『 中山道を歩く  (12) - 岩村田宿・塩名田宿・八幡宿・望月宿  』





(22)岩村田宿

穏やかにカーブする道を進むと左側に火の見櫓があり、小田井下宿のバス停が ある。 
右側に白山比盗_社があるがその先の信号交叉点を越すと右側の草叢に馬頭観世音像、 馬頭観世音文字塔等五基が並んでいた。 
小田井南交叉点で右からの県道9号(佐久軽井沢線)と合流する。 ここは京方面からの 分岐ポイントで、「←岩村田を経て塩名田8.7km 追分6.6km→」の道標が立っている。 
少し歩くと、名残りの松がある。 このあたりは江戸時代、名勝 皎月原と呼ばれた ところである
広重の木曽海道六十九次之内小田井宿は遠景に浅間山、手前に皎月原、そして順礼三 人、しして勧進僧を描いている。 

火の見櫓
     馬頭観世音像等      名残りの松
火の見櫓(京側から写す)
馬頭観世音像等
名残りの松


大きな松の先の左側に皎月原緑化センターがあり、ガソリンスタンドと道を隔てた右側 緑地に、皎月原(こうげつはら)の説明板が立っている。 

 * 説明板「名勝 皎月原」  
「 皎月原は旧中山道沿い、小田井宿と岩村田宿の中間、小田井宿よりの草原で、 古くから指定地に関する古記録や伝説があって、中山道に於ける著名な名勝として 知られている。伝説によれば用明天皇(586年)皎月という官女が、おとがめを受けて 佐久郡の平尾へ流されてきた。いつも白馬を愛していた官女はある時、小田井の原へ 馬を引き出して乗りまわしていた。ところが天の竜馬だった白馬は、空へ駆け上がり、 東西南北をかけまわった後、平尾山の頂上に立ちどまった。そこで官女は「 吾は唯人 ではない。白山大権現だ 」 と云って光を放って岩の中に入ってしまった。その後、 官女は白山大権現と云うようになり、時々小田井の原へ来て馬の輪乗りをし、其の跡に は草が生えなかったので、其処を皎月の輪と呼ぶ様になったと伝えられている。 
只「村上家伝」の村上基国の伝記には全くの異説が残っている。 
 平成二年十月一日  佐久市教育委員会  」 

なお、江戸時代の木曽路名所図の皎月原には、 「 右に明神の馬に乗玉ふ馬場とて、に輪騎の跡あり。 左に明神の杜有 」 と書かれて いる。 
このあたりは官馬の牧であったので、このような話が生まれたのではないだろうか? 
説明板の奥に皎月歌碑がある。 

 * 説明板「旧跡 皎月歌碑」  
「 享保七年(1723)小諸藩の馬術師範で皎月原で押兼流馬術を習得 したと伝えられる押兼団衛門長常という人が当時の小田井本陣主安川圧右衛門に送った 文書「夢想皎月記」の中に見られる。 この古歌を昭和十年当時の御代田村が 浅井洌氏に揮毫を依頼して建立したのがこの歌碑である。 
 昭和四十二年七月二十五日  佐久市教育委員会  」 

皎月原バス停を過ぎると左側に風化が進んだ馬頭観世音文字塔がある。 
北陸新幹線の上を通ると千曲バスの横寝入口バス停の先の交叉点に出る。  右側はショッピングモールなどがある地区。 交叉点の先の右手に文教堂がある。  その下の中山道に「←小田井を経て追分7.4km 岩村田を経て 塩名田へ7.9km」の中部北陸自然歩道の道標があり、道標に一里塚案内標識が付けられ ている。 道の左側の林の中に鵜縄沢端(うなざわはし)一里塚の説明板が立って いる。 

 * 説明板「旧跡 鵜縄沢端一里塚」  
「 この一里塚は慶長年間(1596〜1614)の中山道開通の当初に設置されたものである。 その後道路改修によって街道からはづれてしまったが、両塚の間の道路は中山道の旧い 道筋を示すもので貴重なものである。 
 平成二年三月三十一日  佐久市教育委員会  」 

、 説明板の前から延びる小道を雑草を掻き分け登っていくと、右側の盛り上がったような 土の出ているのが一里塚で、東側の塚だけが残っている。 T字交差点角からかすかに 旧道の跡を見ることができた。 

名勝皎月原
     皎月歌碑      鵜縄沢端一里塚
名勝皎月原
皎月歌碑
鵜縄沢端一里塚


食肉センター入口交叉点を過ぎると、左側に浅間リンゴ園があり、振り返り浅間山に 別れを告げる。 
上信越自動車道を岩村田橋で通る。   このあたりは、十年ほど前まで家もなく寂しいところだったが、様相が一変していた。  新幹線の佐久平駅の誕生により、 人口が増大し、小田井町や岩村田町などが合併し、佐久市が誕生し、上信越自動車道の ジャンクショーンの周りに家具のコヤマやしまむら、上州屋といた大型店が建ち並んぶ カントリーロードに変貌している。 
道は西南に進み 佐久IC東交叉点を越す。 東側の佐久インター東バス停に風化した馬頭観世音像が祀られて いる。 
次いで左側の住吉神社前バス停の所に千手観世音や馬頭観世音の石塔、 石仏が多数祀られている。 
左側の道の上に墓地があり、道は左にカーブすると左の段上に住吉神社がある。 
かってこのあたりは枡形が隣接していたといわれ、岩村田宿の江戸(東)の入口である。 
岩村田宿は住吉神社から相生町交叉点までの九町三十間(約1000m)という短い宿場町で、 天保十四年(1843)の宿村大概帳によると宿内人口1637人、家数350軒、本陣なし、 脇本陣なし、旅籠8軒であった。 

 * 「 宿内人口は多かったが、内藤氏一万五千石の城下町でもあったため、 旅人は城下町の堅苦しさを嫌ったのか、本陣も脇本陣もなく、問屋が二軒のみで、 旅籠も八軒のみという少なさだった。 人口が多いのはこの地方の米の集合地であり、 経済の中心地になっていたので、商業の町として栄えていたからである。 」  

住吉神社はかっては広い敷地だったが、道路拡張で境内が狭くなってしまった。 
階段を上っていくと、樹齢四百年といわれる大ケヤキの下に道祖神がある。  左側は道祖神と書かれた石碑だったが、右側は双体道祖神像である。 
境内にはその他、享保元年(1735)を始め、十九夜塔、摩利支天尊等、多くの石塔石仏 がしめ縄で囲まれていた。 

住吉神社
     道祖神      多くの石塔石仏
住吉神社
(左)道祖神塔(右)双体道祖神像
石塔石仏群


境内の隅に享保二十(1735)年の建立の善光寺道道標「従是善光寺道」がある。 
以前は善光寺道の追分に立っていたのだが、事故で破損したため修復された後、 ここに移され保存されている。 
街道を進むと右側のクリーニング店の前に善光寺道追分道標があるが、これは平成六年に 複製を設置したものである。 この道を右折すると小諸で、追分分去れで別れた北国 街道と再会する。 
少し歩くと住吉町交叉点の先の左手に龍雲寺がある。 岩村田宿には本陣や脇本陣が ないため、諸大名の休息所にもなった。 

 *  「 龍雲寺は大田山龍雲寺といい、曹洞宗の寺院である。  鎌倉時代初めの正和元年(1312)、 地頭の大井美作入道玄慶による創建で大井氏の菩提寺(天台宗)だったが、戦火で荒廃し、 現在地に移った。 武田信玄が永禄三年(1560)、中興開基となり、北高全祝禅師を迎えて 興隆をはかったという寺である。 

「武田信玄公御墓所龍雲寺」 の大きな石柱があったので入っていくと、 正面に山門がある。 山門(惣門)には武田菱の紋があり、大田南畝が 書いた壬戌紀行に 「 右に一禅寺あり。 門に東山禅窟といふ額をかかぐ。 」 と ある額が掲げられていた。 武田信玄は京に上る際、必勝祈願の千人法幢を 元亀三年四月から七月にかけてこの寺で執行している。 

 * 説明板 「 茲二掲ゲタ額ハ、元亀三年に武田信玄公が当寺ニ於いて、 千人法幢を奉行セラレタル時、正親町天皇の勅書御下賜在ラセラレタル勅額也。  時之堂頭北高全祝禅師首座 甲州永昌院大益和尚 史跡北高禅師 
昭和八年二月十日  長野県   」 

なお、開山の北高全祝禅師は 越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄の禅の師として、民百姓の迷惑を思われ、両雄に 川中島で戦うよう図られたり、謙信公に塩を甲斐に送らせるよう指導した、と 伝えられる人物である。 」  

本堂と右側の建物を繋ぐ回廊に「信玄公霊場 」の木標が掲げられていたので、 その下をくぐると木立の中にでた。 昼でも薄暗い場所で、右側に大井公が茶道に使った という井戸がある。 更に進むと左側に五輪塔(供養塔)がある。 

 * 「 天正元年(1573)武田信玄が信州駒場で病死した際、遺命で喪を 秘し、北高禅師が遺骨を龍雲寺に持ち帰り、密かに埋葬されたと伝えられてきた。  昭和六年(1931)発掘調査が行われ、武田信玄の遺骨が発見された。 遺骨出土地に 五輪塔を建立、遺骨はその先の石橋を渡った霊廟に納められている。 」  

善光寺道道標
     山門      信玄供養塔
善光寺道道標
龍雲寺山門
信玄供養塔


岩村田交叉点を左折すると二百五十メートル先に王城公園がある。 ここは大井城跡 である。 文明十六年(1484)村上氏の攻撃により焼失し、大井氏は滅亡。 奥に長野県 指定天然記念物の大ケヤキがあり、樹下に氏神、道祖神、石尊山、不動尊、金毘羅等のが祀られている。 
岩村田交叉点を越えた右手に西念寺がある。 

  *  「 西念寺は浄土宗別格本山で、弘治元年(1555)に武田信玄が 開基した寺である。 本尊の阿弥陀如来坐像は藤原期(十二世紀末)のもので定朝様式の 寄木造りの四尺三寸(130cm)の堂々としたもので、県宝に指定されている。 小諸藩初代藩主仙石秀久の菩提寺になり、元禄十六年(1703)に内藤正友が岩村田藩を立藩 すると菩提寺になり、隆盛を極め、信濃浄土宗五ヶ寺の宗派頭となり、寛文年間 (1748〜51)に本堂、山門、楼門などの諸堂が再建、整備された。 」 

門前の道路の反対側には岩村田藩六代藩主・内藤正国の墓がある。 内藤正国は 天保の改革を行った水野忠邦の叔父で、三十歳の若さで亡くなった。 

  *  「 岩村田藩は天下の貧乏藩としても名高かった。 町民は豊かでも殿様は素寒貧であったのだ。 
文政八年(1825)藩主の内藤豊後守正縄が大阪城勤番を終えて、帰国の際、淀川産の鯉 を持ち帰り、藩財政の立ち直りに協力した野沢村の豪農、並木七左衛門に礼(土産)と して与えた。 並木氏はその鯉を育てたところ、千曲川の水が合ったのかすくすく育ち、 その名も高い佐久鯉の養殖の基礎となった。 今も町中には名物の鯉料理の店が多い。 」   

本堂脇に賎ガ岳七本槍で知られた仙石権兵衛秀久の墓がある。 
「 仙石秀久は小田原征伐で武功をあげ、関ヶ原では秀忠に仕え、秀吉、家康、秀忠に 信頼され、小諸藩の初代藩主となり、慶長十九年に没している。 」 

境内には、左に藤棚、右側には菖蒲などが植えられている。 また、徳本上人の 念仏碑もある。 

西念寺山門
     仙石秀久の墓      徳本上人の念仏碑
西念寺山門
仙石秀久の墓
徳本上人念仏碑


中山道は岩村田の中心街を通る。 本町や相生町はアーケードのある商店街に なっていて、多くの店が軒を並べ、古い家はなかったが、右の小道には古そうな家 がある。 

  * 「 平安時代〜鎌倉時代には、信濃のほとんどが天皇家一族や 寺社領であり、岩村田は八条院高倉の所領の一つの大井庄の中心地であった。  その後、信濃国守護・小笠原長清の息子、朝光が大井庄に入り、大井氏と名を変え、 この地を支配した。 戦国時代は、更埴を本拠にして村上氏、そして武田氏の支配下 に入る。  江戸時代になると、当初は小諸藩の領地だったが、その後、幕府直轄地 となり、元禄十六年(1703)、内藤正友が武州赤松より転封になるが、大坂常番に 転じた。 子の正敬が正徳元年に一万五千石で岩村田に再び入封し、陣屋を本町と 荒宿の中間に置いた。 岩村田藩の誕生である。 」  

中山道は相生町交叉点を直角に右折するが、岩村田城跡に寄るには左折である。 
岩村田城跡へは交叉点から二百メートル先の鼻顔稲荷前交叉点 を右折し、岩村田小学校を目指すとその手前の招魂社あたりが城跡である。 

 * 説明板 「上の城址」  
「 1 元和元年(1860)内藤氏築城したが、廃藩置県により取りこわさせる。 
 2 招魂社 明治3年10月建立   
 3 岩村田小学校 昭和47年建設   
 4 城址東南に天然記念物「光こけ」あり 
  佐久市・佐久市観光協会   」 

坂道を登りきったところが上ノ城址で、小さな石祠と石碑があり、 そこからは岩村田全体が見下ろせ、正面には浅間山の姿が見えた。 

 * 「 岩村田藩七代目の内藤正縄は老中になった水野忠邦の弟で、 六代藩主、正国の養子となり、大番頭や伏見奉行を歴任して城主格となった。  それまでの陣屋を廃して、この地に築城を計画、元治元年(1864)、八代正誠の時に、 築城許可が下り、文久元年に上ノ城(岩村田城)の築城を始めたが、明治を迎え 未完に終わった。  」 

商店街
     招魂社      上ノ城跡
商店街
招魂社
上ノ城跡


中山道に戻り、相生町交叉点を右折する。 中山道は県道44号で西に進むが、 分岐点には「←小田井を経て追分9.9km  塩名田5.4km→」の道標がある。 
小海線を越えると三叉路に「若宮八幡大神」の 標柱があるので、左の道に入ると左側にこんもりとした森があり、入っていくと 郷社若宮八幡社、本殿の左側の囲いの石柱を見ると 「 三峰山講、天保十五年甲辰 」 とあり、江戸時代からこの集落の鎮守であったようである。 

  * 「 若宮八幡神社は建仁二年(1202)、この地を治めた大井氏が 鎌倉鶴ヶ岡八幡宮を勧請し創建された神社で、岩村田、平塚の氏神である。  本殿隣に鳥居があり、その奥には「御嶽山座主大権現」と刻まれた石碑を中心に、 左右に覚元霊神、磨利支天、八溝山神などの石碑が祀られていた。  又、鳥居の脇にはこれだけ大きな庚申塔があった。 その他にも馬頭観世音碑や 裏には小さな石祠などが林立している。  境内の常夜燈は寛政八年(1799)の建立で、 下仁田追分にあったものが移されている。 」  

街道に戻ると御嶽神社がある。 境内に甲子大黒天、不動尊、保倉神社、妙見尊、 庚申、月神尊(二十三夜講)等の石塔と石祠がある。 
右側の岩村田高校を過ぎ、左側の浅間総合病院を左に回ると、正面に相生の松がある。 江戸時代に発行された旅行案内にはかならず載っていたというほど有名な相生の松である。   

  * 「 皇女和宮が東下の折、野点(のだて)をしたという相生松で、男 松と女松が結びついた縁起のよい松の三代目である。 」  

傍らに文化年中(1804〜18)に建てられた歌碑があり、 「 其むかし 業平あそんの尋ねけん おとこ女の松の千とせを 」 という歌が と変体仮名で彫られている。 
ここには「←追分11.0km 塩名田4.3q→」の道標 があるので、江戸方面からは右折、京からは左折する。 
ここで岩村田宿は終わる。 

若宮八幡神社
     御嶽神社      相生の松
若宮八幡神社
御嶽神社
相生の松





(23)塩名田宿

相生の松を過ぎると幸楽苑の手前に相生町集会所がある。 裏に招徳稲生大明神が 祀られている。 境内に十九夜、道祖神、嘉永五年(1852)建立の二十三夜塔がある。 
国道141号の浅間病院西交叉点を横断すると右側に砂田用水改修記念碑があり、 奥に水神大神が祀られている。 
集落のはずれの右側の民家に天保九年(1838)建立の道祖神塔が祀られている。  集落を抜けると道の両側はリンゴ園と田圃で、のどかな田園風景が続く。  右手にイオンモールが見える。 交叉点を右折するとJRの佐久平駅まで一キロ程の 距離。 信号交叉点の手前に「←塩名田3.6q 追分11.7q」の中部北陸自然歩道の道標 が立っている。 
浅間山の酸化鉄で濁る濁川に架かる砂田橋を渡り、平塚集落に入る。  この辺りに平塚一里塚があったはずだがその場所は分らなかった。 栄泉の木曽海道 六十九次の岩村田は一里塚を背景に座頭同志の喧嘩を描いている。 
平塚集落には新しい家が多いが古い家もあった。 平塚という地名であるが、塚の地名 が多いのはこの地が古いことを示している。 塚は豪族の墓であることが多く、牧を 守る人々が古い時代から住み着いていた証拠であろう。 その塚の一つに荏山稲荷が 祀られている。 

  * 「 道の右手奥の塚の上に荏山稲荷神社があり、拝殿に「保食神」の額が ある。 参道階段脇に 芭蕉の 「 野に横に 馬引きむけよ 郭公(ほととぎす) 」 の句碑がある。 これは 芭蕉が天保二年(1689)奥の細道で那須ヶ原で詠んだ句である。 」  

中部横断道路をくぐるとやがて街道の正面に深い木立が現れ、左側の草地に 百万遍供養塔がある。 
三叉路には中部北陸自然歩道の「←追分13.1km 塩名田2.2q→」道標がある。 

平塚集落
     百万遍供養塔      中北道標
平塚集落
百万遍供養塔
中北道標


古い墓地の前を通り過ぎる。 三叉路で右の道を行くと 右側に「佐久市塚原根々井塚原」の住所表示があり、その奥に諏訪神社がある。 シーソーが置かれているところを見ると、地域の公園になっているのだろう。 
参道階段の脇に男女双体道祖神が二つ祀られている。 社殿の奥には多くの石塔がある。 
  このあたりは裕福な地帯なのか、門構えの立派な古い家が目立つ。 
右側に如意輪大士碑がある。 月待講の信仰の対象である。 畑の中に交叉点があり、 右側の浅間山溶岩の上に、青面金剛像庚申塔と御嶽山碑が建っている。 

  * 「 大田南畝が享和弐年(1802)、大阪からの帰路、ここを通過した 印象を「 すべて田の中。 ところどころに塚のごときものあり、ここを平塚原村といふ。 立場なり。 」 と、記しているが今も変りはなく、左手の畑の中に点々と小山、 塚のようなものが散在する。 」 

諏訪神社
     男女双体道祖神      青面金剛像庚申塔
諏訪神社
男女双体道祖神
青面金剛像庚申塔等


ここからは北に浅間山、南に八ヶ岳が眺望できる。 
その先の交叉点で県道154号が合流、交叉点を横断する下塚原集落で、左側の介護老人保健施設シルバーボードつかばらの裏 に真言宗智山派の名覚山妙楽寺がある。 貞観八年(855)の古刹で、信濃五山の一つで 修行僧の学問寺であった。 
その先の三叉路に旧中山道の道標があり、「←岩村田宿3.4km 塩名田宿1.0km→」と あるので、県道と分かれ、左側の下塚原旧道に入る。 
坂を下っていくと森が見えてきて、道の右側に「駒形神社」の木柱と「重要文化財」 と刻まれた石柱が建っているので、県道を横断して入って行く。  谷を形成している濁川用水を渡り、じめじめした 階段を上ると、左奥に駒形神社の鞘堂がある。 傍らに以下の説明板があった。 

  * 説明文 「 駒形神社の創立については記録に乏しく明らかでは ないが、この地方はいわゆる信濃牧の地であり、祭神には騎乗の男女二神像を安置 しているので、牧に関連した神社と推定されている。  昭和二十四年五月三十日国宝 保存法により国宝に指定を受けたが、文化財保護法の施行により現在は重要文化財に 指定されている。 
再建は文明十八年(1486)と伝えられているが、形式手法からみてもその頃の 建物と考えらえている。 その後の沿革については棟札により、寛永十一年、延宝四年、 元禄十二年、宝永元年および寛保二年にそれぞれ修理、宝暦八年および安永七年に 屋根葺替、寛政四年に再び修理、ついで寛政十年、文政八年および万延元年に それぞれ屋根葺替が行われたことが知られる。 
構造形式  一間社流れ造り  とち葺き(こけら葺が保存修理により改められた)   
規模  (記述省略)      
本殿の腐朽、弛緩が著しくなり、文化財保存上修理を施す必要を生じ、昭和四十三年十月 一日工事に着手し、工期十二ヶ月を経て昭和四十四年九月三十日工事を完了した。総工費 六百四拾萬円。 
 昭和四十七年三月一日 佐久市教育委員会  文化庁  」 

本殿は鞘堂に覆われているので外からは見えないが、文明十八年(1486)の建築で、 痛みが激しかったので、昭和四十四年(1969)、国費で大修理が行われたということが、 説明文から分かったが、周囲はじめじめした環境なので維持が大変なのだろう。 

 * 「木曾路名所図会」には 「 ここの民何某といふ者、駒の形ある石を夢に見し事ひと夜ふた夜に及ぶ。 その頃、 大石畑といふ地より駒の形つきたる石を地より掘り出だしたり。 人々これに感じて 年々花見月の中の七日をもって祭る。 今は社(やしろ)を建てて、駒形明神として 崇め祭っている。 」 と紹介されている。 」  
また、源頼朝が騎馬のまま拝礼をせず当社の前を通ったところ、落馬したという話が 残っている。 岩村田宿からここまで一時間半程の行程であった。 

浅間山遠望
     駒形神社入口      駒形神社鞘堂
浅間山遠望
駒形神社入口
駒形神社鞘堂


駒形神社の前は県道である。 県道をしばらく進むと変則五又路の 塩名田交叉点に着く。 ここは塩名田宿の江戸(東)の入口で、江戸時代には枡形に なっていた。 
ここに「←笠取峠15.3q 追分15.3q→」の中北道標があり、その横に「中山道 塩名田宿」の標柱と道祖神碑が建っている。 
なお、手前の右側の道に入ると塩名田神社がある。 

  *  「 寛文十三年(1673)、塩名田鎮護として山王権現社が創建 されました。 境内には御嶽山座主大権現碑等があります。 」 

千曲川の岸近くに開けた塩名田宿は、千曲川越えの主要な宿場として繁盛した。  宿場の長さは四町二十八間(500mほど)で、中宿、下宿、河原宿の三宿と加宿御馬寄村 で構成されていました。  天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、 宿内人口574人、家数116軒、本陣が2軒、、脇本陣は1、問屋1、旅籠は7軒と ある。 

  *  「 千曲川が増水すると川留めが行われ、滞在が延びるので、 本陣が2軒設けられたようである。 次の八幡宿との距離は中山道最短でもあり、 普段は宿泊客が少ないが、川留めになると賑わったという宿場である。 
合併前は浅科村であったが現在は佐久市塩名田である。 」  

交叉点で他の県道が 合流したこともあり、交通量は急に増えるが、古い家並みもかなり残っている。  家屋には往時の屋号札が掲げられている。 
歩いて行くと左側に佐久鯉と書き、鯉の絵の看板のある店がある。   佐久鯉とは観賞用の鯉と思っていてそうした鯉を販売するところと思っていたが、 鯉のあらいとあり、持ち帰り用に裁いてくれるようすである。  土地では鯉料理を 気軽に食べているということか? 

塩名田宿東枡形跡
     塩名田の町並      佐久鯉の店
塩名田宿東枡形跡
塩名田の町並
佐久鯉の店


宿の中央、塩名田交叉点から二百メートルの交叉点の手前、左側に スパーの大井屋があるが、「本陣丸山善兵衛」の木札が掲げられている。 

  * 「 丸山善兵衛は延宝年間(1673〜81)から本陣を勤め、建坪百七十 坪、門構え玄関付でした。 」  

本陣向かいの旧屋号丸山煙草屋の前に中津村道路元標がある。  交叉点の先、右側の生垣に囲まれた家は元本陣の丸山家である。 

  * 「 丸山新左衛門は問屋を兼ねていました。  建物は宝暦六年(1756)の再建で、本棟造り切り妻で鬼瓦に 丸山の文字がある。 建坪は百二十九坪で、門構え玄関付でした。  丸山家には慶長七年(1602)六月二日付で、大久保長安、 伊奈忠次らが「塩灘太宿(塩名田宿)」 へ宛てた 「伝馬の定書」 といわれる古文書や 天明三年(1783)七月八日に起きた浅間山の大噴火の様子が描かれた絵図が残されている という。 」  

隣に高札場がある。 往時は街道の中央に用水が西から東に流れていて、高札場は この用水路を跨いで立っていた。 
その先の左側に坂越(さこし)佐藤家住宅がある。 宿内で最古の町家である。 
その隣は旧屋号大和屋蔵元である。 堂々とした卯建を掲げた白漆喰の建物である。  隣がえび屋豆腐店で、江戸時代末期の建築である。 この辺りの町家は街道に対し、 斜交して建てられている。 

丸山本陣跡
     坂越佐藤家住宅      大和屋とえび屋豆腐店
高札場跡と丸山本陣跡
坂越佐藤家住宅
(左)大和屋(右)えび屋豆腐店


道は浅科局の先で、左にカーブし、千曲川に突き当たるが、手前で斜め右の下り坂に 入る。 ここが川原宿の入口である。 この分岐点には「↓塩名宿0.4km 笠取峠14.9km→」 の中北道標がある。 
坂を下ると左側に東屋があり、奥の根元から清水が湧き出している。 

  * 「 ここは滝明神 社の境内で、江戸時代の旅人の喉を潤した滝の水と呼ばれたものである。  天保十年(1839)建立の十九夜塔や明治四十年(1907)建立の道祖神がある。 」  

清水に因む滝通りを進むと千曲川に突きあたる。 ここには中北道標「←階段を 上がり橋を渡る 塩名田宿0.5km↓」 がある。 
右側の川魚料理店竹廼家(たけのこや)を始め何軒かの川魚料理店があった。 
塩名宿はここで終わる。 

安藤広重の木曽海道六十九次塩名宿は塩名宿側からの千曲川舟渡し場の風景を 描いている。 舟人足は寒さ防止の綿入れのちゃんちゃんこと筵を羽織っている。  藁葺き小屋の中に控えの舟人足が一服しながら暖をとっている。 
現在、千曲川を渡るためには中津川橋が架かっているが、江戸時代には徒歩渡し、 舟渡しと橋渡しと三つの方法で渡ったという。 
太田南畝の「壬戌紀行」に 「 千曲川ながる 河原ひろし 大橋小橋をわたりゆく 」 と あり、太田南畝が訪れた時は橋をいくつか架けて渡していたようである。 
明治時代に入ると九艘のをつなぎ、その上に板を渡した船橋が架橋された。 
その時使用されたのが舟つなぎ石である。  舟をつないだ石は川原に下りていけば見ることができるが、中津川橋を わたるとき川を見ると上からも見ることができる。  
塩名田宿はここで終わる。 

滝通り
     竹廼家      舟つなぎ石
滝通り
川魚料理店竹廼家
舟つなぎ石


対岸の御馬寄の公園にある説明板「舟つなぎ石」を下記する。 

  * 説明板「舟つなぎ石」 
「 塩名田と御馬寄の間を千曲川が流れている。 いまは頑丈な中津橋が架け られているから、これを渡るのになんの支障もないが、江戸時代には、これを 渡るのはたいへんなことだった。橋を架けても、洪水でじきに流されてしまっ たからである。 しかもここは、江戸時代の主要街道の一つである中山道だった ため、橋が流されたからといって、いつまでも放置しておくわけにいかな かった。 このため地元の塩名田宿・御馬寄村をはじめとして、この地方の 人々は、渡川を確保するために大変な苦労をしなければならなかった。 
木内寛先生の「中山道千曲川往還橋」という論文によれば、その橋には次の ような変遷があった。 
享保五年(1721)までは御馬寄側が投げ渡した橋、塩名田側が平橋(両岸から中州 へ架橋)。享保六年(1721)から寛保二年(1743)は御馬寄側が刎橋、塩名田側が 平橋。寛保三年(1744)から寛延二年(1750)までは舟渡し、寛延三年(1751)から 享和二年(1803)までは御馬寄側が刎橋、塩名田側が平橋。 
このように江戸時代をつうじて、たびたび架橋方式が 変ったのは、千曲川が近郷無類の荒川であり、二、三年に一回以上の割合で 橋が流されたからである。 幕府が崩壊し、明治時代になると、それまで 百三十村による「中山道塩名田宿・御馬寄村の間千曲川橋組合」での維持、 管理方式が続けることができなくなってしまった。 そこでつくられたのが 船橋会社で、この会社によって、明治六年(1873) に船橋(九隻の舟をつないで、その上に板をかえわたして橋にしたもの)が 架けられ、渡川が確保されたのである。  
舟つなぎ石はその船橋の舟をつなぎとめたもので、 だから上部に穴があけられているのである。 その後、明治二十五年に県に よって木橋が架けられ、船橋の役割は終わった。 
こうした歴史を今に伝えているのが舟つなぎ石なのである。      浅科村教育委員会  」  



(24)八幡宿

中北道標に従い、階段を上がり、赤い橋の隣の歩行橋を渡る。 振り返ると 塩名田の家並が見えた。 また、千曲川には点々とつなぎ石が見えた。 
橋を渡り終えたところの民家から河岸まで中山道が残っている。 
河岸は公園になっていて、「舟つなぎ石」の説明板(前述)と長野県佐久建設事務所の 「中津橋歩道橋事業概要」の案内板が建っている。 

  * 長野県佐久建設事務所の「中津橋歩道橋事業概要」の 説明板には、 「 歩道橋の建設に三年、事業費に四億六千七百万円かかった。 」 とあり、 まさに立派な歩道橋である。 

塩名田宿の対岸、御馬寄(みうまよせ)は古代の官牧望月牧の貢馬を集めたと 伝えられるところである。 

  * 「 御馬寄は牧畜が盛んな頃に、この地に馬を集めたことから 名付けられた地名といい、江戸時代には千曲川西岸一帯の米の集散地であったので、 かなり賑わっていた。 一と六の付く日には米市が立ったというが、 その面影はない。 」 

ここから西に伸びているのは県道438号(下仁田浅科線)で、御馬寄バス停の 右手奥に浄土宗大圓寺がある。 

中津橋
     千曲川      浄土宗大圓寺
中津橋
千曲川
浄土宗大圓寺


御馬寄集落に入り上って行くと、その先の変則五差路に旧道が残って いる。 右側の日向酸素の看板の先を右に入るのが旧中山道で、入った右側の 民家の下の用水に名号碑がある。 その先右側の段上に多くの石仏石塔そして 元文元年(1735)建立の大日如来が祀られている。 その先のT字路は右に 進む。 右側の石垣の上に明和八年(1771)の極楽往生信仰の大日如来像が 祀られ、その傍に芭蕉の  「 涼しさや すぐに野松の 枝のなり 」 の句碑がある。 
その先で旧道は左側の県道に合流する。 京方面からは軽井沢西ドライ ビングスクールの先を左に入る。 
軽井沢西ドライビングスクールの道の反対に「中山道一里塚跡」の標柱が建って いる。 御馬寄の一里塚跡で、日本橋から四十四里目である。 
右手の奥に伊勢宮神社がある。 御神燈は安政五年(1858)の建立である。 
浅科支所前交叉点から平坦な道になる。 
左側に文化五年(1808)建立の「観世音菩薩」の文字塔があり、頭部に梵字が 刻まれている。 

御馬寄集落
     浅科支所前交叉点      観世音菩薩碑
御馬寄集落
浅科支所前交叉点(振り返って写す)
観世音菩薩碑


左側の駐車場の中に文政十一年(1828)建立の馬頭観音と生井大神がある。  道に背を向けているのは道が付け替えられたためである。  このあたり一帯は 布施との間で水争いをした五郎兵衛新田である。 

  * 「 市川五郎兵衛は上州(群馬県)の武士階級出身で、今から 三百七十年前、二十キロ先の水源から水を引き、荒野を豊かな田に変えた人物で ある。 

田圃に囲まれた緩やかな坂を下っていくと、右手奥に明徳二年(1391)創建の 曹洞宗八幡山常泉寺がある。 
中沢川に架かる橋を渡ると八幡神社前バス停の脇に「中山道八幡宿」の 標柱が立っている。 ここが八幡宿の江戸(東)側の入口である。 
安藤広重の木曽海道八幡宿の絵は、中沢川を手前に遠景に浅間山、板橋の川岸に 無数の杭が打ち込まれている。土砂の流出を防止するものである。 橋を渡る 人の先には藁ぶきの出茶屋が描かれている。 
八幡宿は対岸の塩名田宿から二十七町(約3km)、四十分ほどで、中山道で最も 短い距離の宿場であった。 これは千曲川の川留めに備えたもので、脇本陣が 四軒あった。 

  * 「 慶長七年(1602)中山道が開設された時、塩名田宿と 望月宿との間が悪路だったこと、千曲川の川留めに備えるため、近隣の村の 住居を移動させて作られた宿場である。   

八幡宿の江戸口には八幡神社が鎮座している。  八幡神社はその名が宿場の名前になった神社である。 

 *  「八幡神社由緒」  
「 八幡神社は貞観元年(859)、御牧の管理をしていた滋野貞秀により勧修 創建されたとされる。 望月城の城主望月氏の鬼門除けとして崇敬され、武士の 信仰が篤いかったといわれる。 御祭神は応神天皇、神功皇后、玉依姫命で ある。 
吾妻鏡に「 佐久八幡宮御前二十騎 」という記述があるのを見ても、武将の 崇敬の厚かったこと が分かる。 延徳三年(1491)の滋野光重の棟札に 「 建立始望月御牧中悉致 本意云々 」とあり、御牧七郷の総社であり、住民の総意で建立されたことが 窺える。 
」  

正面の鳥居をくぐると、天保十四年(1843)に建立された随身門がある。  随身門は三間一戸の楼門(楼造りの門で、二階建ての門のこと)で、門の両側に 武官神像の随身を置くものだが、なかなか堂々とした建物である。 
瑞垣門(みずがきもん)をくぐり境内に入る。 境内には道祖神碑が数基あった。 

八幡神社入口
     八幡神社随身門      道祖神碑
八幡神社入口
八幡神社随身門
道祖神碑が数基


そして、双体道祖神がある。 
奥に進むと、右側に八幡神社の本殿がある。 現在の建物は今から二百二十年 前の天明三年(1783)に建てられたもので、彫刻もしっかり施されていて、 なかなか立派な本殿と思った。 
正面の旧本殿、高良社は延徳三年(1491)望月城主滋野遠江守光重により建立 された。 

  * 「 この建物は建替える前の本殿で、現在は高良 (こうら)社の社殿になっている。  高良社の社殿は天保、嘉永、明治、昭和と、 四度にわたって営繕され、庇門手狭、木鼻の絵模様など室町時代の特徴が 現れていることから、国宝(後に重要文化財)の指定を受けている。 なお、 高良社の御祭神は武内宿弥(神名高良玉垂命)である。 」  

双体道祖神
     八幡神社本殿      高良社
双体道祖神
八幡神社本殿
高良社


街道に戻り歩いていく。 
八幡宿は七町二十五間(約820m)の長さに、 天保十四年(1853)の中山道宿村大概帳によると、家数が143軒、人口が719人、 本陣が1、脇本陣は4、問屋が2、旅籠が3軒であった。 
八幡宿は歩いて通るにはかなりの苦労がいる町である。 歩道が極端に狭く、 大型車が遠慮なく突っ走る。 
左側の養蚕用の小屋根がある家が問屋跡で、代々依田家が勤め、名主を兼ねて いた。  本陣はガソリンスタンド向かいの小松家が務めていたといい、建物は残って いないが、当時の門が残されている。 

  * 「 右側にある八幡宿本陣門は文化元年(1814)の建築 で、本陣は代々小松家が勤めた。 建坪百二十坪、門構え玄関付で敷地は かなり広いものである。 江戸降嫁の皇女和宮が十六日目に宿泊し、下賜された 品や貴重な資料が残っているという。 」  

本陣の前にある門構えの家は脇本陣跡で、代々依田家が勤め、問屋を兼ねて いた。 
八幡中町交叉点の先の左側に「南御牧村道路元標」がある。 街道(県道)を 進むと右側に「八幡邨」の碑がある。 八幡入口バス停の先から八幡西交叉点の 手前まで旧道が残っている。 入口には中北道標「←笠取峠12.1km 塩名田 3.2q→」があり、ここを斜め左に入っていく。 
旧道を進むと右側に馬頭観世音字塔の大きいのが一基、小さいのが二基並んで いる。 
その先右側にお地蔵様がいて、旧道は八幡西交叉点の手前で県道に合流する。  合流点の手前の左側に「中山道八幡宿」の標柱が立っている。 ここが 八幡宿の京方(西)の入口である。 分岐点に中北道標「←塩名田3.4km 笠取峠 11.9km→」が立っている。 

本陣跡
     依田家脇本陣跡      大小の馬頭観世音碑
八幡宿本陣の門
依田家脇本陣跡
馬頭観世音碑


八幡宿はここで終わる。 




(25)望月宿

八幡宿を出ると八幡西交叉点で左からくる国道142号に合流する。 この分岐点 には「旧中山道」の「←八幡宿0.8km 望月宿2.5q→」の道標がある。 
布施川を百沢橋で渡り、百沢東交叉点で国道と別れ、 交叉点を横断して正面のパイプフェンスの左側から左の畑の中の道に入る。  これが百沢旧道でフェンスの裏に「←中山道」と「←茂田井宿5.5q 笠取峠11.2km 塩名田4.1q→」と表示された中北道標がある。 
百沢の集落は古い街道の面影が残る家並みで、公民館の前に二十三夜塔 がある。 集落の外れの火の見櫓の下に祝言道祖神像と馬頭観世音像がある。 
火の見櫓の先の三叉路を左に下ると布施温泉入口交叉点にでる。 ここには 「←中山道」「←塩名田4.5q 茂田井5.0km笠取峠10.8km→」の中北道標が ある。 
国道を横断して左斜めの県道150線(百沢臼田線)に入る。 布施集落の右側の歩道を 歩き、左にカーブした歩道が終わるところを右折して土の道に上る。  ここに元禄十一年(1698)建立の「右仲仙道 左牧布施道」と彫られた道標と 傍らに「中山道牧布施」の標識がある。 この道は狭く民家の裏を歩くような 感じの道(牧布施旧道)である。 上り坂を進むと史跡案内の立札があり、 「←中山道はここから斜面を上がり望月宿に向う」とあるが、斜面は藪で道はない ので、右折して国道を横断する。 横断したしたところに「←中山道望月方面」と 「←中世城郭望月城跡」の表示がある。 国道146号を横断して左にカーブして、 少し行くとT字路になるので左折する。 右折すると望月城跡に至る。  左折すると中山道の道標がある。 この坂は瓜生坂(うりゅさか)である。  中山道は大きくカーブを描く道を上っていく。  木が繁茂して道を覆っているところを抜けようとした左側に瓜生坂一里塚があり、 説明板があった。 両側に小丘があるが表示がなければ見落としてしまうところ である。  

  * 説明板「中山道瓜生坂の一里塚」  
「 慶長九年(1604)徳川家康は大久保長安を総奉行として五街道の大改修 をし、江戸日本橋を起点として一里(約四キロ)ごとに道の両側に方五間の 一里塚を築き、その上に榎を植えさせた。ここは南方の一里塚跡で北方の 塚は道路で半分削られているが、斜面上方に位置している。瓜生坂の一里塚 の手前は塩名田宿のはずれにあり、先方は芦田宿手前の茂田井間宿に 位置している。   望月町教育委員会  」  

百沢集落
     瓜生坂      瓜生坂一里塚
百沢集落
瓜生坂の入口付近
瓜生坂一里塚


左右に曲がる坂を上ると峠の頂上には茶屋跡らしい平地があり、「中山道瓜生峠」 の大きな石標がある。 隣に享保二年(1717)建立の石仏と元文元年(1736)建立の 奉供養念佛百万遍念仏塔がある。 
安藤広重の木曽街道六拾九次の望月宿の絵は宿場風景ではなく、松並木が画かれ ている。  瓜生峠の上りを描いたものといわれるが、そんな痕跡はなかった。 
頂上からは望月の町並が一望できる。 石碑の先の三叉路からは道が広くなり、 車も走っている。 右に行くと望月城跡に行くが、中山道は左折して坂を少し下ると 中北道標があるので、これに従い右に下りていく。 この坂を長坂という。  長坂の途中の右側に長坂の石仏群があり、大きな石碑群の下に可愛い道祖神や 馬頭観世音が並んでいる。 
長坂を下り切ると鹿曲川(かくまかわ)に突き当たる。 そこで振り返ると「長坂分岐 点」の説明板がある。 

  * 説明板 「長坂分岐点」  
「 瓜生坂から下る中山道は自動車道を横切って直行するように 進んでおり、途中大応院跡や長坂の石坂群を通りここに至っている。  大応院は当山派の修験寺で寺社奉行から出る命令や交渉ごとに司った触頭も勤めて いた(上田市横谷家文書) ここから2kmほど下った古宮の鹿曲川左岸の断崖に あった佐久補陀山観清寺の別当も兼ねていたが、末裔の滋田家の本尊馬頭観音坐像 や飯綱権現立像など、また、長坂の古碑群を残して明治5年に廃寺となった。 
中山道はここから望月新町にあった鹿曲川右岸を下流に向って進み、西に折れて 中之橋を渡り、大通りの望月本町に至っていたが、寛保2年の大洪水で新町が道 ごとに流されてしまい、その後道とともに新町が移転された。そして中山道はこの 長坂橋を渡り、枡形をとおって新町が移転された東町に上り、北側にやや平行して 望月本町をとおる旧来の道につなげられた。したがってここは初期中山道と変更後 の中山道との分岐の場所である。 」 

左右の道は県道166号線で、左から望月トンネルをくぐった 車が走ってきた。 中山道は長坂橋を渡るが、直進すると鹿曲川(かくまかわ)に 架かる望月橋に出る。 望月橋から望むと鹿曲川に臨む絶壁を穿って弁財天を 祀る弁財窟がある。 

  * 「教育委員会の説明板」  
「 これは室町時代末期の永正年間(1504〜20)に近江の竹生島の弁財天を勧請したもの といいます。洞窟の上の蟠龍窟の文字は江戸後期の書家、望月宿本陣の大森曲川の書 です。 」  

弁天堂の石段を上って行くと立ち入り禁止になっている。  石段下には古い石碑が建ち、西宮神社の小さな社やお稲荷さんが祭られている。 
「 馬曳や 木曽や出るらん 三日の月 」とある句碑は芭蕉は間違いで去来が 正しいと教育委員会の説明板にあった。 

中山道瓜生峠
     弁財窟      芭蕉句碑
中山道瓜生峠
弁財窟
芭蕉句碑


街道に戻り、長坂橋を渡る。 上り坂になり、坂の右側には寛政四年(1792) の馬頭観音像がある。 突き当たりを直角に右に曲がる。 ここが望月宿 の東の枡形で、左側に島田旅館がある。 ここには中北道標「←塩田名6.5km 笠取峠 8.8km→」と中山道道標「←中山道」が立っている。 
交叉点を右折すると望月宿で、この道は県道166号である。 
望月宿は芦田宿まで一里八町、八幡宿まで六町と短く、宿場の長さも六町(700m強)と 短かった。  天保十四年の中山道宿村大概帳によると、宿内人口は360人、家数82軒で、 本陣が1、脇本陣も1、問屋1、旅籠は29軒であった。 

二百五十メートル歩くと左側に井出野屋旅館がある。  木造三階建だが、大正五年(1915)の建築で、 映画「犬神家の一族」で、金田一耕介が泊まったのはこの旅館である。  その対面にあるのは旅館山城屋。 江戸末期創業の旅籠山城屋幸左衛門で、 インターネットでも予約ができる(素泊まりも可)。  佐久平にはビジネスホテルもあるが、街道周辺に泊まれる旅館は少ないので、 望月に泊まるのもよいのではないか。 
その先の左側に望月歴史民俗資料館と大森小児科がある。  大森小児科病院の前に「御本陣」の看板があり、望月歴史民俗資料館が本陣跡である。   

  *  「 慶長七年(1602)、中山道の宿駅設置に功があった大森 久左衛門が本陣を勤め、問屋名主を兼ねました。 歴史民俗資料館は本陣跡で、 建坪百八十坪、門構え玄関付だった。 」  

旅館山城屋
     大森小児科      望月歴史民俗資料館
旅館山城屋
大森小児科(大森本陣跡)
望月歴史民俗資料館


歴史民族資料館の中庭には 「釣瓶沢の水割り場石と木樋」の説明板と 配分に使用した水割り場石が展示されていた。 木樋は別なところにあった。 

  * 説明板 「釣瓶沢の水割り場石と木樋」 
「 蓼科山の五斗水水源から引いた用水に設置されていた。 全水量の九分(一尺八寸) を布施村(現望月町布施)へ流し、一分(ニ寸)を五郎兵衛新田村(現浅科村甲)へ 分けられた。 
明治十一年から十七年にかけて水争いが起こり、その結果、九分と一分の分水が決め られた。 木樋は昭和十八年に畳石用堰として布施村によって設置された。天然 カラマツを刳り貫いたみごとな樋で、これによりはるか村まで水が運ばれた。  佐久市教育委員会  」 

右側に「脇御本陣」の木札を出している家がある。 

  * 「 脇本陣鹿野家で問屋も兼ねていた。 平切り切妻造りで、 建坪九十九坪、木鼻に彫刻が施されている。 
向かいはレストランラファスタである。 」 

その先の右側に大和屋跡がある。 真山家(さなやまけ)住宅である。 

  * 「 国の重要文化財真山家の看板がある。  天明二年(1765)の望月宿大火後の建築で、望月宿最古の建物である。  真山家は望月宿の問屋と旅籠を兼ね、幕末には庄屋を勤めた。  大和屋の屋号が京方はひらがなで、江戸方は漢字で書かれている。  出桁造りの建物で、二階の連子格子といい正面入口といい時代劇のセットのようで ある。 内部もほとんど旧態を残していて、今も現役である。 

釣瓶沢の水割り場石と木樋
     脇本陣跡      真山家住宅
釣瓶沢の水割り場石樋
脇本陣跡
真山家住宅


江戸時代の望月の宿は豊かであったらしいが、今もこの町は裕福に見える。 

  * 「 望月の歴史は古い。 律令制の頃より馬を飼っていて、 平安時代にはに官牧に なり、東国三十二牧の筆頭で、一年間の信濃の貢馬八十頭中二十頭をこの牧から献上 していたという程の名馬の生産地であった。 宿の北側一帯は官牧であったようで、 江戸時代には御牧の原と呼ばれていた。 
木曾名所図会にも 「 望月の牧は望月の駅の上の山をいう。」という記述があり、 上述と一致する。 更に「 むかしは例年勅ありて駒牽あり 天皇紫宸殿にましまし 信濃の貢馬を叡覧し給ふとぞ。」とあり、信濃国の馬は旧暦の八月二十九日に献上 することになっていたが、その後、改まって八月の満月の日、十五日(もちのひ)に 朝廷へ名馬を納めることになったので、牧の名に望月の名がついた、といわれる。  望月の馬が都では有名だったことは紀貫之の歌 「 逢坂の関の清水に影見えて 今や牽くらん望月の駒 」でも窺える。 」  

少し行くと右側の商店の隣の郵便ポストの傍に中北道標「←塩名田6.5km 笠取峠 8.8km↓」がある。 
望月宿の西のはずれ、道の右側に「大伴神社」の石柱と寛延元年の銘がある御神燈が ある。 
道の右側に石段を上って行くと古い社殿がある。 境内には磨り減った道祖神や 庚申碑などが並んで建っている。 

  * 「 木曾名所図会に 「 大伴神社 ー 望月駅にあり、延喜式、 佐久郡三座の内也、今御嶽社と称す。 此所生土神とす 」 とあるが、景行天皇 四十年(110)の鎮座と伝えられている。 本殿は延宝五年(1677)建築の春日造りで ある。 」   

望月宿の京方入口
     大伴神社      大伴神社本殿
望月宿の京方入口
大伴神社
大伴神社本殿


ここで望月宿は終わる。  


(所要時間) 
小田井宿→(1時間40分)→岩村田宿→(2時間)→塩名田宿→(1時間10分)→八幡宿
→(1時間20分)→望月宿


岩村田宿  長野県佐久市岩村田  JR小海線岩村田駅下車。  
塩名田宿  長野県佐久市塩名田  長野新幹線佐久平駅からバス10分塩名田下車。  
八幡宿  長野県佐久市八幡  長野新幹線佐久平駅からバス15分八幡神社前下車。  
望月宿  長野県佐久市望月  長野新幹線佐久平駅からバス20分望月下車。 




(13)芦田宿・長久保宿・和田宿                         旅の目次に戻る



かうんたぁ。