『 中山道を歩く  (18) - 福島宿・上松宿・倉本集落  』





(37)福島宿

宮ノ越を出で、中央本線に並行して歩くと、昭和産業木曽コンクリート 工場入口の左側の草叢に「宮ノ越一里塚跡」の石碑がある。 江戸から六十八里目で ある。 
下島集落を過ぎ、JR中央本線の第五中仙道踏切を渡ると右側に「日義村」の標柱が ある。 

 * 「 宮ノ越と原野は現在木曽町日義であるが、平成の大合併の前 は日義村であった。 明治初期に、宮ノ越村と原野村が合併してできた村で、 この地にゆかりの深い朝日将軍木曽義仲 から二字をとって命名された歴史的な名前 である。  」 

林昌寺バス停から左に進むと国道の向うに林昌寺があり、義仲の育ての親、 中原仲三兼遠の墓がある。 
このあたりが原野集落で、江戸時代には間の宿原野と呼ばれていた。 
左の少し奥まったところに原野駅あり、旧中山道は素通りして道なりに行けばよい。  原野駅入口を過ぎると左側に「墓地守護石人像」が並んでおり、韓国風の石像が 面白かった。 
古そうな家が数軒並んでいたが、商店が建ち並ぶ訳でも なく、生活の匂いがして、現代の旅人をして街道を歩いていると感じさせてくれる 人里である。 
無住澤川に架かる橋を渡ると右側に多くの石碑、石仏が並んでいる。 
火の見ヤグラと明星岩公園を過ぎると左側にビニールハウスが見えてくる。  原野駅から五百メートルの街道沿いのここには「中山道中間点」の説明板があった。 

 * 説明板「中山道中間点」  
「 ここは、中山道の中間点、江戸、京都双方から六十七里三十八町(約268Km)に 位置しています。 中山道は東海道とともに江戸と京都を結ぶ二大街道として、 幕府の重要路線であったことはいうまでもありません。 木曽路というと深山幽谷の 難所と思われがちですが、木曽十一宿が中山道六十九次の宿場として指定された 慶長六年(1601)ころからは整備も行き届き、和宮などの姫宮の通行や日光例弊使、 茶壷道中などの通行に利用されていました。 栄泉、広重をはじめ多くの文人墨客が 数多くの名作を残していることからも、変化に富むこの街道は旅人の目を楽しませて くれたに違いありません。 また、江戸時代に木曽一円を治めていた代官山村氏は 中央との結びつきを深め、代々向学の士を輩出して政治、経済はもとより、文学にも その才を発揮し、木曽をして中山道のいう東西文化の接点ならしめたのです。  
     日義村   」  

近くに「中山道東西中間之地、江戸へ六十七里二十八丁、京都へ六十七里二十八丁」と 書かれてた「中山道中間地点」の石標が立てられたが、今は道の駅の南側に移転して いると聞いている。 

原野集落
     石仏群      中山道中間点
原野集落
石仏群
中山道中間点


この先旧道が残っている。 旧道を行かない場合はスパーイズミヤ(和泉屋商店)に 突き当たって左に曲がり、国道に合流し、正沢川に架かる七笑橋を渡り、 栗本交叉点で国道に分かれ、右側に大きく見える相撲場の道に入る。 
木曽の銘酒に挙げられる七笑はこの地名による。 

旧道を行く場合は元原南バス停近くの右に入る細い道を進み、イズミヤの横を通り、 小沢センターの三叉路で左に下る。 ここには「←なかせんどうこの下の橋を渡り 木曽福島へ」の標識がある。 下りきった草むらの真ん中で左方向に行く。  なお、真っ直ぐ右方向に上がると、先程の舗装路の先に出てしまうので注意。 
少し行くと正沢川に出るので鉄製の橋まで行きそれを渡る。  支柱は大きな岩に固定されていて、床は網製で下が透けて見える。 正沢川は木曽 福島領との境であった。 今は木曽町日義と木曽町新開との境である。 
渡ったら右折して道なりに進むと七笑から来た道合流する。 旧道は七笑橋より下流 で川を渡っていたのである。 
此の辺りから左手に見える木曽駒ヶ岳はじめ中央アルプスが美しい。 
栗本集落を過ぎると「中原兼遠屋敷跡」の案内があるので、右折しJR跨線橋を渡ると 左側に「中原兼遠屋敷跡」の朽ちかけた木標が立っている。 

 * 「 兼遠の妻は幼い駒王丸(木曽義仲)を育てた乳母でした。  駒王丸は十三歳で元服するまでここに匿われていた。 」 

街道に戻り、小川が流れる天神橋を渡ると上田集落である。 <br> 集落の中央の左側に嘉永五年(1852)建立の二十三夜塔や庚申塔が並び、その横に 薬師堂がある。 

 * 「 江戸時代、街道を通る人々がお堂の前で旅の無事をいのった と、伝えられる薬師堂は最近再建されたもののようである。 」 

薬師堂の並びの丘の上に手習天神がある。 石段を登ると江戸時代末期に宮大工、 武居仙右衛門によって建てられた社殿がある。 社殿は小さいけど、しっかりとした建物 である。 社殿の横にあるイチイの大木は樹齢千年という。 

 * 「 上田集落は義仲を育てた中原義遠の館があったといわれる ところである。  手習天神は木曾義仲の義父、中原義遠が一族の学問向上のために、 京都の北野天満宮から勧請し祀られたもので、古くは、山下天神と呼ばれていた。  源平盛衰記には「 義仲を木曽の山下に隠し、養育した 」と記されているが、 山下は上田の古名である。  」 

上田集落
     薬師堂      手習天神
上田集落
薬師堂
手習天神


手習天神の参道階段脇に馬頭観音などの石仏や阿弥陀仏石碑が祀られている。 
上田バス停を過ぎると変則三叉路で、左は国道19号で上田口交叉点に出る。 中山道 は真ん中の細い下り坂を行くのであるが、その先で消滅している。 
小生はここで立ち寄りし荒神社(こうじんじゃ)に向かう。  中山道が上田口交叉点に出る手前の三叉路を右折し、木曽川の荒神橋を渡った先の 三叉路の先に荒神社がある。 元服して木曽次郎義仲と名乗った朝日将軍・源義仲 と縁(ゆかり)のある神社である。 

 *  説明板 「荒神社(こうじんじゃ)」  
「 上田の中原義遠に養育された駒王丸は仁安元年(1166)元服した木曽次郎義仲と 名乗りました。 この時、播磨国新十郎が瀧倉三宝大荒神を背負いこの地に祀った と伝えられています。  祭神は須佐之男命を祀り、古くは熊沢の谷の少し奥の岩戸様にありましたが、後に この地にうつしたといわれています。   木曽福島町    」  

街道に戻り上田口交叉点で国道を歩くと左側に「出尻一里塚跡」の石碑がある。  江戸から六十九里目である。 
ここから右の下り道に入る。 急な坂はおと坂で、分岐点に「中山道ここは出尻上」の 標示がある。 坂を降りると下の道に合流するが、ここには「出尻下」とある。  きそ子供センター前バス停の先の左側の坂を上り、国道に合流する。 この先の 左側に矢崎旧道がある。 国道に沿う段上に道があり、矢崎橋で国道に合流する。  国道の左側を進むと荒町バス停に元禄十五年(1702)築造の大日如来と元禄十四年(1701) 建立の経塚がある。 

 *  「 この経塚は初代木曽代官山村良候が慶長年間に家臣の川崎 又衛門を伴い全国の霊場を巡り、大乗教に納め、記念に塚を築いて松を植えた。 第 五代山村良忠が曽祖父の百年忌にあたり、第六代山村良景の書による碑文を刻み建立 したものである。 」 

すぐ先の左側に芭蕉の「思い立つ 木曽や四月の 桜の便り」の句碑がある。 
右側に蕎麦処くるまやがある。 昼飯は蕎麦がうまいと人気の高い「くるまや」で とる。 有名になりすぎて、静かに食べられないのが玉にきずであるが、何時来ても 満足する美味である。 

 *  「 くるまやは代々福島関所を勤めた山村代官に仕え、製粉 精米業を営んでいた。 屋号のくるまやは水車に由来している。 」 

この先、右斜めの下り坂が旧道で、「ここは荒町 ←中山道」の標示がある。  木曽大橋の下をくぐると木曽川に突き当たる。 

石仏石碑群
     荒神社      木曽川
石仏石碑群
荒神社
木曽川


左折して坂を上ると国道に合流する。 
関町交叉点の三叉路で、国道は左の福島トンネルに入って行くが、直進すると擁璧に 「関所の町木曽福島」と書かれた関所門に模した大看板がある。  道の正面に巨大な冠木門(かぶきもん)が立っていて、○に一字の山村家の紋があしら われている。 
門をくぐり、斜め左の上り坂にかかると福島宿の江戸方(東)の入口である。 
坂を上り切ると右側に「木曽福島関所跡」の石碑が立っている。 
その先には関所東門や御番所、西門が復元されている。 

  *  「 徳川家康は要衝の地である福島を直轄地(天領)として 、関ヶ原の戦いで功のあった木曽氏の重臣、山村氏を関所番に登用した。  その後、この地は尾張藩領になったが、引き続き山村家が関所番を世襲した。 
福島関は中山道の重要な守りとして、碓井関、箱根関、新居関と共に 四大関所と呼ばれて、福島関所は街道を往来する旅人を「入り鉄砲、出女」を主に 監視していた。  
現在、福島の関所は史跡公園となって番所が復元され、資料館として開放されている。  資料館で関所の模型を見れば、この地の重要性が一目で分かる。 ここは山と山が 木曽川に迫った隘路(あいろ)なのである。 ここで取り締まれば、蟻一匹はい出る隙 もないだろう。 
現在、木曽川沿いの斜面は大きく削られ、道路が造られたので、関所は高くそびえる 石垣の上に設けられていたかのように思われるが、かっては山の中腹にどっかりと 座していたのである。 」  

関所の周囲には関所に勤める役人の家々が連なっていた。 関所西門を出て坂を下る と左側の石段脇に「高瀬奇應丸」の石柱がある家があろ。 高瀬家で、今も残るその 一軒である。 。 

  *  「 高瀬家は、大阪冬の陣ごろ、福島に来て、高瀬八右衛門武声 が代官山村氏に仕え、代々関所上番(御側役、 鉄砲術指南役、勘定役)を勤めた。  明治に入ると小児の夜泣き、かんの虫に効く漢方生薬奇應丸を製造し、評判を得た。  また、島崎藤村の実姉、その(園)の嫁ぎ先としても有名である。 その(園)は、藤村の 作品「 家 」に登場するお種や「 夜明け前 」のお粂のモデルになった人物である。 
そのような格式を持つ家だが、大火に遭い土蔵と庭園の一部が残っているだけである。  土蔵を藤村資料室として公開し、藤村の若き日の写真や手紙などを展示している。 」 

福島関所跡碑と東門
     御番所      高瀬家
福島関所跡碑と東門
御番所
高瀬家


福島は戦国時代、木曽氏の城下町で、江戸時代には木曽代官山村氏の陣屋町になった。  天下の四大関所と呼ばれた福島関所があり、昔から今日まで木曽地方の行政、文化の 中心地である。 
町なみは木曽川をはさんで崖屋造の家が立ち並び、夕暮れ時とも なれば 「 山蒼く暮れて夜霧に燈をともす 木曽福島は 谷底の町 」 とうたわれたように旅情をかきたてる町である。 
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳には家数158軒、宿内人口972人、本陣1、 脇本陣1、旅籠14軒とあり、木曽十一宿の中心で、松本や飯田に次ぐ大きな町で あった。 
関所西門を出て坂を下り、宿の関町に入る。 関町には関所橋がある。 

 「 関所橋の欄干のプレートには七月二十二、二十三日に行われる 水無(すいむ)神社 の祭礼で、みこしまくりといわれるものの絵である。 重さ三百七十キロある木造の みこしをころがし、ころがして、最後には壊してしまうという荒っぽい祭を描いたもの である。 」  

福島宿は上町、本町と進む。  街道を進み、上町交叉点を左に入ると臨済宗の久昌寺がある。 山門は仁王鐘楼門で ある。 
木曽川に架かる中央橋を渡り、突き当たりを右折すると左手にあるのが興禅寺である。 

  *  説明板 「萬松山 興禅寺 臨済宗妙心寺派」 
「 木曽義仲公、木曽の領主木曽家代々、木曽代官山村家代々の菩提所で、 木曽三大寺の一つである。 
当寺は、永享六年(1434) 木曽義仲追膳供養のため、木曽家十二代信道公が荒廃していた 寺を修復再建し、開山には鎌倉建長寺開山蘭渓道隆五世の孫、圓覚太華和尚を 迎えた。 よって、信道公を開基、太華和尚が開山としている。 明応五年(1496) 叔雅和尚の代に木曽家十六代義元公(叔雅和尚の父)の庇護を受けて大いに発展した。  これにより、義元公を中興開基、叔雅和尚を中興開山としている。 本堂をはじめ 諸堂宇は 昭和二年(1927)の福島大火し、後に復興したものである。 」 

再建された室町様式の勅使門を入ると、正面に大悲殿(御影観音堂)があり、 その前に義仲公お手植えの桜( 但し、二代目 )がある。 

関所橋プレート
     興禅寺勅使門      大悲殿(御影観音堂)
関所橋プレート
興禅寺勅使門
大悲殿(御影観音堂)


その傍らに、山頭火の句碑 「 たまたま 詣でて木曽は 花まつり 」 がある。 

  *  「 勅使門は昭和二十九年に原形通り室町時代の建築様式で、 復元したものである。 観音堂は昭和三十年に再建したもので、義仲公木像(消失) の体内仏を安置する。 推古時代の作と伝えられる金銅仏である。 」 

裏手にまわると、墓地の正面に太い柱で囲まれた木曽家の墓所がある。 

  *  「  木曽義仲の宝しょう印塔を中央に、右側に信道(木曽氏第十二代、寺開基)、左に 義康(第十八代福島城を築いた)の墓がある。 
寿永三年(1184)木曽義仲は死の間際に「義仲死に臨むみ女を従うは後世の恥なり。  汝はこれより木曽に去るべし」と遺髪を巴御前に託しました。 義仲の墓には その遺髪が埋められている。 」  

墓の前の大きな自然石には、山頭火の 「 さくら ちりをへたるところ 旭将軍の 墓 」 という歌が刻まれている。 
その奥に木曽家歴代の墓もあったが、これは質素なもの。  それに対し、山村家の墓所は 立派である。 
庫裏の前には近代の作庭家、重森三鈴(しげもりみすず)氏による石庭看雲庭があり、 隣接する池泉式の庭園万松庭と好一対をなしている。 (入園料500円) 

  *  「 看雲庭は枯山水の庭として東洋一の広さである。 禅宗庭園 として昭和三十七年に現代作庭家の巨匠重森三鈴氏によって造られた。 
万松庭は池泉水の庭園で江戸時代中期金森宗和の作である。 」  

その先の左側に臨済宗妙心寺派龍源山長福寺がある。 木曽の三名刹(興禅寺、須原の 定勝寺)の一つである。 面談謝絶とあり、中には入れなかった。 

  *  「 長福寺は永享二年(1430) の創建で、木曽家の菩提寺であった。  天文元年(1573)武田信玄が病没すると木曽家十九代義昌は義父追善のため、当寺に 武田晴信(武田信玄)の墓を建て廟所となす。 天正十八年(1590)、徳川家康の関東入国 により、木曽氏は下総国網戸(あじと、現千葉県旭市)に移封になると、木曽氏の家臣、 山村氏が庇護し、以後、山村家の菩提所となった。 文禄三年(1594)、嘉永三年(1851)、 昭和二年(1927)と火災に遭い、特に昭和二年には木曽義仲公出陣の太鼓等の多くの 寺宝を焼失させた。 昭和四十八年に復興工事を完成。 」 

種田山頭火の句碑
     木曽義仲の墓所      龍源山長福寺
山頭火の句碑
木曽義仲の墓所
龍源山長福寺


境内に庚申の中心神である青面金剛神像の下に三体の猿の石仏があり、文政五年 (1822)につくられた傑作と記されていた。 
興禅寺の横の道を山の方に十分ほど上がると林になった小高い場所に出る。  郷土館はこの林の中に立っており、周囲は野鳥の多いすばらしい環境である。  館内には関所や番所の配置図、女通行手形などが展示されている。 旧開田村から移築 された農家や収集された石仏もある。 

代官屋敷交叉点に戻り、右に進むと山村代官屋敷東門跡の石垣に、横井世有(せゆう) の紀行文「 岐岨路紀行 」 の一節 「俎(まないた)の なる日はきかずかんこ鳥   ( 世有 ) 延享二年卯月一二日  」 が刻まれている。 

  *  説明板「「山村代官屋敷東門跡」  
「 延享(えんきょう)二年(1745)四月い尾張藩主徳川宗勝(むねかつ)が江戸を発って 尾張に帰える途中、山村邸に一泊しました。  その時従って来た重臣であり、 学者であった横井世有(せゆう)の紀行文「岐岨路紀行」の一節が石垣の石に刻まれて います。 
 俎(まないた)の なる日はきかず かんこ鳥   ( 世有 ) 
     延享二年卯月一二日                 
「 けふは福島にて山村氏が亭に入らせたまふ家居つきづきしくのしめ袴にてもてさわぎて 何くれともてなしたてまつる。 鯛鰤などの膳にひろごりたるけふは山家めきたる心地 せず」 
石垣は延享四年に改修されました。 その時、石に刻まれ、後世たびたび改修されまし たが、この石は当時のまま残されています。  」  

石垣の前には、代官清水という水場が作られていた。  冷たい水がながれ、一時の暑さを忘れさせる風情がある。 

青面金剛神像と三猿
     横井世有の碑文      代官清水
青面金剛神像と三猿
横井世有の碑文
代官清水


代官屋敷交叉点の奥に山村代官下屋敷がある。  

 * 「 山村氏は慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦の際、徳川秀忠率いる 徳川本隊を中山道木曽路通過の案内役を務めた。 徳川家康の福島を幕府直轄にする という方針により、山村氏の所領の木曽福島を取り上げられたが、この功により木曽 代官に就任しました。 その後、木曽地区は尾張藩の所領に変ったが、尾張藩は山村氏 に福島代官職をそのまま続けさせた。 山村氏は江戸と名古屋に屋敷を持ち、幕府と 尾張藩に仕えたのだから、かなりしたたかな人物だったのだろう。 他の関所の代官は 交代で務めたのに対し、木曽代官を山村一族で明治になるまで続け、木曽谷を支配 した。 その権限は強大で、その屋敷も豪壮を極め、庭園が二十あったと伝え られる。 」 
山村家の敷地面積は、下屋敷の数倍もあったというが、残っているのは 享保八年(1723)に建てられた山村代官下屋敷のみである。 

 * 「 山村代官下屋敷は山村氏の下屋敷で、数部屋に別れ、山村家 伝来の品々が展示されている。 奥まった一室には「おまつしゃさま」という山村家の 守り神のお稲荷様の使いのキツネを祀っているが、そのキツネのミイラが発見されたと 紹介されていた。 泉水庭園が見事とあるが、手入れが悪いのかそれほどのものとは 思えなかった。  建物が古いという意味では価値があるのだろうが、どちらかという と質素なものだった。 」 

街道まで戻る。 上町から本町が福島宿の中心だったが、昭和二年の福島大火で、 約八百軒の家が火災に遭い、古い建物は消えてしまったので、宿場のおもかげは残って いない。 
支所前交叉点を左に入ると木曽町福島支所前に「福島宿本陣跡」の標石があり、「 江戸へ六十九里、京へ六十七里」と刻まれている。 

 * 「 白木本陣だったところには 支所(旧福島町役場)と支所前広場になっていた。 福島宿本陣は代々白木十郎左衛門 が勤め、問屋を兼ね、明治三年(1870)の本陣廃止まで続きました。 皇女和宮は 白木本陣で昼食をとりました。 」  

この付近に脇本陣や問屋など宿場の機能をなす施設があったはずだが、どこにあった かなどの資料がない上、現地にはいっさいの説明がないので、これ以上探しても無駄で ある。 
木曽福島には今も旅館が多くある。 創業三百五十年の旧旅籠、「木曽路の宿イワヤ」 (岩屋旅館)は 建て替えられて、近代的なホテルに変って今も営業をしている。 
和菓子屋も創業三百年を誇る店がある。 木曽漆器がここが発祥の地といわれ、 江戸時代には繁盛したが、その後、楢川に地位を奪われてしまった。 今も、数軒の漆器店がある。 
また、生蕎麦くるまや本店がある。 先程食べたのはここの支店である。  何時来ても満足する美味で、もり、二枚千円なり。 

山村代官下屋敷入口
     山村代官下屋敷      くるまや本店
山村代官下屋敷入口
山村代官下屋敷
くるまや本店


左側に酒林を吊り下げた七笑酒造がある。 明治二十五年(1892)の創業で、銘酒 七笑の蔵元である。 中山道は七笑酒造の先で左折して、上ノ段に向う。  その前に手前の文化交流センター交叉点を 右折して川を渡った対岸から、崖屋造りと呼ばれる家並みを見る。 木曽川に床を張り 出すことで、狭い土地を有効活用しようとした生活の知恵と言われるものである。 

中山道の七笑酒造まで戻ると、 中山道は岩屋旅館の前の小路に左折して入り、すぐに右に折れ、急な上ノ段坂を上がる。 
坂の途中に高札場跡があり、右側に復元された高札場があり、天保九年(1838)当時の 高札八枚が掲げられている。 
上がりきると、今度は左に折れる。 上ノ段集落に出た。 

 * 「 上ノ段集落は昭和の大火に遭わず、往時の佇まいを残している。  上の段は木曽義仲から数えて十九代目の木曽義昌の居城、上の段城があり、その郭内と して多くの道筋が通っており、由緒ある小路名や複雑な枡形を残している。 」 

町並みの中程の寺門小路を左に入ると、臨済宗妙心寺派智勝山大通寺がある。 

 * 「 慶長四年(16001)木曽家の屋敷跡に尾張藩木曽代官二代目 山村良勝により創建され、柱山和尚を開山とする。 山村良勝は父良候(よしとき)と共に木曽義昌の重臣で あった。 鐘楼門は安永七年(1778)の建立で、当町に現存す建造物で最古のものの 一つである。 」

境内に武田信玄公の息女真理姫供養塔がある。 

 * 「 天文二十四年(1555)木曽に攻め入った武田信玄は領主木曽義康と 和睦した際、嫡男義昌の元に信玄の三女真理姫が甲府から嫁してきた。  当時六歳であった。 徳川家康の関東下向に伴い、木曽義昌は天正十八年(1590)、 下総国網戸へ移封され、五年後に亡くなった。 跡を継いた義利は乱行を理由に改易 になり、木曽家は取潰しになった。 真理姫は末っ子の義通と共に木曽に戻り、三岳村 で暮らし、正保四年(1647)九十八歳の生涯を全うした。 

山村代官下屋敷
     くるまや本店      大通寺
崖屋造りの家々
高札場
大通寺


上ノ段には袖卯建や堅繁格子のある町家が数軒あった。 造り酒屋を営んでいる家は  なまこ壁の土蔵を備え、裏まで続く広い敷地を持ったお屋敷である。 
むかし旅人が休んだという水場があった。  上の段用水は木曽家の館に八沢川上流から取水 したのが始まりで、昭和初期まで地元住民の飲み水、洗い場、社交所として利用された 生活にかかせない用水であったが、水道の普及でその使命を終えた。 

 * 案内板 
「 この井戸は江戸時代中ごろに造られたもので、深さ二十一尺(六・五メートル)あり、 その工法は大変珍しい過去数度の地震にも少しもかわれることなく、昭和の中ごろまで 町民の飲料水として用いたものです。 この水は清く冷たく、中山道を往来する旅人 ののどをうるおし、また、毎年七月二十二日、二十三日の水無神社の祭礼にはこの水で 砂糖水を作って枠持衆(御輿を担ぐ人)に供えていたものです。 」  

上ノ段は二百メートルほどの短い距離だったが、 福島宿で唯一、宿場時代の情緒深い面影を 残しているような気がした。 
やがて、道は直角に左に折れて下り坂に、突き当たりを右に曲がり、やや下り、八沢川に かかる中八沢橋で渡り、突き当たりを右折すると県道259号(木曽福島停車場駒ヶ岳線) に合流する。 分岐点には中北道標「←JR木曽福島駅0.5km 上の段120m→」がある。 
八沢町はかって木製品造りの職人や漆職人などが住んだ 福島宿とは違った別個の町であった。 八沢橋を渡った左側に木曽漆器の発祥の地 といわれる創業万延元年の吉彦がある。 
その先の長野銀行には両替屋の木札が掲げられていた。 三叉路で左の上り坂を進む。  ここには中北道標「←中山道 JR木曽福島駅400m→」がある。 
急坂を上ると左側にJR木曽福島駅がある。  駅脇には太田空穂の前述の「 山蒼く 暮れて夜霧に  ・・・ 」の歌碑があった。 

上ノ段集落
     井戸跡      木曽福島駅
上ノ段集落
旅人も利用した井戸
木曽福島駅





(38)上松宿

駅前を過ぎると三叉路になっていて、正面に御嶽教木曽大教殿がある。 木曽の御嶽教 の拠点として昭和二十三年(1948)に建てられたもの。 
三叉路を左に上がる。 ここには中北道標「←国道19号線0.5km 木曽の桟4.0km→」が ある。 すぐに右側の車道をくぐる行く細い道に入り、坂を下ると木曽町役場に突き当 たる。 ここは大同製鋼の工場であったところである。 
役場の外壁に「中山道→」の小さな文字があるので、役場に沿って進み、突き当たりを 左折する。 細道を下り車道で左折すると塩渕の説明板がある。 

 * 説明板 「塩渕」  
「 天正十二年(1584)の木曽義昌朱印状には「上塩渕」「塩渕中屋」 「塩渕彦三郎」の名が出てくる。 享保九年(1724)の「岩郷村家数書上帳」には 「家数拾四軒塩渕」とある。 シオという地名は川の曲流部につけられることが多いの で、木曽川の曲流部にできた渕とすると、地形的にあっている。 また、このような 言い伝えが残っている。  昔、中山道を馬の背に塩を乗せて運んできたところ、その馬が木曽川の淵に転落し、 塩をまいてしまったところから、塩渕という地名がついた。 」(木曽町史による) 

塩渕の説明板の近くの「塩渕クラブ」の建物前に「塩渕一里塚跡」の石碑が立って いて、「江戸へ七十里 京へ六十七里」と刻まれている。  

御嶽教木曽大教殿
     塩渕の説明板      塩渕一里塚跡
御嶽教木曽大教殿
塩渕説明板
塩渕一里塚跡


塩渕クラブの外壁に中山道案内板があり、「この案内板の前が旧中山道です。 三十四家の諸大名が参勤交代の際、 大名行列して通った往還です。 」 とある。 
先に進むと右側の高台に二十三夜塔、勢至大菩薩、新田開拓碑などがある。 
この道は広い道(県道461号鳥居本町線)に突き当たる。 ここには「ここは塩渕 ←中山道 」の標識がある。 すぐ先の県立木曽病院入口交叉点で左に上がる道を上って 行く。 分岐点に中北道標「←木曽の桟3.7km JR木曽福島駅1.0km→」がある。 
坂を上るとアッという間に木曽川取水ダムが眼下になる。 民家の手前の右側に道祖神 と石仏が祀られている。 ここは旧中平村の入口で、悪霊を見張っているのである。 
細道を上りつめると上の道に突き当たるので、右折する。 ここには 「ここは中平(なかだいら)↓中山道→」の標識と中北道標「↓JR木曽福島駅1.5q 木曽の 桟3.2q→」がある。 また、中平の説明板がある。 

 *  説明板 「中平(なかだいら)」  
「 元禄七年(1694)の「岩郷村御役所百姓中ヨリ出ス高之覚」には中平は 「長吉、長兵衛」の二人の名が出ているが、享保九年(1724)の「岩郷村家数書上帳」には 中平集落の名は出てこない。 明治十一年の「福島村誌」には「川渕橋)は中平里に在り、 里中の用水の下流に在り、川渕一名中平と云う、長四尺幅二間の沢」とあり、中平は川渕 の一部であったと考えられる。 天保九年(1838)の「木曽巡行記」には「中平は木櫛挽き 売る」とあり、ここに立場茶屋がおかれ、木櫛を売っていた。 」 

中平集落のはずれに中平村の守護神、津島様(津島社)が祀られている。 
中山道はこの先国道になっている部分が多いが、残こされている部分もあるので、出会 ったり分かれたりを繰り返しながら進む。 
国道19号の赤い橋が見えたら、その橋の方向に左に上がって行き、橋の下をくぐると 正面にトンネルが現れる。 昭和四十三年(1958)開通のJR中央本線中平トンネルである。  全長百六十五メートルの薄暗いトンネルをぬけると十分程で国道に合流する。 
国道をしばらく行くと大きく左に曲がる。 元橋交叉点を過ぎたら、国道と分かれ、 左の道に入り、神戸(ごうど)架道橋でJRのガードをくぐり、神戸集落に入る。  神戸集落は 往時は合渡村と呼ばれた。 王滝川が木曽川に合流する所に由来する。 神戸集落を 大きく半円形を描くように歩くと木々に囲まれた山道に入る。 
右側の石の階段の付いた小高い丘に御嶽遙拝所がある。  中山道で御嶽山を遙拝できるのはここと鳥居峠の二ヶ所だげで、 西から来た旅人で実際に現地に行けない者はここで遙拝し御嶽山参りをしたのである。  安永九年(1632)建立の石造り鳥居と「御嶽山大権現」と刻まれた文政四年(1821) 建立の常夜燈がある。 現在、遙拝所から御嶽山は拝めないが、先の開けた所から 振り返ると良く見える。 
JRの線路より低くなったところに「↓至中山道 御嶽山遙拝所700m 至上松町木曽の 桟1q」の標識があり、ここを右折してJRのガードをくぐりと国道に合流する。  国道に出たところには「名古屋133q」の標識があるが、 すぐ先で国道と分かれ、左の道を上がる。 分岐点には「←木曽の桟1q ↓中山道コース 御嶽山遙拝所」がある。 
坂を上るとすぐの三叉路は直進の右の道を行く。 ここは板敷野旧道の東口である。 
程なく二本の松が見える。 
右に行かず、線路沿いの草道を行く。 舗装された道に出たら、そのまま右へ下りて 行くが、正面の林の方へ上っていくと、沓掛観音堂がある。 

 *  説明板 「沓掛馬頭観音」 
「 霊験あらたかで有名なこの馬頭観音の縁起によれば、昔、木曽義仲の名馬は人の 言葉がわかりました。 義仲が木曽の桟の絶壁に通りかかり目算で「 七十三間とべ 」 と号令をかけました。 馬は命ぜられるままに正確に七十三間をとびましたが、 実際は七十四間あったので人馬ともに河中へ転落してしまいました。 義仲は九死に 一生を得て助かりましたが、かわいそうに名馬は亡くなりました。 そこで、 義仲は金の観音像を作らせて、一堂を立てて馬の菩提を弔ったといいます。 それがこの 観音堂のいわれです。 以前は、もう少し南の観音坂にありましたが、明治四十三年の 鉄道工事の折に、現在地一里塚の上に移築されました。 このあたりに沓掛立場茶屋 がありました。 」 

お堂の前には馬頭観音が沢山あったが、これも中山道の道路工事で集められたものかも 知れない。 

中山道案内板
     沓掛観音堂      馬頭観音
中山道案内板
沓掛観音堂
馬頭観音


観音堂入口から右に下りて国道に合流するが、その左側に沓掛の「一里塚跡」の 碑があり、「京へ六十六里 中山道沓掛 一里塚 江戸へ七十一里 右坂上に在り」 と刻まれている。  国道から中山道へ入るところ(観音堂入口)に沓掛一里塚の石碑があるので、 気を付けないと通り過ぎてしまうので、注意。 

 *  「 沓掛一里塚は江戸より七十一里、京へ六十九里の位置にあり、 上松宿の入口にあたる。 二つあったうち、山側は明治四十三年(1910)、中央本線が 鉄道敷設したとき取り壊されてしまった。 一里塚の姿は少し上に登って、線路脇を 入っていくと、よく分かる。 沓掛の馬頭観音堂は一里塚の上に建っているのである。 」 

国道に出たところに「ここから上松まで60分」の標識が立っている。 
五分程歩くと右側に赤い鉄橋が架かっているところに出る。 木曽の桟(かけはし) に到着。 橋を渡って対岸から見るが、桟(かけはし)とは山腹の急斜面を横断する道を 補強するための橋である。 

 * 説明板「木曽の桟(かけはし)」  
「 木曽の桟というのは対岸に見える断崖絶壁に木曽川に沿って作られた木の桟道のこと をあらわしています(対岸にかけられた橋ではありません) これが焼失したので、尾張藩 により慶安元年(1648年)に、当時の八百七拾五両という大金をかけ、中央部を木橋と した長さ五十六間(102メートル)に及ぶ石垣をつくりあげました。   寛保元年(1741)には、木橋の部分も石垣にしました(中央部分の石積みが異なってい ます)  昭和四十一年国道一九号の改修工事で、史跡として石垣の一部が保存される こととなりました。 上部断崖には明治四十三年(のトンネル工法、平成十一年に 完成した落石崩壊防止の最新工法の擁璧が見られます。 」  

木曽の桟(きそのかけはし)の最初はけわしい岩の間に丸太と板を組み、藤づる等で 結んで橋をかけ、わずかな通路を開いたもので、古くから歌枕に歌われた。 この様は 「木曽の桟、太田の渡し、碓井峠がなくなればよい」と謡われた中山道の三大難所の 一つであった。  

沓掛一里塚
     木曽の桟      当初の木曽の桟
沓掛一里塚
木曽の桟碑
当初の桟(かけはし)


「 木曽路の桟の一部が見られる 」 と表示された案内板の近くにはバス停があり、 道路の左右に数台停まれるスペースがある。 
木曽の桟(かけはし)は木曽八景で「桟の朝霞(かけはしのあさかすみ)」といわれた名所 である。 鉄橋を渡ると左の駐車場の山裾に「明治天皇聖蹟碑」がある。  また、正岡子規の文学碑と芭蕉句碑がある。 

 * 「 子規の文学碑には、「 かけはしや あぶない処に  山つつじ 」「 桟(かけはし)や  水にととかず 五月雨 」 「 むかしたれ 雲のゆききの あとつけて わたして そめけん 木曽のからはし 」 と、刻まれていて、「 からはしの記 」の一節を 記したものである。 
芭蕉句碑は木曽代官、山村風兆により、文政十二年に再建されたもので、対岸の中山道 にあったのを、国道工事によりここに移転したものである。 
芭蕉が貞享五年(1688)の更級紀行で、 善光寺詣をした時に、詠まれた句である。 
   「    桟や いのちをからむ つたかづら  (はせを)    」  

桟が駐車場からは見えなかったので、下に降りていき、展望の開いているところから 対岸を見た。 国道の下に、石垣積み部分を見付けたが、これが桟である。 
道に戻る手前の岩上に、馬頭観音と思われる石仏達が鎮座していた。 駐車場の近く にも馬頭観音碑がある。 

 * 「 馬頭観音は桟の難所で亡くなった馬の供養のためのものである。 対岸の中山道 から移転した。 」 と、案内にあるので、中山道が道路工事や鉄道敷設で壊された とき、ここに移したものらしい。 」 

断崖絶壁から落ちたり疲れて命を落とした馬も多かったのだろう。 その馬や旅人 を供養する碑や石仏。 今の旅では考えられない姿を想像することができた。 
駐車場の先に桟温泉があった。 汗を流すにはよい風呂である。 小生も一風呂あびた 。 

正岡子規文学碑
     芭蕉句碑      尾張藩の桟
正岡子規文学碑
芭蕉句碑
尾張藩が造成した桟


この辺りの木曽川はこの少し上流で御嶽山から流れくる王滝川が合流するので、 水嵩が増し激流となっていたのだが、今日はダムがあちこちに造られているから 水量は少ない。 従って、崖の縁を命懸けの歩行する当時の姿を想像することはできない。 
木曽川沿いの歩道を歩くと、左側の落石防止ネットの切れ目の先に賽の河原地蔵群が ある。 
右手に吊り橋の新茶屋橋がある。 往時は高巻道があり、新茶屋村には蕨餅が有名な 弥生茶屋があった。 今は道が途絶えている。 
左側に「名古屋まで131km」の標識があるところに来ると歩道がなくなり、ラインが 引かれているだけの道になる。 大型トラックがスピードを緩めず擦れちがうので、 恐怖を感じる危険な歩行になる。 
(注) 地元のガイドブックでは、木曽の桟の赤い橋を渡り、木曽川の対岸を上松まで 歩くことをすすめています。 

JR中央本線の笹沢ガードをくぐると正面に上松第3トンネルが現れる。  車は皆、国道19号の上松第3トンネルへ向かうが、中山道は手前の笹沢交叉点で右に 曲がる。 この道は旧国道であるが、上松に入る車しか通らないので、静かになり、 ここで現代の難所とは分かれられて、ほっと一安心である。  街道沿いには地元民により季節の花々が植えられていて美しい。   
十王橋交叉点を左に曲がると右側に「中山道上松宿入口」の標柱が立っている。  ここが上松宿の江戸方(東)の入口である。 
標柱の脇にある広場に石仏、石碑群がある。 

 * 「 地蔵尊は十王堂に祀られていたが、慶応三年(1867)の 大洪水により、十王堂と共に流され、それから七年後の春の彼岸に河川の石の 間から発見された。 馬頭観音は対岸の山腹に祀られていたものである。 

  上松宿は江戸口の十王橋から上町、本町、 仲町、下町で構成され、天保十四年の中山道宿村大概帳によると、 五町三十一間(約540m)の長さに、家数362軒、宿内人口2482人(男1258人、女1224人)、 本陣1、脇本陣1、旅籠35軒とある宿場であるが、木曽五木の集散地でもあった。  尾張藩は木材役所を置き、「木一本首一つ」といわれる厳しい管理取締を行っていた。  
十王沢川に架かる十王橋を渡ると上町になる。  上松宿の家並は明治以来度重なる大火で 焼失し、火災を免れた上町の約百メートルの町並だけに古い家が残るだけである。   
道の一つ目を左に入ると 八幡宮があり、本殿は正徳四年(1714)の建立である。   言い伝えでは、玉林和尚が甥の木曽義豊(上松蔵人)のために源氏の守護神である 八幡社を館の近くに勧請したものという。 
二本目を左に入ると推定二百年の黒松と山門がある。 この寺は臨済宗妙心寺派の 聖岩山玉林寺である。 また、王林院背後の天神山に木曽氏の居館があったと伝わる。  

  *  「 王林院は木曽家16代木曽義元の二男、玉林の創建である。  明治二十六年(1893)十二月に火災で、本堂と庫裏は焼失したが、土蔵と 山門(鐘楼門)は焼失を免れた。 この山門は王林第八世涼潭、第九世渇山和尚の頃に 再建されたもので、棟札に明和三年(1766)十一月とある。 
木曽氏19代木曽義昌の弟、義豊は上松蔵人と称し、 居館を構えていた。 王林和尚は木曽氏17代の義在の弟で、蔵人の大叔父にあたるので、 この地を与えたといいます。 地名は殿上と呼び、急斜面の土手は中世の居館の面影を 残している。 」  

街道に戻り、本町に入ると右側の上松交番の並びに「といや」の木札を掲げた 青緑の屋根の家があう。 ここが脇本陣の跡で、脇本陣は原家が勤め、問屋と総庄屋 を兼ねていた。 道の左側の塚本歯科医院が本陣跡で、藤田九郎左衛門が勤め、 皇女和宮が11月2日(11日目)上松宿藤田本陣に宿泊された。 
本町から中町に入ったところが鉤手(枡形)になっていて、右に左に曲がるが、 最初の右に曲がる左側民家前の手摺がある階段に「中山道上松宿一里塚の跡」の碑が 立っている。  昔はこの手前左に高札場があったという。 

  *  説明板 「本町一里塚」  
「 江戸時代には本町(枡形の町並み)の角を曲がり、中町に入った所の左右に二基 の一里塚がありました(碑より三十メートル下方)  
一里塚は土を丸く山に盛って造られているので、南に向って右側を下の山と呼び、 左側を上の山と呼んでいました。 この一里塚の位置は 京へ六十五里 江戸より七十二里です。 残念ながら現存しません。 」 

枡形を下り、突き当たりの県道260号(旧国道)を左折する。 分岐点に「↑上松宿 上町250m JR中央本線上松駅200m→」がある。 
広小路交叉点を右折するとJR中央線上松駅がある。 
中山道は直進である。 

上町の町並
     玉林寺の鐘楼門      一里塚碑
上町の町並
玉林寺の鐘楼門
一里塚碑





倉本集落

上松駅入口を過ぎ、歩道が見えてきたら、下町交叉点 (清水商店の手前)で左折して細い道に入るのが中山道。  階段の道を上がると坂の上の道に出るので右折する。 階段に「←中山道→」がある。 
分岐点向かいの斜面に大乗妙典塔が祀られている。 上松小学校の斜面に斎藤茂吉の 歌碑「 駒ヶ嶽見て そめけるを背後にし 小さな汽車は 峡に入りゆく 」 がある。 
上松小学校の正門に入ると右側に島崎藤村の文学碑がある。 

 *   「 藤村文学碑は藤村が愛誦していた芭蕉の西落堂の記の一節 を自ら書いた、といわれる碑で  「 山は静かにして性をやしない、水は動いて情をなぐさむ 」と、刻まれている。 

斎藤茂吉文学碑
     島崎藤村文学碑      文学碑案内板
斎藤茂吉歌碑
島崎藤村文学碑
文学碑案内板


小学校の前を進むと左側の斜面(グランドの道脇)に「尾張藩上松村材木役所御 陣屋跡」の石柱が立っている。

 *   「 上松は木曾五木の産地で、江戸時代に尾張藩の領地になり、 寛文三年(1673)から四年かけて木曽総山の検見を行った。 その結果、山林の大半が 伐採され、荒廃していることに驚き、山村代官から山に関する一切の業務を取り上げ、 寛文五年(1665)、この地に木曽山林の管理、保護、取締り等を行う藩直属の材木役所 陣屋を設け、木曾五木は山林奉行の厳しい監視下に置かれた。 木曽谷の人々の 苦しさはこの時始まったといわれます。 
材木役所は南北百十八メートル、東西百メートル、敷地面積は一万u強あって、 その中に、奉行所、奥長屋などがあり、「上松の御陣屋」とも呼ばれたが、明治に入り、 廃藩置県により廃止された。 」 

その跡の一部が上松小学校になっている。 その先に諏訪神社の鳥居があり、 そこを登って行くと、学校のグランド、その奥の正面に上松の鎮守社の諏訪神社、 左側に五社神社がある。 

 *   「 五社神社の祭神は御嶽大明神、熱田大神宮、天照皇大神宮。 三島大明神、水天宮で、江戸時代には中山道沿いに建っていた材木役所 の中庭にあったが、明治四年、役所が廃止された時、諏訪神社境内に移されたもので ある。 天明年間に、時の材木奉行が木曽山川の安全と働く人々の事故無しを願って 建立したもので、木材役所の名残りといえるものである。 」   

材木役所御陣屋跡
     諏訪神社      五社神社
材木役所御陣屋跡
(左)五社神社(正面)諏訪神社
五社神社


上松小学校を過ぎると左側に笠付道祖神がある。 下り坂を進むと県道266号(萩原 小川線)に突き当たるので左折する。 ここには「←JR上松駅0.9km 寝覚の床1.2km →」がある。 すぐ先の中沢橋を渡り、見帰(みかり)集落(旧三帰村)に入ると  出桁造りの民家が点々と姿を見せる。 その先で国道19号を跨道橋で越え、上りかげん の道を進むと寝覚集落に入る。 街道の左側に背の高い杉が現れるとその下に常夜燈、 その奥に石仏、石塔群がある。 
更に進むと中山道ねざめのバス停があり、その角に レトロなポストが立っている。 ここが名勝寝覚の床の入口である。 
道の右側に古色を帯びた民宿たせやと越前屋旅館が並んで建っている。 

 *   「  手前の多瀬屋(立場茶屋・たせや)は現在は民宿を営んで いるが、三百年続く老舗で江戸時代は茶屋本陣を勤め、上段の間を残している。 
  向かいの越前屋は国内で三番目に古い蕎麦屋といわれ、江戸時代には旅籠も兼ねて いた。 昭和四十一年まではここで営業していたが、国道19号沿いに移転して蕎麦のみ の営業である。 」 

旅館だった旧越前屋の建物は変わった形のガラス出窓など、大変風情のあるもの である。また、民宿 たせや の脇に積まれた薪と白い障子窓のコントラストも絶妙 であり、家前に立つ赤いポストは時代を感じさせてくれた。 

中山道はまっすぐ行くのだが、昼飯と寝覚の床を見るため、寄り道をすることにした。 たせやと越前屋の間の小道を下って行く。  この道は江戸時代、中山道から臨川寺へ の参道として作られたもの。 下っていくと国道の手前の右側に寿命そば 越前屋が あるので入って、昼食をとった。 

 *   「  越前家は寛永元年(1624)の創業の名物長寿命(そば 切り)の老舗で、芭蕉や十返舎一九そして島崎藤村も賞味している。 
寿命そばとはこの店が付けた商品名で、寝覚そばとともに商標登録をしている。 」 

多瀬屋
     旧旅館越前屋      寿命そば越前家
多瀬屋
旧旅館越前屋
寿命そば越前家


創業三百年という老舗の蕎麦屋・越前屋は島崎藤村の小説「夜明け前」に出て くる。 

 *   「 (前略)  
木曽の寝覚で昼、とはよく言われる。 半蔵等のやうに福島から立ってきたものでも、 あるひは西から来たものでも、昼食の時を寝覚に送ろうとして道を急ぐことは、木曽路を 踏んで見るもののひとしく経験するところである。 そこに名物の蕎麦がある。 
春とは言ひながら石を載せた板屋根に残った雪、街道の側み繋いである駄馬、壁を 泄れる煙 − 寝覚の蕎麦屋あたりもまだ冬籠りの状態から完全に抜けきらないやう に見えてゐた。 半蔵は福島の立ち方がおそかったから、そこへ着いて足を休めやうと 思ふ頃には、そろそろ食事を終って出発するやうな伊勢参宮の講中もある。 黒の 半合羽を着たまま奥の方に腰掛け、膳を前にして、供の男を相手にしきりに箸を動か してゐる客もいる。 その人が中津川の半蔵だった。  (以下 略)」(原文のまま) と、この蕎麦屋を書いている。 

十返舎一九は「 木曾街道膝栗毛」 の中で、五色 「 そばは白く、薬味は青く、 いれものは赤いせいろに黄なる黒もじ 」 と書いていて、街道筋は勿論、江戸でも 有名な蕎麦屋だったのである。 小生はもり二枚千円を注文したが、入れ物は十返舎 一九が書いた「赤いせいろ」に入っていた。 地元産の粉を使い、石臼で引いたもの を使用していた。 寝覚の床で目を癒し、越前屋で腹を満たして、旅人の疲れをいや した光景が今でもここにある、と思った。 
腹を満たし、寝覚の床を見学する。 寝覚の床の入口には浦島伝説を伝える臨川寺がある。 

 *   「  臨川寺は正式には臨済宗妙心寺派の寝覺山臨川禅寺 である。 境内の一角に弁財天堂がある。 尾張藩徳川吉通が正徳元年(1771)に 立ち寄った折り、母堂の長寿を祈願して上松の役人に命じて建てさせたもので、 大工は名古屋から、石屋は高遠から連れてきた、といわれる。 翌年の正徳弐年の 完成したもので、この町で一番古い建築である。 」 

江戸時代のえちぜんや
     赤いせいろ      臨川寺弁財天堂
江戸時代のえちぜんや
赤いせいろ
臨川寺弁財天堂


境内には「明治天皇寝覺御小休所」の石碑がある。 巡行の時、しばしの休憩をお取り になったことを記念して建てられたものである。 
また、芭蕉の句碑や貝原益軒の歌碑がある。 

 *   「 芭蕉の句碑には「 飛流(ひる)顔に ひる寝しよもの 床の 山 」 と刻まれている。 
貝原益軒の歌碑には「 岩の松 ひびきは 波にたちかわり 旅の寝覚の 床ぞ さびしき 」 と刻まれていた。 」 

「浦島太郎旧跡」の碑があり太郎姿見の池がある。 

 *   「  竜宮城から戻った浦島太郎が旅に出て、その時通りかかり、 ここが気に入って毎日釣りを楽しんでいた。 玉手箱を開けてしまい、白髪の老人に なった時、太郎が己の姿を写し見た池である。  」 

ここには浦島太郎の伝説が残っていて、浦島太郎の釣り竿や硯などの遺品を収蔵した 宝物館がある。 
展望台からは、眼下に列車の線路が見え、その先に寝覚の床が展望できた。  なお、 寝覚の床をじっくり見学するには、小道を下りて行く必要がある。 

 *   「 寝覚の床は古くより奇勝と知られている木曽路の名所。  木曽八景の一つで、大正十三年(1923)に史跡名勝天然記念物に 指定された。  木曽八景・寝覚の夜雨として有名なので、多くの文人や画家などの 著名人も訪れているところで、昔は中山道を歩く旅人の憩いの場として、現在は 観光スポットとしてにぎわいを見せている。 約一・五キロにわたり、象岩や烏帽子 岩といった岩が連なり、エメラルドグリーンの水と白い岩、それに周囲の山の緑が 見事に調和する。 木曽川の源流が長い時間をかけて作り上げた、一種の芸術品で ある。 

明治天皇石碑
     浦島太郎姿見の池      寝覚の床
明治天皇石碑
浦島太郎姿見の池
寝覚の床


もとの道まで戻り、中山道をあるくと町で最も大きな桂(かつら)の木がそびえ立って いた。 このあたりは上寝覚地区で、寝覚め簡易郵便局の前で左の道に入る。 
二百メートルくらいで、中学校があり、中学前を真直ぐすすむと石畳みの道がある。  この道は二十メートルもない短い石畳みである。 県道に出たら左に下りていく。 
すると左右の景観の良い滑川(なめりかわ)橋前に出る。 「橋杭なく刎懸作り見事なり」 といわれた橋は今はコンクリート製である。 
橋を過ぎて下り坂をそのまま右方向に進み、中央本線のガードをくぐる。 その直後に 左に進み、民家の庭先の草の繁った道を左にトコトコ下ると国道にでるが、そこに 小野の滝の駐車場があり、奥に小野の滝が見える。 

 *  説明板 「小野の滝」  
「 広重・英泉の合作である中山道六十九次の浮世絵に描かれている上松はこの 小野の滝の絵です。 明治四十二年、鉄道の鉄橋が真上に築かれ、残念ながら往年の 面影はなくなりました。 かってここを旅した細川幽斉は「老の木曽越」の中で 「木曽路の小野の滝は布引や蓑面の滝にもをさをおとらじ。 これほどの者をこの国の 歌枕には、いかにもらしける。」と、手放しで誉めています。 
また、 「 浅井渕はこの地を訪れて ふきおろす松の嵐も音たえて あたりすずしき 小野のたきつせ 」 と、歌を詠んでいます。 今も上松の旧蹟にかわり ありません。 」 

小野の滝は木曽八景の一つ「小野の瀑布」で、木曽路を歩いた旅人はかならず 立ち寄ったといわれる名所である。  線路が上を通るようになったため、景観が悪くなってしまった。 それでも、 水量はまあまあ、高さがけっこうあるので、見ていてよいなあと思えるものである。  

 *  「 太田南畝は壬戌紀行に「小野の滝の左に茶屋があり、障子に 名物小野の滝そば切りと書けり」と著しているが、広重の絵にも滝の下に石置き屋根の 茶屋が描かれている。 」 

滑川橋道標
     小野の滝      小野の滝
滑川橋
小野の滝
小野の滝


滝の手前の岩上に祠があり、滝不動が祀られている。 滝に打たれる滝行者の 安全を見守っていた。 祠の前に文政四年(1821)建立の常夜燈がある。 
ここから七百メートル程は国道を歩く。 左側の擁璧に沿って左斜めの道に入ると、 右側に大きなエノキと楓の合体木があり、その根元に一里塚之跡の標石 がある。 荻原(おぎはら)の一里塚跡で、「京へ六十四里、江戸から七十三里」と刻まれている。  江戸時代、荻原は間の宿でした。 数軒続く集落の中の左側に文化四年(1807) 建立の廿三夜塔と南妙法蓮華経題目碑が立っている。 
集落は短くすぐに国道に合流。 荻原沢を橋で渡るとすぐ左に「木曽古道」の標識があり、「倉本駅2.3km」の標識が ある。 そこから二百メートル程で国道と分かれ、左に入る。 旧串ヶ下村で、すぐに JRの串ヶ下ガードをくぐり、突き当たりを右折して線路に沿って歩く。 高台なので、 見晴しはよく、JR中央本線、国道、木曽川が眼下にある。 
下り坂を下り、数軒ある宮戸集落の庭先を抜けると右下に下河原運動場広場や材木の 集積所が見えてくる。 下り切ると神明社で、JRのガードをくぐり国道に出る。 
すぐに国道の左の道に入り、線路沿いに進む。 用水路のある道だが、すぐに国道に ぶつかる。 国道を横断して直進するが、国道を渡った歩道橋の下に「明治天皇立町 小休所址」の石柱が立っている。 
立町集落に入ると家々に屋号が掲げられている。 江戸時代には、立町立場茶屋があった ところで、広い庭を持った木曽林業振興組合の施設の一角には、「明治天皇御膳水」という 石碑があった。 立場跡の風情を残した静かな町並で、集落のはずれには吊り橋が架けられて いる。 わらわら揺れる、その足下は木曽川の流れである。 
右手に吊り橋を見て国道に合流。 数百メートルいくと左側に中央本線の倉本駅がある。 
福島宿から須原宿までは八時間程かかるので、倉本駅までで区切りにするのも良い だろう。 
ここまで六時間半で、寝覚の床で遊ぶと良い時間になる。 

滝不動と常夜燈
     廿三夜と題目碑      明治天皇御膳水碑
滝不動と常夜燈
廿三夜と題目碑
明治天皇御膳水碑



(所要時間) 
宮ノ越宿→(1時間20分)→中山道の真ん中の標柱→(40分)→手習天神→ (1時間10分)→福島宿→(1時間)→御嶽遙拝所
→(1時間)→木曽の桟→(1時間)→上松宿→(45分)→寝覚の床→(1時間)→小野の滝→(1時間20分)→倉本駅 


福島宿   長野県福島町関町・本町  JR中央本線木曽福島駅下車。 
上松宿  長野県上松町上町  JR中央本線上松駅下車。    



(19)須原宿・野尻宿・三留野宿                            旅の目次に戻る



かうんたぁ。