殿は文化七年(1810)の創建である。 」  

加納天満宮の西側に曹洞宗久運寺(くうんじ)があり、境内に「お茶壺道中ゆかりの寺跡」 の石碑がある。 

 * 「 寛文五年(1665)加納城主松平光重よりお茶壺道中の本陣を 命ぜられたが、住職の玉葉和尚は権威の横暴に反抗してこれを拒否したため追放され ました。  」  

街道に戻ると右側に小林家が勤めた「中山道加納宿脇本陣跡」の標柱がある。 
、 交叉点を右に入ると左側に寛永四年(1624)創建の浄土真宗本願寺派寂照山信浄寺がある。  境内に安永六年(1777)獅子門中が建立した芭蕉句碑の「 松杉を ほめてや風の かほる音 」がある。 
街道は加納栄町通に突き当たる。 ここの右手がJR東海道本線岐阜駅で、 加納宿の起点でもある。 
そこを過ぎると加納本町で、右側の愛宕公園を過ぎると、左側に「西番所跡」の 石柱が立っていて、加納宿はここで終わる。 

当分本陣跡西問屋跡      脇本陣跡      加納天満宮
西問屋跡
脇本陣跡
加納天満宮



(所要時間) 
太田宿→(40分)→深田神社→(2時間30分)→鵜沼宿→(2時間40分)→新加納の一里塚
→(1時間20分)→細畑の一里塚→(1時間)→加納宿 


鵜沼宿  岐阜県各務原市鵜沼東町 JR高山本線鵜沼駅又は名鉄新鵜沼駅下車。 
加納宿  岐阜県岐阜市加納  JR東海道本線岐阜駅下車。   
 



(26)河渡宿・美江寺宿・赤坂宿                              旅の目次に戻る



かうんたぁ。